第二十六話 ボーダーレス
「本の中は見てみたでおじゃるか?」
邪はピクチャレスに問う。
タイムリピーター・猫殺しのエイラは捕獲し、藤王に預けた。手錠を掛けた後、ホテルに連れていくという。黒猫のモーツァルトもなんとかなだめすかして寮に連れ帰った。そこでピクチャレスは、邪にケータイで簡易報告を行う。
「雅への昇任試験は、合格でおじゃる」
その一言に、ほっと安堵の息をつく。
「それで、お主の記憶の件じゃが、麿の手助けが要るようには思えんのでおじゃる」
「どういう意味です?」
そして、冒頭の台詞へと続く。
「本の中は見てみたでおじゃるか?」
言われて、気付く。実家から持ってきたものといえば、ケータイと辞書、大学ノートくらいのものだ。大学ノートはチェックした。ほとんどが白紙で、有用な情報は何もなかった。だが、まだ、辞書の中までは確認していない。
「本には、魂が宿るものでおじゃる。よく確認してみることでおじゃる」
唐突に切れた通話を気にすることも無く、ピクチャレスは辞書ケースを手に取る。辞書をケースから抜きとる。重い。だが、どこかにメモや走り書きがあるかもしれない。ピクチャレスは辞書の中央を開き――思いがけないものを見た。
辞書の中央が綺麗に切り抜かれ、スペースができている。そしてそこには、小さなminiSDカードが収められていた。
誰がこんなところにminiSDカードを隠したのだろう。
いや、自分以外にはありえない。記憶が無くなる前に、記憶が無くなることを見越して、いつも持ち歩いている辞書の中にこの記録を残したのだ。
こんな周到な手段で情報伝達を試みるとは、一体過去の自分は、何に所属し、何と戦っていたのだろう。
恐る恐る、情報端末にminiSDカードを差し込む。
ウイルスを警戒したが、意外とすんなりカードは認識され、メニューが出現した。フォルダを開く、を選択する。
フォルダを開くと、「日記」と書かれたフォルダに、大量のテキストデータが存在することが分かった。
とりあえず、最後の日記、一月の日付のファイルをメモ帳で開く。
――この日記を読んでいるということは、おそらく俺は、記憶を消されてしまっているに違いない。その前提で、ここに必要な情報を残す。
一月某日。俺は時永ケイコ、通称、境界不要と組んで、薙刀高校の入試問題を盗みに行くことになった。
時永ケイコ。その名前にはデジャブがある。
――反政府テロリスト「バジリスク」の指令で、P2養成組織である、薙高の入試を混乱、破綻させるのが目的だということだった。
だが、いくらボーダーレスがあらゆる扉をすり抜けることができたとしても、今回はリスクがでかすぎる。発見されれば、薙高のOB連中に、どのような目にあわされるかは分かったものではない。
あらゆる扉をすり抜ける能力。ボーダーレス。そんな能力が存在するのか。
――最悪、俺は殺されるか、廃人になるだろう。あるいは、記憶を消されるだけで済むかもしれない。いずれにせよ、相棒のボーダーレスと分断されることは間違いない。バジリスクからも、今回の計画が失敗すれば足切りされるだろう。
事実、俺は記憶を消された。組織からのサポートも受けられなくなった。
時永ケイコ。ボーダーレス。分断された相棒。
俺は情報の奔流に振り回される。
――お前は、薙刀高校に生徒として潜入しているのかもしれない。
もしかすると、それでいいのかもしれない。
冷酷非情なバジリスクと縁を切って、優良生徒として、自由気ままに生きるのも悪くないのかもしれない。金は別記の口座にうなるほどある。生まれ変わったお前には、それを使う権利がある。
そう。今の僕は優良生徒だ。テロリストとは何の関係も無い、ただのピクチャレスだ。
――だが、どうか忘れないで欲しい。ボーダーレスは俺を好いていた。そしておそらく、俺もボーダーレスが好きなのだろう。今のお前には分からないかもしれないが。
ボーダーレスを、時永ケイコを探し出し、救ってやってほしい。頼む。
最後の日記は、そこで終わっていた。
自分は薙高の入試問題を盗むことに――ボーダーレスの能力によって侵入し、ピクチャレスの能力によって記憶することに――失敗したのだ。
そして記憶を消され、ボーダーレスと分断された。
ボーダーレスは、時永ケイコはどこにいる?
それは、ピクチャレスの中に初めて芽生えた、明確な疑問だった。