自称ヒーロー
黒板を眺めて、溜息とあくびを噛み殺す。
微分積分なんて暢気にやっている場合ではない。
黒板の上に掛かっている何の特徴もない時計を見れば、二限目の授業が始まって十七分が経過したところだった。
ほらまた一人、自殺した。
この世に溢れている悪に殺された。
世界はこんなにも危機的状況なのに、幼い頃夢見た仮面ライダーも、なんとか戦隊なんとかレンジャーも現れてくれない。
顔がパンでもヒーローになれるのに、人間は誰一人ヒーローにはならない。
「…………君……真木君!」
「えっ、はい」
「何をぼーっとしてるのですか。前に出て(2)を解きなさい」
「あのぉ、せんせー」
「なんですか?」
「これ解けたら、世界救えますか?」
教室が静まり返って、十秒。
薄っぺらな笑いと馬鹿にした声が幾重にもなって渦巻いた。
誰もが、俺を嘲笑っているのだ。
ヒーローなんて子どもじみた夢だと。
ただ一人、俺の隣の席の女子生徒を除いては。
煙たい笑いに包まれてふと気づく。
あぁ、そうか。
誰も救ってくれないなら、俺が救えばいいじゃないか。
黒板の前に進み出て、問題を解く。
背中に感じる嘲笑を無視して、チョークを置くと、鞄を持って教室から出た。
もう、学校へは行かない。
帰り道にある公園のベンチに座って、考える。
どうすれば、ヒーローになれるだろうか。
俺は空を飛ぶことはできないし、バイクの免許も持っていない。
変身、と叫んだってごちゃごちゃした部品は体に付いたりしないし、代わりの顔もない。
特定の条件下で生き返ることもできないから、命は一つきりだ。
ただ、自分で言うのもなんだが運動神経は悪くない。
大抵のスポーツは初めてでもできるし、体力もある方だと自負している。
問題は……
「具体的に何をするか、か」
日が沈み始めたので家へ帰ろうと、立ち上がった時、高い悲鳴が聞こえた。
考える前に、駆け出していた。
公園の入口付近で、黒い男が女性に腕を振り下ろそうとした瞬間だった。
俺は左足を軸にして体重をめいっぱいかけた右足を男の鳩尾に食い込ませた。
突然の攻撃に呻いた男は、そのまま体をくの字に折る。
「はやく、警察に連絡してください」
俺は男を抑え込みながら、女性に言った。
暫くして、警察が来た。
「君、学生?」
「いえ、俺は、ヒーローです」
新聞の見出しは、『自称ヒーロー現わる』だった。
それから、毎日、街を歩き、どんな小さな犯罪も見過ごすまいとした。
初めのうちは、気の狂った高校生だと報道していたテレビも、だんだんと見る目が変わってきた。
新聞の見出しは『ヒーローまたも活躍』になった。
検挙率はその辺の警察を上回り、やがて俺は本物のヒーローになった。
最近では俺に憧れているなんて子どももいるらしい。
「あの、ヒーローっすよね?」
声をかけてきたのは俺と同い年くらいの男子だ。
「あぁ」
「やっぱり! ガッコやめてヒーローになったってマジっすか?」
「そうだけど」
「実は、自分もヒーロー目指してるんすよね」
「そうか」
「だって、こんなに毎日犯罪おきて、苦しんでる人いるのに暢気にガッコで勉強するとか、マジ意味わかんないし。テストでいい点とったって、世の中に何の役にも立たないじゃないっすか。0点だろうと、100点だろうと世界はなんも変わんねーし、あんなの自己満足っすよ」
「俺も!」
「えっ?」
「俺もずっとそう思ってたんだよ!」
「え、マジっすか!? うわ、嬉し! もしかしてヒーローなれるんじゃね?」
「頑張って、世界救おうぜ!」
そう言って彼と別れた。
話し方が気に食わないとはじめは思っていたが、初めて共感できる人間に出会えたことがなにより嬉しかった。
こうやってヒーローが増えれば、きっと世界が平和になる日も遠くない。
それから一か月ほど経ったある日、俺は公園を見回っていた。
すると、ベンチの一角が騒がしい。
そこにはいつかの彼と2、30人の中学生や高校生くらいの子どもが群がっていた。
俺に気付いた彼は大きく手を振ってこちらに駆け寄ってきた。
「お久しぶりっす、ヒーロー」
「この子たちは?」
「あぁ、こいつらも、ヒーロー志願者なんすよ」
2、30人がこちらに押し寄せてくる。
「みんなもうガッコやめて、ヒーローに専念しようって、ここで会議開いてたんすよ」
「なるほど」
同志が増えるのは喜ばしいことだ。
また、ここの公園を覗きに来よう。
そう思っていたのになかなか時間が取れず、次にそこを訪れたのはさらに一か月後だった。
だが、今日は、集会は無かったらしい。
ベンチの一角にはタバコの煙にまみれた空気が溜まっていて、雑誌を広げている少年少女がいるだけだった。
今頃街の見回りをしているのかもしれない。
また出直すか。
そのまえに、この子たちの年齢確認をしなければ。
まぁ明らかに学生だが。
そう考えて声を掛けようとしたときだ、片手に赤く光るタバコを持った彼を見つけたのは。
「おいっ!」
煙の中の子どもは一斉にこちらを見上げた。
「おまえ、何やってんだ! ヒーローになるんじゃなかったのかよ!」
気付けば彼につかみかかっていた。
「っせえな」
俺の手を払いのけると彼は殴りかかってきた。
それをかわして、辺りを見回す。
2、30の死んだ目がこちらをぼんやりと見ていた。
全員警察に引き渡しながら、彼らの罪状を聞く。
タバコ、飲酒、万引き等々。
落ちている空き缶を拾い、ゴミ箱に投げた。
金属のカゴのふちに当たって、落ちたそれはとんでもない虚しさをもたらした。
数日後の新聞の見出しはこうだ。
『ヒーローのなりそこない、犯罪へ走る子どもたち』
『ついに、子どもの50%が犯罪者に』
『ヒーローの悪影響と矛盾』
同じようなことが世界中で起きていると知った。
俺は、世界を救いたかった。
ただそれだけなのに。
ヒーローという名の犯罪者として扱われるようになった俺は学校への復帰を強制された。
教室には嘲笑すら湧かない。
半年も学校を休んでいた俺が授業について行けるはずもない。
二限目の数学の時間。
俺がヒーローになる決意をした時間だ。
「真木君、(2)前で解いて」
「……わかりません」
「あらあら、ヒーローごっこをしている間に置いて行かれてしまいましたね」
数学教師がいやみったらしく言うのは、生徒が突然学校をやめた責任を問われたからなのかもしれない。
一人の女子生徒が立ち上がった。
あの時、ただ一人笑わなかった子。
真っ直ぐ黒板の前に行くと、整った字で数式を書いていく。
「私は真木君を指名したのですよ?」
「私のことじゃなかったんですか?」
「斉藤さんとは言ってないですよ?」
「私、真紀なんで、私のことかと思って、間違えちゃったのならすみません。私、先生が復帰したばかりの生徒を指名するほど考えなしに授業なさる方だとは思わなかったので、自分のことかと」
ノートにしみができた。
目からあふれる涙が止まらなくて、制服の袖で拭う。
二限目が終わるとあの時一際大きい声で笑った中田が席に来た。
「あのさ、おまえ、すごいよ」
中田は一言いうと照れたように笑って続けた。
「俺も憧れちゃったもん」
クラスで一番成績のいい佐藤さんが自分のノートを何冊も俺の机に置いて行った。
いつもサッカーをしていた米田がボールを持ってきて笑いかけた。
軽くうなずいて席を立つ。
サッカーの前に、斉藤さんにお礼を言いたい。
「斉藤さん、さっきはありがとう」
斉藤さんは小さく微笑んだ。
「いいの。真木君見てさ、私も少しくらい頑張ろうって思ったから」
「そんな……ありがとう」
早く来いと急かす米田の声が聞こえた。
歩き出そうとすると、斉藤さんが制服の裾を掴んだ。
「微分」
振り向くと、真剣な顔をした斉藤さんがいた。
「あの日の微分、間違ってた。正解はこう」
開いたままの自分のノートに斉藤さんは書き始める。
先行ってて、と米田に合図を送ってノートに目を落とす。
斉藤さんの綺麗な字を目で追うと、すんなりと理解できた。
「ありがとう」
「あと、もう一つ」
「もう一つ?」
「これ解けたら、世界救えるかもよ」
「えっ?」
「私は、そうするつもり。学校で勉強して、病院で働いて、世界救う。なんだって、そうだよ。だって世界は、世界中の人でできてるんだから」
微分みたいに、素直に理解できた。
俺もまた、世界救えるかな?
いや、救ってみせる。
だって俺は、ヒーローなんだから。
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