第1話:電話
僕は海の中にいた
たった一人で海の中にいた
ゆっくりと流れる師走の夜
机の上で雑誌に埋もれた携帯電話が動き始めた
仕事が終われば鳴る事を忘れる電話が
汚れた場所から逃げるように哀しく震える
智司はベットから面倒くさそうに手を伸ばしその動きを制する。
液晶には実家と表示し、慣れ親しんだ電話番号を映していた。
1年が終わろうとするとき、恒例行事のように母親が予定を尋ねてくる
「今年も、もうそんな時期か・・・」
せめてもの親孝行に智司はベットに寝転がったまま、母親の声に耳を傾けることにした。
「いま大丈夫か?」
その声は父親のものだった
不器用な親父が電話をしてくることは無かった
意外な声に智司は戸惑いながらも
ベットから身を起こして
「あぁ」と戸惑いを隠すように答えた
「お母さんが入院した。」
公務員を定年退職した父親は事務的に報告してきた
「入院?」
事故でも起こしたのだろうか
『体に良い』が大好きな母親が、怪我以外で入院するはずが無い
考える時間も与えずに父親は
「帰ってこれないか?」
と言葉を急いだ。
「見舞いにぐらいは行くけど、母さんも歳だし階段から落ちでもしたの?」
「いや、癌らしい」
父親は台本を読むようにそう言った
いま父親は間違いなく 癌 と読んだ
思いがけない声の電話が、思いもよらない単語を
智司の耳に響かせた
言葉が出てこない
震えだす手を必死に止めながら 震え始めた声で
「冗談だろ?」
冗談を言わない父親に愚問を投げかけた
「いや、冗談じゃない」そう言うと父親は繰り返すように精一杯気丈に振舞う声で
「帰ってこれないか? もうそんなに長くないみたいだ」と問いかける。
「帰れるようにする」
智司はそう答えるのが精一杯だった。