五章 千の剣(2)
世界が暗転した。
元々俺たち以外は真っ暗闇だったわけだが、それでも空間全体が黒く染まったのだと本能で理解した。
どうしてこうなった?
なにを間違えた?
あるいは、まだ俺は選択を継続しているのかもしれない。
背中に冷たい感触。唐突に光が瞼の裏まで照らし、俺はゆっくりと目を開いた。
寒い。ここは俺の精神世界だというのに、現実と変わらないくらい五感がしっかり働いているんだ。
視界に映るのは、青く澄み渡った空と、高く聳える針葉樹。傾斜の地面を真っ白に染め上げているのは……雪だな。
なるほど、今度は雪山ってわけか。
どこの、なんてわからない。たぶん俺がテレビかなんかで見た映像を精神世界で再現しているんだろう。〈現の幻想〉と似たようなもんだ。ここは雪山であって雪山じゃない。ひたすらに現実的で、けれどあくまでも仮想のフィールドに俺の意識は投げ出されている。
安穏とはしていられない。
奴が来る!
「チッ!」
気配を察知して俺は転がるように雪の斜面を駆け下りた。次の瞬間――じゅっ。背後からなにかが蒸発するような音が響いた。
「ぐおっ!?」
強烈な熱風に晒されて本当に斜面を転がり落ちる。背中どころか全身が炙られるように熱い。周りの雪がみるみる解けて水となり、その水もあっという間に帰化して天へと昇った。
灼熱を浴びて一瞬で萎びた枯れ木になった針葉樹の根元に激突して俺は停止する。摂氏百度以上。普通、人間なんて生きちゃいられない。それでも『死ぬほど熱い』で済んでいるのは、俺が魔王化して特別になってしまったのか、それともここが精神世界だからか。
そういう問答は最初に結論を出した。意味がない、と。
「……無茶苦茶だろ」
振り向く。
蒸発していた。
雪が、ではない。
俺がさっき瞼を開いた場所――から山頂までの全てが。
どこの雪山かは知らないが、標高は軽く富士山を超えているだろう。周囲の景色に見える山々から推察するに、蒸発したのはその約半分ほどだ。
隕石が落ちてもこうはならない。
消失した山岳には黒い炎が残り火として燻っている。アレが、喰らったんだ。焼き尽くした――などという可愛い表現なんて使えないくらい残酷に、無秩序に、圧倒的に。
「逃げ回るだけでは、我を屈服させることは叶わぬぞ」
次が来る。
悪魔のような四枚羽を広げて上空に浮かぶ金髪黒衣の美男子が、赤い瞳で俺をロックオンして掌を翳す。
俺は咄嗟に大剣を生成し――
「学べ、白峰零児。我が黒炎は万物を喰らう。そんな玩具で防ごうなどとは片腹痛い」
轟ッ!!
火山の大噴火を思わせる黒炎の奔流が俺の頭上へと降り注ぐ。俺が生成した大剣など音もなく焼滅し、俺自身の体も劫熱の闇に蝕まれる。
大地を溶かし、地殻を喰い破り、マグマすら蒸発させ、黒炎は星の核さえも難なく貫く。
「お前自身――『人間』の魔力で生み出した武具など脆いと知れ」
燃え尽きつつある俺の耳に冷淡な声が響く。
「既に知っているはずだ。使えるはずだ。お前自身が取り込んだ、お前ではない力を」
最後に放たれた言葉を耳にした直後、俺の意識は再び暗転した。
それが、九百三十回目の消滅だった。
「――って勝てるかぁあッ!?」
意識が戻るや否や、俺は今の心情を思いっ切り叫び散らした。
冗談じゃねえ。比喩なしで星を砕く大火力をどうやって防げって言うんだ。俺がなにを生成しようと全く無意味じゃないか。無理ゲー過ぎる。これが魔王……いや、〝魔帝〟の本来本気の全力全開だって?
「ふざけんなよ!? 生身で核ミサイルを相手にしてる方がまだマシだ!?」
あれから何回殺された? 正直、千回を超えた辺りからもう回数なんて覚えちゃいない。気が狂いそうな『消滅』の連続だ。
だが、不思議と精神が擦り切れているようなことにはなっていない。次に目が覚めた時にはまるで夢か、もしくは画面の中の映像を見ていたような客観的な感覚になっている。
これならいっそ壊れた方が楽なんじゃないかってほどに……。
「それはまだ難しいだろう」
目の前に瞬間移動したかのように現れた金髪美男子――アルゴス・ヴァレファールが俺の心を読んでそう答えた。
「我も所詮はお前の精神世界の一部だ。わかりやすく言えば、お前は自分で自分が消滅する妄想を繰り返しているだけに過ぎない」
「それはそれで危ない奴に聞こえるな俺!?」
最初は宇宙空間のような暗闇だった。次は俺が住んでいた街。その次はメキシコ的な風景の荒野。深い森。海に浮かぶ孤島。砂漠のど真ん中。月面なんてパターンもあった。
今回はなんだ? だだっ広い空間だ。奥にある玉座のような椅子まで赤い絨毯が引かれている。天井には光球を密集させたような魔法的シャンデリア。ちょっと寂れてるけど、全盛期は絢爛豪華な王城だったんじゃないかな。
見覚えはある。なにせ今までの全ては俺の記憶の再現だ。ない方がおかしい。
ここは異世界『イヴリア』――リーゼの住んでいた魔帝の城だ。
「今度は、いきなり攻撃してこないんだな?」
警戒し身構える俺に、アルゴスは肩の凝りでも取るように軽く首を回し――
「我も千五百回ほど仮想の星を破壊してから気づいたのだ。これではワンパターンだと」
「もっと早く気づいてほしかったね!?」
だって俺は今まで見た景色を五分と堪能したことがないんだぞ。毎回毎回、速攻で頭上やら正面やらから馬鹿みたいな出力の黒炎が放たれて視界を埋め尽くされた。
考える暇もない。
だからこそ、千五百回以上の『死』が嘘のように感じているのかもしれないが。
「実際に魔王が最初から直接世界の破壊を始めた場合はどうする? お前の力では守れなかったことになるぞ? まあ、快楽主義の魔王たちがそうすることなど滅多にないが」
「滅多にないならやるなよ! 不器用か!」
こいつ、本当に俺を助ける気があるのか?
「勘違いをしているようだから言うが、これは対魔王戦の修行ではない。故に我はお前に対し手加減をする必要がない。この精神世界は外の時間とは隔絶されている。このまま消滅し続けることを望むのであれば、お前の心が本当の意味で死するまで、我は何万何億と付き合っても構わぬぞ」
ゾワリ、と背中に嫌なものが走った。
アルゴスは本気だ。本気で俺を殺しにかかっている。何度も繰り返すことを知っていて、無限の破壊をなんの感慨もなく実行する。
「だが、そうなるとお前はもはや『人』ではない。破壊だけを求めて彷徨い、やがて狩られることになる名もなき『獣』と化すだろう」
正直、恐ろしいと思った。
俺が『獣』に成り下がることもそうだが、この強大無比の魔王を屈服させなければならないなんて……いくらこちらでの時間経過が外では一瞬だったとしても、どれだけ手古摺るからわかったものではない。
何百年か、何千年か、何万年か。
絶対に無理だ。そんなの先に精神が死滅する。
俺が、今のままならな。
「お前は選択した。ならばその選択を遂行せねばなるまい。弱音を吐くな。諦念は捨てよ。今までのお前ではない。今のお前が引き出せる全力を賭して我にぶつけるがよい」
アルゴスの足元から黒炎が螺旋を描きながら立ち昇る。それは城の天井を貫き、闇夜の空をより黒く塗り潰していく。あんなのが落ちればまた一つ世界が消滅するぞ。
でも、ここまで来ればわかっちまうな。
アルゴスは手加減をしていないわけじゃない。
やっぱり、ただの不器用だ。
「まったく冗談じゃない」
レランジェが言っていた。アルゴスはイヴリアを滅ぼす前に一度統一している。結果的に世界の支配者としての才覚がなかったせいで滅んじまったが、不器用なりにネクロスみたいな『普通の感性の魔王』とは違うことをやっていた。
それでも意味のないことはやらないはずだ。だからこいつが俺の中になにかが眠っているって言うのなら、それは真実に違いない。
「俺の中の……今引き出せる全力」
こいつの、〝魔帝〟の力を使えってことなのか?
そんなの……いや、俺はそのやり方を知っている。
リーゼを通して何度かやってのけたじゃないか。混沌に染まった森の奥で望月絵理香と対峙した時。戦争を仕掛けてきた『王国』の総大将だったカーインに一撃を叩き込んだ時。
俺は、黒炎を俺の力として使っていた。
「ああ、そうか。お前も、『俺』だ。ここにある全てが、俺の物なんだ」
だから、俺が本気で望みさえすれば全てが叶う。そうだ。これは妄想だと奴は言った。俺があいつに負け続けるドMな妄想はもうやめてしまえ。
「そろそろ勝たせてもらうぞ、アルゴス・ヴァレファール」
魔武具生成――魔帝剣ヴァレファール。
これで終わりじゃない。こんなものはまだ借り物に過ぎない。俺はこの先を引き出す必要がある。
「うぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッッッ!!」
魔力を高める。黒炎じゃない。そんなものはただのオプションだ。踏み台だ。俺が俺として在るべき剣として、無限とも言えるこの力を昇華させる!
お手本は、『魔王』としての俺が見せてくれたじゃないか。
「そうだ。それでよい」
満足そうな、アルゴスの声。
壁も天井も床もなにもかもを斬り飛ばして、俺の周囲に無数の刀剣が生成されていた。全ての剣尖が上空を埋め尽くすアルゴスの黒炎へと狙いを定めている。
「さあ、我が『黒き劫火』を喰らえ! 衝動を呑み込め!」
上空の黒炎が降り注ぐ。地上からは俺の剣が迎え撃つ。
「開花せよ! 『人』の心を持った、やがて〝魔帝〟となる新たなる魔王――」
アルゴスは、〝魔帝〟を冠する最強の魔王は、感極まったように両腕を広げて高々とその名を告げる。
「『千の剣』よ!!」
その魔王名は不本意にもあらゆる次元に広まってしまうのだが、それはこれからの戦いを切り抜けたもう少し先でのことである。