表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
死に戻りハンターの英雄譚〜「ロード」であらゆるジョブを手にした俺はいつの間にか人類最後の希望になっていました  作者: ころん


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

2/15

第2話 残った温度

ログの赤い文字が消えた後も、僕はしばらくその場に立っていた。ゲートの出口から少し離れたベンチの横。周りにはもう誰もいない。


 研修組はとっくに管理局のテントに集まっているはずだ。午後の日差しはまだ高い位置にあるのに、首元だけが冷たくて、身体の芯に季節外れの寒気がこびりついている。


 足を動かさなきゃと思うのに、アスファルトの上に立っている感覚がまだコンクリートの通路のままで、脳の切り替えが追いつかない。

 ゲートの中の空気を肺が覚えていて、外の空気を吸うたびに違和感が走る。


「透くん? ……透くん」


 明菜さんの声に呼ばれて、ようやく顔を上げる。

 彼女はもうゲートの外の空気に馴染んでいるようで、盾を背中に背負って肩を回していた。それでも顔色は白いままだ。


「大丈夫? さっきから、ぼーっとしてて。声かけても反応なくて」


「……はい。ちょっと、疲れただけです」


「疲れた、って顔じゃないよ。真っ白。ほら、唇も色ないし」


 明菜さんが顔を覗き込んでくる。近い。シャンプーの匂いがかすかにした。

 ゲートの中の腐臭の中に何時間もいた後だと、それだけで別の世界の匂いに感じる。


「……そうですか」


 それ以上、言葉が出なかった。

 喉の奥に何かが詰まっている感じがして、無理に話そうとすると声が裏返りそうだった。




 管理局の簡易テント前は、研修組の帰還で慌ただしくなっていた。


 負傷者の確認、装備の回収、報告の聞き取り。テントの中からはヨードチンキの匂いと、リーダーのうめき声が漏れている。骨折はしたが命に別状はないらしい。

 何人かの研修生が泣いていた。声を殺して、あるいは隠そうともせず。


 列に並んで順番を待っている間、後ろで研修組の男たちが声を潜めて話している。

 さっき「モンスター出るのかな」と囁いていた少年と、その隣の男だ。


「つーかあれ何だったんだよ。研修でこんなん出るって聞いてねえぞ」


「リーダーの人、肋骨六本いったらしいぜ。内臓にも損傷あるって。もうちょいで死んでた」


「うわ……。やっぱハンターなんてやめようかな。マジで。親にも反対されてるし」


「でも金はいいんだろ? バイトの何倍だっけ」


「金はな……。金は、いいんだけどさ……」


 語尾が沈んでいく。答えが出ない問いだ。


 怖い。でも金がいい。その二つの間で揺れている人間が僕だけじゃないことに、少しだけ安堵した。

 少なくとも、この列に並んでいる全員が同じ天秤の上にいる。片方に恐怖、もう片方に生活。どっちが重いかは人それぞれだけど、天秤そのものは同じだ。




 帰り道、明菜さんが「途中まで一緒に帰りませんか」と言った。


 断る理由がなかった。正確に言えば、一人になるのが怖かった。でもそれは言えないから、「はい」とだけ答えた。

 並んで歩く。住宅街の細い道を、二人分の足音だけが埋めていく。


 どこかの家からカレーの匂いがして、誰かが呼び鈴を鳴らす音がした。

 こんなに普通の世界がすぐそこにあるのに、三十分前の僕は首を噛み砕かれて死んでいた。その事実が、カレーの匂いと同じ空気の中に存在していることが、どうしても噛み合わない。


 しばらくは何も話さなかった。

 明菜さんは黙っている時、左手の親指で盾のストラップを無意識になぞる癖があった。革の上を指の腹が往復する小さな音が、二人の間の沈黙を細く繋いでいた。


「……怖かったですね」


 ぽつりと、明菜さんが言った。前を見たまま。


「はい」


「正直、もう二度と潜りたくないって思った。家帰ったら登録取り消しの書類探そうかなって、さっきから考えてました。……透くんは?」


 僕は少し考えた。正直に答えるべきか、無難に流すべきか。

 明菜さんの横顔を見る。いつもの笑顔はない。強がりもない。ただ疲れ切った顔で、前を向いている。


 この人には嘘をつきたくないな、と思った。理由は分からないけど。


「……僕も、怖かったです。たぶん明菜さんより怖がってた。手が震えて止まらなかったし、叫んだ時なんて自分の声だって分からなかった」


「でも、叫べてました。私は声も出なかった」


「怖すぎて変な声が出ただけですよ。それで何かが変わったわけじゃないし……でも」


「でも?」


「……分からないです。怖いのに、何か、引っかかるものがあって。あのログ――いや、なんでもないです」


 危ない。ログのことを口にしかけた。

 明菜さんが不思議そうに僕を見ている。ごまかすように視線を逸らすと、電信柱に張られた「ゲート発生注意」のポスターが目に入った。

 七年前には存在しなかった日常の一部。


「透くんって、変わってるね」


「よく言われます。だいたい悪い意味で」


「私は褒めてますよ」


 明菜さんの口の右端がわずかに上がった。


「ねえ、透くん。もし……もしまた潜ることがあったら、一緒のチームがいいな。透くんがいると、なんか、大丈夫な気がするから」


「僕がいても大丈夫じゃなかったですよ。今日」


「でも、あの場に透くんがいなかったら、もっと悲惨なことになってましたよ」


 僕は何も返せなかった。返す言葉が見つからなかったんじゃなく、返したら声が震えそうだったからだ。

 黙って歩いた。明菜さんも黙って歩いた。それでよかった。


 駅前で別れた。明菜さんが改札の向こうで一度だけ振り返って、小さく手を振った。僕も振り返したけど、たぶんぎこちなかったと思う。

 彼女の背中が人混みに紛れて見えなくなるまで、僕はそこに立っていた。




 帰宅ラッシュの電車の中は、体温と衣服の匂いで飽和していた。


 吊り革に掴まり、揺られながら、窓に映る自分の顔を見る。

 明菜さんの言う通り、唇に色がない。目の下に隈ができていて、頬がこけたように見える。たった半日のゲート探索でこれだ。


 疲れているのは身体だけじゃない。脳の奥が重い。考えることが多すぎて、処理が追いついていない感覚がある。


 その瞬間だった。


 視界の端が、ちらついた。最初は車内広告のLEDが反射したのかと思った。だが違う。光源は外にない。僕の目の中だ。

 網膜の裏側から、何かが浮かび上がろうとしている。


【ログ通知】

記録:保存済み

詳細条件:未開示


 心臓が跳ね上がった。

 半透明の赤い文字が、視界の右端にうっすらと浮かんでいる。電車の天井の蛍光灯に重なるように。まるで現実にフィルターをかけたみたいに、文字だけが別のレイヤーに存在している。


 隣の乗客をちらりと見る。四十代くらいのサラリーマンがスマホをいじっている。前の座席では制服姿の女子高生二人が小声で笑い合っている。斜め向かいのおじいさんは居眠りをして、口が半開きだ。

 誰も赤い文字なんて見ていない。当たり前だ。これは僕の目の中にしかない。


 僕は息を止めた。視線を窓に固定し、瞬きの回数を意識的に減らした。赤い文字は視界の端で静かに光っている。

 消えてくれと念じても消えない。無視しようとしても、端にあるというだけで意識を引っ張ってくる。


 三駅分、僕はまばたきすら怖かった。

 隣のサラリーマンが缶コーヒーのプルタブを開ける音に、反射的に肩が跳ねた。それを見た女子高生が一瞬だけ僕を見て、すぐに友達との会話に戻った。


 ただの挙動不審な男だと思われただけだ。それでも胃がきゅっと縮む。

 ログは三十秒ほどで消えた。


 降りた駅のホームで、ようやく息を吐いた。吐き出した空気が白く見えるほど身体が冷えている。

 膝が笑っていて、階段を降りるのに手すりが必要だった。




 家のドアを閉めて鍵を回す。チェーンをかける。靴を脱ぐ。


 静けさが落ちてくる。六畳一間のワンルーム。壁紙の端がめくれかけていて、そこから下地のベニヤが覗いている。台所の蛍光灯は右端がジジジと音を立てて点滅していて、いつ切れてもおかしくない。

 冷蔵庫だけが律儀にぶうんと低い音を立て続けている。


 ここには何もない。テレビと布団と安い棚だけの部屋だ。でも今はこの何もなさが救いだった。ゲートの中の過剰な情報量から解放されて、ようやく頭の中が静かになる。


 流しで水を出した。蛇口を捻ると最初に出てくる水はぬるくて、しばらく出し続けるとようやく冷たくなる。

 コップに注いで、一口。冷たさが喉を通って、胸の真ん中まで降りていく。冷たいということは、感覚があるということだ。感覚があるということは、生きているということだ。


 首に触れる。今日だけで何度目だろう。爪を立てるくらい強く触った。痛い。

 でも傷はない。噛まれた跡もない。骨は折れていない。動脈は脈打っている。なのに、そこだけが冷たい。


 あの瞬間の温度が、まだ残っている。皮膚の表面ではなくて、もっと奥の方に。

 首の骨の周りに氷の膜が張りついているような、そういう冷たさだ。


 僕は普通の人間じゃなくなりつつある。半日前まで普通だった。研修で震えて、明菜さんに心配されて、金が欲しくてハンターになった、ただの弱い男だった。

 それが今、視界にログが浮かぶ人間になっている。その変化が、首の冷たさよりもずっと重かった。


 冷蔵庫からペットボトルの水を取り出して、布団の上に座り込む。飲まないまま抱えている。冷たいプラスチックの感触が手のひらに心地いい。

 今日起きたこと全部を頭の中で整理しようとして、無理だとすぐに悟った。整理なんてできない。死んで、戻って、叫んで、生きて帰ってきた。それだけのことなのに、言葉にしようとすると全部がバラバラに崩れる。


 考えるのは明日でいい。今は、ただ生きている。それだけでいい。


 水を一口飲んで、蛍光灯を消した。布団に潜り込む。

 枕に顔を押し付けると、洗剤の匂いがした。三日前に自分で洗って干した枕カバーの、安い洗剤の匂い。ゲートの中にはなかった匂いだ。


 その匂いを吸い込みながら目を閉じると、身体の強張りがほんの少しだけ緩んだ。

 でも首の冷たさだけは、枕の温度では溶けなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ