湖
結局、バイクを直してくれたおっさんには逆らいづらく、なしくずし的についていくことになった。どこに行くのかを聞いても、「良いところだよ!」としか教えてくれなかった。
期せずして始まった二人ツーリングだが、走っているうちにだんだんテンションが上がってきた。今日の最高の天候のためだけではない。おっさんの後を走るのが面白いのだ。
おっさんの黒いバイクはかなり年季が入っている。僕はバイクの知識はほとんど無いのでどんなバイクなのかは分からないが、かなりレトロなモデルであることは分かる。流線形でないボディと、大きなランプが特徴的だ。
デザインも古いし、バイク自体もかなり古いが、走っている姿はカッコいい。むき出しのパイプが太陽の光を浴びてギラギラと光っている。太いマフラーからは一定のリズムで空気が排出されていた。
そして、おっさん自身の走行技術もかなりのものだった。僕に気を遣ってか、スピードこそそれほど出していなかったが、コーナリングの丁寧さは後ろから見ていても目を見張るものがあった。
グッと体を倒し始めてから、徐々に傾きを修正していく様子が見事だった。大ざっぱそうな外見とは裏腹に、多分彼は自分が思い描いたコース取りから3センチとずれずに走行しているだろう。
後ろからおっさんを見ていて、発見は多くあった。しかし、この楽しさは多分それだけではないだろう。僕はこれまで一人でしかバイクに乗ってこなかった。誰かと共に走ってこなかった。自分ひとりで気まぐれに舵を取れるのがツーリングの面白さだと思っていたけど、二人なら二人なりの面白さがあるものだ。
道のりを共有する人がいることで、景色の面白さや走る喜びを共有している気分になれる。かと言って何かを話すわけでもない。この絶妙な距離感は嫌いじゃない。ちょうど、映画館で隣合わせた人との距離感に似ているな、と思った。
一時間ほど走っただろうか。小さな峠道を抜けて、開けた場所に出た。湖に沿って作られた自然公園のようだ。
公園の入り口でおっさんはバイクを停めた。
「良い場所だろ?」
「そうだね」
公園に入ると、湖が太陽を反射してキラキラ光っていた。とんがり屋根の取水塔が穏やかに湖を見守っている。
「少し歩こうか」
おっさんはそう言って、木々の合間の小道を歩き始めた。無言で付いていく。
鮮やかな緑の葉の隙間から落ちるオレンジ色の日差しが目に染みた。初夏の木漏れ日が好きだ。なんだか切ないような、ワクワクするような、矛盾した気持ちになる。
「やっぱりツーリングは山道に限るよ」
おっさんが歩きながら言った。妙に穏やかな顔をしていた。
「なんで? 山道が面白いの?」
「ああ。交通量も少ないし、空気がどんどんキレイになる。それに、高い所は気持ちいい」
それからしばらく間をおいておっさんは、それに遠くに来た感じがするだろ?と付け足した。
20分ほど歩くと、湖を一周してバイクを停めた場所に戻ってきた。おっさんはおもむろにバイクに近づき、シートの下から取り出した缶コーヒーを放ってよこした。
「良い景色を見ながら飲むコーヒーは美味いぞ」
「そんなところにストックしてるの?」
「眠くなった時も、嬉しい時も、辛い時も、コーヒーは俺の味方だからな。バイクにはいつも積んでるよ」
二人で缶コーヒーを飲みながら、湖を眺めた。
来てよかったな、と思った。不思議なものだ。ひょんなことでおっさんについていくことになって、でもそのおかげでここに来られた。
「どんないじめを受けたんだ?」
湖の方から視線をそらさずに、おっさんが言う。
「別に。ごく一般的なことだよ。あれ買ってこいこれ買ってこいって言われたり、脈絡なく後ろから蹴られたり」
「始まったきっかけは?」
「分からない。でも、原因は多分僕のコミュニケーションの取れなさにあるんだ。人の気持ちがよく分からないんだよ」
最初におっさんに色々聞かれた時は、答えたくなかったり、嘘をついてみたりもしたけど、不思議と今は素直になれた。
「人の気持ちが分からない?」
「うん。なんだろうな。『空気読めない』ってやつなのかな。人の言外の意図みたいなものが分からないんだよ。どこに行っても浮いてしまうんだ」
誰にも話したことのない気持ちを言い出すと、止まらなくなる。おっさんの返事を待たずに僕は続けた。
「だから、皆の空気を壊してしまう。結局僕は人の輪に入れないんだよ。社会不適合者だよ」
「少なくとも俺とはこんなに普通に話してるじゃないか」
「おっさんには言外の意図なんて繊細なものはなさそうだからね」
「なんだとお!」
自分でも不思議だ。おっさん相手にはこんな軽口まで叩けるのか。今日初めて話したというのに。
しかも、年齢がかなり離れているにもかかわらずだ。同い年のクラスメイトとも満足に交流できない僕がなぜこのおっさんにはこんなに心をゆるせるのか。それがツーリングの効果なのか、同じいじめられっこの共感なのかは分からなかった。
「俺には、お前がいじめられるほど空気が読めないとは思えない」
「それはあんたが学校での僕を知らないからだよ。どうしても浮いてしまうんだ。だから黒田が……いじめっ子が、僕を疎ましく思うのも仕方ないさ」
そこで、終始同じ仏頂面をしていたおっさんの表情が変わった。そして、少し驚いた様子で僕に質問してきた。
「そのいじめっ子のフルネームは?」
「……黒田良二」
「お前いくつだ?そいつは同級生か?」
「今年で17だよ。そいつも同じ」
そこで、おっさんは難しい顔で黙り込んでしまった。視線こそ湖を見ているものの、焦点は湖に合っていない。
「どうしたんだよ?」
たまらず僕が聞くと、おっさんはゆっくり口を開いた。
「俺をいじめていた奴の名前は、黒田修一。お前をいじめている奴の、兄貴だ」