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入門

 翌日、午前九時、僕があの公園に到着すると、おっさんはすでにベンチで空を眺めていた。今日も快晴だ。

「遅いぞ、坊主」

「時間ぴったりだよ。おっさんが早いんだ」

「十分前集合はバイク乗りの基本だ」

「あいにく、僕はバイク乗りよりも社会のスタンダードの方を重んじるからね」

「何が社会のスタンダードだ。いじめられっ子のくせに」

「あんたもだろ」


 世間話を終えて、今後の計画について話し合った。一晩寝かせたおかげで、おっさんもだいぶ落ち着いて話せるようになっていた。

「俺が思うにな、やっぱり、後ろから金属バットで襲うようなのじゃ意味ないわけだ」

「当たり前だろ。それじゃ喧嘩じゃなくてただの通り魔だ」

「まあ聞け。そこでな、柔道を習おうと思う。俺とお前、二人で」

「柔道? なんで?」

「弟の方は紫蘭が、兄の方は柔道をやっていた。中途半端にやってただけみたいだったけどな」

 そういえば、僕も実験台的にいくつかの技をかけられたことがあった。弟の方もそれなりに柔道に興味がありそうだ。

「だから、俺たちも柔道をやる。三か月みっちり練習して、あいつらを派手に投げ飛ばしてやるんだ」

「相手のフィールドで闘うってこと?」

「そうだ。それで勝つ男がカッコいいだろ?」

 おっさんの発想は妙に子供じみたところがある。満足に何も成していないフリーターだからこそなのだろうか。そう思ったけど、言うのはやめておいた。

 それに、このおっさんの少年漫画的な発想は好きだ。すごく単純でバカらしくて、でもやりたいことが真っすぐ伝わってくる。

「柔道はどこで習うの?」

「昨日の夜に調べたんだ。この町に結構大きな道場がある。終日開いてるらしい。そこへ行こう」

「僕はまあ大丈夫だろうけど、おっさんはその歳で弟子入りするの?」

「だから俺はまだ20代だ!」


 公園から少し坂を下る。閑静な住宅街を通り抜けて、家が減ってきたあたりに大きな道場が建っていた。「波賀道場」という木の看板が掲げてある。瓦屋根が美しい、古風な建物だ。

「入っていいのかな?」

 建物の中からは何の音もしない。そりゃそうだ。まだ朝10時前だ。道場に通う人も学校や仕事だ。普通もっと遅くから人がやって来るのだろう。知らないけど。

「来ちゃってから言うのもなんだけどさ、この道場のシステムは調べたの?いくらかかるのかとか、どのくらいの頻度で稽古してるのかとかさ」

「一切調べてない。場所だけだ。大体そんな通り一辺のこと調べたってしょうがないだろ。俺たちはこれから死ぬほど練習して、短期間で強くなりたいんだ。半分遊びに来てるそこらのガキんちょとか、健康を意識したおっさんサラリーマンとは違うんだぞ。最初から交渉するつもりだったさ。とにかく強くしてほしいってな」

なるほど。確かにそうだ。しかしそれにしてもどんな指導者なんかとか普段どのくらい道場が開いているのかぐらい調べてきた方が良いのではないか。

もう少し突っ込んでみようと思ったが、おっさんは戸を開けるつもりらしい。行くぞ、と言い、取っ手に手をかける。

一拍おいて、おっさんはおそるおそると言った様子で戸を開けた。鍵はかかっていない。

「こんにちは……」

 おっさんは戸をあけてできた隙間から中をのぞき、小さな声で挨拶をした。中に誰かいるということだろうか。

 おっさんに続いて戸をくぐると、道着姿の一人の女性が道場の真ん中で正座していた。目を閉じて、微動だにしない。これは瞑想というやつだろうか。

足はぴったり揃えられ、背筋が真っすぐに伸びている。手は太ももの上にゆったり置かれていた。

彫刻か何かのようだ、と思った。

彼女は最高に力みのない洗練された姿勢を、わずかばかりの揺らぎもなく維持している。呼吸すら感じられない。

おそらく、毎日この姿で瞑想を行っているのだろう。姿勢の作り方がまるで素人とは違う。一目で武道をやっている人間だとわかる。

僕もおっさんも声をかけるのがはばかられて、しばらく立ち尽くしていた。

こういった武道の場での振る舞いが分からず、声をかけることで彼女の集中をとだえさせてしまっては申し訳ない。

その考えもあった。しかし、少なくとも僕に関して言えば、立ち尽くしていた理由は他にあった。

彼女の美しい瞑想姿に、見とれていた。

歳の頃は十代の終わりだろう。しかし彼女はすでに武道の達人の雰囲気を湛えている。

真っ白な柔道着

目を閉じて瞑想の世界に入っているであろう表情は、驚くほど穏やかだ。伏せた目のラインが、長いまつ毛を強調していた。

真っすぐな黒髪が、まっすぐな背中に沿って腰まで落ちていた。

体のラインはほっそりとしている。しかし華奢ではない。バランスの良い筋肉の付き方だ。相当長い期間の鍛練を感じさせる。

「あの~、すみません」

 おっさんが遠慮がちに声を出した。僕としてはもう少し見ていても良かったのだけれど。

「はい」

 返事をしながら、彼女はゆっくりと目を開いた。黒目がちの大きな目だ。表情は変わらず穏やかで、瞑想に割って入った僕らを邪険にする様子はみじんもない。だからといって歓迎という感じでもない。

「こちらの道場で、柔道を教わりたいのですが」

「そうですか。ありがとうございます。本格的に参加される前には初めての方には基本的に体験をオススメしておりますが」

「あ、実はですね……並々ならぬ事情がありまして」

 おっさんの方が明らかにこの女性よりも年上なはずだが、おっさんはすっかり飲まれている。確かに、歳に似合わぬ異常な落ち着きが彼女にはあった。僕も彼女と二人で話すと、必要以上にへりくだってしまう確信がある。

 そして、数分でおっさんはざっくりとした要望を伝えた。とにかく短期間で強くなりたいこと。実戦的な練習をしていきたいこと。お金は通常より多く払っていいので、なるべく長い時間練習させてほしいこと。できるだけ実力のある人に指導してほしいこと。

 おっさんが説明している間、道着姿の彼女はゆっくり話を聞いていた。おっさんの説明は少々しどろもどろだったが、彼女はずっと小さな相槌と首肯を繰り返して、じっくり話を聞いていた。

「わかりました。うちの道場でできること・できないことをご説明します。」

 話をおおむね理解した彼女は、少し考えてからそう言った。

「申し遅れましたが、私はこの道場の師範代をしております、波賀 桜と申します。よろしくお願いします」

 柔道家らしい和風の名前だな。と思った。くノ一みたいだ。しかし彼女にぴったりだ。

「まず、道場の稽古時間ですが、これは週に三回です。月・木・土の午後1時から5時です。しかしどうしてもその時間以外で練習したいということであればその限りではありません」

 便宜を図ってもらうことは可能らしい。彼女は続けた。

「基本的に私か、もう一人の師範代が日中はいつもこの道場にいますし、夜も希望がございましたら道場を開けておくことも可能です。どうせ私はこの道場の奥の邸宅に住んでおりますので」

 つまり、ほとんど毎日終日使っても良いということだろうか。まさか交渉がこんなにうまくいくとは思わなかった。おっさんも、「それ見たことか!俺の勘は正しいのだ!」と言わんばかりにこちらに一瞥をよこした。

「次に、なるべく実戦的な練習をしたいということですが、基本的にお二人で道場に来られるのであれば、お二人で試合形式の乱取り稽古中心で練習をすることは可能です。流石に他の方がたくさんいらっしゃる時は難しいですが、最大限安全に実戦形式を、ということに配慮いたします」

 なるほど。僕とおっさんが勝手に戦っている分には好きにやりたまえ、ということか。確かに合理的だ。二人とも練習できるし、他の人に迷惑をかけない。

「最後に、指導者の実力についてですが、師範の波賀 義明は現在病気療養中でして、ほとんど道場に来ることはありません。実質的には私と、もう一人の師範代とでお二人の練習をサポート・指導させていただきます」

 苗字が同じということは、彼女の父が師範なのだろう。これを聞いておっさんの顔が少し曇った。

「もう一人の師範代ってのは、いくつの人だい?」

 おっさんの口調が少し緩んできた。彼女の雰囲気に慣れてきたのか、交渉で強くでるための手法なのかははっきりしなかった。

「十八です」

「ちなみに、あんたは?」

「先月、十九になりました」

「ちょっと若すぎるんじゃないか。二人でしっかりした指導ができるのかね?」

「門下生の方たちにはご好評をいただいております」

「ちょっと信じがたいな。そもそもあんた、強いのかい?」

「はい」

 あまりにあっさり答えるので、僕もおっさんもその返事を聞き逃しそうになった。日本人の美徳とされる文化、謙遜の欠片もなかった。聞かれた瞬間にはもう彼女は答えていた。

 答えた後も、少しも目を逸らさない。彼女の大きな瞳は、揺らがぬ自信を映していた。

 おっさんは少し黙って、彼女の顔を見ていたが、彼女はわずかばかりの身じろぎもしなかった。地面から一本の芯が彼女の体を貫いているようだった。

「分かった。非礼を詫びよう。この道場でお世話になります」

 おっさんがそう言うと、彼女の固まった表情が少し崩れ、かわりに微笑がやってきた。

「よろしくお願いします」

 彼女がそう言い、僕たちの門下生としての暮らしが始まった。


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