序章
暗黒が世界を覆う。
家も、道も、街灯の明かりさえも闇色に染まっていく。霧状だったり液状だったりと、形の定まらない混沌とした闇が這うように全てを喰らっていく。
まるで物質化した影だけになったような路地に、四つの悲鳴が重なった。それは広がる闇の発生地付近から響いてくる。
悲鳴を発したのは、二人の少年と二人の少女だった。どこかの中学校の制服を着ている彼らは、一様に表情を恐怖で引き攣らせている。四人が瞠目して凝視しているもの、それは陽炎のように歪んだ空間――その中心を縦に切り裂いたような楕円形の〝穴〟だった。
〝穴〟の奥はドロドロの血液を思わせる闇が蠢いており、それが零れ落ちる度にこちら側の黒い侵蝕が進んでいく。
と、空間の〝穴〟を押し広げるようになにかが突き出してきた。それは全身真っ黒な、鬼のように太く筋肉質な両腕である。つけ根は見えない。突き出た腕は、足を竦ませる四人の内、手前にいた男女をそれぞれ掴み取った。
「広瀬先輩! 望月先輩!」
捕まらなかった背の低い少女が二人の名を叫んだ。もう一人の少年が彼女の横を駆け抜けて二人を助け出そうとしたが、簡単に振り払われてしまう。
潰さない程度に握力を配慮した腕がゆっくりと〝穴〟へと引き上げ始めた。必死に救出を試みる二人に、腕に捕まった二人が悲鳴混じりに「逃げて!」と叫ぶ。だが、このような異常事態にも関らず助けようとする二人はもちろん、捕まった二人も他人を見捨てられるほど割り切りのいい性格はしていなかった。
しかし力は及ばない。助けようとした努力も虚しく、腕に捕まった少年と少女は蠢く闇の中へと消えていった。
残された二人は絶望感に脱力し、膝を折った。このままここに留まれば自分たちも周囲と同じように黒く染められてしまうのかと思ったが、生物には抵抗力でもあるのかそうなる気配は今のところない。
だからといって、自らあの〝穴〟へと飛び込む勇気も二人にはなかった。入ることは命を捨てることだと、本能が語りかけているからだ。
放心した二人がその場を動けないでいると、再びあの腕が〝穴〟から出現する。大切な友人たちを奪われた彼らは、抵抗の意思も見せないまま無残にも捕らわれてしまう――はずだった。
ザン! と、唐突に両腕が手首から先を同時に斬り落とされた。ぼとりと地面に落ちた手首が空気に溶けるように霧散する。
「チッ。二人ほど持っていかれちまったか」
「あらあら、これは監査官として大きな失態ですねぇ」
なにが起こったのか理解できずにいた少年と少女の前に、一組の男女が現れた。
男は三十代半ば辺りと思われ、鍔広の黒い帽子を目深に被り、漆黒のマントのようなロングコートを羽織っている。女は少女と呼べる見た目で、色鮮やかな十二単を纏ってどういうわけか宙に浮かんでいた。
「とりあえず、次が出てくる前に早く〝穴〟を閉じちゃってください。これ以上異界の侵蝕を受けると元に戻せなくなっちゃいますし」
「俺に指図すんじゃねえよ」
黒ずくめの男はぶっきら棒に言うと、〝穴〟に向かって手を翳した。すると、幾本もの黒い糸が彼の掌から伸長し、絡み合うそれが〝穴〟を縫うようにして塞いでいく。
縫合作業が終了し、空間の歪みもなくなったことを確認した男が少年たちに振り返る。
「立て、ガキ共。いつまでそうしているつもりだ」
先に正気づいたのは少年の方だった。
「な、なんなんだ、あんたらは?」
「それが知りたいなら黙ってついてこい。アレと遭遇しちまった以上、てめえらは既に一般人じゃねえんだ。断るっつうなら両手両足を圧し折ってでも連れていくぞ」
男の乱暴な言葉よりも、帽子の下から覗く刃のような鋭い目に二人は射竦められてしまった。男の横から邪のない笑顔を向けてくれる天女みたいな少女がいなければ、恐怖に震え上がって頷くことさえできなかっただろう。
「てことはクロちゃんが彼らを教育するんですか? 不良にならなければいいのですが」
「黙れ、面倒臭えことにそれが俺ら影魔導師のルールなんだ。あと妙なあだ名で呼ぶんじゃねえよ、気色悪い」
心底嫌そうな顔をする男を無視して、十二単の少女が二人を安心させるようにしゃがんで目線を合わせる。
「途中で気が狂って暴れられても困りますし、心を落ち着かせるためにも少し眠っていてくださいね。――〈眠風〉」
青色の風が、少年と少女を優しく包み込んだ。