三章 過去への執着(5)
なんだって?
ちょっとお話……だと?
それってつまり――
「ついに観念したってことか? 余裕ぶってるように見えて、実はお手上げだったんだな」
ひとまず安心する俺だったが、油断はできない。影魔導師の力を満足に使える状態でなくとも、さっきみたく普通のナイフで刺される可能性だってあるんだ。
警戒を解かない俺に、女はくすっと笑う。
「そうね。今の私じゃあなたたちには敵わないわ。でも、捕まるつもりなんてこれっぽっちもないんだけどなぁ」
「は? 転移もできないくせに逃げられると思ってんのか?」
「ふふっ、転移ならできるわよ?」
「どうせハッタリ――」
瞬間、女が足下から噴き上がった濃い闇に包まれて消えた。そして三メートルほど離れた岩の上に現れる。
「マジか……」
転移が可能ならとてもじゃないが追えないぞ。リーゼも炎による転移術を使えるが、あれは自分の魔力を飛ばして点火した場所に移動するものだ。視界内に限定される。そもそも、転移術同士の鬼ごっこは相手がどこへ出るかわからないから成り立たない。
「ふふっ、驚いたかしら? と言っても、影魔導師の転移は『影が繋がっている範囲』でしかできないのよ。だからそれほど遠くには逃げられないわね」
それでも、ここは山間に位置する森の中だ。繋がった影などいくらでもある。俺たちはやつが本気で逃げに転じる前に完全に取り押さえなければならない。正直、キツイな。
「フン、なに悩んでるのよ、レージ」
リーゼがその紅眼にいつもの自信満々な耀きを宿している。なにかやつを逃がさない手でもあるのか?
「要は影をなくせばいいんでしょ? そんなの、この森を跡形もなく焼き払えば済むじゃない」
なんともリーゼらしい豪快な提案だった。森全体でなくとも、この周囲だけ消し飛ばせば確かに繋がった影は生まれない。リーゼにしては冴えてるじゃないか。俺と森の生物たちの危険を考えてくれていたらもっとベストだったけどな。
「それ採用だ、リーゼ。でもまだやるなよ。自然破壊は最終手段だ」
あの女の転移速度よりも、リーゼの炎の方がたぶん速い。
さぞかし苦い顔をしてるだろうな、と思って俺は女を見やるが――その愉快そうな表情にはなんの変化も見受けられなかった。あいつはリーゼの力を知らないから、ハッタリだと思ってるのかもしれん。なら、今はそう思わせとけばいいさ。
「う~ん、どうもお茶しながらお喋りって雰囲気にはなってくれそうにないわね」
ぴょん、と女は岩から飛び降りる。俺は身内にすら毒を盛られる環境にいるんだぞ。敵とお茶なんて恐ろし過ぎてやってられるか。
「まあいいわ。その代わりに面白いものが見れそうだから」
ふふっと笑って女は背後を、双子滝の方に視線を向ける。
なんか知らんけど隙だらけだ! 俺は即座に棍を生成しようとし――止まる。
滝の半分を呑み込むほど巨大な『次元の門』が、水面に石を落したような波紋を広げていた。
「ちょっと待て、どんだけでかいのが来るんだよ」
向こう側の景色が原型を留めてないほど歪む。直後、にゅっ、と黒光りするなにかが滝の水を被って突き出してきた。
恐らく、生物ではない。宇宙をたゆたう小惑星を思わせる鉱物の塊に見える。全長百メートルはあるだろうそれが、激しく水飛沫と土煙を上げ、地形を変えてしまう勢いで渓流を押し潰す。
ゴツゴツとした漆黒の壁が俺たちの眼前に聳える。やはり生物ではなく、異世界の物質のようだ。生物以外の来訪者なんて滅多にないことだぞ。
「わっ! わっ! なんかすっごいの来た! ねえレージ、アレ壊していいの?」
こんな状況ではしゃげるリーゼの精神を分けてもらいたい。すぐに壊す方向へ直結する思考回路はいらないけど。
パキン。
氷に熱湯をかけたような音がした。
次の瞬間――
「――なッ!?」
硬度の高そうな異世界の物質に罅が走ったかと思えば、破裂するように一瞬で瓦解したのだ。しかも瓦礫が残ることなく青白い光の粒子となって霧散している。
「……リーゼ、お前、なんかやったのか?」
「ううん、まだなんにもやってないわよ」
リーゼもなにが起こったのか理解できていないようだ。となると、あの謎物質は自然消滅したことになる。既に『次元の門』も消えていて次が来ることはないみたいだが、こんなことは初めてだ。アレがなんだったのかまるでわからない。
「あっちゃー」と影魔導師の女の声。「せっかく面白い物を回収できると思ったのに、地球の環境では存在できない物質だったみたいね。残念残念」
両掌を上に向けてアメリカ人風に肩を竦める女に、俺は問い詰める。
「次空を歪めて、歪震を起こして、『次元の門』から出現するなにかを得る。それがてめえの目的なのか?」
「ふふっ、ハズレよ。監査局のわんこさんは鼻が利いても頭はよくないのかな? なにが出てくるかわからないのに、そんなことを目的とするはずないでしょう?」
「じゃあ、なんだってんだ?」
「どうしよっかなぁ? 別に教えちゃってもいいんだけどね」
茶化すように勿体ぶる女に、俺はそろそろ苛立ちの限界を迎える。
「今話さなくたっていいぜ。どうせ、監査局でじっくりと尋問されることになるからな!」
〈魔武具生成〉――フレイル。
柄となる長い棒と『穀物』と呼ばれる打撃部分を鎖で接合した、柔軟性と防御しづらい高い攻撃力で鎧の上からでもダメージを期待できる棍だ。ただの棍より扱いは難しいが、俺は近接武具に関しては専門家だ。間違って自分を打つようなマネはしないさ。
「リーゼ、俺に続け!」
「戦っていいのね。じゃあ思いっ切り楽しむわよ!」
リーゼの手前に魔力還元術式の魔法陣が展開し、轟! と凄まじい黒炎流を影魔導師の女に向かって放射される。俺に続けって言ったのに、戦いたくて相当うずうずしていたらしいな。
直線に飛ぶ黒炎放射は簡単に避けられたが、そこに俺がフレイルを振り回して叩き込む。鎖を軸として打撃部が加速され、岩をも砕く攻撃力を発生させる。
が、実際に砕いたのも岩だった。女は軽業師よろしく岩から岩へピョンピョン飛び跳ねて俺との距離を取る。日向の方へ追い詰めたいのに、やつは周到に日影が多い方へと逃げてやがる。
「あははっ! 黒焦げになりなさい!」
リーゼが女の上空から黒炎柱を落とす。しかし寸前で見切られ、そこから転移で俺の後ろへと回り込まれた。
「くっ」
回転の勢いをフレイルに乗せて振り向こうとしたが、女に武器を蹴り上げられて失敗する。なっつうタイミングの合わせ方だ。影魔導師の力を存分に使えないのに、こいつ、ただの人間としても異常に強いぞ。
「ふふっ、昨日より動きが鈍ってるぞ?」
独特の笑いを漏らす女は、スッ、と俺の懐に一気に入り込んできた。綺麗で整った顔を下から俺の顔に近づけてくる。その距離、少し動けばオデコがぶつかりそうだ。
俺がいるからか、リーゼも炎を使うことを躊躇っている。
「私はね、過去を取り戻したいの」
女は囁くようにそう告げて、俺の眼前数センチから闇を纏って転移した。今度は川の中央、先程の異世界物質が落下した影響でポッカリと露になった川底に現れる。
「この、ちょこまかと鬱陶しいわ!」
「待てリーゼ」
俺は黒炎弾を射出しようとするリーゼを手で制した。そして女に向き直り、問う。
「過去をって……記憶喪失なのか?」
「ふふっ、今の言い方じゃそう捉えちゃうか。――ハズレよ」
女はそこで一拍置き、今までの飄々とした態度を一変させる。
「私は過去の、過去に失った大切な人を取り戻したい。そのためならなんだってするわ。次元がどれだけ歪もうとも、誰がどうなろうとも関係ない」
なんだ? 表情が、まるで悪魔にでも取り憑かれたみたいに変貌しているぞ。
「三年前のあの日、私と一緒に『混沌の闇』に喰われた彼を見つけ出す。それが私の目的。異界監査局や影魔導師連盟なんかに邪魔はさせないわ」
ゾワッ。
憎悪にも似た執念が影魔導師の女から感じられ、俺は体中の毛が逆立つ感覚に襲われた。リアルに霧状の〝影〟が女に纏わりついてどす黒いオーラを形成している。はっきり言って、怖い。
「なによ、あいつ……凄く、嫌な感じがする」
リーゼも俺と同じものを感じているのか、珍しく怯えた顔で女を見ていた。
と、その時――
「う、そ」
俺たち三人以外の声が、背後から聞こえた。
影魔導師の女から目を反らす機会を得たとばかりに、俺は後ろを振り返る。この秘湯へと続く獣道に、マントに近い形状の黒いコートを羽織った少年と少女――迫間漣と四条瑠美奈が立っていた。
「なんで? なんでよ?」
どさっ、と四条が地面に両膝をつく。迫間もよろけそうになる体を必死に持ち堪えて「どう……なってんだ?」と呟いている。
二人とも瞳の焦点が合っていない。ありえないもの――幽霊でも見たような顔だ。
四条が叫ぶ。
「なんで、望月先輩がここにいるのよッ!!」