一章 勇者の凱旋(6)
目の前の大男が眉尖刀を高々と掲げる。俺の命を断つ凶器が日光を浴びてギラリと光る。
「遊び過ぎはよくねえからな、そろそろ終いだ」
一切の慈悲もなく振り下ろされる、人間の眉のように湾曲した刃。
――壊せ――
それを、俺は受け止めた。
左手で、刃を掴むように。
「……なんの真似だ?」
ウン・リョークは冷静に、しかし少しの苛立ちを孕ませた口調で『動いてしまった』俺に言う。眉尖刀の刃を受け止めた掌からどくどくと血が流れているが、まあ、なんのことはない。こんな程度じゃたいした痛みも感じないな。
――壊せ――
「見ず知らずの他人よりやっぱりテメエの命の方が大切だってか? それはしょうがねえ。生物ってのはそういうもんだ。だが、テメエが余計な真似したせいで人質の誰かが死ぬことになっちまうが……いいんだな?」
ここで謝れば許してやる、そんなチャンスを与えるようにウン・リョークは確認してくる。人質か。俺がこいつらに抵抗すれば誰かが殺されるんだったな。
「それがどうした?」
「――ッ!?」
ゾクリ。そんな悪寒でも走ったのか、ウン・リョークは表情を急激に焦らせて俺から飛び退った。
本能的な行動だろう。咄嗟だったため手放された眉尖刀を――バキン! 俺は左手の握力だけで砕き折った。
「な、なんだ? こいつ、さっきまでと様子が……?」
恐怖に引き攣った顔。リーダーであるウン・リョークの恐れが周囲にも伝播したらしいな。強盗仲間はもちろん、人質の一般人までも俺を見て震え上がっている。
不思議だな。こんな状況なのに、なぜかいい気分だ。怯えているやつを見れば見るほど、俺の中で力が膨らんでいくような感覚さえする。
最高だ。
「テメエ、なんで……笑ってやがるんだ?」
笑う? 俺が?
自分でも気づかなかったよ。俺が一歩近づく度にウン・リョークは二歩後ずさる。なるほど、ガタイのいい強面野郎が怯えきっている様は確かに滑稽だ。
「ハハハ! おい、なんで逃げるんだ? かかってこいよ、楽しめねえだろ?」
「そ、それ以上近づくんじゃねえ! くそっ! 誰でもいいから人質を一人ぶっ殺せ!」
「で、ですが……」
ウン・リョークは勢いのまま指示を出すが、狼狽し切った強盗仲間は本当にやっていいのか迷ってるみたいだった。
――くだらない。
「どうした? 殺りたきゃ殺れよ。できねえのか? 人を殺すのが恐いか? ハハハ! 覚悟もない小悪党が人質なんてつまらねえ真似をするからだ。なんなら俺が――」
言いかけた時。
唐突に俺の背後から衝撃が襲いかかってきた。
「おぶっ!?」
吹っ飛んだ俺の体が砲弾となってウン・リョークに激突して跳ね飛ばし、気づいた時にはまたも警察車両を陥没させていた。
体中に激痛が走る。俺を吹っ飛ばした犯人は言うまでもなく、今の今まで俺がいた位置に掌底を構えて立つ赤髪の少女だった。
「な、なにしやがんだ悠里!?」
叫んで、ハッとする。
さっきまで、俺は一体なにをやってたんだ?
「あなた、今、なりかけていたわよ」
「……へ?」
悠里が今まで見たこともない冷徹な瞳を俺に向けていた。なりかけていた? なにに? あっちでなぜかノビているウン・リョークに殺されかけたところまでは覚えてるんだけど……。
いや。
思い出す。声が聞こえていた。外からじゃくて内――俺の中のどこか深い場所から、あの時と同じ声が。
怨嗟や嚇怒や強欲。人間が持つあらゆる負の感情を凝縮したような抗い難い破壊衝動。
リーゼを狂わせ、俺が奪って抑え込んだ――と思っていた特殊で強大な魔力。
「俺がなりかけていたのは、『魔王』か?」
段々と思い出してきた。俺は、目の前の敵だけじゃなくてなんの関係もない一般人までも危険に晒そうとしていた。
俺自身の手で『殺す』と言いかけていた。
「危なかった。悠里、助けてくれてありがとな」
「助けたつもりはないんだけど。でも、やっぱりあなたは危険だわ。なんとかしてあなたの中にある『魔王』を排除しないと……」
悠里は顎に手をやってなにか考え始めた。それにしても、俺じゃなくて『俺の中の魔王』を排除、ね。
「なによ? ニヤニヤしちゃって?」
「いや、俺を殺せば簡単な話だってのに、もうその選択肢は消えたのか?」
「あなたが完全に魔王化したらそうさせてもらうわよ」
救える余地が微塵でも残っているなら、たとえ絶望的な可能性でもそっちの道を選ぶってことだな。考え方が本当に勇者だよ、悠里は。
と――
「なにをごちゃごちゃくっちゃべってやがんだテメエらぁあッ!?」
気絶から回復したらしいウン・リョークが怒りのまま叫んだ。
「もういい! テメエら人質全員ぶっ殺せ!!」
気が狂ったとしか思えない命令を飛ばすウン・リョークだったが、仲間からの返事はおろか銃声一つも聞こえなかった。
当然だ。もうお前の仲間は命令に従える状態じゃないからな。
「すまないが、人質は解放させてもらったぞ」
「制圧安定です」
凛とした声と、淡々とした機械的な声。
「あぁ?」
訝しむウン・リョークが見た先には、強盗仲間を一人残らず叩き伏せた銀髪の騎士とゴスロリのメイドの姿があった。
本来俺たちの代わりに来るはずだった異界監査官――セレスとレランジェだ。
「零児、無事か?」
「ああ、なんとかな。増援に来てくれて助かったよ」
「悠里様が光速で動けば、レランジェたちが人質を解放するより安定でしたが?」
「……あっ」
レランジェに言われて気づいた。そうだよ。悠里がいるんだから人質とかあっという間に救えたはずだよな。
なにやってんだよ、という視線を悠里に向けると、
「あなたをどうにかする方が先決だったのよ。下手に魔王の力で暴れられたら人質解放とかやってる場合じゃないもの」
俺のせいだった。
「チッ、新手の監査官か!」
忌々しげに舌打ちし、ウン・リョークが大きく息を吸い込む。
――咆哮が来る!
「テメエら全員、ぶっ飛びやがれぇえええええええええええええええええええええッッッ!!」
ゴォオオオ!! と迫り来る極大化した声の衝撃波。俺は咄嗟に腕をクロスさせて防御態勢を取った。
そしてその時には既に、そこにいたはずの悠里が消えていた。
音速をかわして飛び上がっていた悠里は、一瞬でウン・リョークの懐に入り込み――
「あなたもいい加減に諦めなさい!」
「こいつ、声を避け――」
強烈な掌底の一撃を顎下から叩き込んだ。脳を激しく揺さぶられたウン・リョークは綺麗な弧を描いて宙を舞い、地面に叩きつけられた後は白目を剥いて動かなくなった。あ、あれは流石にくらいたくねえな……。
「あなたが根っからの悪人ってわけじゃなければ、ちょっとは反省することね」
聞こえてはいないだろうが、悠里は大の字に倒れたウン・リョークの巨体を見下ろして語りかける。
「それでも懲りずにまた悪さするのなら、アタシが何度だって潰してやるわ」