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モブ令嬢ですが、裏ルートまで攻略済みですので、悪役令嬢の断罪は阻止します

作者: 桜野結
掲載日:2026/10/03

王立レグルス学園の入学式。


講堂の後ろから三列目、右から四番目。わたしはその席に座って、天井の梁を数えていた。


梁は十二本。前世でも十二本だった。


――間違いない。ここは『白薔薇の聖域』の世界だ。


前世のわたしは、このゲームを237周した。全ルート、全エンディング、全スチル、全実績。攻略サイトを開かずに隠しパラメータの増減を暗算できる程度には、廃人だった。


有給は全部このゲームに溶かした。最終週のイベントのために三日徹夜して、職場で机に突っ伏して寝たこともある。褒められた人生ではないけれど、無駄だったとも思っていない。


そして今、わたしはその世界の中にいる。


メルティナ・ドゥラン。ドゥラン子爵家の次女、16歳。


設定資料集の巻末に、たった一行だけ名前がある。「背景令嬢B・亜麻色の髪」。立ち絵はない。台詞もない。ストーリーに一度も絡まない。


つまり、完璧なモブである。


壇上では、ヒロインが初々しく挨拶をしている。リリア・フォンターナ男爵令嬢。桃色の髪に、大きな緑の目。ゲームの主人公だ。


その斜め前の席に、彼女がいた。


銀の髪を背に流した、背の高い令嬢。アデルハイト・フォン・ローゼンミュラー公爵令嬢。王太子ユリウス殿下の婚約者であり――この物語の悪役令嬢。


全ルートで断罪される。


王太子ルートでは国外追放。騎士ルートでは修道院送り。宰相子息ルートでは爵位剥奪。そして神官ルートでは、処刑。


わたしは彼女の後ろ姿を見つめた。


237周。そのすべてで、わたしはあの人が落ちていくのを見てきた。


そして237周ずっと、彼女がわたしの推しだった。


◇


モブには、モブの強みがある。


これは比喩ではない。この世界には明確な仕様が存在していて、わたしはその仕様を知り尽くしている。


たとえば、イベント判定。


このゲームのイベントは、特定の人物が特定の場所にいることで発生する。逆に言えば、判定対象外の人間は、どこにいてもイベントを壊さない。


わたしは誰のフラグにも関与しない。だからどこにでも入れる。


入学三日目、わたしは実験を試みる。


生徒会室の扉を開け、中に入り、茶を一杯飲んで出てくる。中では王太子殿下と宰相子息が密談の最中だった。二人はわたしを見て、見て、そのまま会話を続けている。


誰も、止めない。


誰も、咎めない。


認識されてはいる。目には映っているのだ。ただしその処理は、椅子や花瓶を目に入れたときとまったく同じ階層で行われている。


――これは、使える。


わたしはその日の夜、寮の自室で紙を広げ、計画を書き出した。


目標はひとつ。


アデルハイト様を、断罪させない。


◇


最初の断罪フラグは、入学から二週間後の茶会にある。


イベント名は「白薔薇の棘」。ヒロインが中庭でお茶をこぼされ、ドレスを汚される。犯人として名指しされるのがアデルハイト様。


実際の犯人は、アデルハイト様の取り巻きの一人だ。彼女はアデルハイト様に取り入りたくてやる。アデルハイト様は無関係だが、「使用人の不始末は主の不始末」という理屈で罪を被る。


237周やれば、犯人の動線まで覚えている。


当日、わたしは給仕の控え室にいた。


ヴィオレッタ・カーミン伯爵令嬢。彼女が茶器を手に取り、中庭へ向かう。わたしはその通路に、何気なく立っていた。


「あら。ごめんなさい」


わたしは、彼女の腕にぶつかった。


茶器が落ちる。わたしのドレスに、紅茶が広がる。


「ちょっと、あなた! 何をするの!」


「申し訳ございません。わたくし、ドゥラン子爵家の……」


名乗りかけて、やめる。彼女の目は、もうこちらを見ていない。


モブ相手に時間を使うほど、伯爵令嬢の人生は暇ではない。


「もういいわ。替えの茶器を」


ヴィオレッタ様が去っていく。


替えの茶器を取りに行けば、中庭に着く頃にはヒロインはもう別の場所へ移動している。イベント発生時刻は五分間しかない。


中庭では、何事も起きなかった。


わたしは濡れたドレスのまま、物陰からそれを眺めた。


一つ。


◇


二つ目のフラグは、階段だ。


イベント名「堕ちる白薔薇」。ヒロインが大階段から突き落とされる。目撃者が「銀髪の令嬢を見た」と証言し、アデルハイト様が疑われる。


実際には、ヒロインは自分で落ちる。


正確には、落ちるふりをして、踊り場の手前で王太子に受け止められるように計算して飛ぶ。237周の中で、一度だけ、飛ぶ瞬間の彼女の口元が映るカットがある。


彼女は、笑っている。


わたしはずっと、あれを作画のミスだと思っていた。


当日、わたしは大階段の上の窓辺にいた。


ヒロインが階段を上ってくる。下の踊り場には王太子殿下。タイミングは完璧だ。


わたしは窓の掛け金を外し、押し開けた。


風が吹き込む。


ヒロインの髪とスカートが大きくあおられ、彼女は手すりを掴んだ。


飛べない。この風では、落ちる軌道が計算できない。


彼女は階段の途中で立ち止まり、それから、ゆっくりと振り返る。


わたしを見た。


――目が、合う。


心臓が、跳ねる。


モブは認識されない。それが前提だった。なのにこの子は、わたしを見ている。しかも、迷惑そうでも不審そうでもない目で。


品定めをする目だ。


リリア・フォンターナは、小さく首をかしげ、それから微笑んで、階段を上っていった。


わたしは窓辺で、しばらく動けなかった。


二つ。けれど、代償があったかもしれない。


◇


異変に気づいたのは、その翌月だった。


王立美術館の見学授業。わたしは最後尾を歩いていた。


回廊の突き当たりに、先代王妃の肖像画がある。ユリウス殿下の母君。殿下が八つのときに病で亡くなられた方だ。


殿下が、その前で足を止めた。


隣にいた宰相子息のクラウス様が、何か言う。殿下が答えた。


「いや……この方は、どなただったかな」


わたしは、足を止めた。


「母君でしょう」


「ああ、そうだったな。すまない、ぼんやりしていた」


殿下は笑って、歩き出した。


わたしは肖像画の前に残った。


おかしい。


ゲームの中で、ユリウス・ヴァレンシュタインというキャラクターを定義する要素は三つある。一つ、王太子としての重圧。二つ、婚約者への冷淡さ。そして三つ――亡き母への強い執着。


彼の部屋には母の肖像の小さな模写がある。彼は年に一度、命日に必ず一人で霊廟へ行く。彼が心を開く瞬間の台詞は、必ず母の話から始まる。


その男が、母の顔を忘れた。


バグではない。このゲームにそんなバグはない。


わたしは237周の記憶を引っくり返しはじめた。


◇


思い当たるものは、すぐに見つかった。


ゲームには「好感度」がある。選択肢を選び、イベントをこなすと上がる、あの数値。


プレイヤーは数値としてしか見ない。けれど、現実になったこの世界で、好感度が上がるとは一体何が起きることなのか。


人の心が動くには、何か対価が要るのではないか。


わたしは学園の図書館に通い詰めた。三週間かけて、建国史の棚を端から読んだ。


そして、十四世紀の聖女伝の注釈に、それを見つけた。


――フォンターナ家の祖は、聖女に仕えし「器」の一族なり。


――器は、人の想い出を納める。納めしものは、器のものとなる。


フォンターナ。


リリア・フォンターナ。


わたしは本を閉じ、しばらく天井を見上げる。


――あの子は、好感度を上げるたびに、相手の記憶を一つ食べている。


そう考えると、全部が繋がった。


騎士団長子息のガイ様が、先月から師の名を思い出せずにいること。宰相子息のクラウス様が、妹君の誕生日を間違えて祝ったこと。神官のセラフィン様が「なぜ自分が神官になったのか、どうしても思い出せない」と祭壇の前で呟いていたこと。


全員、ヒロインと親しくなった順に、おかしくなっている。


そして全員、忘れたことに気づいていない。


記憶というのは、そういうものだ。失えば、失ったという記憶ごと消える。


◇


アデルハイト様に会いに行ったのは、その週末だった。


公爵令嬢の部屋は、寮の最上階にある。わたしは扉を叩き、名乗り、追い返されるのを覚悟していた。


扉は、あっさり開いた。


「あなた、いつもわたくしを見ていらっしゃるわね」


いきなりそう言われて、わたしは固まった。


「気づいて、いらっしゃいましたか」


「気づくに決まっているでしょう。中庭で、階段で、美術館で。あなたは必ず隅にいて、こちらを見ている」


アデルハイト様は腕を組んだ。間近で見る顔は、ゲームの立ち絵より少しだけ険がない。


「わたくしに何かご用?」


「お守りしたいのです」


「は?」


「あなた様が、断罪されないように」


長い沈黙があった。


やがてアデルハイト様は、わたしを部屋に通した。


「お座りなさい。話は長くなりそうだから」


◇


全部は話さなかった。


転生のことも、ゲームのことも言えない。代わりに、わたしは観察した事実だけを並べた。


攻略対象の記憶が欠けていること。欠け方の順序がヒロインとの親密さと一致していること。フォンターナ家の伝承のこと。そして、茶会と階段で何が起きるはずだったか。


アデルハイト様は、最後まで口を挟まなかった。


話し終えると、彼女は紅茶を一口飲んだ。


「あなた、頭がおかしいのではなくて?」


「その可能性は否定いたしません」


「正直ね」


「ですが、確かめる方法はございます」


「どうやって」


「アデルハイト様。殿下に、母君の瞳の色をお尋ねください」


アデルハイト様の眉が、動いた。


「あの方は、母君のことなら何でも覚えていらっしゃる。瞳の色も、好きだった花も、よく口ずさんでいらした歌も。婚約した十の年に、三時間かけて聞かされましたもの」


「では、お尋ねください」


三日後、アデルハイト様がわたしの部屋に来た。


顔が、白かった。


「答えられなかったわ」


彼女は立ったまま言った。


「それどころか、母君のお話をすること自体を、面倒そうになさった。あの方が」


アデルハイト様の手が、震えている。


「あなた、名前は」


「メルティナ・ドゥランと申します」


「メルティナ。わたくしに、何をさせたいの」


わたしは立ち上がって、礼をした。


「何も。あなた様には、ただ無事でいていただきたいのです」


「それでは答えになっていなくてよ」


「では、こう申し上げます」


顔を上げた。


「わたくしは、あの子から全部取り返します。手伝っていただけますか」


◇


『白薔薇の聖域』には、隠しルートがある。


正確には「真エンド」と呼ばれるもので、発売から二年後のファンディスクで追加された。条件が異様に厳しく、当時の攻略サイトでも「人間がやるものではない」と書かれていた。


わたしはそれを、三十七回クリアしている。


条件は四つ。


一つ。悪役令嬢アデルハイトが、断罪されていないこと。


二つ。建国祭の時点で、ヒロインが誰のルートにも入っていないこと。つまり、四人全員の好感度が規定値以下で止まっていること。


三つ。王立図書館の禁書庫にある『白薔薇の記録』を読んでいること。


四つ。建国祭の夜、大聖堂の鐘が鳴り終わるまでのあいだに、聖域でヒロインの「納めしもの」を名指しすること。


一つ目は、もう達成に向かっている。


三つ目も難しくない。禁書庫の鍵は司書長が持っているが、あの老人は夕刻に必ず仮眠を取る。モブはその部屋に出入りできる。


実際、鍵を借りるのに要した時間は十数える間だった。司書長は机に突っ伏したまま、わたしが鍵束を外し、戻し、礼をして出ていくまで一度も目を覚まさない。


禁書庫の『白薔薇の記録』は、第三棚の下から二段目。前世の記憶どおりの位置に、埃をかぶって収まっていた。わたしは床に座り込んで、夜明けまでにそれを三度読む。


――読んだ。条件、三つ目。


問題は、二つ目だった。


建国祭まで、四ヶ月。それまでに、攻略対象四人をヒロインから引き剥がさなければならない。


――モブのわたしが。


◇


結論から言うと、これが一番うまくいった。


理由は単純で、わたしは四人全員の好感度の上げ方を、完璧に把握していたからだ。


ガイ・ベルンシュタイン。騎士団長の息子で、脳筋に見えて実は繊細。好感度が上がるのは「訓練場で黙って水を置いていく」行為。会話は不要。むしろ話しかけない方が上がる。


わたしは三週間、毎朝、訓練場の隅に水差しを置き続けた。


四週目の朝、彼に腕を掴まれた。


「お前だろ。水」


「……はい」


「なんで何も言わねえんだ」


「お邪魔かと思いまして」


ガイ様は、ぽかんとしている。


それから耳まで赤くなって、「邪魔じゃねえよ」と言い捨てて走り去っていった。


翌日から、彼はヒロインの誘いを断るようになる。


クラウス・レーヴェ。宰相子息。皮肉屋で、人の言葉を信じない。好感度が上がるのは「彼の皮肉を正面から肯定する」こと。否定でも賛同でもなく、肯定。


わたしは図書館で、彼が「この学園の人間はみな馬鹿だ」と吐き捨てたとき、こう返した。


「ええ。わたくしもそう思います」


クラウス様は本を落とした。


セラフィン。神官。常に微笑んでいて、何を考えているかわからない。好感度が上がるのは「彼の微笑みを指摘しない」こと。周囲は必ず「いつも笑っていらっしゃいますね」と言う。彼はそれを嫌っている。


わたしは三ヶ月、一度も彼の顔に言及しない。


ある日、彼のほうから切り出してきた。


「ドゥラン嬢。あなたは、わたくしの顔を見ませんね」


「見ておりますが」


「いいえ。見ていますが、読もうとなさらない」


セラフィンは、初めて笑うのをやめた。


「そういう方は、久しぶりです」


◇


誤算は、四人目だった。


ユリウス・ヴァレンシュタイン王太子殿下。


彼の好感度が上がる条件は、はっきりしている。「亡き母の話を、彼が話したくなるまで待つ」こと。


けれど、今の彼には母の記憶がない。


条件そのものが、消えていた。


わたしは一ヶ月、途方に暮れる。そして、方針を変えた。


――食われたのなら、外から入れればいい。


わたしは王立美術館に通い、先代王妃の記録を集めてまわった。肖像画の制作記録。侍女の回想録。王宮楽団の記録に残る、王妃が好んだ曲。司書に三度追い返され、四度目に根負けさせている。


集めたものを全部、一冊のノートにまとめた。


建国祭の二ヶ月前、わたしは殿下に会いに行った。


生徒会室。扉を開け、中に入り、机の上にノートを置く。


「失礼いたします。これを」


殿下が顔を上げる。


いつもなら、花瓶を見るのと同じ目で処理されて終わり。そういう手順になっている。


その日は、違った。


「……君は」


「ドゥラン子爵家のメルティナと申します」


「いや。そうじゃない」


殿下の手が、ノートに伸びる。


最初の頁を読み、二枚目をめくり、三枚目で止まった。そこには、楽団の記録から写した曲名が並んでいる。


「これは」


「先代王妃殿下についての記録でございます」


「なぜ」


「殿下が、お忘れになっているように見えましたので」


殿下の指が、紙の上で止まる。


長い沈黙。自分の心臓の音ばかりが大きく聞こえる。


やがて殿下は、顔を伏せたまま言った。


「……忘れていた」


声が、掠れていた。


「思い出せないんだ。顔も、声も。覚えていたはずなのに、いつからか、思い出そうとすると何もない。おかしいと思いながら、おかしいと思うこと自体を、忘れてしまう」


彼はノートを握りしめた。


「君は、誰だ」


「モブでございます」


「は?」


「背景でございます。どうぞお気になさらず」


わたしは礼をして、部屋を出た。


扉が閉まる直前、殿下が立ち上がる音がした。


◇


その日から、おかしくなった。


殿下が、わたしを探すようになったのだ。


食堂で。回廊で。図書館で。振り返ると殿下がいる。目が合うと、まっすぐ歩いてくる。


「メルティナ嬢」


「殿下。わたくしのような者にお声がけは」


「君の名を呼ぶのに、身分が要るのか」


要る。この世界では、わりと要る。


「母の記録を、もっと集めたい。手伝ってくれないか」


断る理由がなかった。むしろ好都合ではある。殿下がわたしといる限り、ヒロインの好感度は上がらない。


そう、計算の話だ。全部、計算の話。


好感度という数値を、わたしは237周ぶん見てきた。上がれば嬉しかったし、下がれば選択肢をやり直した。あれは数字で、画面の中の棒グラフで、それ以上のものではなかった。


――そのはずだった。


王宮の資料室で、二人で埃まみれの箱を開けていたとき。殿下が古い楽譜を見つけて、「これだ」と言った。


「覚えている。母が、これを歌っていた」


彼は楽譜を胸に抱いて、泣いた。


19歳の男が、人前で泣くのを、わたしは初めて見た。


その背中を見ながら、わたしは思っていた。


――わたしはこの人を、237周、画面越しに見てきた。


――けれど、泣くところは一度も見ていない。


ゲームに、こんなスチルはなかった。


◇


その数日後、アデルハイト様に呼び出された。


寮の最上階。紅茶が二つ用意してあり、侍女は下がらされている。


「お座りなさい」


座った。


アデルハイト様は、わたしが口をつけるのを待ってから、切り出した。


「メルティナ。あなた、わたくしの何をご存じなの」


紅茶が、喉に詰まりかける。


「……どういう意味でございましょう」


「中庭の茶会。あなたはヴィオレッタが動く前から、控え室にいた。大階段。あなたはあの娘が上ってくる前から、窓辺にいた」


彼女は指を一本ずつ立てていく。


「美術館では、殿下が肖像画の前で足を止める前に、あなたは最後尾から回廊を見ていた。王立図書館では、三週間、建国史の棚だけを読んでいた。――なぜ、聖女伝の注釈に当たりをつけられたの」


「偶然でございます」


「四度続けば偶然ではなくてよ」


返す言葉が出てこない。


アデルハイト様は、カップを置く。


「もうひとつ。わたくしの好きな花を、あなたは知っているわね」


「……は」


「先月、わたくしが熱を出したとき。あなたは見舞いに白い木蓮を持ってきた。あれを知っているのは、乳母と、死んだ母だけよ」


心臓が、嫌な音を立てる。


ゲームでは、アデルハイト様の好きな花は設定資料集に載っている。白い木蓮。彼女の母が、庭に植えていた木。


「どこで知ったの」


「……申し上げられません」


「申し上げられないのね」


「はい」


アデルハイト様は、しばらくわたしを見ている。


責める目ではない。品定めでもない。もっと静かな、何かを確かめる目。


「わかったわ。もう聞かない」


「よろしいのですか」


「よくはないわ。でも、あなたは聞かれて困ることを隠しているだけで、わたくしに害を為してはいない。それで十分」


彼女は紅茶を注ぎ足す。


「ただ、ひとつだけ教えて」


「……はい」


「あなたの知っている話の中で、わたくしはどう書かれていたの」


カップを持つ手が、止まる。


嘘をつくべきだったのだと思う。


けれど、この人の目を見ていたら、できなかった。


「悪役でございました」


アデルハイト様の眉は、動かない。


「そう」


「全部で四通りの結末がございまして、四通りとも、あなた様は裁かれます。追放、修道院、爵位剥奪、それから――」


「処刑?」


「……はい」


「ふうん」


彼女は、本当に興味がなさそうに頷く。


「それで、あなたはなぜ助けるの」


「は?」


「わたくしは、善人ではなくてよ」


アデルハイト様は、まっすぐに言った。


「あのヴィオレッタという娘を取り巻きにしているのは、カーミン家の票が欲しいからよ。あの娘がわたくしの機嫌を取るために何をしているか、だいたい察しはついているけれど、止めていない。止めれば使えなくなるもの」


「……存じております」


「あの男爵令嬢にも、ずいぶん冷たくしたわ。身の程を知れと言った。泣かせたこともある」


「存じております」


「知っていて、助けるの」


わたしは、カップを置く。


「あなた様は、わたくしの好きな方でございました」


アデルハイト様の目が、わずかに見開かれる。


「善人だから、ではございません。あなた様は高慢で、容赦がなくて、他人を道具にお使いになる。そういう方だと存じております。知った上で、四通りとも最後まで見届けて、四通りとも腹が立ちました」


声が、少し震えた。


「あの方は、こんな終わり方をする人ではない。そう思いながら、わたくしには何もできませんでした」


「……今はできるのね」


「はい」


長い沈黙。


やがて、アデルハイト様は小さく鼻を鳴らした。


「変な人」


「よく言われます」


「言われていないでしょう。あなた、誰にも認識されていないもの」


笑ってしまう。


この人は、たぶん半分は気づいている。わたしがどこから来たのかも、何を知っているのかも。気づいた上で、聞かないと決めたのだ。


それが、わたしの推しだった。


◇


建国祭まで、あと二週間。


リリア・フォンターナが、動いた。


図書館の帰り、人気のない回廊で、彼女はわたしの前に立ちはだかった。


「ねえ。あなた、なんなの」


桃色の髪。緑の目。愛らしい顔が、何の表情も浮かべていない。


「ドゥラン子爵家のメルティナと申します」


「名前なんか聞いてない」


彼女は一歩、近づいた。


「あなた、わたしの邪魔ばかりする。茶会も、階段も、あの四人も。全部あなた」


「気のせいでは」


「わたしの目を見て」


彼女が、わたしの顎を掴んだ。


緑の目が、ぞっとするほど近くにある。


そして――何も、起きなかった。


リリアの眉が、寄った。


「……なんで」


彼女はわたしの顔を覗き込み、瞬きをして、もう一度覗き込む。


「なんで、取れないの」


「何がでしょう」


「あなた、何も持ってないの?」


その言葉で、全部が腑に落ちる。


彼女の力が働くのは、名前と役割を持つ者にだけだ。この世界が「登場人物」として定義した人間にだけ。


わたしは背景令嬢Bだ。立ち絵がない。台詞がない。ストーリーに一度も絡まない。


彼女の器は、わたしから何も掬えない。


「残念ながら」


わたしは、彼女の手を外した。


「わたくし、ただのモブでございますので」


リリアの顔が、初めて、歪んだ。


◇


建国祭の夜。


王都の大聖堂は、燭台の光で白く満ちていた。鐘が鳴りはじめる。建国を祝う十二打。鳴り終わるまで、およそ三分。


祭壇の前には、四人の攻略対象。王太子、騎士、宰相子息、神官。そして貴族たちが二百人。


その中央に、リリア・フォンターナが立っていた。


わたしは、禁書庫から持ち出した一冊を抱えて、進み出た。


隣にアデルハイト様が並ぶ。


「準備はよろしくて?」


「はい」


「あなた、手が震えているわよ」


「気のせいでございます」


「嘘がお下手ね」


アデルハイト様は、小さく笑った。


わたしは胸の中で、四つの条件を順に確認する。一つ目、達成。二つ目、達成。三つ目、達成。


残るは、四つ目だけ。


一打目の鐘が、鳴った。


「失礼いたします」


わたしは声を張った。二百人が振り返る。モブが二百人に見られるのは、生まれて初めてだった。


「ドゥラン子爵家、メルティナと申します。リリア・フォンターナ嬢に、申し上げたいことがございます」


リリアが、こちらを見た。


笑っている。


「なあに?」


二打目。


「フォンターナ家の祖は、聖女に仕えし器の一族。器は人の想い出を納め、納めしものは器のものとなる。――『白薔薇の記録』、第四節にございます」


ざわめきが広がった。


「わたくしは、あなたが納めたものを四つ、存じております」


三打目。


わたしは、ユリウス殿下を見た。


「一つ。王太子ユリウス・ヴァレンシュタイン殿下より、母君の顔」


殿下が、息を呑む。


四打目。


「二つ。ベルンシュタイン家ガイ様より、剣の師の名」


ガイ様が、剣の柄を握りしめた。


五打目。


「三つ。レーヴェ家クラウス様より、妹君の誕生日」


クラウス様の顔から、血の気が引いていく。


六打目。


「四つ。神官セラフィン様より、ご自身が神官になった理由」


セラフィンの微笑みが、消えた。


七打目。


リリアは、まだ笑っている。


「証拠は?」


八打目。


「ございません」


ざわめきが、大きくなった。


「わたくしはモブでございますので、証言する資格もございません。ですから――」


九打目。


わたしは、祭壇を指した。


「ご本人たちに、お返しいただきます」


十打目。


『白薔薇の記録』第四節には、続きがある。


――器は、聖域にて名を呼ばれしとき、納めしものを留め得ず。


十一打目。


「リリア・フォンターナ」


わたしは、彼女の名を呼んだ。


十二打目。


鐘が、鳴り終わった。


◇


最初に起きたのは、光ではなかった。


音だった。


リリア・フォンターナの喉から、人の声ではない音が漏れた。彼女は自分の喉を押さえ、膝をつき、何かを吐き出すように身を折った。


そして、彼女の口から、光が出た。


四つ。


ひとつは殿下へ。ひとつはガイ様へ。ひとつはクラウス様へ。ひとつはセラフィンへ。


殿下が、よろめいた。


そして、顔を上げた。


「……母上」


その目から、涙が落ちた。


「母上の、瞳は、青かった。右の目尻に、小さな黒子があった。歌は――春の川の歌だ。寝つけない夜に、何度も」


彼は泣きながら笑っていた。


ガイ様が師の名を叫び、クラウス様が妹の誕生日を呟き、セラフィンが祭壇に膝をついて、「思い出しました」と言った。


「わたくしは、妹を助けられなかったから、神官になったのです」


四人分の光が収まったあと、祭壇の前には、リリア・フォンターナが残った。


彼女は立ち上がろうとして、できなかった。


「……なんで」


小さな声だった。


「なんで、何も残ってないの」


わたしは、彼女を見下ろした。


二百人の貴族が、同じものを見ていた。


彼女の表情が、崩れている。愛らしい微笑みも、健気な仕草も、控えめな伏し目も、全部ばらばらになって、どれひとつ元の位置に戻らない。


当然だ。


全部、誰かから掬ったものだったのだから。


◇


リリア・フォンターナは、王都の北にある静養院へ送られた。


処刑も、追放もない。彼女を裁く法が、この国にはなかった。記憶を盗んだ罪を定めた条文は、どこを探しても見つからなかったのだ。


静養院の報告によれば、彼女は毎日、庭の同じ場所に座っているらしい。


何かを待つ顔をして、何を待っているかは思い出せない様子で。


フォンターナ男爵家は取り潰された。器の一族の血筋は、これで途絶える。


アデルハイト様の婚約は、ご本人から解消を申し出た。


「わたくし、あの方を好いてはおりませんでしたもの」


寮の最上階の部屋で、彼女はあっさりそう言った。


「十の年から十六まで、六年。義務だと思っておりました。義務が終わって、せいせいしております」


「よろしいのですか」


「よろしいに決まっているでしょう」


アデルハイト様は、紅茶を注ぎながら、こちらを見た。


「それより、あなた」


「はい」


「殿下が、毎日この部屋の前をうろついているのだけれど」


「……存じております」


「なぜ入れて差し上げないの」


「わたくしはモブでございますので」


アデルハイト様は、わたしの額を指で弾いた。


痛かった。


◇


殿下に捕まったのは、その三日後の中庭だった。


逃げようとして、腕を掴まれた。


「なぜ逃げる」


「わたくしのような者が殿下と並んで歩けば、貴族の皆様が困惑なさいます」


「困惑させておけばいい」


「殿下」


「メルティナ」


殿下は、わたしの前に回り込んだ。


近い。この距離で見る顔は、237周見てきたどの立ち絵とも違っていた。


「君は、自分を背景だと言う。資料室でも、聖堂でも、そう言った」


「事実でございますので」


「違う」


殿下の手に、力がこもった。


「あの日、生徒会室で、君がノートを置いていった。あのとき、わたしは生まれて初めて、人に見つけてもらったと思った」


「……」


「あの大聖堂で、わたしの母の瞳の色を知っていたのは、この国で君一人だ。わたし自身すら知らなかった」


殿下の声が、震えた。


「君が背景なら、わたしの母は背景の中にしか存在しなかったことになる。それは、わたしが許さない」


わたしは、言葉を失っている。


237周。この人の台詞なら全部暗記している。


この台詞は、ない。


ゲームには、なかった。


「返事を」


「……あの」


「なんだ」


「わたくしの顔、たぶん、ひどいことになっております」


「知っている」


殿下が、笑った。


「さっきから、ずっと見ている」


◇


その後の話を、少しだけ。


アデルハイト様は王都に残り、ローゼンミュラー家を継ぐ準備を始めた。時々わたしの部屋に来て、紅茶を飲みながら殿下の悪口を言っていく。わたしの推しは、推しのまま、わたしの友人になった。


ガイ様は師の墓に三日通い、クラウス様は妹君に十年分の誕生日の贈り物を送りつけ、セラフィンは微笑むのをやめた。やめた顔のほうが、ずっとよかった。


わたしは子爵令嬢のまま、王太子妃教育を受けている。身分差については、国王陛下が「あれは建国祭の功労者である」の一言で押し切った。貴族たちは今も戸惑っているが、戸惑いながら受け入れつつある。


先日、殿下に聞かれた。


「君は、なぜあの夜、全部わかっていたんだ」


わたしは少し考えて、こう答えた。


「前に、同じ話を読んだことがございまして」


「本か」


「のようなものです」


「結末は」


「悪役令嬢が断罪されて、ヒロインが幸せになります」


殿下は、眉を寄せた。


「ひどい話だな」


「ええ」


わたしは笑った。


「ですから、書き直しました」


237周。


238周目は、わたしの番だ。


(了)

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