対決
明くる日、宣言通りおっさんは遅刻せずに到着した。「夏の朝日の中でバイクに乗るって素晴らしいよな! 気温もあんまり高くなくて気持ちいい!」とか言いながら道場に入ってきた。今日は上機嫌らしい。
僕は、昨日に引き続き集合の一時間前に着いて、道場の掃除などを手伝っていたが、集合五分前に到着したおっさんはそんなことは知るよしもない。
隠すわけではないが、あえて言うことでもないだろう。おっさんはこの練習のために仕事をやめてすらいるのだから、僕も何か自分を犠牲にする貢献があっていいはずだ。黙って働こう。
それに、おっさんも掃除を手伝うなどと言い出したら、桜さんと二人で過ごす朝の時間が消滅してしまう。
筋トレからはじまり、ランニング、受け身等の一連の練習をこなす。道場での朝の生活が早くも身についてきている。三か月と言わず、この調子で一年やり通したら僕は筋骨隆々の格闘家になるのではないか。
格闘ゲームに登場するムキムキの武道家の体になった自分を想像して、あまりの気持ち悪さにすぐにそのイメージを破棄した。やっぱり運動はそこそこで良いな。そこそこで。
基本メニューを終えたところで、桜さんがよく通る声で僕たちに言った。
「これから『出足払い』をやります! 遼くんには昨日基本は教えましたけど、今日はお二人に改めて一からお話ししますね」
出足払い。相手が片足を前に出してきた瞬間に、出てきた足を払う技。桜さんいわく、「相手の動きをよく見て一瞬で転ばせる技だよ。重心が移る瞬間をうまくつかめれば本当に力なしで相手を倒せるの。柔道の基本にして真骨頂!」らしい。昨日それを教わってしばらく練習してみたがあんまりピンと来なかった。
昨日の夕方、僕は桜さんに投げられまくった。
「はい、組み合って。前襟と袖を取ってね」
と、桜さんに言われたとき、僕は嬉しいような恥ずかしいような複雑な心境だった。
薄々予測できていたことだけれど、立ち技の練習をするために組み合うと、なかなかに距離が近い。
「相手が前に出ようとした瞬間の技なわけ。だから、注目ポイントは相手の足ね。やってきた足が畳に着く瞬間を狙う。体重がかかる瞬間にパッと払えば、もう相手はどうすることもできないよ!」
一生懸命説明しながらゆっくりした動きで技の概要を僕に説明している。この距離だと桜さんの汗の量が分かる。額に、目尻に、玉のような汗をかいていた。長い黒髪をたなびかせながら、彼女は説明しつつ相当動き回っていた。つかんでいる道着からも、彼女の熱が伝わってくる。
一方の僕はというと、頭の中の六割くらいは説明を聞いているものの、桜さんの長いまつ毛や、流れる黒髪や、道着の隙間から覗く黒いTシャツが形作る胸の膨らみを眺める方にもエネルギーを使っていた。
「じゃ、今度は本気のスピードでやるね」
桜さんのそのセリフもしっかり耳に入っているものの、あんまり警戒していなかったのは愚かとしか言いようがない。
体が猛烈な勢いで畳にたたきつけられて初めて、「うおっ! 危ねえ!」という気持ちが湧いた。
「こんな感じ! じゃあやってみよう!」
今の危なかったなー、とか、よく怪我しなかったなー、とか言いながら立ち上がるのはカッコ悪いので、「ウッス!」みたいなことを言って立ち上がった。
桜さんが受け身の大切さを強調していた意味が分かった。受け身が体に染みついていなかったら、病院に運ばれることになったかもしれない。
まあそんなわけで、昨日の練習では結局出足払いの感覚をつかむことはできなかった。この技は簡単そうに見えて、タイミングが難しい。それが一日で習得できなかった理由である。断じて、僕が桜さんのあちらこちらに注目していて、説明を聞いていなかったからではない。
というわけで、本日こそこの技を習得したい僕は、しばらく桜さんのレクチャーを受けてから、おっさんとひたすら出足払いをかけあった。何度も投げているとさすがに少し感覚がつかめてきた。
おっさんの足が動き出した。確実に決める。集中する。ひたすら集中する。おっさんの動きがスローモーションになる。足が、低いアーチの軌道を描くのが見える。畳に着く瞬間、おっさんの体の重心が移動しはじめるのが分かる。この一瞬だろ!
全力で自分の右足を横に移動させて、おっさんの足にぶつけた。手ごたえはない。軽く何かにぶつかった感じだ。
直後、おっさんは体を半回転させて真横に倒れた。
「お! できた! すげえ!」
僕が興奮気味に声を上げると、横で見ていた桜さんも、「今のは良かったね! 全然力を入れる必要なかったでしょう?」と、少し興奮して言った。
「はい! 超気持ちいい!」
僕がそんな風にはしゃいでいると、起き上がったおっさんは超気持ち悪そうな顔で、「今度は俺の番だ! 投げ飛ばしまくってやる!」と襲ってきた。
「返り討ちにしてやるよ!」
と、少年漫画みたいなやりとりをしながら、僕とおっさんの不毛な戦いは続いた。
午後六時、僕とおっさんは完全に動けなくなっていた。二人で畳の上に寝転がる。
最初は仲良く技を交互にかける練習だったはずだが、途中からはノンストップの組手連戦になってしまった。
最初こそ桜さんは「技にいく準備が遅い!」とか「もう一拍速く払って!」とか言っていたのだけど、三十回戦を迎えるあたりから興味を失いはじめ、一人で走り込みに行ってしまった。
かくして、止める人がいなくなった道場で、僕とおっさんは限界まで出足払いをかけ続ける攻防を続けることとなった。
「僕の勝ち越しは間違いないね」
「それは聞き捨てならんな。後半巻き返したから俺の方が少しよくなったはずだ」
「そんなわけないだろ。おっさん序盤で何連敗したと思ってるんだよ」
「昔のことは覚えちゃいないな」
「ボケ老人かよ……」
憎まれ口を叩き合いながら、道場の天井を見つめていた。体は疲れ切っているが、不思議な昂揚感がある。妙な心地よさだ。命のエネルギーをきちんと使っている喜びかもしれない。
そういえば、僕がまだ学校に行っている頃、部活を必死でやっている奴のことを理解できなかった。しかし、彼らが一生懸命部活に打ち込むのは、この喜びのためなのだろうか。
天井を見上げながらそんなことを考えていると、道場の重い引き戸が開いた。桜さんが帰ってきた。両手に買い物袋を提げている。
「遅くなっちゃってごめんなさい。ついでに夕食の買い物も済ませてきちゃった」
そうか。もう日が暮れつつある。夕食を考えなければならない時間なのだ。僕とおっさんは今日、恐ろしくおかしな時間の使い方をしていたので、時間感覚がなくなっていた。むしろ道場に長居してしまって申し訳ない。早めに帰ろう。
「よかったらお二人もご一緒にどうです? おなかすいてるでしょ?」
「ぜひ!」
僕とおっさんは同時に返事をした。日本人の美徳とされる遠慮は、疲労しきった僕とおっさんの中からは消え失せていた。