第9話 黒の外套と、最初のソロ攻略
三日後、柳商会の重い扉を開けると異様な熱気が籠もっていた。
いつもは鉄錆とオイルの匂いが支配している店内に、焼けた金属と獣脂の匂いが混じっている。奥の工房で何かを鍛造していた直後なのだろう。
カウンターの木目に薄い煤が積もっていて、指で触れると黒い線がついた。
カウンターの奥では柳爺さんがウエスで刃を拭っているところだった。
禿げ上がった頭に汗が光っていて、タンクトップの腕は丸太のように太い。いつもの仏頂面だが、口の端がわずかに持ち上がっている。仕事の出来に満足している顔だ。
黒いベルベットの布の上に、一振りの短剣と黒いコートが鎮座していた。
「……来たか、坊主」
「はい。納品日ぴったりですね」
「当たり前だ。納期を守れねえ職人は看板を下ろすべきだ。……さあ、見てみろ」
爺さんが布の端を摘まんで、短剣を僕の方に差し出した。
「まずは武器だ。名前はまだつけてねえ。お前がつけろ。刀身は守護者の牙を芯にし鎧を何層にも鍛接した。鉄なんかじゃねえ、魔力の塊だ。魔力を流せば自動で切れ味が上がる。お前の注文通り、伝導率は限界まで引き上げた」
手に取った。最初に感じたのは軽さだった。
見た目の重厚さに反して、掌の中で羽根のように浮いている。刃渡りは二十五センチほど。刀身は闇夜のように黒く、表面に血管のような赤い紋様が走っていた。
紋様は静止しておらず、微かに脈動している。生きている、という表現が一番しっくりくる。
試しに魔力を流すと切っ先が赤く発光し、掌から刃先まで抵抗なく力が通った。まるで自分の腕の延長のような一体感だった。
「……すごい」
「で、防具がそっちだ。『黒影のコート』。裏地に守護者の鎧繊維を織り込んである。通常の刃物は通さねえし、魔力を帯びた攻撃もある程度は減衰する。それと、繊維の特性で着てる奴の気配を薄くする効果がある。お前の気配遮断スキルと相性がいいはずだ」
コートに袖を通した。身体に吸い付くようなフィット感で、肩や肘の関節部分は伸縮性のある素材が使われていて動きを阻害しない。
フードを深く被ると外からは顔が完全に影に沈む。鏡で見ると、自分の顔があるべき場所に暗闇だけがあった。
「いいか坊主。最後にもう一度だけ言っておく」
爺さんの声が低くなった。煙草を揉み消し、太い腕を組んで僕を見据える。
職人の目だ。自分が作ったものを送り出す時の、真剣な目。
「道具は使い手を超えない。どんな名剣も、振る腕がなけりゃただの鉄屑だ。いい装備を持つと自分が強くなったと錯覚する奴がいる。そういう奴から先に死ぬんだ。……死ぬんじゃねえぞ」
「……はい。行ってきます」
「おう。帰ってこい」
短い言葉だった。でもその一言に込められた重さは、長い説教より余程響いた。
僕は牙剣を腰に差し、コートを羽織って店を出た。路地裏の薄暗さの中で、コートの裾が風に揺れた。
* * *
向かったのはD級ゲート『廃棄坑道』。
かつての地下鉄工事現場がゲート化した場所で、入り組んだ坑道と縦穴が複雑に絡み合っている。暗くて狭くて見通しが悪い。ソロでの隠密行動を試すには、うってつけの舞台だった。
受付で登録証を出すと、職員の女性が画面と僕の顔を見比べて眉をひそめた。
「ここはD級指定ですよ。あなたのランクは12……ソロでの探索は、正直かなり危険です。せめてもう一人、パートナーを見つけてからの方が……」
「自己責任で構いません。誓約書を書きます」
「……分かりました。無理はしないでくださいね」
職員が書類を用意している間、後ろから野太い声が割り込んできた。
「おいおい姉ちゃん、通してやんなよ。死にたい奴は死なせてやるのが慈悲ってもんだろ?」
振り返ると、柄の悪いハンターの三人組がニヤニヤしながら僕を見ていた。
リーダー格は赤ら顔の大男で、額に古い傷跡がある。その目は僕の装備を舐めるように観察していた。
「へぇ、装備だけは一丁前じゃねえか。どっかの坊っちゃんがコスプレか? 悪いことは言わねえ、そのコート置いて帰んな。ランク12がD級ソロなんざ、棺桶に自分から入るようなもんだぜ」
僕は男の目を真っ直ぐに見つめ返した。何も言わず、ただ視線を合わせた。
暗殺者のスキルは僕の表情から不要な情報を削ぎ落としている。怒りも恐怖も浮かべず、ただ相手を「見ている」だけの視線。
構造看破が男の喉仏と左胸の赤いラインを薄く照らしているが、それは僕にしか見えない。男が見ているのは、感情の読めない目だけだ。
三秒。五秒。男の笑顔が引きつり、視線が泳いだ。
「……チッ、気味の悪ぃガキだ。行くぞお前ら」
三人が足早に離れていった。受付の職員がほっとした顔で誓約書を差し出してきた。
* * *
ゲートの中は湿った闇だった。
崩れかけたコンクリートの壁に錆びた鉄骨が突き出し、足元には工事現場の残骸――砕けたタイルや曲がった鉄筋――が散乱している。
天井から垂れ下がった配管に結露がびっしりとついていて、それが落ちるたびにぴちゃん、ぴちゃんと規則的な音を立てていた。遠くで何かの鳴き声がする。甲高い、犬の遠吠えとも虫の羽音ともつかない音が、坑道の壁に反射して方向が掴めない。
フードを被って意識を切り替えた。
気配遮断を発動すると、自分の存在が世界から薄くなっていく感覚がある。足音が消え、呼吸音が闇に溶ける。暗闇が敵ではなく味方になる瞬間だ。
Lv10のステータスと暗殺者の補正が、暗闇の中の僅かな光源――壁面の苔の発光や、配管に反射する保安灯の残光――を拾い集めて、輪郭のある世界を構築していく。
コボルト・ワーカーを二体発見した。坑道の分岐点で、粗末な石のテーブルを囲んで何かをしている。食事か、賭け事か。背中を向けていて、こちらに気づいていない。
構造看破を発動すると、首筋の頸動脈が赤いラインで浮かび上がった。
音もなく近づいた。五メートル、三メートル、一メートル。
コボルトの体臭――獣脂と泥を混ぜたような酸っぱい匂い――が鼻に届くほどの距離まで寄っても、二体はこちらに気づかない。
瞬発強化で加速し、牙剣が黒い弧を描いた。
右の首が飛ぶ。返す刃で左の心臓を貫く。二体同時、一秒未満。牙剣の刃には血の一滴もついていない。守護者の鎧で鍛造された刃が、液体を弾く構造になっているのだ。
「……これがLv10か」
呟いた声が、自分でも聞き取れないくらい小さかった。
道中のモンスターは相手にならなかった。感知される前に接近し、急所を一撃で断つ。それだけの作業を、暗闇の中で淡々と繰り返していく。
* * *
だが中層エリアに差しかかった時、状況が変わった。
広場のような空間に出た。天井が高く、崩れた柱が何本も立っていて、その間にコボルト・ソルジャーが八体たむろしている。
焚き火を囲んで、粗末な石の武器を研いでいる者、見張りに立っている者、居眠りしている者。中央には一回り大きなコボルト・ジェネラルが陣取っていた。頭に錆びた鉄の兜を被り、手には両刃の大剣を持っている。
迂回ルートはない。広場を通らなければ先に進めない構造だ。
奇襲で見張りの二体の首を刎ね、残りが反応する前に三体目を仕留めた。だが四体目に刃を引く一瞬の隙を突かれ、横から石剣が振り下ろされた。バックステップで回避したところに、死角から盾を構えたコボルトが突進してくる。
「ぐっ……!」
タックルをもろに食らって吹き飛ばされた。
コートの防御性能が衝撃を殺してくれたが、体勢が崩れたところにジェネラルが大剣を振り上げて襲いかかってくる。右手の牙剣で応戦しながら、左側面を守る手段がない。
攻撃を弾くたびに反対側が空き、そこに別の個体が飛び込んでくる。一対一なら負けない。だが複数の敵が連携して死角を突いてくる集団戦では、片手しか武器を持たないスタイルはあまりにも脆かった。
石を蹴り上げてジェネラルの顔面にぶつけ、怯んだ隙に踏み込んで眉間を貫いた。
残党を順番に処理して、最後の一体が倒れた時には息が完全に上がっていた。無傷ではある。だがあと二体多ければ、あと少し敵の連携が洗練されていれば、あの死角から刃が届いていた可能性がある。
「……足りない。片手じゃ、限界がある」
何も持っていない左手を見つめた。攻めながら守るには、群れを単独で制圧するには、対となる刃が必要だ。
今日の攻略で、その課題がはっきりした。
* * *
最奥のボス部屋は、天井の高い円形の空間だった。壁面には鉱石の結晶が埋まっていて、わずかに青白い光を放っている。
その光に照らされた部屋の中央に、そいつはいた。マイン・オーガ。
人間の三倍はある巨体に、褐色の硬い皮膚。手には坑道の柱を引き抜いて作ったとしか思えない巨大なツルハシを持っている。
オーガがツルハシを振り回すたびに壁が砕け、飛び散った破片が弾丸のように飛んでくる。狭い坑道では逃げ場が限られていて、壁際に追い込まれたら一撃で終わる。
逃げ回りながら隙を見て斬りつけるが、皮膚が硬すぎて牙剣が浅くしか入らない。
「くそ……硬い……!」
構造看破で弱点を探る。首の裏に太い血管が走っている。そこに刃が届けば一撃で終わる。だが首の裏は高い位置にあり、正面からでは届かない。
オーガがツルハシを大きく振りかぶって地面に叩きつけた。衝撃で坑道全体が震え、天井から砂と小石が降ってくる。
ツルハシが地面にめり込んで、一瞬だけ動きが止まった。今だ。壁を蹴って垂直に近い角度で駆け上がり、頭上へ躍り出る。
「貫けぇぇぇッ!!」
全身の魔力を牙剣に注ぎ込んだ。刃が赤黒く脈動し、守護者の素材が込められた刀身が咆哮するような音を立てた。
首裏の急所へ突き込んだ刃が根元まで吸い込まれ、魔力がオーガの体内で炸裂する。
オーガが白目を剥き、膝から崩れて倒れた。坑道が揺れるほどの地響きが鳴り、しばらく収まらなかった。
勝った。だが決定打を放つまでに時間がかかりすぎた。敵の攻撃を防ぐ手段がない以上、回避に専念するしかなく、こちらから攻撃できる瞬間が極端に少ない。
集団戦の課題と根は同じだった。左手が空いている限り、この問題は解決しない。
* * *
ゲートを出ると、受付の職員が目を丸くしていた。
「朝霧さん……? ご無事だったんですか? 中から大きな振動が伝わってきたので、正直、もうダメかと……」
「ええ。運が良かったです」
短く答えて外に出た。夕日が坑道の入口を斜めに照らしていて、長い影が地面に伸びていた。
初のソロ攻略。成果としては上々だ。だが、満足からは程遠い。テレビで見たランク82の鳴神竜二。あの男ですら北海道のゲートで消えた。今の僕では、あの領域には遠く及ばない。
左手の問題を解決しなければ、いつか詰む日が来るだろう。
夕日に目を細めながら、僕は駅に向かって歩き出した。コートの裾が風に揺れる。
三日前まで安い革靴でオフィスの廊下を歩いていた足が、今はゲートの奥を一人で踏破している。
変わったのだ。何もかもが。その変化が正しいのか間違っているのか、判断する基準がまだ僕にはなかった。




