第3話 紙の上の現実
翌朝、目が覚めた瞬間にまず首元を触った。左手で、右手で、それから両手で。
傷はない。当たり前だ。昨日も一昨日もなかった。でもこの確認をやめられない。歯を磨く前に、顔を洗う前に、首を触る。それが朝のルーティンに加わってしまった。
台所の蛍光灯を点ける。ジジジ、と右端が点滅してから白い光が安定する。
流しに置きっぱなしのマグカップを洗い、水を注いで飲む。一口目はぬるくて、二口目から冷たくなる。昨日と同じ水の温度だ。昨日と同じ蛍光灯の音だ。
何も変わっていない。変わったのは僕の方だ。
スマホの通知を確認する。出勤のアラーム。天気予報――曇り時々雨。食品スーパーの割引通知。その中に、一つだけ毛色の違うメッセージが紛れていた。
【ゲート管理局 第七出張所】
『研修ゲート案件:確認のためご連絡いたしました。朝霧透さん、本日業務後に一度、出張所へお越しください』
胃がきゅっと縮んだ。確認って、何の。僕のことを調べているのか。
ロードのことがバレたのか。いや、バレようがない。あれは僕の中だけで起きていることだ。たぶん。たぶん、だけど。
画面を閉じて、スーツに着替えた。ネクタイを締める手が微かに震えていたけれど、それは昨日の疲れのせいだと思うことにした。
会社に着くと、いつもの光景が待っていた。
灰色のパーティションで区切られたオフィス。蛍光灯の白い光。コピー機が低く唸る音。デスクの上には昨日の夕方に部長の金田が投げてよこした書類の束がそのまま残っている。
付箋には「明日の朝一で」と太いマジックで殴り書きされていた。昨日の定時五分前に渡されたものだ。
パソコンを立ち上げ、書類の山を崩し始める。隣のデスクの同僚が小声で「おはよう」と言ってくれたが、その目は僕ではなくパーティションの向こう側を警戒していた。
この時間帯の金田は、フロアを一巡して「獲物」を探す習慣がある。全員がそれを知っている。
キーボードを打つ。Excelの数字を埋める。
頭の半分はゲートの中の記憶に引っ張られていて、蛍光灯の白がコンクリート通路の白と重なるたびに息が浅くなる。もう半分は金田がいつ来るかを聴覚で警戒している。革靴が床を叩く音。あの独特の、踵を引きずるような歩き方。
それは、十時十五分にやってきた。
「朝霧」
背後から降ってくる低い声。振り返らなくても分かる。安い整髪料と、煙草と、缶コーヒーの匂い。
金田だ。五十代。脂ぎった額。首の後ろに剃り残しの毛が数本あって、いつも見るたびにゾッとする。
「昨日頼んだ資料、まだできてないのか」
「あ、すみません。今、最後の集計を――」
「今? 朝一でって言ったよな。朝一ってのは何時のことだ? 俺が来る前に仕上がってないと意味ねえんだよ」
金田は僕のデスクの横に立ち、腕を組んだ。
その体勢で見下ろされると、座っている僕との体格差が強調される。影が机の上に落ちて、書類が暗くなった。周りの同僚は全員がモニターを見つめている。目を合わせない。耳だけがこちらに向いているのが分かる。
「昨日お渡しいただいたのが定時の五分前だったので、どうしても今朝に……」
「言い訳するな。定時前だろうが定時後だろうが、頼まれた仕事は翌朝までに終わらせるのが社会人だろうが。お前の仕事はいつもそうだ。遅い。雑。で、言い訳だけは一人前」
金田の声が一段上がった。フロア中に聞こえているだろう。それが狙いだ。見せしめだ。
僕を叱ることで、他の全員に「次はお前だぞ」と示す。この男はそれを分かってやっている。
「お前の代わりなんていくらでもいるんだからな。分かってんのか?」
「……はい。すみません。急ぎます」
「急ぐじゃなくてやれよ。ったく、使えねえな」
金田が去っていく。革靴が床を叩く音が遠ざかっていく。
僕は深く息を吐いた。手が震えている。
でも、この震えはゲートの中の恐怖とは違う。もっとじめじめした、湿度の高い、逃げ場のない種類の震えだ。ゲートの中では死ぬかもしれないけれど、少なくとも敵ははっきりしていた。
ここでは敵も味方も曖昧で、ただ頭を下げ続けることだけが求められる。
隣の同僚がそっと机の下からチョコレートを差し出してきた。
目は合わせない。ただ黙って、小さなチョコを僕のキーボードの横に置いた。僕も黙ってそれを受け取った。
こういう小さな善意だけが、このフロアの空気を辛うじて吸えるものにしている。
昼休み。給湯室でコーヒーを入れていた。
インスタントのコーヒー粉末をマグカップに入れ、電気ケトルの湯を注ぐ。粉末が溶けきらずに表面に浮かんでいるのを、プラスチックのマドラーでぐるぐるとかき混ぜる。
その回転を見つめていたら、水面に映った蛍光灯の白が、またゲートの天井と重なった。配管の結露。雫が落ちる音。二つの頭。歯。
視界の右端が、ちらついた。
【ログ予告】
次回死亡時、詳細条件が開示されます
マグカップが手から滑り落ちそうになった。咄嗟に両手で掴み直す。湯が波打って、少しだけ指にかかった。
熱い。その熱さが赤い文字を霧散させた――いや、させていない。文字はまだそこにある。視界の端で、じっと光っている。
ここは会社の給湯室だ。蛍光灯と電子レンジとウォーターサーバーがある、ただの給湯室。なのにログが出る。ゲートの外で。日常の真ん中で。
「朝霧くん、大丈夫? 顔色悪いよ」
後ろから同僚の声がした。さっきチョコレートをくれた男だ。
名前は田中。入社時期が同じで、金田に怒鳴られる頻度も同じくらいの、いわば同じ塹壕の戦友だ。
「……ああ、ごめん。寝不足で」
「寝不足ねえ。金田さんにあれだけ言われりゃ、寝不足にもなるわな。あの人マジで誰かに刺されるぞそのうち」
「やめろよ、聞こえたらまた面倒なことになる」
「はいはい。……あ、そうだ。今日の飲み会、来る? 駅前の焼き鳥屋」
「……ごめん。今日は用事があって」
「了解。無理すんなよ、マジで」
田中が去っていく。視界の赤い文字は、もう消えていた。
三秒か、五秒か。体感では永遠だった。コーヒーを一口飲む。ぬるい。舌の上で苦みが広がって、少しだけ現実に引き戻される。
このログは場所を選ばない。電車の中でも、会社の給湯室でも、どこにいても僕の視界に割り込んでくる。
つまり、逃げ場はない。このシステムから――この力から――僕は永遠に逃れられないのだ。
業務後、僕は電車を二本乗り継いで、ゲート管理局第七出張所に向かった。
駅から徒歩五分、雑居ビルの三階。エレベーターは故障中で、狭い階段を上った。壁の塗装が剥げていて、踊り場に消火器が転がっている。管理局と名前はつくが、末端の出張所なんてこんなものだ。
通された面談室は四畳半ほどの広さで、白い机とパイプ椅子が二脚、壁掛けの時計。窓はあるが磨りガラスで外は見えない。空調の音だけが低く響いていた。
「朝霧さん、お忙しいところありがとうございます」
入ってきたのは、名札に久我とある三十代くらいの女性だった。黒いスーツに、眼鏡。髪をきっちりと後ろで束ねている。
声は丁寧だが温度が低い。書類を読み上げるような抑揚のなさだ。目も笑っていない。職業的な礼儀正しさと、個人的な関心のなさが同居している。
「昨日の研修ゲートで遭遇した個体についてです。あの個体は、研修用の出現テーブルに登録されていないものでした。現在、当該ゲートは封鎖措置が取られています」
「はい」
「研修参加者からの聴取を順次行っています。朝霧さんには、戦闘中の誘導行動について確認したいことがいくつかあります」
心臓の鼓動が速くなった。誘導行動。あの時僕が叫んだことだ。
嘘をつく必要はない。見たままのことを、見た範囲だけ言えばいい。ロードのことは触れない。触れようがない。
「……怖かったので、とっさに目についたことを叫んだだけです。作戦とか判断とか、そういうものじゃありません」
「なるほど。ただ、他の研修生の証言と比較すると、朝霧さんの表現にはいくつか特徴がありました。例えば、あの個体の移動を『速い』と表現された方は複数いましたが、『距離が消えるようだった』という言い方をしたのは朝霧さんだけです」
「……はい。そう見えました」
「跳躍ではなく、距離が消える。面白い表現ですね」
久我さんはそう言って、僕の目をじっと見た。
三秒、四秒。僕の方が先に目を逸らした。この人は僕の言葉の裏側を見ようとしている。でも、裏側に何があるかは僕にも分からない。嘘はついていない。ただ、全部を言っていないだけだ。
久我さんはペンを置き、ファイルから一枚の紙を取り出した。
「ここから先は研修生全員にお伝えしている内容です。管理局が算定するランクは、単純な戦闘力だけでは決まりません。実績、生還率、難易度補正、適性評価。これらを数値化した総合指標です。研修生は通常十番台から始まります。正規ハンターの平均は三十から四十。一流と呼ばれるのが五十から七十。八十を超える方は、国内でも十人に満たない数です」
「そうですか」
「朝霧さんのランクが算定され次第、登録証に反映されます。何かあれば、こちらの番号にご連絡ください」
事務的なやり取りが終わった。
面談中、二度ほど視界の端がちらついた。ログが出かけて、引っ込んだ。
面談室を出て、雑居ビルの階段を降りる。
一階のガラスドアを押し開けると、外はもう暗くなりかけていた。街灯がぽつぽつと点き始めて、コンビニの明かりが歩道を四角く照らしている。
ふとポケットに手を入れた。スマホを確認しようとして、指先が空を掴んだ。
あれ。もう一度探る。上着の内ポケット。ズボンの右ポケット。左ポケット。鞄のサイドポケット。財布のカード入れ。
ない。
心臓が沈んだ。胃の底に重い石を落とされたような感覚。指先だけが冷たくなっていく。
「嘘だろ……」
登録証がない。僕の写真と名前が印字された、プラスチックの身分証。ハンターとしての唯一の証明。
あれがなければ資格停止だ。再発行には手続きと費用と時間がかかる。研修はやり直し。今日までの全部が無駄になる。
落とした場所を考えるのに時間は要らなかった。研修ゲートの通路だ。あの曲がり角で足を止めた瞬間か、明菜さんに袖を引かれて半歩ずれた時か。
カードが滑り落ちた感触は覚えていない。あの時は生きるか死ぬかで、ポケットの中身なんて気にしている余裕がなかった。
正しい手順は管理局に届けて回収手続きを待つことだ。だが今日、久我さんから「封鎖継続」と言われたばかりだ。いつ解除されるか分からない。一週間か、一ヶ月か。その間、僕はハンターとしての活動ができない。
今の仕事の給料だけでは来月の生活が苦しくなる。
夜の街を歩きながら、頭の中で選択肢を潰していく。
取りに行く以外に、方法が思いつかない。
気づけば、僕は研修ゲートの入口前に立っていた。
金属のフェンスに黄色い警告テープが張られ、「立入禁止」の札が下がっている。照明は最低限の保安灯だけで、地面に落ちる影が濃い。
フェンスの向こうに見えるゲートの入口は、闇の中でぽっかりと口を開けていた。あの奥に、装甲種がまだいるかもしれない。あるいはもっと厄介な何かが。
首元が冷たい。あの温度だ。一昨日の死の、残り香みたいな冷たさ。
視界の端で、ログがちらついた。
【ログ予告】
次回死亡時、詳細条件が開示されます
「次回死亡時」。このシステムは、僕がもう一度死ぬことを前提にしている。僕の意思とは関係なく、次の死がスケジュールに組み込まれているかのような口ぶりだ。
足が震えている。行きたくない。あの中にはまだ何がいるか分からない。装甲種がいるかもしれない。もっと酷いものがいるかもしれない。
首元の冷たさが、あの瞬間の歯の感触が、全力で警告を鳴らしている。行くな、と。死ぬぞ、と。
でも、行かなければ登録証は戻ってこない。登録証がなければハンターとして働けない。働けなければ来月の家賃が払えない。家を失えば、もう這い上がれない。
あのゲートの奥にあるプラスチックのカード一枚が、今の僕にとっては命綱そのものだった。
怖い。死にたくない。でも、このまま何もしなかったら、ゲートの中で死ぬより静かに、確実に詰んでいく。
どっちに転んでも地獄なら、せめて自分の足で選んだ方の地獄がいい。そう思わないと、一歩も動けなかった。




