第2話 残った温度
ログの赤い文字が消えた後も、僕はしばらくその場に立っていた。ゲートの出口から少し離れたベンチの横。周りにはもう誰もいない。
研修組はとっくに管理局のテントに集まっているはずだ。午後の日差しはまだ高い位置にあるのに、首元だけが冷たくて、身体の芯に季節外れの寒気がこびりついている。
足を動かさなきゃと思うのに、アスファルトの上に立っている感覚がまだコンクリートの通路のままで、脳の切り替えが追いつかない。
ゲートの中の空気を肺が覚えていて、外の空気を吸うたびに違和感が走る。
「透くん? ……透くん」
明菜さんの声に呼ばれて、ようやく顔を上げる。
彼女はもうゲートの外の空気に馴染んでいるようで、盾を背中に背負って肩を回していた。それでも顔色は白いままだ。
「大丈夫? さっきから、ぼーっとしてて。声かけても反応なくて」
「……はい。ちょっと、疲れただけです」
「疲れた、って顔じゃないよ。真っ白。ほら、唇も色ないし」
明菜さんが顔を覗き込んでくる。近い。シャンプーの匂いがかすかにした。
ゲートの中の腐臭の中に何時間もいた後だと、それだけで別の世界の匂いに感じる。
「……そうですか」
それ以上、言葉が出なかった。
喉の奥に何かが詰まっている感じがして、無理に話そうとすると声が裏返りそうだった。
管理局の簡易テント前は、研修組の帰還で慌ただしくなっていた。
負傷者の確認、装備の回収、報告の聞き取り。テントの中からはヨードチンキの匂いと、リーダーのうめき声が漏れている。骨折はしたが命に別状はないらしい。
何人かの研修生が泣いていた。声を殺して、あるいは隠そうともせず。
列に並んで順番を待っている間、後ろで研修組の男たちが声を潜めて話している。
さっき「モンスター出るのかな」と囁いていた少年と、その隣の男だ。
「つーかあれ何だったんだよ。研修でこんなん出るって聞いてねえぞ」
「リーダーの人、肋骨六本いったらしいぜ。内臓にも損傷あるって。もうちょいで死んでた」
「うわ……。やっぱハンターなんてやめようかな。マジで。親にも反対されてるし」
「でも金はいいんだろ? バイトの何倍だっけ」
「金はな……。金は、いいんだけどさ……」
語尾が沈んでいく。答えが出ない問いだ。
怖い。でも金がいい。その二つの間で揺れている人間が僕だけじゃないことに、少しだけ安堵した。
少なくとも、この列に並んでいる全員が同じ天秤の上にいる。片方に恐怖、もう片方に生活。どっちが重いかは人それぞれだけど、天秤そのものは同じだ。
帰り道、明菜さんが「途中まで一緒に帰りませんか」と言った。
断る理由がなかった。正確に言えば、一人になるのが怖かった。でもそれは言えないから、「はい」とだけ答えた。
並んで歩く。住宅街の細い道を、二人分の足音だけが埋めていく。
どこかの家からカレーの匂いがして、誰かが呼び鈴を鳴らす音がした。
こんなに普通の世界がすぐそこにあるのに、三十分前の僕は首を噛み砕かれて死んでいた。その事実が、カレーの匂いと同じ空気の中に存在していることが、どうしても噛み合わない。
しばらくは何も話さなかった。
明菜さんは黙っている時、左手の親指で盾のストラップを無意識になぞる癖があった。革の上を指の腹が往復する小さな音が、二人の間の沈黙を細く繋いでいた。
「……怖かったですね」
ぽつりと、明菜さんが言った。前を見たまま。
「はい」
「正直、もう二度と潜りたくないって思った。家帰ったら登録取り消しの書類探そうかなって、さっきから考えてました。……透くんは?」
僕は少し考えた。正直に答えるべきか、無難に流すべきか。
明菜さんの横顔を見る。いつもの笑顔はない。強がりもない。ただ疲れ切った顔で、前を向いている。
この人には嘘をつきたくないな、と思った。理由は分からないけど。
「……僕も、怖かったです。たぶん明菜さんより怖がってた。手が震えて止まらなかったし、叫んだ時なんて自分の声だって分からなかった」
「でも、叫べてました。私は声も出なかった」
「怖すぎて変な声が出ただけですよ。それで何かが変わったわけじゃないし……でも」
「でも?」
「……分からないです。怖いのに、何か、引っかかるものがあって。あのログ――いや、なんでもないです」
危ない。ログのことを口にしかけた。
明菜さんが不思議そうに僕を見ている。ごまかすように視線を逸らすと、電信柱に張られた「ゲート発生注意」のポスターが目に入った。
七年前には存在しなかった日常の一部。
「透くんって、変わってるね」
「よく言われます。だいたい悪い意味で」
「私は褒めてますよ」
明菜さんの口の右端がわずかに上がった。
「ねえ、透くん。もし……もしまた潜ることがあったら、一緒のチームがいいな。透くんがいると、なんか、大丈夫な気がするから」
「僕がいても大丈夫じゃなかったですよ。今日」
「でも、あの場に透くんがいなかったら、もっと悲惨なことになってましたよ」
僕は何も返せなかった。返す言葉が見つからなかったんじゃなく、返したら声が震えそうだったからだ。
黙って歩いた。明菜さんも黙って歩いた。それでよかった。
駅前で別れた。明菜さんが改札の向こうで一度だけ振り返って、小さく手を振った。僕も振り返したけど、たぶんぎこちなかったと思う。
彼女の背中が人混みに紛れて見えなくなるまで、僕はそこに立っていた。
帰宅ラッシュの電車の中は、体温と衣服の匂いで飽和していた。
吊り革に掴まり、揺られながら、窓に映る自分の顔を見る。
明菜さんの言う通り、唇に色がない。目の下に隈ができていて、頬がこけたように見える。たった半日のゲート探索でこれだ。
疲れているのは身体だけじゃない。脳の奥が重い。考えることが多すぎて、処理が追いついていない感覚がある。
その瞬間だった。
視界の端が、ちらついた。最初は車内広告のLEDが反射したのかと思った。だが違う。光源は外にない。僕の目の中だ。
網膜の裏側から、何かが浮かび上がろうとしている。
【ログ通知】
記録:保存済み
詳細条件:未開示
心臓が跳ね上がった。
半透明の赤い文字が、視界の右端にうっすらと浮かんでいる。電車の天井の蛍光灯に重なるように。まるで現実にフィルターをかけたみたいに、文字だけが別のレイヤーに存在している。
隣の乗客をちらりと見る。四十代くらいのサラリーマンがスマホをいじっている。前の座席では制服姿の女子高生二人が小声で笑い合っている。斜め向かいのおじいさんは居眠りをして、口が半開きだ。
誰も赤い文字なんて見ていない。当たり前だ。これは僕の目の中にしかない。
僕は息を止めた。視線を窓に固定し、瞬きの回数を意識的に減らした。赤い文字は視界の端で静かに光っている。
消えてくれと念じても消えない。無視しようとしても、端にあるというだけで意識を引っ張ってくる。
三駅分、僕はまばたきすら怖かった。
隣のサラリーマンが缶コーヒーのプルタブを開ける音に、反射的に肩が跳ねた。それを見た女子高生が一瞬だけ僕を見て、すぐに友達との会話に戻った。
ただの挙動不審な男だと思われただけだ。それでも胃がきゅっと縮む。
ログは三十秒ほどで消えた。
降りた駅のホームで、ようやく息を吐いた。吐き出した空気が白く見えるほど身体が冷えている。
膝が笑っていて、階段を降りるのに手すりが必要だった。
家のドアを閉めて鍵を回す。チェーンをかける。靴を脱ぐ。
静けさが落ちてくる。六畳一間のワンルーム。壁紙の端がめくれかけていて、そこから下地のベニヤが覗いている。台所の蛍光灯は右端がジジジと音を立てて点滅していて、いつ切れてもおかしくない。
冷蔵庫だけが律儀にぶうんと低い音を立て続けている。
ここには何もない。テレビと布団と安い棚だけの部屋だ。でも今はこの何もなさが救いだった。ゲートの中の過剰な情報量から解放されて、ようやく頭の中が静かになる。
流しで水を出した。蛇口を捻ると最初に出てくる水はぬるくて、しばらく出し続けるとようやく冷たくなる。
コップに注いで、一口。冷たさが喉を通って、胸の真ん中まで降りていく。冷たいということは、感覚があるということだ。感覚があるということは、生きているということだ。
首に触れる。今日だけで何度目だろう。爪を立てるくらい強く触った。痛い。
でも傷はない。噛まれた跡もない。骨は折れていない。動脈は脈打っている。なのに、そこだけが冷たい。
あの瞬間の温度が、まだ残っている。皮膚の表面ではなくて、もっと奥の方に。
首の骨の周りに氷の膜が張りついているような、そういう冷たさだ。
僕は普通の人間じゃなくなりつつある。半日前まで普通だった。研修で震えて、明菜さんに心配されて、金が欲しくてハンターになった、ただの弱い男だった。
それが今、視界にログが浮かぶ人間になっている。その変化が、首の冷たさよりもずっと重かった。
冷蔵庫からペットボトルの水を取り出して、布団の上に座り込む。飲まないまま抱えている。冷たいプラスチックの感触が手のひらに心地いい。
今日起きたこと全部を頭の中で整理しようとして、無理だとすぐに悟った。整理なんてできない。死んで、戻って、叫んで、生きて帰ってきた。それだけのことなのに、言葉にしようとすると全部がバラバラに崩れる。
考えるのは明日でいい。今は、ただ生きている。それだけでいい。
水を一口飲んで、蛍光灯を消した。布団に潜り込む。
枕に顔を押し付けると、洗剤の匂いがした。三日前に自分で洗って干した枕カバーの、安い洗剤の匂い。ゲートの中にはなかった匂いだ。
その匂いを吸い込みながら目を閉じると、身体の強張りがほんの少しだけ緩んだ。
でも首の冷たさだけは、枕の温度では溶けなかった。




