第三十五話 星野ハルカ
ネバダ砂漠の地下にいた時、私を名前で呼んでくれる人など、誰も居なかった。
私はただ単に「ケース28」と呼ばれ、檻の中に居た。
地図も無く。仲間も無く。外に出て行くことなど、とてもできそうになかった。なにより、私はこの施設に来る前のことを、何一つ思い出せなかった。
自分の身体を眺めまわし、触れていると、私を眺めている人々とは違う特徴があることに気付いた。まず耳の形が違っていた。手の形も少し違うようだ。肌の色は彼らより少し濃く、しかし血液は同じ物質によって循環しているようだった。
それは彼らが私に注射をするときに分かった。血液が赤いのだ。ヘモグロビンである。
そして、私の髪の毛だけが緑色をしていた。観察した結果、私の髪の毛には節があることが分かった。これは後から知ったことだが、ほぼケラチンから成る彼らの髪の毛と、違うものの一つだった。
私は手元にあった情報から推理し、自分が宇宙人であるという結論に達した。
そんな私を外の世界に連れ出したのが、イレイサーだった。
「Do you speak english?(英語、分かるか?)」
「Yes」そう答えると喜ばれることを、私は学習していた。
「Do you want to escape with me?(俺と一緒に逃げたいか?)」
「Yes」逃げた先に何があるかは分からなかったが、私はその申し出を喜んで受けた。私は窮屈な世界と繰り返される質問に退屈していたのだ。
そして、私たちはスムーズにネバダ砂漠から立ち去った。誰も後を追う者はいなかった。たまに銃口を向けてきた者たちは、途端に電源が切れたかのように、棒立ちになって呆けていた。全てはイレイサーの能力故だった。私は恐怖した。そしてその事をイレイサーに正直に話した。彼は、そのときの私には理解できない言葉で、私に向かって言った。
「はっはっはー。ようやく俺がこわーい奴だと気付いたのか?」
私には、そのときイレイサーが、少し悲しそうな顔をしたように見えた。
「ま、あんまり気にしないこった。ケセラセラ。なるようになる。そういう風に世の中はできてるんだからよぉ」
私は星野ハルカという偽名と偽造パスポートを与えられ、日本に入国した。中学校に転校し、友達が出来た。イレイサーとは常に連絡を取り合っていた。
私は比較的早く日本語を覚えたと思う。学校では、基礎的な学問の知識を学んでいった。私は――それを既に別の形で知っていたので――ひどい違和感を受けたが、以前の窮屈な暮らしよりは何百倍も楽しかった。
そして、私はあるとき唐突に、自分の過去を思い出した。
捕獲された時、自分自身で記憶を防衛していたのだ。それが、外れた。
この地球を観察しに来たこと。人類の善悪を――有害か無害かを――判断すること。UFOから離れて行動していたところを捕獲されたこと。UFOがまだ、私の指示を待って軌道上に待機していること。私がその気になりさえすれば、地球は反物質反応弾によって木っ端みじんになるのだということ。
そして同時に。
私は記憶消去が人類最強の戦力の一つなのだという事実を理解するに至った。
秋葉原で買った材料で交信器を作り、UFOの人工知能――それはおよそ間違えるということがない――と相談した結果、私は地上に留まり、私を救ってくれたイレイサーを、むしろ積極的に監視、管理するという任務を自ら定めた。
正直に言えば、私はイレイサーと離れたくなかったのだ。これを、この感情を、地球人は恋と呼ぶのだろうか。
私は星野ハルカ。私は宇宙人であり、今ではれっきとした、薙刀高校の一年生である。