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嘘告白の撮影係だったギャルだけが、翌日ちゃんと謝りに来た

作者: 白川 透
掲載日:2026/10/30

 放課後の教室に呼び出されたとき、話の中身にまったく見当がつかなかったと言えば嘘になる。


「檜山のこと、ずっと気になってた」


 宮下莉子は窓際の机に浅く腰かけて、上履きのつま先を揺らしながらそう言った。西日が宮下の髪の端だけを明るくしていて、俺はそこばかり見ていた。顔を見ると、何も言えなくなりそうだった。

 一年の頃、宮下とは三か月だけ席が隣だった。俺が授業中に小声で言うどうでもいい冗談に、宮下は毎回、声を殺して肩を震わせて笑った。先生の口癖を数えていたとか、黒板の「最適」が「最低」に見えるとか、本当にどうでもいいことばかりだった。好きになった理由はそれだけで、俺にはそれで十分だった。

 帰り道はどうするんだろう、と考えていた。駅前のたい焼き屋の前を通るか、川沿いを行くか。宮下は甘いものが好きだと前に言っていたから、たい焼きの方がいいかもしれない。返事もしていないうちに、俺はそんなことまで考えていた。


「俺も、宮下のこと、いいなって思ってた」


 声は少し上ずった。それでも、言い直そうとは思わなかった。言い直したら、嘘が混ざる気がした。

 宮下が口を開くより先に、教室の後ろで誰かが噴き出した。

 ロッカーの陰から、廊下から、四人、五人と出てくる。みんな笑っていた。手を叩いているやつもいた。


「はい、罰ゲームでしたー」


 宮下が両手を広げて言った。机から降りて、出てきた連中の方へ歩いていく。ごめんね、の一言もなかった。


「撮れてる?」

「撮れてる」


 ロッカーの横から返ってきた声の方を見ると、早瀬灯がスマホを横向きに構えていた。茶色い髪を耳にかけて、画面越しに俺を見ている。早瀬も笑っていた。肩が揺れていた。

 俺はそのスマホのレンズを、まっすぐ見た。


「罰ゲームで人の返事撮るの、楽しいか」


 誰も答えなかった。笑い声が少しだけ小さくなって、それでも止まりはしなかった。

 俺は自分の机から鞄を取って、教室を出た。廊下に出たところで、後ろでまた誰かが笑った。

 駅前も、川沿いも通らずに帰った。普段は使わない、線路沿いの遠回りの道だった。電車が横を通るたびに、さっきの笑い声が少し遠くなる気がした。

 罰ゲームだったことより、たい焼きのことまで考えていた自分の方が、よほど恥ずかしかった。

 そういえば、と家の前で思い出した。レンズを見たとき、早瀬の手が一瞬だけ下がった気がする。気がするだけで、それが何なのかを考える気にはならなかった。


*


 次の日、俺は七時半に家を出た。教室が人と笑い声で埋まる前に、自分の席に座っておきたかった。それくらいの防御しか思いつかなかった。

 朝の昇降口は、湿った土と上履きのゴムの匂いがした。誰もいないはずだった。

 俺の下駄箱の前に、早瀬灯が一人で立っていた。

 一瞬、引き返そうかと思った。昨日、俺にレンズを向けていた本人が、そこにいた。引き返したところで行く場所はないし、上履きはその下駄箱の中にある。俺はそのまま歩いた。

 明るい茶髪に、袖の余った大きめのカーディガン。スマホケースにはステッカーが何枚も重ねて貼ってある。クラスの真ん中のグループで、いつも一番大きな声で笑っている。それが俺の知っている早瀬だった。昨日も、そうだった。

 その早瀬が、俺を見るなり姿勢を正した。


「檜山くん」


 苗字で呼ばれたのは初めてだった。というより、早瀬に名前を呼ばれたこと自体がなかった。早瀬は男子をみんな下の名前で呼び捨てにする。俺はその中に入っていなかったし、入りたいと思ったこともない。


「昨日、ごめんなさい」


 早瀬は深く頭を下げた。


「撮ってたの、私。笑ってたのも、私」


 頭を下げたままの早瀬の手が、スカートの横で開いたり閉じたりしていた。開いた掌に、ボールペンの字がにじんでいるのが見えた。汗で青く広がっていて、何と書いてあるのかは読めない。謝る言葉を書いてきたんだろう、と思った。何度も読み返したのかもしれない。

 それで何かが変わるわけではなかった。


「謝ってくれたのはわかった。でも、どうして撮ってたんだ?」


 早瀬は顔を上げた。口が開いて、閉じた。


「……莉子に、頼まれて」


 言ってから、早瀬は自分で首を振った。


「違う。頼まれたからじゃない。断れたし」


 早瀬はしばらく黙った。昇降口のガラス戸の向こうを、自転車が一台通り過ぎていった。


「みんなに、面白いって思われたかった。だから撮った」


 早瀬は目をそらさなかった。それ以上、何も付け足さなかった。

 正直な答えだったと思う。

 だからといって、昨日の教室の笑い声が消えるわけじゃない。俺の返事は録画されている。今、誰の手元に残っているのかも分からない。


「……今は無理だ」


 自分の声が、思ったより低く出た。


「うん」


 早瀬はそれだけ言って、頷いた。食い下がることも、言葉を足すこともしなかった。


「許してって言いに来たんじゃないから」


 早瀬はカーディガンのポケットからスマホを取り出した。


「消すとこ、見てて」


 画面を俺の方に向けて、昨日の動画のサムネイルを長押しする。削除。それから最近削除した項目を開いて、そこからも消した。早瀬の指は一度も迷わなかった。

 早瀬は画面を少しだけ俺の方へ傾けた。


「見る? 確認」

「見たくない」

「……ごめん」


 早瀬はすぐにスマホを引っ込めた。


「グループのトークに送った。六人。ストーリーに上げたのは別の男子で、まだ残ってる。全部消させる。今日中に」

「どうやって」

「どうやってでも」


 根拠も何もない言い方だった。けれど、早瀬は本気でそう言っているように見えた。こういう言い方をする人間なんだな、と思った。昨日までは、そんなことを考えるほど早瀬を見たことがなかった。

 早瀬はスマホをしまうと、視線を少しだけ下げた。


「全部消えたかどうかだけ、あとで伝えてもいい?」


 俺は少し間を置いた。断る理由は、思いつかなかった。


「……ああ」


 早瀬はもう一度頭を下げて、まだ誰もいない廊下を先に歩いていった。上履きの音が、階段の方へ遠ざかっていった。掌の字は、最後まで読めなかった。


*


 ホームルームの前になると、教室は人で埋まった。

 視線は来た。来るだろうと思っていたから、俺は文庫本を開いて、それを盾にした。同じ行を三回読んだ。内容は一文字も頭に入らなかった。


「『俺も、宮下のこと、いいなって思ってた』」


 後ろの方で、男子の一人が裏声で言った。何人かが笑った。宮下たちのグループは、まだ来ていなかった。

 言い返す言葉を探した。

 昨日はレンズに向かって言えたのに、今日は一つも出てこなかった。喉の奥に何かが詰まっていて、口を開けたら声より先に別のものが出そうだった。俺は文庫本の同じ行を、四回目に読んだ。

 そのとき、教室じゅうのスマホが一斉に震えた。

 机の上で、ポケットの中で、鞄の中で。俺のもだった。クラス全体のグループトークに、新しい投稿が一件。


『昨日の放課後の動画を撮ったのは私です。檜山くんにひどいことをしました。持っている人は消してください。ストーリーに上げた人も消してください。転送もしないでください。早瀬』


 早瀬の投稿は、いつもならスタンプと絵文字で埋まっている。「おはよ」の一言にもハートが三つ付いているような投稿だ。句読点の打たれた早瀬の文章を見たのは、これが初めてだった。

 裏声の男子が、画面を見たまま黙った。さっき笑っていた何人かも黙った。誰かが咳払いをして、それきりだった。

 既読の数だけが増えていって、返信は一件もつかなかった。


「……早瀬、マジか」


 前の席の戸塚が、振り向かずに言った。

 早瀬は、まだ教室にいなかった。どこからこれを送ったのかは分からない。

 チャイムが鳴って担任が入ってくるまで、教室は妙に静かだった。


 昼休み、購買でパンを買って戻る途中、渡り廊下の陰から声が聞こえた。


「は? ノリじゃん。何マジになってんの」


 宮下の声だった。俺は足を止めた。止めるつもりはなかったのに、止まっていた。


「ノリで撮ったの、私だから」


 早瀬の声は、教室で聞くときより低かった。


「消して。今。私の前で」

「いや、もう二十四時間で消えるし」

「今」


 ぶつぶつ言う男子の声がして、少し静かになった。たぶん、ストーリーが消えたんだろう。


「莉子たちのことチクる気?」

「チクるんじゃない。自分のこと言いに行くだけ」


 宮下が何か言い返したが、聞き取れなかった。

 俺はパンの袋を持ち直して、別の階段から教室へ戻った。早瀬が俺に気づいたかどうかは分からない。気づいていてもいなくても、あそこに俺が顔を出す理由はなかった。


 放課後、担任に呼ばれた。

 職員室の隅の、来客用の丸椅子に座らされた。早瀬が昼休みに自分から来て、撮影したことも、グループに送ったことも話したらしい。関係した生徒には明日話を聞く、と担任は言った。

 担任はそれから「大丈夫か」と聞いた。俺は「大丈夫です」と答えた。大丈夫かどうかは自分でもよく分からなかったが、ここで大丈夫じゃないと言って何が変わるのかも分からなかった。担任はそれ以上は聞かなかった。


「檜山は、どうしたい」


 どうしたいか、と聞かれるとは思っていなかった。俺は少し考えた。罰を受けさせたいかと聞かれたら、それはよく分からなかった。分かっていることは、二つだけだった。


「動画が全部消えることです。あと、俺の返事を、笑い話にしないでほしいです」


 担任は頷いて、それから正直に付け足した。


「確認できる範囲では消させる。ただ、誰かが画面を録画してたら、全部とは言い切れない」

「わかってます」


 わかっていた。わかっていても、言葉にされると少し重かった。

 職員室を出て昇降口へ行くと、朝と同じ場所に早瀬が立っていた。

 早瀬は近づいてこなかった。下駄箱三つ分の距離から、俺に聞いた。


「……今、いい?」


 俺は頷いた。


「ストーリー、消させた。グループのも全部。確認できる範囲で、だけど」


 早口だった。用意してきた文章を読み上げるみたいだった。


「……わかった」

「じゃ」


 早瀬はそれだけ言うと、俺のいる列を避けて、一番奥の列をぐるりと回って出ていった。

 出口は一つしかないのに、だいぶ遠回りだった。ガラス戸の向こうで、早瀬は一度も振り返らずに校門の方へ歩いていった。

 俺は自分の下駄箱を開けた。


*


 週が明けると、早瀬の周りの席が空いていた。

 宮下たちのグループは、教室の反対側に固まっていた。誰が決めたのかは知らないが、早瀬がそこに入らないことだけははっきりしていた。早瀬は自分の席で、一人で次の授業の教科書を出していた。

 昼休み、窓から中庭を見ると、早瀬がベンチで一人で弁当を食べていた。

 俯いてはいなかった。顔を上げて、普通に箸を動かしていた。雲を見ていたのかもしれないし、何も見ていなかったのかもしれない。

 目が合った。早瀬は少しだけ驚いた顔をして、それから何でもないように弁当へ視線を戻した。

 その週、早瀬は毎日そのベンチにいた。


「早瀬、一人で食ってんな」


 戸塚が、俺の視線の先を見て言った。


「……ああ」

「お前、あれ見てどう思うの」

「知らない」


 本当に知らなかった。戸塚は「そっか」とだけ言って、それ以上は聞かなかった。こういうときに余計なことを言わないのが、戸塚のいいところだった。

 机の上でスマホが震えた。

 一瞬、宮下からかもしれないと思った。告白の続きを期待したわけじゃない。宮下が自分の言葉で、ちゃんと謝ってくるのを、俺はどこかでまだ待っていた。

 通知はコンビニのクーポンだった。そんなものを待っていた自分に腹が立って、俺はスマホを裏返した。

 顔を上げると、宮下本人が俺の机の前にいた。先週、指導を受けたと聞いている。


「ごめんって。でもさ、あんな本気だと思わなかったし」


 宮下は、俺の返事をすぐ目の前で聞いていたはずだった。


「本気だったよ。だから最悪なんだよ」


 宮下は何か言いかけて、やめた。それから気まずそうに笑って、教室の反対側へ戻っていった。俺はそれ以上何も言わなかった。待っていたものが来て、それが思っていたよりずっと軽かった。それだけだった。

 入れ替わりに、隣の列の男子が椅子ごと寄ってきた。先週、裏声を出したやつだった。


「早瀬ハブられてんじゃん。檜山的には、ざまあって感じ?」


 笑いながら言われた。


「それは俺が言うことで、お前が言うことじゃない」


 男子は笑ったまま固まった。


「……え、言うの?」

「言わない」


 男子は「そっか」とよく分からない返事をして、椅子を戻した。教室の一角が少し静かになった。

 戸塚が横から箸を伸ばして、俺の弁当の卵焼きを一つ持っていった。


「今のはかっこよかったから一個もらう」

「巻きが甘いのは今日たまたまだからな」

「知らんて」


 戸塚はもぐもぐやりながら、「うまいけど」と付け足した。


 放課後、昇降口の掲示ケースの前で足が止まった。

 去年の、市の高校生フォトコンテストの入選作が、色あせたまま貼ってある。毎日前を通っていたのに、ちゃんと見たのは初めてだった。


『入選 早瀬灯(当時一年)「休み時間」』


 窓際の席で、二人の女子が一つのイヤホンを片耳ずつ使っている。白いコードが二人の間でたるんでいる。その間に後ろから顔を突っ込んだ女子が、何か言いながら、自分で先に笑っている。目を閉じて、口を大きく開けて。窓の外の光が、三人の髪の輪郭だけを白く飛ばしていた。三人とも、撮られていることに気づいていない。

 真ん中で笑っているのは、宮下だった。

 宮下がこんなふうに笑うのを、俺は見たことがなかった。俺の冗談に笑っていた宮下は、もっと行儀のいい笑い方をしていた。この顔はたぶん、撮った人間しか見ていない。

 あの動画を撮ったのと同じ人間が、一年前にはこれを撮っていた。

 その二つが、俺の中でうまくつながらなかった。つながらないまま、写真から目が離せなかった。

 下校の放送が流れるまで、俺はそこから動かなかった。


*


 次の週、雨が続いた。

 四時間目が終わって廊下に出ると、窓の外の中庭のベンチが濡れて黒く光っていた。誰も座っていない。

 教室にいると、まだ時々視線を感じる。前ほどではないが、なくなりもしない。それが鬱陶しくて、俺は弁当を持って、屋上へ続く階段を上った。屋上の扉は鍵がかかっていて、昼休みに来る人はいない。一年の頃に一度だけ、一人になりたくて来たことがあった。

 踊り場まで上がったところで、足が止まった。

 上の段に、早瀬が座って弁当を食べていた。


「あ」


 早瀬はすぐ立ち上がった。弁当箱の蓋が膝から落ちかけて、慌てて押さえる。


「ごめん、ここ使う? どく」

「別にいい」


 俺は踊り場の壁際に腰を下ろした。どこかへ行くにも、他に人の来ない場所を知らなかった。

 早瀬は弁当を持ったまま少し迷ってから、上の段を指さした。


「……じゃあ、ここ、いい?」


 俺が頷くと、早瀬はさっきまでいた段に座り直した。踊り場から五段上。話すには遠かった。

 しばらく、雨の音だけがしていた。踊り場の小さな窓に、水の筋が何本も流れていた。


「……ここ、知ってたんだ」


 早瀬が先に口を開いた。


「一年の時に一回来た」

「私も。去年、一回だけ」


 何をしに来たのかは、お互いに言わなかった。早瀬は弁当のミニトマトを箸で転がして、なかなか食べなかった。


「それ、自分で作ってんの?」


 早瀬が俺の弁当を見ていた。


「毎朝」

「え、すご」


 早瀬はポケットからスマホを出しかけて、「撮っていい?」と言いかけて、止まった。


「……ごめん、今のなし」


 スマホの背面、カメラのレンズの上に、ステッカーが一枚貼ってあった。ケースに貼ってある他のステッカーと違って、レンズをちょうど塞ぐ位置に。早瀬はスマホをポケットに戻した。

 俺は何も聞かなかった。聞かなくても、だいたい分かった。

 昼休みの終わり際、話の流れで俺が「卵焼きだけは、親より俺の方がうまい」と言うと、早瀬は「ウケ――」と言いかけて、口を閉じた。


「……面白いね」


 何が面白いのかは、言った本人にも分かっていないように見えた。


 次の日も、早瀬は同じ段にいた。雨も続いていた。

 その日、早瀬が段の上から首を伸ばして、俺の弁当箱を覗き込むようにして聞いた。


「卵焼きってさ、どうやって巻くの」


 聞かれたからには答えるしかない。


「卵は三回に分けて入れる。一回目は全部固まる前に、半熟のうちに奥から手前に巻く。巻いたら奥に戻して、空いたところに油を引き直して、二回目を流す。そのとき、巻いたやつを少し持ち上げて、下にも卵を流し込む。それをしないと、層がくっつかない。油はキッチンペーパーに含ませて塗った方がいい。菜箸が難しかったらフライ返しでもいい。で、三回目は――」

「待って」


 早瀬が箸を持ったまま手を挙げた。


「三回に分けるって最初に言った?」

「言った」

「フライ返しでもいいなら最初からそう言って。菜箸の話いらなかったじゃん」

「菜箸の方がきれいに巻ける」

「でもフライ返しでもいいんでしょ」

「……いい」

「キッチンペーパーは?」

「あった方がいい」

「なかったら?」

「……なくてもいい」

「なくてもいいもの多くない?」


 卵焼きの話なら、誰にも負けないつもりでいた。


「ウケる。檜山くん、卵焼きのときだけめっちゃ喋るじゃん」


 言ってから、早瀬は口を押さえた。

 声は出なかったが、俺は笑っていた。あの日から、学校で笑ったのは初めてだった。

 早瀬は口を押さえたまま俺を見て、何か言いかけて、やめた。それから弁当に向き直ったけれど、箸がしばらく止まっていた。

 予鈴が鳴ると、早瀬は立ち上がって「じゃ、明日」と言いかけて、「……また」と言い直した。どっちでも同じだろ、と思ったが、言わなかった。


 三日目、早瀬は階段に来るなり、座るより先に言った。


「やった。昨日の夜」

「何を」

「卵焼き。三回に分けて入れた。巻いた。崩れた」

「崩れたなら失敗だろ」

「失敗じゃない。卵焼き(ほぐし)になった」

「それはスクランブルエッグだ」

「味は卵焼きだったから卵焼き」

「巻いてないなら卵焼きじゃない」

「じゃあ檜山くんのも、巻く前は何なの」

「……卵液だ」

「今考えたでしょ」


 考えた。正しいことを言ったはずなのに、遅かった。

 早瀬は勝ったような顔で、自分の弁当箱の隅に入っている黄色い塊を箸でつまんでみせた。たぶん、それが「ほぐし」の残りだった。


「ほら。おいしいよ、ほぐし」

「ほぐれてるだけだろ」

「ほぐれてるから、ほぐしなんだって」


 理屈になっていない。なっていないのに、言い返す言葉がすぐに出てこなかった。

 その日の終わり際、早瀬が段の上から言った。


「ほんとはさ、ジュースとか奢りたいんだけど」

「は?」

「奢ったら買収っぽいから奢れない」

「……真面目か」

「真面目だよ。今だけ」


 四日目の朝、俺は数学の授業中に、昨日の「卵液だ」よりもっと上手い返しがあったはずだと考えていた。

 答えが分からなかったわけじゃない。あの場ですぐに言えなかったのが、ただ悔しかった。次は先に言ってやる、と思っていることに気づいて、俺はノートに目を戻した。黒板の数式は、半分くらい消されていた。

 昼休みには、雨が上がっていた。

 廊下の窓から中庭を見た。ベンチはまだ濡れていて、誰も座っていなかった。

 教室はうるさいし、と思った。誰に言うわけでもない理由をつけて、俺は階段を上った。

 早瀬は、いつもの段にいた。俺を見ると、「卵液の人」と言った。


「その呼び方やめろ」


 俺は弁当を開ける前に言った。午前中ずっと考えていたことだった。


「昨日の続きだけどな。巻く前のは、卵焼きの途中だ。途中は途中で、卵焼きの一部なんだよ。ほぐしは、途中で終わってるだけだ」


 早瀬は箸を持ったまま、まばたきをした。


「え、一晩考えたの?」

「……考えてない」

「考えたじゃん。授業中とかに考えてたでしょ。ウケる」


 早瀬は段の上で膝を抱えて笑った。言い返したのは俺のはずなのに、なぜかまた負けた気がした。それが、別に嫌ではなかった。

 次の日は、出汁か砂糖かで揉めた。俺は出汁派で、うちでは母親だけが甘い派だった。早瀬の家は甘い派だった。


「じゃあ私、檜山くんのお母さんの味方する」

「よその家の卵焼きに加勢するな」

「お父さんは?」

「何にでも醤油をかけるから、無効票だ」

「無効票とかあるの?」

「ある。うちでは」


 早瀬は「檜山家の選挙制度」と言って、また笑った。

 それから昼休みの階段は、なんとなく毎日のことになった。

 五段の距離は変わらなかった。


*


 事件から二週間余りが経った昼休みだった。

 その日は朝から晴れていて、階段の窓から薄い日が差していた。俺は少し前から、早瀬に聞こうと思っていたことがあった。


「今日の、巻き何回?」

「三回」

「毎回三回じゃん」

「三回が正解なんだよ」


 早瀬が「はいはい」と言って、それで卵焼きの話が切れた。


「昇降口の写真、見た」


 早瀬は箸を落としかけた。


「え待って、あれ見たの!? まだ貼ってあんの!?」


 段の上で身を乗り出して、五段目の端でぎりぎり止まる。教室で聞いていた、いつもの早瀬の声だった。


「去年からずっと貼ってある」

「うそでしょ……毎日通ってるのに気づかなかった……」


 早瀬は両手で顔を覆って、そのまま唸った。耳まで赤くなっていた。それから指の隙間から、少し声を落として言った。


「あれ、莉子が一番いい顔してるやつ」


 早瀬は手を下ろした。


「莉子、自分で気に入って、待ち受けにしてくれてた」


 今もそうなのかは、言わなかった。たぶん、早瀬も知らないんだろう。

 俺は何も返さなかった。返す言葉を探しているうちに、早瀬の方が先に弁当へ戻っていた。


「なんで、ああいうの撮るんだ」


 早瀬は箸を止めて、少し考えた。


「撮られてるって気づいてない時の顔、好きなんだよね。その人が一番その人っぽいから」

「……他のも、あるのか」

「てか、檜山くんもう見てるよ」


 早瀬は俺のポケットの方を指さした。


「戸塚のアイコン」


 俺は自分のスマホで、戸塚のアイコンを開いた。

 去年の文化祭の準備のとき、段ボールの上で寝ている戸塚。拡大すると、手に養生テープを握ったまま寝ていた。体育館の床に段ボールが何枚も敷いてあって、その真ん中で、戸塚だけが完全に力尽きている。ずっとただの寝顔の写真だと思っていて、撮った人がいるとは考えたこともなかった。


「撮ったら本人が気に入って、送ってって言われた。働きすぎの証拠なんだって」


 俺は噴き出した。戸塚なら言いそうだった。


「元のやつ、送ってくれ」

「それは戸塚に聞いて」


 早瀬は当然のように言った。それから、笑っている俺の方をじっと見た。


「檜山くん、今の顔」

「何だよ」

「……なんでもない」


 早瀬はそう言って、弁当に目を戻した。

 しばらく、二人とも黙って弁当を食べた。窓の外で、どこかの部活の掛け声がしていた。


「……この前のこと、ちょっとだけ話していい?」


 早瀬が言った。いつもより声が小さかった。

 俺は頷いた。


「あの日の夜、消す前に、一回だけ動画見たの」


 早瀬は自分の膝のあたりを見ていた。


「檜山くんが返事した、その声のすぐ後ろで、一番大きく笑ってたの、私の声だった」


 階段の下の方で、どこかの教室のドアが閉まる音がした。


「撮ってる時、檜山くんが本気なのは、画面で分かってた。分かってて、それが一番面白いって思った」


 早瀬はそこで話すのをやめた。泣いてはいなかった。膝の上で、空になりかけた弁当箱を両手で持っていた。

 俺はすぐには何も言えなかった。

 頭に浮かんだのは、早瀬の話よりも、この二週間で見たものの方だった。裏声の後で一斉に静かになった教室。渡り廊下の陰の、いつもより低い声。一番奥の列を回っていった背中。雨が降る前の、一人で座っていた中庭のベンチ。


「許してくれなくていいよ」


 早瀬が言った。


「それは俺が決める」


 俺は弁当の蓋を閉めた。


「……でも、お前が何してたかは、見てた」


 早瀬は顔を上げなかった。弁当箱を持つ指に、少し力が入ったのが見えた。

 俺は弁当箱を持って立ち上がり、一段上がって、そこに座り直した。


「……四段」


 早瀬が小さく言った。


「数えんな」


*


 放課後、昇降口を出ようとしたところで、通り雨が上がった。

 五時間目の途中から急に降り出して、帰りのホームルームが終わる頃には、もう雲が切れ始めていた。二週間前の朝に早瀬が立っていたのと同じ下駄箱の前で、靴を履き替えている早瀬と一緒になった。


「雨、止んだね」

「止んだな」

「卵焼き、昨日また作った」

「巻けたか」

「半分巻けた。半分ほぐし」

「それは何なんだ」

「ハーフ」


 早瀬は真顔だった。俺は何か言い返そうとして、うまい言葉が見つからないまま、先に外へ出た。校庭の手前に大きな水たまりができていて、そこに雲の切れた空が映っていた。西日が差して、水面だけが妙に明るい。濡れたアスファルトの匂いがした。俺は水たまりの縁で立ち止まって、本物の空の方を見上げた。

 後ろで、早瀬が庇の下からポケットに手を入れる気配がした。

 振り返ると、早瀬はスマホを出して、レンズの上のステッカーに指をかけたまま止まっていた。


「撮れば」


 俺が言うと、早瀬は顔を上げた。


「……撮っていいのかな、私」

「俺に聞くなよ。撮りたいなら撮れば」


 早瀬はしばらくステッカーを見ていた。

 それから端に爪をかけて、剥がした。一度に剥がさずに、角から少しずつ。剥がしたステッカーを指先に貼りつけたまま、スマホを水たまりの方へ斜めに向ける。画面をのぞき込んで、少し腰を落として、角度を探していた。

 早瀬は口を少し開けて、画面だけを見ていた。誰に見られているかなんて、考えていない顔だった。

 俺はそれを、思わず見ていた。見ていたことに気づいて、俺は空の方へ向き直った。

 後ろで、小さくシャッターの音がした。

 早瀬が画面を確かめて、固まった。


「……入っちゃった」


 早瀬が画面をこちらに向けた。水たまりに映った空の端に、縁に立つ俺の肩と背中が写り込んでいた。


「消す?」


 俺は少し黙った。

 画面の中の俺は、空を見上げていた。自分が写るとは思っていなかった。


「……残しとけ」


 早瀬は画面を、しばらく見ていた。

 それから、指先に貼りつけていたステッカーを、スマホケースの、他のステッカーの隙間に貼った。

 早瀬は何も言わなかった。俺も何も言わなかった。水たまりの空が、少しずつ暗くなっていった。

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