二章 異世界サバイバル生活(3)
失念していた。
俺は生まれも育ちも日本だから、普段から当たり前にやってることになんの疑問も抱いていなかった。母さんにやらされたサバイバル訓練でも学んだはずなのに、その場のノリとテンションとはかくも恐ろしきことかな。魔物肉のクソまずさに辟易していたせいもある。
ここが異世界だってことをちゃんと念頭に置くべきだった。
ルウに「しっかり焼いて固めて食べないと食った気しねえだろ」と言われて気づいた。
卵を生や半生で食べるのはやめましょう。
ゴロゴロゴロゴロ。
雷の音じゃないぞ。俺の腹の音だ。悪い意味での。
「卵……危険……卵……危ない……危険が、危ない……」
バグったテンションのまま温泉卵を食してしまった俺は、見事腹を壊してしまったんだ。普段のストレスで鍛えられた胃でも、『蛇蝎の魔王』との戦いで身に着けた毒耐性でも、細菌までは完全に防ぎ切れなかったらしい。
「わはははははっ! 卵で食あたりするなんて馬鹿だな零児!」
「ふふっ、寧ろ腹痛と下痢だけで済んでいるところは流石わんこさんと言うべきかしら?」
外の岩陰に作った簡易トイレで延々と唸っている俺に、ルウは腹を抱えて笑い転げ、望月は嗜虐的な嘲笑を浮かべていたよ。こんにゃろめ……。
「望月先輩、気づいていたなら言ってくださいよ!」
「だって黙っていた方が面白そうでしょう?」
「あんた本当に味方か!?」
肝心なところで便意の波が襲って来たらどうするんだよ。いや、頭空っぽになって温泉卵を食べちまった俺の全責任なんだけどね。
「レイジ臭い。後処理ちゃんとしとけよなー」
「じゃあ頑張ってね、わんこさん♪」
二人の足音が洞窟の方へと遠ざかっていく。ルウなんて絶対に鼻摘まんでただろ。薄情な奴らめ。いや、このまま居座られても困るけどね。
でもまあ、確かにこの程度で済んでよかったとは思うよ。普通なら異世界の病気に対して免疫力なんてゼロに等しいはずだ。異界監査局の仕事でいろんな異世界に間接的でも触れていたからか、それとも魔王化の影響か。魔王なら全状態異常無効な体になってほしかった。
「はぁ……やっと落ち着いた。もう当分卵は食いたくない」
ようやく波が収まってアジトの洞窟に戻る。自分でもわかるくらいげっそりしてるよ。
「ん?」
ランタンの明かりに照らされた洞窟内では、望月とルウがそれぞれでなにかの手作業を行っていた。
大岩に腰かけた望月は、水でも掬うように合わせた両手の上で球根状の影をくるくる回している。暇すぎて手遊びしてんのかな?
地べたにペタンと足を広げて座っているルウは、うんしょうんしょ、と。なんかの木の実と葉っぱを石で一生懸命に磨り潰しているっぽいぞ。料理……じゃなさそうだ。
「二人とも、なにやってるんだ?」
入口に近い望月の方へ歩み寄ってみる。すると、望月は掌で作っていた影の造形物を掴んで隠しやがった。黒セーラー服の、胸元に。
「あら、気になるの? ふふっ、わんこさんのエッチ♪」
「なんでだよ」
口元に人差し指を当てて妖艶に微笑む望月は、聞いても答えてくれそうにないな。別にいいか。どうせ手遊びを見られてバツが悪いんだろ。
「ルウはなにを作ってるんだ?」
小さなお手手で作業しているところを横から覗き込む。木の実と草を磨り潰した液体をコップに溜めているようだ。
「ああ、こいつかー? これはなー、あたしの暮らしてた村に伝わってた薬だ。材料は違うけど、似たような匂いがするものを選んだから効果もだいたい一緒のはず」
「へえ、なんの薬だ?」
訊くと、ルウはにぱぁと笑顔になってコップを俺に差し出してきた。
「腹痛だ! ほら、レイジ飲め!」
「え?」
ルウは俺のために薬を作ってくれていたってことか? 思わず流れで受け取ってしまったが、コップの中身はちょっとグロくてえぐい臭いのする緑色の液体がたぷたぷしているよ。これを飲めと? 大丈夫なの?
落ち着け俺。温泉卵と同じ失敗はするものか。今度は冷静に。
「本当に大丈夫なのか? 異世界の腹痛だぞ? 薬もよくわからん異世界の材料使ってるし。症状に合ってるのかどうかも……」
「知らん! ぐだぐだ言ってないで飲めばわかる!」
「えぇ……」
ぴょんと立ち上がったルウは自信満々に胸を張った。尻尾をぶんぶん振り回している。飲め飲めと目が訴えてるよ。
これはもう、飲むしかない。
「ええい、ままよ!」
俺は一気にコップの中身を口に含み、なるべく味を感じる余裕も与えずごくりと嚥下した。飲んでから口の中に苦味が広がる。良薬は口に苦しとは言うけれど、本当に効くんだろうか?
「どうだ、レイジ?」
「そんな即効で効果が出るもんなのか?」
「さあ? あたしはお腹壊したことないからなー」
ますます不安になってきたぞ。そもそも今は波が収まっているから、効果があるのかどうかもわからない。しばらくは様子見だな。
俺が洞窟の壁にどかっと腰を落としたその時――バッ! と。望月がどこか焦った様子で大岩から飛び降りた。
「望月?」
目を見開いていた望月は、長く息を吐いて自分を落ち着かせると、どこか不敵な笑みで唇を歪ませる。
「わんこさん、ルウちゃん、魔王を監視していた私のペットたちがやられたわ」
「なに?」
それはつまり、魔王が動きだして望月の監視に気づいたってことだ。
「どっちだ?」
「どっちもよ」
この世界には二体の魔王がいる。両方動いたということは、再びこの世界に大地を削り燃やす戦いが勃発することになる。
「恐らく私たちの居場所も特定されたわ。逃げる暇はない。奴らは一瞬でここまで来るはずよ」
世界を渡る次空艦なら、同じ世界を転移するくらいわけないだろう。のんびりしている暇はなくなった。戦うにしても逃げるにしても体勢を整えて――ッ!?
「この魔力は……」
俺は慌てて洞窟の外に駆け出る。暗く荒れた海の上空に、見覚えのある巨大戦艦が浮遊していたんだ。
マリア像のようなオブジェクトを船首に取りつけ、黒太陽の連合旗とは別に白い太陽を背負った女性が血の涙を流しながら祈っている旗を掲げたそれは――『贖罪の魔王』エルヴィーラ・エウラリアの艦だ。小型の戦艦も無数に追従している。まさか、こんな小島に全戦力で攻め込んで来たってのか?
そういえば俺の旗のデザイン決めてなかったなー、なんて現実逃避したくなるくらい絶望的な状況だ。
「あっ、やばい」
巨大戦艦を中心に乳白色の光が広がる。攻撃じゃない。ドーム状に広がった光は、俺たちのいる小島をまるまる包み込みやがった。
結界だ。
「こいつはどうやら……」
「ふふっ、逃げられなくなっちゃったみたいね♪」
「……がるるぅ」
俺は右手に日本刀を生成し、望月は影の刀を両手でそれぞれ握り、ルウは全身の毛を逆立てて威嚇する。
スローライフなサバイバルは、終わった。
ここからは、戦場での生き残りにシフトする。