第4話 死に損ないの対価
警告テープが衣服に擦れて、乾いた音を立てた。フェンスの端に身体を横にして滑り込める程度の隙間がある。昼間のうちに確認しておいた監視カメラの死角だ。
カメラのレンズが向いている方角と、保安灯が作る光の境界を頭の中で重ね合わせ、影になる経路を割り出していた。こんなことが自然にできてしまう自分が少し怖い。
フェンスの金属が背中に冷たい。シャツ越しでも分かるほどの冷気で、深夜の空気が鉄を通して身体の熱を奪っていく。
横向きに身体を捩じ込むと、腰のあたりで引っかかった。ベルトのバックルがフェンスの編み目に挟まったのだ。
数秒間もがいて、ようやく抜ける。心臓がやたらとうるさい。こんなところで捕まったら不法侵入だ。ハンター資格の前に前科がつく。
フェンスの向こう側に出た。ゲートの入口が目の前にある。コンクリートの壁に切り取られた四角い穴。
保安灯の薄い光が入口の数メートルだけを照らし、その先は完全な闇だった。あの闇の中に、僕の登録証がある。そしてたぶん、僕を殺したものの同類もいる。
「……行くぞ」
声に出さないと、足が動かなかった。自分の声が通路の壁に反射して返ってくるのが聞こえる。それだけで心臓が跳ねた。
ゲートの中は、研修の時とは別の場所のようだった。
同じコンクリートの通路、同じ天井の配管。だが人がいない。足音は自分のものだけだ。
蛍光灯は半分以上が消えていて、点いている奴も明滅を繰り返している。パチ、パチ、と不規則なリズムで光が途切れるたびに、壁の影が形を変える。
スマホのライトを点けた。白い光の円が足元を照らし、それ以外の全てが逆に暗くなる。ライトを持つ手が震えていて、光の円もふらふらと揺れていた。
壁を片手で触りながら進む。コンクリートの表面はざらざらしていて、ところどころ湿っている。指先に当たる水滴の感触が生温かくて気持ち悪い。
結露だ。ゲートの中の空気は外より温度が高いのだろう。生き物の体内に入っていくような感覚がして、背筋に悪寒が走った。
足音を殺そうとするが、うまくいかない。靴底がコンクリートを踏むたびに小さな音が立ち、それが壁に反響して二重三重に返ってくる。
自分の足音を自分で聞いて怯えるという、馬鹿みたいな状況だった。
角を曲がって少し行った先で、ライトの光が床の一点を捉えた。暗闇の中に四角い反射がある。プラスチック特有の、安っぽいが鋭い光の返し方だ。
「……あった」
登録証だ。通路の真ん中、壁際ではなくど真ん中に落ちている。僕の写真と名前が印字されたプラスチックのカード。
あれを拾えば帰れる。しゃがんで手を伸ばせばいいだけの、たった数秒の動作。それなのに足が前に出ない。
理由は分かっていた。空気の質が変わっている。さっきまでの生温かさの上に、別の層が乗ってきている。湿った匂いが急激に濃くなり、喉の奥に鉄錆のような味が張りつく。息を吸うたびに、肺の中に薄い膜が張られていくような重苦しさ。
来る。何かが来る。本能がそう告げている。
逃げろ。今すぐ踵を返して走れ。登録証なんか捨てて、管理局に頭を下げて再発行してもらえ。金がなくても死ぬよりましだ。
その判断が正しいことは分かっていた。分かっていたのに、僕は手を伸ばした。
指先が登録証に触れた瞬間、空気が沈んだ。
柱の影が黒く滲み、そこから二つの頭が輪郭を持って浮かび上がった。研修の時に見た二頭型と似ているが明らかに違う。
背中から肩にかけて板を幾重にも重ねたような硬質な装甲がびっしりと生えていて、ライトの光が当たると鉛色に鈍く光った。歯も爪も一回り太い。上位個体。装甲種。
逃げなければ。そう思った時にはもう遅かった。距離がゼロになっていた。
五メートルが一瞬で消える、あの圧縮された跳躍。目の前に巨大な顎が迫る。歯の隙間から粘液が糸を引いているのが見えた。
甘酸っぱい腐臭が鼻を突き、その奥に、生肉を噛み潰した時の匂いが混じっている。
「あ――」
首筋に何かが触れた。冷たくて、硬くて、鋭い。
痛みを感じる間もなかった。視界が真っ赤に染まり、それから急速に暗くなっていく。
最後に見えたのは天井の配管だった。なぜか横向きに見えた。
首がもう身体と繋がっていないのだと理解する前に、意識が途切れた。
【死亡ログ】
原因:咬断 部位:頸部
【ラン終了】
総合評価:D
獲得経験値:+120 獲得コイン:+120
【レベルアップ:Lv1 → Lv2】
【解放可能ジョブ】
・見習い走者(基礎) 消費:30コイン
・見習い盾役(基礎) 消費:30コイン
・見習い剣士(基礎) 消費:30コイン
【解放可能スキル(走者)】
・瞬発強化Ⅰ 消費:20コイン
※初動加速・踏み込み補正(微)
暗闇の中に浮かぶ青白い文字列を、僕は呆然と見つめていた。
首の感触がまだ残っている。歯が頸椎を断つ瞬間の嫌な振動。それが消えないまま、目の前にはゲームのショップ画面みたいな選択肢が並んでいる。
コイン。報酬。ジョブ。僕が死んだことへの対価が、数値として提示されている。
吐き気がこみ上げてきた。死んだのだ。二度目の死だ。一度目は研修ゲートで首を噛まれて、二度目は今ここで首を噛まれて。
ログに目を向ける。
盾か。剣か。どちらも正面から戦う選択肢だ。だがあの速度に正面から立ち向かえる気がしない。欲しいのは、噛まれる前に間合いの外へ出る速さだ。
【ジョブ取得:見習い走者】消費:30コイン
【スキル取得:瞬発強化Ⅰ】消費:20コイン
残高:70コイン
【再挑戦が可能です】
目が覚めた。
同じ通路。同じ匂い。同じ蛍光灯の明滅。数秒前に死んだはずの場所に、僕は立っている。
首に手を当てる。繋がっている。骨がある。皮膚がある。頸動脈が脈打っている。
でも手が震えすぎていて、自分の首を触っているのか壁を触っているのか分からない。膝が折れそうになるのを、壁に手をついてどうにか堪えた。
吐きたいが吐くものがない。胃液が喉元まで上がってきて、酸っぱい味が口の中に広がった。
足を一歩出した。――軽い。
思ったより前に出る。身体の重心が、踏み出す動作よりも先に移動する奇妙な感覚。慣性を無視した加速。
レベル2の身体と瞬発強化が、足の裏から全身に微かな電流のように走っている。
「……これが、補正か」
声が掠れていた。まだ喉が強張っている。角の先を思い出す。装甲種。二つの頭。硬い装甲。
同じことを繰り返したら、また首を噛み砕かれる。あの感触を、三度味わう覚悟はない。
登録証が落ちていた場所に着く。さっきと同じ四角い反射が暗闘の中に光っている。
しゃがんで手を伸ばした瞬間、やはり空気が沈んだ。生温かい湿気が一段重くなり、壁の向こう側から圧力が迫ってくる。来る。
柱の影が滲み、二つの頭が輪郭を持つ。距離が消える速度。顎の角度。歯の隙間から垂れる粘液。すべてを知っている。
つい数分前に、このすべてに殺されたのだから。首を噛み砕かれた瞬間の振動が、頸椎の周りにまだ残っている。
身体が覚えている死が、反射的に足を止めようとする。逃げろと叫んでいる。
だが今の僕にはコンマ数秒の速さがある。死にたくないという叫びを、歯を食いしばって飲み込んだ。
装甲種が飛び出した。距離が消える。前回と同じ圧縮された跳躍。空気が震えて、腐臭が顔を叩く。
だが今回、僕は正面に残らなかった。
瞬発強化が足裏から脛、太腿、腰へと波のように伝わり、身体が考えるより早く横へ跳んでいた。牙の圏内をわずかに逃れ、通路の中央を避けて柱と柱の間に滑り込む。
「っ、速い……!」
自分の声が漏れた。速い。装甲種も速いが、僕も速い。ほんのわずかだけ。
そのわずかが、生と死を分けている。
装甲種の背が低く沈んだ直後、距離がゼロになって巨大な顎が迫ってきた。
僕は身体ごと横へ滑り込ませた。牙が頬のすぐ横をかすめて、風圧が肌を叩く。息が止まった。
今のは数センチだ。数センチでも生きている。数センチ足りなければ死んでいた。
「くっ……!」
もう片方の頭が追撃してくる。鉄パイプを振り上げて牙の軌道を強引に逸らした。硬質な衝撃が手首を痺れさせ、指の感覚が一瞬消える。
装甲に弾かれただけだ。ダメージなんて与えられていない。
だがここで気づいた。装甲種の動きには癖がある。
右の頭が噛みついた直後、左の頭が追撃するまでにコンマ五秒のラグがある。二つの頭が完全に同期していない。交互に攻撃するリズム。
一度目の死で得た情報と、今この瞬間の知覚が脳の中で繋がった。
右が来たら横へ。左が追うまでの隙に一撃だけ入れる。それを繰り返す。
装甲種が身を翻して柱を回り込み、死角を取ろうとしてきた。僕も半歩ずれて柱を遮蔽物として挟み込む。
駆け引き。人間と獣の、原始的な命の奪い合い。手汗で鉄パイプのグリップが滑る。握り直す暇がない。
再び距離が消える。柱の影から頭が飛び出し、牙が剥かれた。
さっき僕を食った口だ。同じ口が、同じ角度で迫ってくる。
「来い……!」
すれ違う寸前で踏みとどまり、自分の進路だけを半歩ずらした。牙は空を切り、勢い余った顎が床を削った。
コンクリートの破片と粉塵が舞い上がり、視界が一瞬白くなる。
その煙の向こうで、装甲種の首の戻りが遅いのが見えた。噛み外した顎を持ち上げるまでの一瞬。今だ。
踏み込む。ライトは落としてしまったが、明滅する蛍光灯のわずかな光が装甲の表面を舐めていた。
板状の装甲が何重にも重なった隙間に、一箇所だけ色が違う部分がある。板と板がずれる境界。継ぎ目。そこだけ黒い装甲の下に赤黒い皮膚が見えていた。
「そこだ……!」
鉄パイプを叩きつけた。嫌な金属音が通路に反響し、衝撃で手首から肘までが痺れた。跳ね返されそうになる。
だが装甲板がわずかにズレて重なりが浮き上がり、装甲種が一瞬だけ体勢を崩した。効いている。完全なダメージではないが、構造が歪んだ。
もう一度。浮き上がった板の隙間に、鉄パイプの先端を差し込むように突いた。鈍い手応えの後に、柔らかいものを貫く感触が手首に伝わった。中身に届いている。
装甲種が咆哮した。二つの頭が連携を失い、バラバラに暴れ始める。危険だが、チャンスでもある。
追いすぎず、離れすぎず、攻撃が届く最短の距離を保ったまま、装甲が途切れる首の付け根へ狙いを定めた。
「おおおっ!!」
渾身の力で鉄パイプを叩き込んだ。骨が砕けるような湿った音が響き、装甲種の巨体がその場に崩れ落ちた。
黒い身体が床に広がり、糸が解けるように端から霧散していく。最後に残ったのは、拳大の黒い石だけだった。
僕は鉄パイプを構えたまま、数秒間立ち尽くしていた。足元の黒い霧が完全に消えるまで動けなかった。
まだ起き上がってくるんじゃないかという恐怖が消えないのだ。十秒。二十秒。何も起きない。死んだ。本当に死んだ。
足元に屈んで、登録証を拾い上げた。プラスチックの薄いカード。表面に泥がこびりついていて、僕の顔写真がぼやけている。
これを取りに来たんだ。この安っぽいカード一枚のために、僕は二度目の死を経験した。
「……勝った」
声が震えていた。安堵より先に吐き気がこみ上げてくる。壁に手をついて、胃液を吐いた。何も食べていないから出てくるのは酸っぱい液体だけだ。
口の中が最悪な味になったが、吐いた後の方が少しだけ楽になった。
自分の身体が自分のものではないみたいに動いた感覚がまだ手に残っている。レベル2。瞬発強化。たったそれだけの数値が、生死を分けた。
帰り道、手の中の登録証を握りしめながら思う。もう元には戻れない。
死ねば強くなるシステムを、僕は知ってしまった。それが何のためにあるのか、なぜ僕に与えられたのか、何も分からない。
でも一つだけ確かなことがある。
あの装甲種を倒した時、僕の手は震えていたけれど、止まってはいなかった。
恐怖で判断が停止する「評価E」の僕はもういない。震えながらでも動ける人間に、僕は変わり始めている。
夜風が汗ばんだ首筋を冷やした。その冷たさは、ゲートの中の空気とよく似ていた。
でも今は少しだけ、その冷たさを受け入れられる気がした。




