間章(1)
伊海学園から十数キロメートル離れた丘の上。
『王国』が執行騎士――〝剣神〟カーイン・ディフェクトス・イベラトールは、双眼鏡を構えて学園の様子を監視していた。
カーインたちが日本に渡ったのは数日前である。しかし、即座に監査局へと攻め込むような真似はしなかった。魔王の力を得た白峰零児と、〝魔帝〟の力を覚醒したリーゼロッテ・ヴァレファールがどれほどの脅威か見定める必要があったからだ。
とはいえ、日常において彼らがその力を使うような場面は滅多にない。故に時間だけが過ぎ去り、こうして未だ攻めあぐねている状況だった。
もっとも、今回この丘へと赴いたのには別の目的がある。
「ふっふふ~ん♪」
すぐ傍から機嫌のよさそうな鼻唄が聞こえてきた。カーインが双眼鏡を下ろして横に視線をやると、そこでは白布の少女が四つん這いになってなにかを探していた。
「ゼクンドゥム、一体この場所になにがある?」
「キヒッ、まあ待ってなよ。すぐにわかるからさ」
白布の少女――ゼクゥンドゥムは勿体ぶるようにそう言うと、お尻をふりふりさせて草むらを掻き分けていく。裸身に白い布を巻いただけの姿であるため大変危険なポージングだが、カーインが彼女に対してなにかを思うことはない。
引き続き学園を監視する。
本当ならもう少し近くから行いたいのだが、これ以上近づいてしまうと法界院誘波の索敵圏内に入ってしまう。学園を中心とした、街全体を覆うように風の結界が張られているのだ。指先一つでも触れてしまえば即座に居場所が割れてしまうだろう。
カーインたちの任務は、学園に軟禁されている『王国』の第六柱執行騎士――〝影霊女帝〟望月絵理香を救出することである。彼女が捕らわれてから数ヶ月間放置していたのは、単純に再び日本異界監査局へ戦いを挑むための戦力が整っていなかったこともあるが、もっとわかりやすい理由があった。
優先順位が低かったのだ。
異界監査局が望月絵理香を即座に処刑するつもりだったのなら、動いただろう。が、そうではなく『王国』を誘い出す餌として生かしているのだからわざわざ罠に嵌ってやる道理はない。それに長期の軟禁で望月絵理香が有用な情報の一つでも握ってくれれば儲け物である。
逆にこちらの情報が渡ってしまう心配はしていない。第六柱以降の新参の執行騎士に伝わっている情報程度であれば、せいぜい混乱を招くだけだからだ。
「あったあった。境界線見っけ♪」
すると、獣のように地べたを這っていたゼクンドゥムが楽しそうに笑いながら起き上がった。それからカーインを振り向き、白く細い指で正面の山頂を示す。
「見てよカルトゥム。ここから先、向こうの峰まで全部幻だ! すごいね! これほどの規模の『質量ある幻』をずっと維持してるなんて! 流石は日本監査局!」
「〈現の幻想〉とやらか」
「うん、この辺りは先日現れた魔王が魔力砲でもぶっ放したんだろうね。ごっそり消し飛んでるよ。やっぱりかなり高位の魔王だったみたいだ。キヒヒッ、どうやら〝王様〟の予知は当たっちゃいそうだよ」
なにが楽しいのかカーインにはさっぱりわからないが、ゼクンドゥムは踊るように両腕を広げてくるくると回った。
「だが、なぜ傷跡が残っている? 〈異端の教理〉の中で行われた破壊は白峰零児が修復したと聞いた」
「全部は無理だったんだよ。制御を奪うなんて普通じゃないやり方だったみたいだし、なによりあのお兄さんは魔王初心者だもんね」
この数日間でカーインたちはただ監視を続けていたわけではない。この地に現れたという魔王の情報を可能な限り集めていたのだ。
「それをわざわざ確認してどうするつもりだ?」
「利用価値がある。上手く使えば捕らわれのお姫様をすんなり助け出せるかもね♪」
捕らわれのお姫様とは言うまでもなく望月絵理香のことだ。『お姫様』などという可愛いイメージなど微塵もないが、カーインは特にツッコミを入れることもなく話を続ける。
「策があるなら従おう。決行はいつだ?」
「もう少し待った方がいい。あのお兄さんや〝魔帝〟ちゃんが都合よく修学旅行とかいうのでいなくなるからね。カルトゥムだって、できれば弟子とは鉢合わせたくないでしょ?」
「……」
銀髪の少女がカーインの脳裏に浮かび上がるが、すぐに瞑目してその映像を霧散させる。
「あちらが邪魔をされれば、〝影霊女帝〟の救出どころではないぞ」
「うん、それはわかってる。だから決行は向こうの経過を聞いてから――」
ゼクンドゥムが言いかけたその時、どこからともなく無機質なコール音が響いてきた。どうやって仕舞っているのか、ゼクンドゥムは白布の中から小型通信機を取り出す。
「キヒッ、噂をすればってやつだね」
愉快げに笑ってゼクンドゥムは通話ボタンを押した。邪魔にならないようカーインは数歩後ずさる。
「やあ、クィントゥム。丁度こちらから連絡しようと思っていたんだ。首尾はどうだい?」
『順調だ。そちらはいつ頃合流できそうだい?』
スピーカーモードにしているのだろう、通信機からは若い男性の声が聞こえた。クィントゥム――執行騎士の第五柱である〝虹閃剣〟は、カーインたちとは別行動で任務に当たっている。
ただしそれは望月絵理香の救出作戦ではない。
どちらかと言えば、カーインたちの方が今回日本で行う任務の『ついで』に過ぎないのだ。
「それを今から決めるつもりさ。まあ、順調ならそのまま予定通りに進めていいよ」
『了解した。しかし、この美しい古都が火の海に呑まれる光景は見たくないものだな』
「それは君たちの努力次第かな。ゼロスの情報によると、日本だとそこが一番適した環境らしいからね。上手いこと〝魔帝〟ちゃんたちも釣れたし、経過は上々ってところか」
カーインたちが日本で進めている計画には〝魔帝〟リーゼロッテ・ヴァレファールの存在が重要な意味を持つ。だが、スヴェンのように捕えてどうこうしようというわけではない。
監査局との戦闘も無用だ。可能ならば避けたいところだが、そういうわけにもいかないだろう。
『おーい、白いの! お前らもさっさと終わらせてこっちに来いよ! 美味いもんいっぱいあるぜ!』
と、通信機から溌剌とした少女の声が聞こえてきた。
「その声はセプティウムかな? また任務をサボって食べ歩きでもしてるの?」
セプティウム――執行騎士の第七柱である〝拳狼〟は〝虹閃剣〟と共同で今回の任務にあたっている。実力はあるが、誰かが手綱を引いていないと勝手な行動ばかりするじゃじゃ馬だ。
『おう! 食べ歩きながら仕事してるぜ! 飯も美味いし菓子も最高だ! あのなんだっけ? 三角形で甘い……そうそう、ヤツハシってやつ! めっちゃ美味かったから買い占めて〝王様〟への土産にしようぜ!』
「ふぅん。ボクにとってのご馳走は人間の悪夢だけど、売ってる?」
『んなもんあるわけねーだろー。食いもんの味がわからないなんて勿体ねーなー』
「わからないわけじゃないよ。興味がないだけさ」
『余計損した生き方してんなー。まあいっか。んじゃあ、あたしらはパパっと終わらせて美味いもん巡りしてるわー』
『待て、オレもそれに付き合わされるのか?』
『いいだろー! 奢れよー! ケチケチすんなよー!』
そこでプツリと通信が一方的に切られてしまった。セプティウムが駄々を捏ね始めたら手綱役のクィントゥムも落ち着いて報告などできないだろう。
それでも、一番確認したいことは聞けた。
「キヒヒ、向こうは向こうで楽しそうだね」
「油断していなければよいがな」
一抹の不安は残るものの、あの二人に任せておけば問題はないだろう。カーインとゼクンドゥムは静かに踵を返し、目の前に出現した白い空間の中へと消え去った。