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初日

 夏の日差しが差し込む道場に、畳と人体がぶつかりあう音が響き渡っている。

 青春映画なんかで使いやすいワンシーンだな。と、僕は当事者でありながら他人事のように考えていた。

「その調子です! じゃあ更に十セット続けましょう!」

 桜さんがそう言うと、僕とおっさんは「げ!」という表情をした。

 表情をするだけで口には出さなかったのは、鬼コーチと化した桜さんにそれを聞かせる勇気がなかったからだ。


 僕たちが道場を訪問したその日の午前中のうちに、トントン拍子で道場への入門が決まり、すぐに特訓が始まった。

 ストレッチの後、メニューを組んでもらうために基礎体力を桜さんに示した。

 その後、筋トレと走り込み。初日なので軽く、と桜さんは言ったが、正直僕は肉体の限界を超えていると感じるくらいキツかった。しかしおっさんは涼しい顔でこなしたので、若い僕が根性を見せないわけにはいかない。それに、桜さんが組んでくれたメニューをクリアできないのは男としての沽券に関わる気がした。

 基礎トレを終えた後に、短い昼休憩をはさみ、午後はひたすら受け身の練習をしている。

 午前中のトレーニングだけでやり遂げた感があったので、受け身は少し手を抜いても良いだろ、と考えて、形だけそれっぽくやろうとした。

「遼くん、本気でやってないでしょう!? 怪我しても良いの!?」

 僕の手抜き受け身をたった一回見ただけで、桜さんはそう言った。なるほど彼女の指導者としての器はホンモノなのかもしれない。

 かくして、手抜き一切なしの本気の受け身の練習が三十分ほども続けられていた。

 そもそも、日本の柔道教育では受け身の絶対量が少なすぎる、と桜さんは言った。だから、最初の数日はとにかく受け身を徹底して、危険をなくすそうだ。

 それを聞いた瞬間こそ、めんどくさそうだと感じた。しかし、彼女が示す受け身の見本を見たり、僕らにくれるアドバイスを聞いているうちに、わりとやる気になってきた。彼女が本気で僕たちに柔道を叩き込む熱意があることを感じたからだ。

「背中全体ではなく、下側の半身で衝撃を吸収する感じで!」

 僕らの動きを見て、大きな声の指導を飛ばす。午前中に僕らの対応をした彼女とは別人のようだった。どうも午前中のあの淑女的な対応は接客用だったらしい。もはや門下生となった僕たちにあの穏やかさが向けられることはなかった。

「遼くん、雑念入ってる! 一つ一つの動きを丁寧に!」

「はい!」

 結局この日は、もう余計なことを考えるのをやめて、受け身に集中した。


「あ~、疲れた。おい、アイス食おうぜ」

 おっさんが道場を出て最初に行った一言はそれだった。

「良いね。これだけ運動した後のアイスはさぞ美味いだろうね」

 おっさんと共にバイクにまたがった。飲み物は飲まない。アイスを楽しみにしよう。

 交通量の少ない道をコンビニに向かって並走する。波賀道場は街の中心から少し外れたところにあるので、コンビニまでそれなりの距離がある。歩くには辛い距離だ。

 ──こんな不便なところで、桜さんは一人で暮らしているのか。

 道場を出て雑念を巡らすことを許可されたので、バイクにまたがりながら、そんなことをぼんやり考えた。

 日は暮れ始めていたが、まだ明るい。すっかり色濃くなった緑の葉が、派手に存在を主張するピンク色の花が、道の脇から飛び出していた。少し不便でも、この道場の周りの景色は素晴らしい。舗装されている道路の外は土だ。人間の作為ではなく、自然に生えたであろう草木が茂っている。

 流れていく土の地面と、植物。肌を流れていくぬるい空気が、疲れた体に心地よく感じられた。

 コンビニに到着すると、おっさんがアイスを買ってくれた。二人で外の駐車場で食べた。

「しかし信じられねえな。初日だぞ。あんなに練習させるかね」

「僕たちの意向に合わせてくれてるんだから、感謝はしても文句は言うべきじゃないでしょ」

「いやいや、あの女楽しんでただろ。ドSなんじゃないのか」

 おっさんは堅い棒アイスをパキッと音を立てて食べていた。

「まあ確かに多少楽しそうではあったよね。『まだまだ!あと20セット!』とか言っちゃってさ」

 僕はバニラ味の大きなカップアイスを食べながら答える。口では文句を言いながらも、僕もおっさんもいつになくテンションが高かった。体を動かした後の充実感があり、二人でキツい特訓を終えた仲間意識もあるからだろう。

「しかしアレだな。体を動かした後のツーリングも悪くないもんだな」

「だよね。疲れてるから爆走する昂揚感はないけど、風を優しく感じられるよね」

「それに、普段バイクの上からは見えないものが見えるぞ。『さるすべり』が咲いていたな」

 おっさんはシャクシャクという音を立ててアイスを減らしてながら、コンビニの前に広がる空き地を眺めていた。

「何それ?」

「知らないのか。さるすべりっていう夏の花だよ。百日の紅と書くんだ」

「おっさんの見かけで花に詳しいとなんか怖いよ」

「なにおう! バイク乗りたるもの自然も愛でないといけないぞ!」

 おっさんとの談笑はアイスを食べ終えてもしばらく続いた。会話のネタは尽きない。練習のことと、辛さへの文句だけでいくらでも盛り上がることができた。

「でも、強くなれそうな気がするよ」

 一通り話し終えた後、小声ではあったが、おっさんははっきりとそう言った。独り言なのか僕に話しているのか分からなかったから、僕は心の中だけで同意した。


 おっさんと別れて家に到着してから、すぐに夕食を食べた。あんなにおなかが減った状態で食べる夕食は人生で初めてだったかもしれない。

 夕食を食べている間、両親は驚いた顔で僕を見ていた。豪快に食事を摂る僕を見慣れなかったからだろう。余計なことを両親に勘付かれたくなかったので、「どうしたの今日は?」という母からの問いかけには、「ツーリングに夢中で昼飯食うの忘れたんだ」とだけ説明した。

 道場に通い始めたことは家族には報告していない。話すわけにはいかなかった。

何より動機が不純すぎる。いじめっ子を倒すために格闘技を習います、とは言えない。

 そうなってくると問題になるのは道場に納める月謝だが、この月謝はおっさんが払ってくれることになった。

「馬鹿野郎。お前が金をもらうために親に余計なことを口走ってしまって、計画が頓挫したらどうするつもりだ。俺はもうやる気になってるんだからそんなことになっちゃあ堪らない。良いからそんな小金は俺に出させろ」

 あの時ばかりはおっさんがカッコよく見えた。フリーターとはいえ、社会人は違うなあと思った。

 食事を終えて風呂から上がると、猛烈な眠さに襲われた。

 今日は長い一日だった。時間で言えばまだ八時を少し回ったところだったけれど、もう眠ってしまおう。

 ベッドに体を倒れこませるとき、思わず後ろ受け身を取ってしまった。

 そのことに少し笑ってしまう。そして何となく今日一日のことを考えていると、あっという間に意識は眠りに落ちていった。


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