遅刻
翌日、朝八時。道場の前に到着した。おっさんと僕が道場に入る予定の時間は九時だったのだが、僕はこの時間を目指して家を出ていた。
道場の戸を開けると、桜さんが道場の掃除をしていた。雑巾で畳を吹いている。
「おはようございます!」
僕ができるだけ大きな声を出して道場に入ると、桜さんは少し驚いていた。
「今日は九時からだったよね?」
「そうです。でも、早くに目が覚めてしまいまして。掃除とか手伝えることが無いかなと思いまして」
それを聞いて、桜さんは嬉しそうな顔になった。
「ありがとうございます! じゃあ手伝ってもらおうかな」
桜さんに語った道場を早く訪れた理由は、半分本当だった。というか、半分しか語らなかった、という方が正しい。
今日は、ひたすら早くに目が覚めた。それも無理のないことだ。昨日寝たのが早すぎる。
よく、「生活リズムは少しずつ変えていかなければなりません」というような言説を目にするけれど、少なくとも僕の生活リズムはたった一日で劇的に朝型になったようだ。
体中のいたるところが筋肉痛で、もはやどこが正常でどこが異常なのか分からなくなっていた。もちろんそんなコンディションではあまり動きたくないのだけれど、たっぷり寝たので二度寝もできそうにない。もう体は今日の活動の準備を始めている。
適当に時間を潰してから行こうか、と最初は思ったが、早めに道場に行けば良いことがある気がした。具体的には、道場を開ける準備を手伝いながら、桜さんとじっくり話せるかもしれない。
「桜さんって、休みの日は何しているんですか?」
結局、それなりに目論見通りにことが進んだので、僕は満足していた。唯一の誤算といえば、畳に強く雑巾がけをするのはそれなりの体力を必要とすることであり、この後の練習が余計に大変になるのではないかということである。
「休みの日か…掃除洗濯とか溜まってる用事をこなしてるかな」
「遊びに行ったりしないんですか?」
「うーん、私、あんまり友達いないんだよね」
「そうなんですか? たくさんいそうじゃないですか」
僕の本音だった。実際、彼女はかなり明るく社交的で、話をするのが上手い。最初に入門の交渉をしに来たときの、「育ちの良いおしとやかな武家の娘」的な印象を今は微塵も感じない。
「学生時代の友達とかは皆大学行っちゃってて、なんか価値観合わない感じになっちゃったんだよね」
なるほど。問題は彼女の性格というよりも境遇にあるということか。
「大学に行こうとは思わなかったんですか?」
「ちょっとは思ったけどね。でもお父さんが病気になったから私が道場にずっと出たいって思ったし、机にかじりついて勉強するの嫌いだったから」
そこで、彼女は冗談めかして笑ってみせた。
「自分を見つめての選択って立派ですよね。僕なんかいつも逃げ出してばかりだ」
と、言い終わった後で、とんでもない自己嫌悪にさいなまれる。そう。僕がどの集団に行っても溶け込めないのは、こういう部分なんだろう。空気が読めない。人の心が分からない。桜さんもそんなことを言われても困るだろうに。
「君はそんなに逃げてばっかりなのかな?」
「そうなんですよ。何をやっても失敗ばかりで、すぐ逃げ出してしまう」
「でも、昨日の練習をやり通したよね」
「昨日だけかもしれませんよ。今日の昼には逃げ出してるかも」
桜さんのフォローにも、なぜか後ろ向きな言葉が出てきてしまう。
「ううん。遼くんは根性あるよ。昨日も結構疲れてたのに、目の奥は変わらなかったもん」
「目の奥……ですか?」
「うん。私のお父さんがよく言ってたことだけど、目の奥にはその人の意志が見えるんだって」
武道の関係者が言いそうなことだ。漫画とかで「まだ目は死んでない」とかよく言うもんな。
「昨日私は君の目を見てたけど、強い意志を感じたよ。どうしても強くなりたいんでしょ?」
確かに。僕は珍しく本気になっている。これだけの熱意を持ったのは生まれて初めてだ。おっさんが今回の計画を言い出したあの日の夜の決意から、ずっと大量の熱が放出され続けている。
「言われてみれば、今回の強くなりたい気持ちはホンモノかもしれないです」
僕がそう答えると、桜さんは嬉しそうな顔になった。その言葉が聞きたかった、と言わんばかりに。そして、真っすぐ僕の目を見て言った。
「でしょ? 昔のことなんてどうでもいいんじゃない? 今頑張ってる君は、カッコいいよ」
言い終えた後で、桜さんは少しはにかんで笑い、数回続けて瞬きをしたので、長いまつ毛が行ったり来たりしていた。
桜さんの言葉は、飾り立てていない。出しゃばらず、押し付けず、ただ頼もしく僕を肯定していた。一瞬で僕の弱気を振り払ってくれた。
「そういえば昨日、道場の庭にクチナシの花が咲いたんだよ」
しばらく会話が途切れていると、桜さんがそんなことを言った。本当にこのタイミングでそれを思い出したのかもしれないし、さっきまでの会話が照れ臭かったからなのかは分からない。
「クチナシ……ってなんですか?」
「ええっ!? なんで知らないの!?」
「昨日、おっさんにもそんなこと言われましたよ……」
女子からの「頑張ってる君はカッコいい」、これ以上に男性陣を発奮させる言葉はあるだろうか。いや、おそらく無いだろう。
ということで、僕は朝九時からの基礎トレーニングに異常に気合いを入れていた。
ストレッチの後、腕立て、腹筋、背筋、ほふく前進。一つたりとも手を抜かなかった。筋肉痛はあったが、むしろ昨日よりも体は良く動いた。半年もろくに運動をしていなかった体に、昨日一日で喝が入ったのかもしれない。
そんなわけで僕自身は絶好調なのだけれど、おっさんは来なかった。
九時はもうとっくに回っている。二日目にして早くも大遅刻である。
「あの野郎逃げやがったな!」と一瞬思ったものの、柔道で黒田兄弟をやっつけようという作戦にかけるおっさんの熱意は並々ならぬものがある。何か事情があるのだろう。
結局、おっさんなしで午前のメニューは終わろうとしていた。
走り込みから帰ってきた僕は、昨日同様みっちりと受け身の練習をすることとなった。まだ二日目ではあるが、これだけ動きを反復していると、だいぶ堂に入ってきた感がある。
そう思っているのは僕だけではないのか、桜さんも「午後からは簡単な立ち技を練習しましょう」と言った。
そして、いよいよ受け身の練習も残り三十分になったとき、道場の外からバイクの音が聞こえてきた。バイクがエネルギーを生み出し、排気するための重低音。おっさんのバイクだ。
「こんにちは!」
元気よく言っておっさんが入ってきた。遅刻しているのに威勢だけは良い。
「どうしたんだよ。大遅刻じゃん」
僕がそう言うと、おっさんは悪びれる様子もなく。
「いやあ、寝坊しちまった。面目ない!」
と言った。僕はそうでもないけれど、桜さんは少し不快そうな顔をしたような気がした。
「最近全然眠れなかったから、大丈夫だろうと思ってたんだけどな、やっぱり体動かすとたくさん寝なきゃいけないみたいだなぁ」
それでもおっさんは気にせず言い訳を続けた。確かに、真剣に指導している立場からすれば、こんな風な態度で遅刻を繰り返されたのではたまらないだろう。
「桜ちゃん、ごめんよ。もう遅刻しないから許してくれよ」
桜さんは笑顔になっていた。でもこの笑顔は違う。優しいやつじゃなくて、感情を出さないための対外向けスマイルだ。
「全然問題ないですよ。でも遅れた分のトレーニングは三倍速でやってくださいね」
顔にしっかり貼り付けて崩さない笑顔で、冷たい声がおっさんに浴びせられた。あまり悪びれる様子のなかったおっさんも、これにはうつむかずにはいられなかった。
「はい……」
おっさんの声からは、元気がなくなっていた。
なんだかんだで本日も稽古を終えることができた。生きているって素晴らしい。
稽古は昨日よりも二時間ほど長かった。元々少しずつ練習時間を長くしていく予定だったのだけれど、それにしてもいきなりに時間伸びたのはやはりおっさんの遅刻のせいだ。
桜さんは鬼コーチとなり、おっさんに、それはもう罰ゲームのように厳しい基礎トレをやらせていた。
帰り道で、昨日と同じコンビニに寄った。今日は昨日ほど気温は高くない。おっさんはタバコ、僕はチョコ菓子を買って、コンビニ前で話をした。
「おっさん、今日の大遅刻はやばいよ。アレたぶん桜さんは相当怒ってたぞ」
「う~ん、でも遅刻くらい門下生みんなするんじゃないか。みんなプライベートがあるんだから」
「普通はそうだろうけどさ。僕たちの場合は違うじゃん。何を犠牲にしても短期間で強くなりたい、って言ってるんだから」
「そうだな。それで特別指導してくれてるしな」
「だから、遅刻はやばいよ」
「でも、明日からは絶対大丈夫。仕事やめたからな」
おっさんが流れでポロっと言ったので、その言葉は今日の夕食の相談のように聞こえた。
「……何をやめたって?」
「仕事だよ。警備員のバイト。無職になっちまった」
「おっさんバカじゃねえの? 柔道の稽古を優先して無職になったの?」
「まあ元々、この計画が動き出してから、仕事は辞めようかと思ってたんだ。あと三か月でなれるところまで強くならないといけないからな。ジャマなものは排除したい」
「無収入になっちゃうぜ?」
「大丈夫だよ。それなりに貯金あるし。三か月の月謝と普通に暮らしていく分には問題ない」
「いや、三か月経って黒田兄弟と闘って、それで僕らの人生終わりじゃないよ。その先はどうするんだよ」
「分からない。まあ新しい仕事を探すだろうな。とにかく先のことは考えないで、戦いに集中したい」
相変わらずぶっとんだおっさんだ。今のことしか考えていない。目的のためにひたすら突っ走る。ロックだ。
最初こそぎょっとしたが、案外この男のロックさに僕も引っ張られている節がある。今これまでの人生で感じたことがないくらいの情熱を持っているのも、おっさんが火種を投げ入れてくれたお蔭だ。感謝した方が良いのかもしれない。
「ま、アレだ。三か月後の闘いの日が、俺たちの再出発の日だからな。その先のことは今から考えられんよ」
そう言いながら、おっさんはタバコに火をつけた。タバコの煙が、ずいぶん高くまで上がっているのが見えた。