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海の子どもたち

作者: 三浦舞美

「静夜。私を撮ってくれない?」

そう言った月子の顔は優しくて、でもどこか哀しそうで、その目に見つめられたら断ることなんて僕には出来なかった。

大学の天文サークルで知り合った僕たちの父と母は星空にちなんだ名前を付けようといろいろ考えていたらしいが、最終的には「静かな月の夜に生まれたから」という理由で驚くほどシンプルな名前を僕たちに付けた。月子と静夜。それが僕たちの名前だ。



ある界隈ではメジャーな用語でも、別のフィールドで生きる人にとっては初めて聞く、まったく分からない言葉がある。僕は月子が話してくれるまで、『マタニティフォト』という言葉を知らなかった。

二十歳そこそこの男子にとって、周りの同級生なんて中学生みたいなものだし、出版業界の親や親戚に妊婦でもいない限り、マタニティ界のトレンドなんて知る由もないのだと思う。

「これさあ、月子の?」

テーブルの上に置かれたいくつかのパンフレットを持ち上げてひらひらさせながら、夕飯の支度をする小夜子の背中に話しかけると、小夜子は振り返りもせずに、キャベツを千切りする手を休めることなく

「そうよ」

と答えた。切り終えたのだろう、均一に細く切られたキャベツをざっとシンクの中(におそらくおいてある水を張ったボウル)に流し込んだ。そこでようやく振り返り、前にかけた花柄のエプロンで濡れた手を拭いながら「いろいろ、種類があるみたいね」と言った。

 そのエプロンは何年か前の母の日に月子が彼女に贈ったものだ。一緒に買い物に行った(というより付き合わされた)からよく覚えている。

 月子が家を出て行ってから、僕たちの母、小夜子は月子から贈られたものをよく使用していた。エプロン然り、ハンカチやポーチといった小物然り、小夜子曰く「プレゼントされたものをそばに置いとくと、贈ってくれた人がそばにいるような気持ちになる」んだそうだ。

 小夜子のそのセリフに僕はそりゃあそうだよな、と思う。ほぼ同時に生まれた娘と息子だったら、娘のほうがそばにいてほしいに決まっている。嫌な気持ちになんてまったくならなかった。それは、小夜子が僕たちを男女という違いに関係なく、大事に育ててきてくれたことを知っているからだ。


月子から電話が来るのは珍しいことではない。大学生の男女の姉弟にしては、僕たちは仲が良かった。

その電話が来た時、僕はパソコンを開いて新作のカメラの性能を確認していた。最近ならちょっとカメラを齧っている程度の人でも一眼レフを持っているし、家電量販店には手頃な値段で綺麗な写真を撮れるカメラがたくさんある。大学の写真サークルの一員ごときが何を偉そうなと思うかもしれないけれど、流行りに乗ってカメラをぶら下げているような連中と同じカメラは持ちたくなかった。しかしその考えに沿ってカメラの格を上げていけば、当然値段も比例していく。

 一年前なら手も足も出ずにパソコンをそっと閉じていたのかもしれないが、一年間それなりに学業の合間を縫ってアルバイトを頑張ったかいもあって、ゼロが五つ並ぶお望みのカメラにようやく手が届きそうなのだ。

 そのことをうきうきと月子に話すと、

「静夜。私、今度帰るから、その時に」

と言ったっきり、黙ってしまった。

「その時に、何?」

と明るく聞いたつもりだったのだが、月子は答えない。

なにか変な間が空いた。僕は沈黙をとりなすように、

「帰ってくるって、いつ?」

とさらに明るさを増して僕は聞き返した。僕にとっては最大限の明るさだ。

「小夜子にはもう言ったの?まだなら俺から言っとくよ」

「静夜。」

そして月子は

「静夜。私を撮ってくれない?」

と言った。


 二卵性双生児。一卵性と違って同じ顔はしていない。月子は母親似で、僕は父親似だった。髪の色や目の色も微妙に異なっていたけど、性格はよく似ていたと思う。というより、一緒にいた時間が長すぎる故にお互いのことを理解しすぎていた。でも別に好きとか、そういうことじゃないのは分かってほしい。もともと別の卵から生まれた、一卵性の双子ではないけれど、ふたりでひとつ。ずっとそうやって育ってきたのだ。

だけど死ぬまでずっと一緒になんていられる訳がなくて、それはちゃんと分かっていたつもりだった。だけどなんとなくぼうっと、そんな分かれ道はいつまでもやって来ないんじゃないかと思っていた僕がいたことも事実だ。

「その時」がやって来たのは、僕たちが高校を卒業して、大学に進学する時だった。姉の月子は東京の大学、弟である僕は地元の大学から合格通知を受け取り、そこで初めて僕たちは別々の道を進むことになった。僕よりも遥かに成績がよかった月子の進学先は、東京にさほど憧れを持たない僕でも知る名前のところだ。

受験勉強に取り掛かる段階から話は聞いていたけれど、なかなか現実感はわかず、ついには合格通知を受け取っても、その有名大学近くに彼女の新居を探しに行っても、上京する月子を見送る本当に最後の瞬間まで、どこか他人事のようにしか思えなかった。

 入学式を終え、オリエンテーションをこなし、新しい友達が出来、大学生活というものに慣れ始めた頃、女子に付き合ってほしいと言われたことが何度かあった。

 だけど、どんな女の子と付き合っても、月子といるほうが楽だ、月子といるほうが楽しいと感じてしまって長く続かなかった。そばにいるのが当たり前で、月子の存在の大きさなんて考えたことがなかったのに、僕が思っていたよりずっと僕の一部だったということを離れてから知った。



 大学二年の秋、午前中に試験を終えた僕は駅へと向かう。十三時過ぎの新幹線で月子が帰ってくる。彼女の大学の試験は昨日で終了したという。

 会うのは正月以来だ。接客のアルバイトをしている月子は、どうしても盆に休みが取れず、帰って来られなかった。小夜子は少し怒っていたようだが、仕方のないことだとすぐに切り替えて、その分墓参りや親戚の家巡りには姉の分まで弟が手伝うように、と笑った。

 駅の本屋でカメラの雑誌をめくっていると、携帯電話がポケットの中で震え、月子からのメールが届いたことを教えてくれた。


『もうすぐ着くから、改札のところにいて』


はいはいお姉様。携帯を再びポケットに戻すと、一度適当に置いた雑誌をもう一度、今度は丁寧に棚に戻した。月子はものを雑に扱うことを嫌う女だ。多くの男性がそうであるように、僕は姉の月子に頭が上がらない。

 予定では数分前に到着した新幹線のホームから、ぞろぞろと人々がエスカレーターを下りてくるのが見える。下を向いて暗い表情の人が多い気がするのは、なぜだろうか。皆どのような思いで新幹線に乗ってきたのかと僕は考えた。ふるさとに帰る、大切な人に会う、楽しみな約束がある、といった人は少なくて、仕事やしょうがない事情を持つ人がほとんどなのかもしれない。

 もちろん暗い表情の群衆の中にも明るい笑顔をした人は何人かいて、そういった人を見つけると僕はなぜか少しほっとした。久しぶりに会う月子は、一体どんな表情でエスカレーターを下りてくるのだろう。

 先頭集団が改札を抜けて僕の脇をどんどんすり抜けていく。集団は真ん中が膨らみ、後ろにいくにつれて細くなっていく。その集団の最後尾といえるあたりに月子はいた。

 ゆっくりを手を振りながら近づいてくのは僕の知っている月子だ。あの電話の時に感じた違和感は、やはり僕の勘違いだったのか。改札を抜け、

「静夜。ありがとね」

と言いながら当たり前のように持っていた荷物を引き渡した。まるで海外旅行にでも行くような大きなトランクだ。

「随分荷物でかいな。どれくらいいんの?」

「しばらく。」

「しばらくって?」

僕のほうをちらと見ながら、「まあ、しばらくよ」と言った。

 僕もそんなに背が高いわけではないが、性差の分か、僕のほうが目線は高い位置にある。彼女が下を向けば、僕がかがみでもしない限り目を合わせることができなくなる。

「なあ、なんかあったの?」

「家に帰ったらね。小夜ちゃんと一緒に話すよ」

下げた視線をすっと引き上げ、月子は前だけを見た。


 小夜子の指摘はさすが女性であり、さすが僕たちの母であると感じざるを得なかった。久しぶりに会った母と娘は言葉での挨拶は少なく、互いの視線だけでやりとりをしているように見えた。

 月子はお土産に買ってきたという箱菓子を仏壇に供え、手を合わせた。首をちょこんともたげた背中は小さくて、僕にはその時の彼女がなぜか儚く見えた。

 小夜子が入れた赤みがかったお茶がテーブルに置かれて、小夜子と月子が向かい合ってダイニングのテーブルに、僕はリビングのソファに腰掛けた。僕がこれは一体何のお茶だろうと考えていると、小夜子が月子の方を見て静かに言った。

「いつなの?」

唐突な質問だ。意味が分からない。

「え?」

「…」

月子はうつむいたまま唇を噛んだ。

「月子?」

「怒ってるんじゃないわよ。いつ産まれるのか分からないと準備もできないでしょう」

「え?産まれるって?」

頭が、ついていかない。

「…二月末」

「え?」

「じゃ、今は五ヶ月くらいね」

「うん」

「え?」

「病院は」

「ちょっとまって、小夜子も、月子も。女だけで、話すすめないで」

頭がついていかず、思わず立ち上がると、びっくりするほど大きな声が出た。カップからは湯気が立ち上り、ゆらゆらと三人の間を浮遊している。

「静夜。これ見て」

月子はすっと立ち上がり、ワンピースの上から、左手を胸のところに置き、右手は腹をなでるように下りて下腹部のところでとまった。

 月子は幼い頃から服の趣味が変わらず、昔も今も花柄とかひらひらしたものを好んだ。今日もそうだった。僕という同い年の弟が常に遊び相手だったから、自分をより女の子らしく見せようとするための手段だったのかもしれない。

 花柄のふわっとしたワンピースの下にはやわらかいカーブを描く、小さな月のような腹があった。僕はすべてを理解した。

「まじか」

思ってもいなかった事実の発覚に出た僕の第一声はかなり間抜けだったと思う。目の中で星がチカチカと瞬いているのが分かった。今鏡を見たら、星が見えるかもしれない。

「そんな驚くようなこと?」

小夜子は平然と言い、月子は困ったような、泣き出しそうな顔で微笑んだ。


「だって私も大学卒業する前には、あなたたちがお腹の中にいたからね」

時刻は二十二時を少し過ぎたところ。月子が寝たあとで、小夜子と二人で飲んでいた。僕たちは実のところ、たまにこうして二人で酒を飲むことがあった。二十一歳の息子と母にしては、僕たちはかなり仲がいいと思う。

小夜子によるとお腹に子どもがいると健康であってもかなり疲れやすく、日常生活にも休憩が欠かせないらしい。その言葉通り、月子は夕食もそこそこに客間に敷かれた布団に横たわった。妊婦の辛さは僕にはとてもじゃないが想像がつかないから、月子は具合が悪いんじゃないかと心配したけれど、寝顔は安らかで微笑んでいるようにさえ見えたから、安心した。

「なんでわかったの?」

椅子に腰かけなおして、音量を低くしたニュース番組を眺めていた母に尋ね、念のため「月子が、妊娠してること」と付け加えた。小夜子はふふっと唇の端を上げて、嬉しそうにグラスを傾けた。小夜子は日本酒、僕は梅酒を飲んでいた。うちの家系では男より女の方が酒が強い。月子はどうなのだろう。十九歳で月子が上京してしまったから、一緒に飲んだ機会は数えるくらいしかなかった。

「分かるわよ。顔を見ても分かるし、むしろあんなに体を気遣う歩き方してたのに、よく気付かなったわね」

「わかんねえよ、そんなの」

梅酒をぐいっとあおって不機嫌そうな声をあげた僕に向かって

「大丈夫よ。別に月子は気付いてほしかった訳じゃないだろうし。そんなにスネないの」

「スネてねえけど」

スネてなどいないと思いたかったけど、おかしな気持ちが心の中だか頭の中だかにあることは確かだった。月子が急に知らない大人になり、知らない道を一人で歩いていくイメージが頭に浮かんだ。僕たちが本当にふたりでひとつだったとして、片方が急に変わってしまったら、残ったもう片方はどうなるのだろう。


 僕たちの父で、小夜子の夫である大陸(ひろたか)は、僕たち双子が五歳の時に交通事故で突然他界してしまった。

幼稚園にいる僕たちのところに担任の先生とまだ若かった小夜子が飛び込んできて、事情もろくに知らされず急いで帰る支度をさせられた。僕たちは次の体育の時間の用意をしているところで、体育の時間が好きだった僕はまだ帰りたくないとごねたのだった。

 そんな僕に月子は「いいから。帰るの」と言って二人分の鞄を持ち、さっさと小夜子についていった。その小さな背中があまりにも堂々としていて、ごねた自分が恥ずかしくなるほどだった。

 月子は小さい頃から、僕より随分大人だった。


 月子が再びその頼みを口にしてきたのは、月子が帰ってきてから二週間も経った頃だった。

「静夜。あの話、覚えてる?」

そう切り出してきたから、どんな懐かしい話をされるのかと思いきや、「今度帰るね」と言ったあの日の電話のことだった。弟に、妊娠していることを言い出せなかった姉の気持ちはどんなだっただろう。想像してみたけど、どうせ分からないとすぐにやめた。

「私を撮って、って言ってたけどあれってどういう意味?普通の写真てこと?」

「ううん。マタニティフォトって知ってる?残しておきたいの。この子が、ここにいて、私と一つだったってこと。当たり前だけど、生まれてしまったらもう別の個体なんだよ。お腹の中にいたんだよってことは話してあげられるけど、その証拠になるかなって。」

「それで」

「うん。それで」

「俺に白羽の矢が立ったと」

月子がやっと笑った。その笑顔に安心した。笑った時の目が似てるね、とよく言われてきた僕たち。今、僕たちの目は似ているのだろうか。

「こんなこと、誰にでも頼めることでもないでしょう。良いカメラ持ってるんだし」

机の上に置かれた真新しいカメラをちらと見て、さっきの笑顔とは違う、ニヤリとした表情を浮かべた。

 あの電話の時に話したカメラを、前期試験が始まる前日に僕は購入していた。試験の願掛けの意味もあったし、試験が終わってからの楽しみを作るためでもあった。

 しかし試験が終了した数時間後に急に叔父になることを聞かされたのだ。あまりの衝撃に写真を撮る気にもなれず、カメラは多少の調整を行っただけで、この二週間近く、ただの置物と化していた。

「だめ?」

カメラから視線を再び月子に戻すと、優しさと哀しさが同じくらいの割合で彼女の瞳を揺らしている。僕はこんな目をすることがあるだろうか。似ている部分があったとしても、やはり僕たちは別の個体なのだと感じざるを得なかった。

「…いつにする?」

机の上に視線を戻し、カメラの横に置いた卓上カレンダーを見ながら僕は言った。

あのカメラの最初の被写体に月子をするのも悪くない。僕たちは場所と日にちを決める相談に入った。


 場所はうちから車で一時間半ほどで行ける海岸に決めた。子供の頃、家族でよく言ったその海は波が穏やかで家族連れの海水浴にぴったりなのに、なぜか穴場でうまくいけば貸し切り状態で泳ぐことができた。

覚えてる?と笑いながら、月子が出してきた本当に懐かしいエピソードはどれも驚くほど鮮明に思い出せた。気に入っていた髪飾りを流されて月子が泣いたこと。岩場で見つけた蟹を連れて帰りたかったけれど、手頃な容れ物がなく仕方なく諦めたこと。

 大陸が事故に遭う少し前にも家族で行った場所だったから、忘れるはずがないのかもしれない。大陸がいなくなってからは行かなくなっていたので、思い出の中、僕たちは子どもで両親はまだ若かった。


 高校在学中、十八歳の誕生日を迎えてすぐ、僕は教習場に通ってクラスの中でも早いほうに免許を取得している。その時羨ましがったクラスメイトに謝ってまわった方がいいんじゃないだろうかと思うくらい、運転の頻度は低く、小夜子を助手席に乗せて買い物に出る時なんか、毎回「代わろうか?」と言われてしまう。それでも日の運転は自ら買って出た。この時を逃したら、月子と二人で話す機会はもうない。なんだかそんな気がしたからだ。

 事前に海岸までのルートは調べている。子どもの頃に行ったきりだったので、道のりのわずかな記憶はあったけれど、自分の運転に自信がないこと、月子と、もう一人乗せることを考えると、複雑な通りは避けて、大きな国道メインで行けるよう、かなり入念に調べた。少し情けないとも思ったが自分の恥などかき捨てるべきだと思ったし、頼りない姿を見せてはいけないと思った。月子を撮ることは大きな使命であり、何か大事な意味があることだと感じていた。



その日は天気予報の通り、太陽は朝から雲の影に隠れ、空全体の二割程度に青空が見えるだけだった。ほとんどの人はこの天気を見たら曇りと言いそうだけど、定義上はこれでも晴れになるのだと教えてくれたのは、若い時の父だった。

 家を出発し、初めは運転に集中したいから話しかけてくれるなと月子に言っていたのだが、二十分ほども経過し、しばらく道なりに進む行程に入ったので、僕は自分から口を開いた。

「月子。聞いてもいい?」

前を向いたまま話しかけた僕に、月子も前を向いたまま答えた。少しも動いていないのが気配で分かる。

「いいよ。大体わかる」少し緊張しているようだ。

「小夜子ってさ」

「え?」

そこで彼女がこっちを見た。だけど僕は彼女の方を向けない。信号が黄色を示す時、停止するべきなのか、進むべきなのか、初心者マークを貼りつけた車のドライバーには大きな問題なのだ。

「なんで俺たち、小夜子って、名前で呼ぶようになったんだっけな」

「覚えてないの?」

結局、後ろの車に申し訳ないと思いつつ、僕は停車を選んだ。

「なんでだっけ?」

狭い車内で二人きりになってからこの時初めて月子の方を向いた。声は緊張していたようだけど、表情はそうでもない。薄く化粧を施しているから、血色がよく、ここ最近のなかで一番健康そうに見えた。

「小夜ちゃんが話してくれたんだよ。いつだっけ。お父さんが亡くなって少ししてからだから、小学校入る前かな。あなたたちの名前を呼ぶ度に、あなたたちの名前を付けた時のことを思い出す。あなたたちの名前を呼ぶだけで、いつもそばにいてくれるような気持ちになるのよって」

月子はお腹を優しく撫でる。その仕草は、僕がこれまで付き合ってきた女の子たちの誰も出来ないような、慈愛に満ちた動きだった。


「それで、じゃあ僕たちもお父さんとお母さんじゃなくて名前で呼ぼうって話し合ったんだっけ」

「そうそう」

「じゃあ月子も、生まれてきたら、名前で呼ばせんの?」

「どうかな。でも、静夜はそのほうがいいんじゃない?」

「なんで?」

「だって、おじさんなんて、呼ばれたくないんじゃない?」

お腹の中の子どもの性別はまだ分からないけれど、月子によく似た少女に名前を呼ばれることを想像した。意外と、どころかまったく悪くない。


 一時間半も運転をしたのは久しぶりで肩がだいぶ固まってきたのを感じた頃、目的の駐車場に着いた。

十五年ほどぶりに来てみると、海岸の手前にはコンクリートの幅が広い階段が設置されていたが、大きく変わっているのはそれだけで、二百メートルほどの浜には片手で足りるくらいの人がいるだけだった。僕たちは何も言わずに、頷き合った。

 

 着るもののチョイスは月子に任せていた。本来なら撮る方が主導なのかもしれないが、今回は撮られる側である月子の提案だし、彼女が主役で僕が口出しすることではないと思っていたからだ。僕は彼女の「今」をカメラに収めるだけだ。

 海を見ていると、波の動きは一定のようでそうではなく、波は必ず毎回違った形に砕けるのだった。砕けるというと激しい言葉のようだが、優しく砕けるということもあるのだと僕は初めて知った。その優しさは月子がお腹を撫でる優しさと同じで、大きな海は母で、波は子どもたちなのかもしれないと思った。

 もともと魚だった女の子が人間になるという映画があった。その女の子の母親は海だったなと思い出していた時、月子が背後から僕を呼んだ。振り返ると、月子が自分で持ってきていた服に着替えて、少し恥ずかしそうにしている。

 頭に載せた花かんむりも、胸を覆うチューブトップ(というらしい。後から月子に教えてもらった)も、つま先までの長さがあるスカートも白くて、触らずとも分かる、やわらかい素材のものだった。

 チューブトップとスカートの間にある小さな月はとても儚いようにも、とても強そうにも見えた。まるでずっとそこにあるような存在感だ。僕は妊娠している女性の腹をこんなに間近で見るのはもちろん初めてだったけど、なぜか懐かしい気持ちなる。

 今日撮った写真をいつか見た時、僕はこの気持ちを思い出すのだろうか。そう思うと、今すぐにその未来に飛んで行ってその気持ちを感じたくなった。写真を撮るのはいつも、「撮る時」のものでそれを見る時の気持ちなんて想像したことがなかった。これが「残しておきたい」と言った月子の気持ちなのだろうか。あとで聞いてみよう。

 そしていつか月子が生まれてきた子どもに、お腹の中にいた時の証拠としてこの写真を見せる時、僕が感じた気持ちも伝えてあげたいと思った。確かに君はここにいて、僕はそれを見たんだよと。

 月子に似た少女がそれを聞いたらどんな反応をするだろう。それを考えると楽しくて想像が止まらなくなる。

「何笑ってんの?」

頭に花かんむりを載せた月子が不思議そうな顔をする。粒子の小さな砂が足の裏にくすぐったい。僕たちは二人とも裸足だった。月子は「じゃ、頼むよカメラマン」と言って僕の背中をトンと叩き、波打ち際に向かって歩きだした。十メートルも先には海の子どもたちが絶えず、優しく砕け続けている。

「いや、なんでもない。月子」

振り返った彼女に「元気に生まれるといいな」と僕は言った。


「うん。ありがとう」

と答えて、風になびく髪をおさえ、彼女は座り込んだ。最初のポーズはそれらしい。


「静夜」と彼女は僕の名前を呼び、僕はカメラを構えることでそれに応える。

ファインダーを覗きこむと、僕の全く知らない月子が、そこにいた。


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