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ほうせんか

 気付けば稽古が始まってから二週間が経過していた。まだ二週間か、と思う。一日はずいぶんあっという間に終わるのに、一週間が過ぎるのはかなり遅く感じた。

 新しいことを経験していると、人生は長くなるらしい。僕がこれまでの人生でやってこなかったことが一斉に押し寄せているので、一週間を振り返ると恐ろしく長くなっているのだろうか。

 この二週間で得たものは、健康的な生活リズムと、少しの筋肉。片手で数えられるくらいではあるけれど、使いこなせるようになってきた柔道の技。

 今日も、昨日より少しだけ強くなれることを願いながら家の玄関のドアを押して外に出る。

「今日も早いのね。土曜日なのに」

 庭の芝生に水をやっていた母さんが僕に話しかけてきた。最近日中の気温が高いので、母さんは朝のうちに庭仕事を終えることに決めたらしい。

「うん。朝からの仕事が結構あるんだ」

「いってらっしゃい」

「いってきます」

 簡素な会話をして家を出る。母さんには、ツーリングで知り合ったバイク屋の店主のところでバイトをしていると説明している。

 短期間のもので、しっかり働くとバイクのカスタムのための高価なパーツがもらえるのだ、ということにした。

 それなら僕が現金を持っていなくても不自然ではないし、バイクに無頓着な両親は僕のバイクの変化の有無などに気づくわけがないから、嘘が破綻しづらい気がした。

 そしてあながち全部ウソでもないからまあ良いだろう。ツーリングで知り合ったおっさんと行動を共にしていることは本当だ。

 母の目も、以前より厳しくなくなった気がする。

 ちょっとしたバイトでもなんでも、何もしていないよりはずっと良いという考えなのだろう。

 母の暖かくなった視線を背中に感じながら、バイクを発進させた。少し走ると、強烈な日差しが体を熱くして、背中の生ぬるい感覚はすぐになくなった。


 道場の戸をあけると、待ってましたと言わんばかりに、桜さんが箒を手渡してきた。

「今日は庭の掃除をしましょう。よく見るとちっちゃいゴミとか、枯れた葉っぱとかがいっぱい落ちてたから」

 二つ返事で引き受けると、僕は箒を受け取った。箒の先端には固くて細い枝のようなものが束ねてある。僕は初めて見たが、昔風の竹箒だ。これこそ道場の朝のイメージにピッタリな仕事である。さっそく掃除を始めると、桜さんは縁側に座り込んだ。庭に咲いたホウセンカの花を見ている。

「桜さんって、形から入るところありますよね?」

「あるね。私結構イメージを背負い込んじゃうみたい」

 彼女はホウセンカの花をぼうっと見つめながら答えた。今日は少し眠いらしく、その目は、いつもよりとろんとしている。気だるげな目尻から顎までのキレイな輪郭が、横顔では強調されていた。

「この掃除も、そんなに庭の汚れが気になってるんじゃなくてイメージですよね?」

「そんなことないよ! もっときれいな庭の方がいいもん!」

 たしかに、掃いているとけっこう小石や落ち葉を見ることができる。でも絶対この竹箒で掃除する僕を観察したかっただけに違いない。

「この竹箒は昔からあったんですか?」

「ううん。一か月くらい前にネット通販で見つけて、買っちゃった」

「やっぱりイメージ先行じゃないですか!」

 僕が突っ込むと桜さんは、違うって、と繰り返しながら、苦笑いを浮かべた。図星だなこれは。

「遼くんは掃除好きなの?」

 桜さんはすかさず話を逸らしにかかった。どうもこの人は僕を上手いこと操縦しようとしている気がする。そう思いつつも、僕は結局この年上の女性に翻弄されていた。

「まあ、わりと好きですかね。少しずつ理想の状態になっていく感じが楽しいです」

「うわあ。すごいなあ。そういう人信じられない」

「なんでですか? 掃除嫌いですか?」

「うん。嫌い」

「家はきれいだったじゃないですか」

「家はね。お父さんがいつ戻ってきても良いように、頑張ってるんだよ。私の部屋はごちゃごちゃ」

「何がそんなに散らかってるんですか?」

「服とか本とかかな。本は読んでる間に眠くなってその辺に放り出しちゃうんだよね」

「何の本を読むんですか?」

「小説が多いかなぁ。ファンタジーが好きなの」

 相変わらずイメージが一貫しない人だな、と思う。桜さんが道場を出るとふわっとした印象に変わるのは、この二週間で理解したけれど、たくさん読書をしているイメージはない。ましてファンタジーを呼んでいる乙女チック性は予想外だった。

「ハリーポッターとか?」

「定番だね。もちろん好き。魔法が使えたらいいな、って思うよ」

 そう言った桜さんの表情は驚くほど穏やかだった。大抵のゲームなんかでは、魔法使いは肉弾戦に弱い。格闘家は肉弾戦しかできない。格闘家である桜さんが魔法にあこがれているのだ。

「なんか意外ですね」

 そういうと、桜さんは、目線をこちらに向けた。縁側にいる彼女には、庭の地面で反射した夏の陽光が届いていた。白い肌が、その光を力強く反射している。

「かわいいとこあるでしょ?」

 そう言って、彼女は笑みを浮かべた。口角が上がるのが、スローモーションに見えた。明るく光る白い肌が、ピンク色の唇の存在を際立たせている。

 その笑顔は、女神のようで、でも悪魔のようでもあった。

 僕は、箒を持つ手を動かすのも忘れて、桜さんの笑顔をじっと見ていた。彼女も、微動だにしなかった。目線が、重なっているのが分かる。空中で二人の目線が糸のように絡み合っていた。

 僕にとって永遠とも思われたその時間は、おっさんのバイクの音で終わりを告げた。

 桜さんは、平然と立ち上がって、道場へ戻っていった。

 僕は、縁側を見つめ続けた。

桜さんの座っていたその場所の正面には、赤いほうせんかが咲き誇っていた。


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