序章
あなたは異世界を信じますか?
そう言われて「YES」と答えるやつが果たして地球上に何人いるだろう。
俺――白峰零児はその一人なのだが、信じているわけではない。もう既に存在することを知っているんだ。
俺たちの世界は常にどこか別世界と繋がっている。
魔法が使える世界。科学が異常に発展した世界。はたまたなんの進歩もしていない原始的な世界。魔界や神界や精霊界って呼べそうな世界もあるだろうし、想像もできないような意味不明な世界があっても不思議はない。
とにかくそういった世界への扉が日替わり、いや、時間・分・秒替わりでカードを切るみたいにランダムに開いているんだ。
いつからか? そんなことは知らない。宇宙が誕生してからか地球が誕生してからかなんてことは俺にはわからないからな。
神隠しってあるだろ。人がいなくなった時によく言うアレだ。全部が全部ってわけじゃないが、その一部は異世界への門をくぐっちまったと考えていい。そういう言葉が昔からあるってことは、やっぱ随分と前からなんだろうね。
まあ、こっちから行けるってことは向こうからも来れるってことになるわけで、いわゆる異世界人というやつが少なからず地球にいることになる。
なんてデンパな話だと思うだろう? 俺だって思う。地球的常識で考えれば笑い飛ばしたくなる話だ。いいぞ、笑っても。
だが、それが事実だということを俺は知っている。
なぜなら、俺の中には異世界人の血が半分ほど流れているからな。おかげで地球人にはない能力が使えたりするわけだが、そこは置いといてもう一つぶっちゃけると、
俺は今、異世界に来ています。
ついでに言えば走ってます。そりゃもう全力で。
だって、俺の後ろから二足歩行する巨大トカゲが百匹くらい追って来てるんだぜ。
いくら俺が異能力者だとしても、流石に逃げるしかないだろ?
あれは遡ること数十分前のことだ。
「だりぃ……」
突然かかってきた携帯電話に俺は開口一番でそう呟いた。校庭の草むしりを炎天下中でやらされる小学生の気持ちで溜息を吐いてやると、携帯からおっとりとした若い女性の声が聞こえてくる。
『変わった挨拶をしますねぇ、レイちゃん。いつも通りの仕事ですから、もっとシャキッとしてください。そんなことだと彼女も見つかりませんよ』
優しいとか、柔らかいとか、そんな聞き手の心を和ませてくれるような声だった。もっとも、とうに聞き飽きてしまっている俺にそんな効果はない。
「余計なお世話だ、誘波。つーか、今何時か言ってみろ」
『えーと、二時ですね』
「そう、二時だ。夜中のな。で、なんで健全なる男子高校生がそんな時間に登校せにゃならんのかを教えてほしい」
ここは学校――と言っても俺の通っている私立高校ではなく、同じ市内にある偏差値の高い公立高校だ。電話の女――誘波に強制召集された俺は、そこの中庭に『仕事』で来ているわけだが、これをだるいと言わなけりゃふざけるなと言ってやりたい。
「それとあだ名で呼ぶのやめろ。本名で呼べ本名で」
初めて聞く人がいたらどこの香港人ですかと思われる……いや、流石にないか。
『お名前なんでしたっけ?』
「白峰零児だ! 知ってんだろ! ふざけてんなら刺し殺すぞ誘波!」
『あらあら、私はそのくらいじゃ死にませんよぅ。返り討ちです』
冗談のように聞こえるがそうじゃない。俺は自分の『能力』に自信はある方だが、こいつの場合は本当に刺しても死にそうにない。返り討ちにはあわないけどね。
まあそんなことより、俺が不満な理由は強制夜勤に加えもう一つある。
「おい白峰、いつになったら門ってのは開くんだ?」
声は上方から聞こえた。なんだかよくわからない半アーチ状のモニュメントに、癖っ毛の目立つ男子高校生が乗って胡坐をかいている。
なぜ高校生とわかるのか? そいつの着ているブレザーが俺の知っている高校の制服だからだ。というか俺も同じ制服を纏っていたりするのだが、持ち物の点で一つだけ異なるものがある。
ビデオカメラ。そいつはモニュメントの上からアイドルのスキャンダルを追う記者みたいに忙しなくカメラを回している。変態にしか見えん。
この変態の名は桜居謙斗。中学以来の悪友で、異世界の存在や俺らの『仕事』についてある程度理解している人間だ。俺としては理解してほしくなかったのだが、桜居謙斗という人間は異世界とかそういうものに対する興味が人十倍はある。学校で異世界研究部なる意味不明な部活を創設したくらいだ(非公認)。
「誘波、あいつは俺らとは違う普通の人間だろ。なんで同行を許可したんだ?」
『桜居ちゃんのことですかー? う~ん、どうしても「次元の門」を見てみたいって私のところまでお願いしに来た熱意に負けちゃいました。まあ、レイちゃんがいれば大丈夫でしょう』
まるでなにかあったら俺が悪いみたいなことをおっとりとした口調で言う誘波。そしてまた背中が痒くなる愛称で呼ばれたが、もう今日の説得は諦めよう。面倒だし。
「おーい、白峰、まだ開かないのか? ていうかオレの声届いてるか?」
「やかましい! お前はまずそこから降りろ! それと、『次元の門』ならもうとっくに開いてるよ」
俺が前方を顎でしゃくると、桜居は「なんだと!?」とドッキリを仕掛けられた芸人みたいに驚いてモニュメントから転落した。一瞬ヒヤっとしたが、「だぁあああオレの十五万がぁあああああっ!?」と破損したカメラを見て号泣しているから大丈夫だろう。
ちなみに『次元の門』というのは、その名の通り異世界に繋がる扉のことだ。どうやらこの世界は酷く不安定らしく、門は次空の歪みであるという考えが定説とされている。まあ、学者でも研究者でもない俺がその辺を考えても仕方ないけど。
問題はそれがそこにあるということだ。傍目には普段通りの景色にしか見えないから、桜居みたいな一般人がいくらカメラを回したところで見つかることはない。見つけるには、不自然や歪みを感じることのできる特殊な『勘』が必要となる。俺みたいにな。
そういった『勘』を持っている者、世界の事情を知っている者、または異世界人そのものが集まって創られたのが俺の職場――異界監査局ってわけだ。
表向きはいろんな社名を名乗っていろんな物を作っているグループ企業だが、裏の仕事(というと人聞きが悪くなるが)は主にいつどこに現れるかわからない『次元の門』の監視だ。
こちらからの行方不明者を出さないために、
あちらからの来訪者をお出迎えするために、
そして、異獣と呼ばれる怪物から人々を守るために、
俺たち異界監査官は人知れず戦っている。
で、今回はこの公立高校に門が開いたのだが――
「あー、悪い誘波。そろそろ電話切らしてもらうぞ」
『……来るようですね』
俺の声に真剣さを感じたのか、誘波のおっとり声も真剣味を帯びる。俺は後ろを振り返り、分解したカメラを必死に直そうとしている悪友に告げる。
「桜居、もう少し離れるかさっさと帰れ。俺としては後者をオススメする」
「な、なにを言うか白峰!」桜居は先生に不意に指名された生徒のように顔を上げ、「そこに異世界があるなら異界研部長として全てを観察する義務がある! いや寧ろ今すぐ異世界へダイブしたいところだ!」
それだけはやめてくれ。俺の責任になる。
「まあ、とりあえず危なそうだったら逃げろよ」
「優秀な異界監査官様がいるんだ。宝船に乗ったつもりで見物してるさ」
宝なんてないだろうがな、と思いつつ俺は前に向き直った。
花壇や池が並ぶどこにでもあるような中庭だ。昼ならば遠くに桜並木も望めるようだが、学校の制服が夏用に衣替えを始めるこの時期まで頑張って咲いている桜はない。
そんな俺たち以外誰もいない物静かな夜の学校の風景が、唐突にぐにゃりと歪んだ。
なにかが『次元の門』を通ってこちらへ来る前触れだ。
『確認です、レイちゃん』と携帯からの声。『〈言意の調べ〉は持ちましたか?』
「ああ」
俺はズボンのポケットから緑色の透明な玉がついたペンダントを取り出し、それを首から提げた。製品名〈言意の調べ〉。昔どっかの魔科学者が発明したアイテムで、二十二世紀のコンニャクみたいに言葉の通じない相手と意思疎通するための物だ。食えんけど。
『それとハンカチは持ちましたか? ティッシュは?』
待て、それはなんの確認だ?
『お財布もちゃんとありますよね? お弁当は忘れてませんか?』
「お前は俺のなんなんだ?」
『きゃ、レイちゃんってば恥ずかしいこと訊かないでください♪』
「ホントになんなんだ!?」
『冗談ですよー。レイちゃんの緊張を解いてあげたのです』
電話の向こうでクスクス笑う声が憎い。
『では、最後にもう一つ確認しますね。これから現れるものが〝人〟ならば対話。そうでなければ、わかってますね?』
当然。充分に承知している。
「そうでなければ、排除だ」
言うと同時に俺は通話を切り、携帯をブレザーのポケットに仕舞う。どうやら、誘波のくだらない冗談に付き合っているうちにお客様がいらっしゃったみたいだ。
「おお、おお、おおおおおおっ!」
今にも興奮という燃料でロケットみたい飛んでいきそうな桜居は放っておいて、俺は歪んだ空間から現れたものをじっと見据える。
そいつは水牛のような角を生やした二足歩行するトカゲだった。人間と変わらない大きさに堅そうな黒い鱗と夜闇に鈍く光る赤い両眼。いかにもモンスターですよと言わんばかりの容姿だ。
だがここで軽率な判断をするのは素人のすることだ。角トカゲさんだって、あんな姿をしていてもしっかりとした知能を持っていて友好的かもしれない。二本足で立ってるし。異世界を相手にするのだから〝人〟という定義に姿形は関係な――
キシャァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!
角トカゲが夜空に向かって咆哮したかと思えば、チーターもビックリな瞬発力で俺に飛びかかってきた。意思疎通不可。うん、これはつまりアレだ。
「異世界の獣……異獣で決定だな」
俺はさっと体を左に開いて角トカゲの突進をかわした。そのまま桜居を襲わせるわけにはいかないので、すれ違う瞬間に側頭蹴りを放つ。
真横からの衝撃に角トカゲは細い植木と激突する。メキっと変な音がした植木は衝撃に耐えられずポッキリと折れてしまった。他校の物を破壊してしまったのは申し訳なく思う。でもまあそこは誘波が後でなんとかするはずだ。
「キャー白峰くんカッコイイ!」
「黙れそこの変態!」
気色悪い声でエールを送る桜居はいつの間にかモニュメントの上に戻っていた。お前そこ好きだな。いっそのこと転校して住んだらどうだ?
角トカゲが起き上がる。今の蹴りは全然効いてないようで残念だ。
「白峰、そいつ倒したらオレがお持ち帰りしてもいいか誘波さんに訊いてくれないか?」
「ダメに決まってんだろ! 俺はこのトカゲを倒すためにここにいるんじゃねえよ。黙って見てろ」
俺は右手を軽く前に伸ばす。と、右掌辺りの空間が陽炎のように揺らめいた。
次の瞬間、なにもなかったはずのそこに二メートルくらいの細長い物体が出現する。殺生を目的としない直線棒状の武器――棍だ。
「ひゅー♪ 〈魔武具生成〉か。久し振りに見たぜ。なあ、今度オレにも教えてくれよ」
ウザったい声が降ってくるが黙殺する。これは俺を構成する要素にとある異世界人の血が含まれているから使える能力であり、魔力も持たない一般人たる桜居が全裸で逆立ちしたところでやれはしない。てか、お前には何度も説明したはずだろ。
俺は再び襲いかかってきた角トカゲの噛みつきを、体を捻って避け、そのまま遠心力を乗せた棍を豪快にスイングする。
ドガッ! と鈍い音を立てて角トカゲは面白いくらい吹き飛んだ。見た目よりも重量はないらしい。好都合だ。
棍を刺突に構える。石タイルの地面を勢いよく蹴り、また起き上がろうとする異獣との距離を数歩で縮める。
「さて、お帰り願おうか」
そして、疾駆の勢いを殺さないまま角トカゲの喉下に棍を突き刺した。
口から変な液体を吐き出して空中を砲弾のように飛んでいく角トカゲ。その行き先には歪んだ空間――『次元の門』が大口を開けて待っている。
「迷い込んだ異獣はなるべく殺さずに元の世界に戻してやる。それも異界監査官の仕事だ。キャッチ&リリースは釣り人だけのマナーじゃねえんだよ、桜居」
「いやはや、口は悪いくせに真面目だねえ、白峰は。お前みたいなんがいるから地球には魔法が発展しなかったんだ」
「いやそれ関係ねえだ――!?」
桜居のアホのせいで不覚にも余所見してしまった俺の体に、なんか粘々した生温かいものが巻きついた。一瞬なんなのかわからなかったがすぐに気づく。
――しまった! 角トカゲの舌か!
カメレオンみたいに伸びた舌でぐるぐる巻きされる俺。それだけなら断ち切ればいいが、当の舌の持ち主は現在進行形でぶっ飛び中。自然と俺も宙に浮いた。
「は? いや、ちょっと待て……」
このまま引っ張られるのは非常に不味くないか? 行き先は当然『次元の門』だ。というか、角トカゲ自体はもう門の向こうにいて姿が見えない。どんだけ伸びているんだこの舌は――ってくだらないこと考えてる場合じゃない!
まあ結論として、打開策なんて考えている暇はなかった。
身動きの取れない俺がなすすべなく異世界へと引きずり込まれてしまうのは、この時には既に決定事項となっていたのだから。