第14話 手放さないもの
八回目の攻略を終えた帰り道のことだった。
浅層と中層の境界エリアを抜けて出口に向かう途中、僕は少し先を歩いていて、三浦は魔石で膨らんだリュックを背負って数メートル後ろからついてきていた。今日の稼ぎは十六万ほど。変異種が一体混じっていたおかげで相場より高い。
三浦は回収中にその変異種の鱗の色味について延々と解説してくれたが、途中から僕が聞いていないことに気づいて「あ、また長かったですか」と自分で打ち切った。最近は自分で気づけるようになってきた。成長と呼んでいいのか分からないが。
崩れたビルの裏手を抜ける狭い通路に差し掛かった時、三浦の方から声が聞こえた。三浦のものではない。低い、威圧的な声だ。
「おい兄ちゃん、いいリュック持ってるな。中身、重そうじゃねえか」
振り返った。三人の男が三浦を囲んでいた。汚れたレザーアーマーに手斧やナイフを帯びた、いかにも素行の悪い連中だ。ランクバッジは見えないが、装備の質から推測してランク20台の後半だろう。
水没都市は管理局の監視が甘い。ゲートの奥まで来ると監視カメラの死角が増えるし、職員が巡回に来ることもまずない。そういう場所には、魔物を狩るよりも弱い人間を狩る方が効率がいいと考える連中が棲みつく。狩場荒らし。ここでは珍しくない光景らしかった。
男の一人が三浦のリュックの肩紐を掴んでいた。太い指が革ベルトに食い込んでいる。三浦は一歩後ろに引いていたが、紐を掴まれているせいで距離が取れない。
顔が青白いのはいつものことだが、今日はそこに別の色が混じっていた。怯えとは微妙に違う、もっと硬い何かだ。
「な、なんですか。離してください」
「通行料だよ通行料。ここは俺たちのシマだ。通りたきゃ、そのリュック置いていきな。中身だけでいい。殴られたくなけりゃな」
「シマって……ここはフリーのゲートですよ。管理局のマップにも占有エリアの記載は――」
「うるせえな。見たところ連れもいねぇし、その装備でC級来るってことはよっぽど金に困ってるんだろ? 大人しく渡せよ。痛い目見たくなけりゃな」
男はまだ僕に気づいていなかった。通路の曲がり角を曲がった直後の場所で、僕の姿は壁の陰に隠れている。気配遮断が無意識に作動しているのか、三人とも僕の方を一度も見ていない。
介入するのは簡単だ。今すぐ角を曲がれば、三秒で三人を無力化できる。
だが、少しだけ待つことにした。三浦がどう出るのかを見たかった。これは試験ではない。ただ、三浦がどこまで自分の足で立てるのかを知っておきたかった。
「……嫌です」
三浦の声が聞こえた。蚊の鳴くような音量だが、震えていない。
「あぁ?」
「渡しません。これは僕のものです」
男たちの表情が変わった。予想外の反応だったのだろう。
この手の相手は大抵、凄まれた時点で恐怖で硬直し、抵抗せずに荷物を差し出す。それが「弱い人間」の正しい振る舞いだ。少なくとも、狩場荒らしたちの経験則ではそうだった。
「はぁ? お前、状況分かってんのか? 三対一だぞ。しかもお前、ランクいくつだ。10そこらだろ。俺たちに勝てるわけねえだろうが」
「勝てないのは分かってます。でも渡しません」
三浦はリュックの肩紐を両手で握り直した。白くなるほど強く。爪が革に食い込んでいる。
眼鏡の奥の目は恐怖で潤んでいたが、視線は男たちの顔から逸れていなかった。
「この中身は……僕と、朝霧さんが命懸けで集めたものです。妹の治療費になるものです。渡すわけにはいかないんです」
男のうちの一人が、面倒くさそうに舌打ちした。
「事情なんざ知らねえよ。どけ」
胸ぐらを掴まれ、壁に叩きつけられた。後頭部がコンクリートにぶつかる鈍い音がした。三浦の眼鏡が外れて水面に落ち、小さな波紋を広げる。
だが三浦はリュックの紐を離さなかった。壁に背中をつけたまま、両手でリュックを抱え込んで丸くなった。亀が甲羅に引っ込むように。リュックだけは絶対に渡さないという姿勢だ。
「テメェ……!」
拳が三浦の腹に入った。低い呻き声が漏れる。二発目が頬に入り、三浦の身体が横に揺れた。口の中を切ったのか、唾液に赤いものが混じって水面に落ちた。
それでもリュックは離さない。殴られるたびに身体が縮こまっていくのに、両手だけが頑なに動かない。
「いい加減にしやがれ! 指へし折ってやろうか!」
「いやだ……! 渡さない……! これは……妹の……!」
声が裏返っていた。涙と鼻血が混じった顔で、それでも「嫌だ」と言い続けている。
諦めるという選択肢が、この男の辞書にはないらしかった。殴られる痛みよりも、リュックの中身を失う恐怖の方が大きい。もっと正確に言えば、リュックの中身が変わるもの――妹の治療費という未来を失うことが、この瞬間の暴力よりも耐えがたいのだ。
十分に見た。
僕は角を曲がった。気配遮断を解かないまま、三人の背後に回る。足裏が水面を撫でるように踏み、波紋すら立たない。暗殺者の歩行だ。
一人目の背中まで一メートルに近づいた時点で、牙剣の切っ先を男の首筋に当てた。刃が皮膚に触れる寸前で止めている。鋼の冷たさが伝わったのだろう。男の首筋に鳥肌が立つのが見えた。
「その手を離してもらえますか」
男が凍りついた。振り返ろうとして、首筋の金属の感触に気づき、動きを止める。残りの二人が僕を見て顔色を変えた。いつの間に現れたのか、理解が追いついていない顔だ。
「な、なんだお前……いつからいた……」
「最初から」
「は……? 嘘だろ、気配なんて……」
「三秒以内に手を離さなければ、腱を切ります。手首の腱を切られると指が動かなくなって、二度と武器は握れなくなりますよ」
声に感情は込めなかった。事実を述べているだけだ。だがその無感情さが、逆に本気であることを伝えたらしい。男が三浦の胸ぐらから手を離し、ゆっくりと両手を上げた。残りの二人も後ずさっている。
「わ、分かった。悪かった。もう手は出さねえ」
「それと」
僕は牙剣を引かず、もう一歩近づいた。男の耳元に口を寄せる。
「次にここで見かけたら、手首じゃ済みませんよ」
男の喉から絞り出されるような音が漏れた。僕が刃を引くと、三人は転がるようにして通路の奥に走り去っていった。水飛沫が上がり、角を曲がる足音が遠ざかり、やがて消えた。
* * *
三浦は壁に背をつけたまま、リュックを抱えて座り込んでいた。頬が赤く腫れ始めていて、鼻血が唇の端まで垂れている。
眼鏡はまだ水の中だ。僕はそれを拾い上げて、レンズの汚れを袖で拭いてから渡した。
「三浦さん。怪我は」
「だ、大丈夫です。リュックは……無事です。一個も取られてません」
三浦は自分の怪我よりも先にリュックの無事を報告した。拭いた眼鏡をかけ直すと、レンズの汚れの隙間から涙が一筋流れた。痛みなのか、安堵なのか、あるいはその両方か。
「……なんで離さなかったんですか。殴られてまで」
「だって、これは僕と朝霧さんの稼ぎです。持ち逃げされたら朝霧さんにも迷惑がかかる。それに――」
三浦は俯いて、声を落とした。
「妹の治療費なんです。あと少しで、手が届く。ここで取られたら、また何日分か余計にかかる。その間にもユイの身体は……」
途中で言葉が途切れた。「ユイ」。初めて聞く名前だった。妹の名前だ。
三浦はそれまで「妹」としか言わなかったのに、殴られて感情の蓋が緩んだせいか、名前が口をついて出たのだろう。
「ユイちゃん。妹さんの名前ですか」
「あ……はい。三浦ユイ。小学五年生です。すごく元気な子で……元気って言うか……」
また途切れた。十三話の蕎麦屋の時と同じだ。「元気な子」と言いかけて、何かを飲み込む。二回目だ。偶然ではない。この話題に触れるたびに、三浦の中で何かがつかえている。
聞くべきか。いや、今は聞かない。頬を殴られて鼻血を流しているたった今、踏み込んでいい領域ではない。
代わりに、消毒液を取り出して三浦の頬の傷に塗った。
「痛っ……!」
「我慢してください。……三浦さん」
「はい」
「三浦さんは強いです」
「……え?」
「三対一で、殴られて、それでも離さなかった。あれは僕にはできません」
嘘ではなかった。僕なら、状況を計算して一時的に手放す。三人を無力化してから取り返す方が合理的だからだ。
だが三浦はそうしなかった。計算ではなく、感情で動いた。理性では手放す方が正しい場面で、それでも手放さない強さ。それは僕にはないものだった。
三浦は信じられないという顔で僕を見つめていた。唇がわなわなと震えている。泣くのかと思ったが、泣かなかった。
代わりに、ぐしゃぐしゃの顔のまま、不器用に笑った。
「……ありがとうございます。そんなこと、言われたの初めてです」
「事実を言っただけです」
「また理屈ですか?」
「理屈じゃないですよ。今回は」
三浦が少し目を丸くして、それからもう一度笑った。今度はさっきより自然な笑顔だった。頬の傷が痛むのか少し歪んでいるが、目の奥の光は温かかった。
* * *
ゲートを出て、駅に向かう道を歩いた。三浦は殴られた頬を気にしながらも、足取りはいつもと変わらなかった。
リュックの紐を両手で握り締めて歩く姿は、中身が空でもきっと同じだっただろう。この男にとって、リュックは単なる荷物入れではない。妹と自分を繋ぐ命綱だ。
改札の前で三浦が足を止めた。
「あの、朝霧さん」
「はい」
「明日なんですけど……ゲートに入る前に、寄りたいところがあるんです。三十分くらいで済むので」
「寄りたいところ?」
「妹が入院してる病院です。すぐ近くなんです。……あの、もしよかったら、ユイに会ってもらえませんか」
予想していなかった。三浦が僕を妹に引き合わせようとしている。ゲートの中で共に命を賭けている相手に、自分の一番大切な存在を見せようとしている。
それが何を意味するのか、三浦自身は意識していないかもしれないが、僕には分かる。信頼の証だ。八回の攻略を経て、三浦は僕を「妹に会わせてもいい人間」だと判断したのだ。
「……いいですよ。明日、病院に寄りましょう」
「本当ですか! ありがとうございます! ユイ、きっと喜びます。お兄ちゃんの仕事仲間が来るって聞いたら、絶対はしゃぐ」
「僕、子供の相手は得意じゃないですけど」
「大丈夫です、ユイが勝手に喋るので。朝霧さんは頷いてるだけで大丈夫です」
三浦は鼻血の跡が残る顔で笑い、改札を通って行った。今日も小走りだ。妹のところへ急いでいるのだろう。殴られた体で走るなよ、と思ったが、言っても聞かないだろうから黙っていた。
帰りの電車で、僕はぼんやりと窓の外を見ていた。
三浦がリュックを離さなかった時の、あの手つきを思い出している。白くなるほど強く握り締められた指。爪が革に食い込んで、手の甲の腱が浮き出ていた。
あの力は筋力ではなかった。筋力だけでは、三発殴られても手を離さないことの説明がつかない。
あれは執着だ。何かを絶対に失いたくないという、理性の外側にある力。恐怖や痛みを超越する種類の強さだ。ハンターとしての才能とは違うかもしれないが、人間としての才能だと僕は思う。
そしてふと、自分には何があるだろうかと考えた。
三浦にとっての妹のように、殴られても手放さないものが、僕にはあるだろうか。
命。それは当然だ。でもそれは「ロード」がある以上、何度でもやり直せてしまう。失う恐怖がないわけではないが、三浦の恐怖とは質が違う。三浦は一度しかない命を賭けてリュックを守った。僕は何度でもやり直せる命で戦っている。どちらが重いかは考えるまでもなかった。
明日、三浦の妹に会う。「すごく元気な子」と三浦は言いかけて、二回言葉を飲んだ。元気でないのだろう。たぶん。だから治療費がいるのだ。
だから三浦はC級ゲートに潜っている。怖くて吐きそうになりながら、リザードマンの内臓に手を突っ込みながら。全部、あの子のために。
窓に映る自分の顔を見た。表情がなかった。いつの間にか、何も感じていない顔をする癖がついている。これが暗殺者の精神補正なのか、単に感情が摩耗してきているのか、自分でも分からなかった。
首元に触れた。冷たさはもう、日常の一部になっている。触れても驚かなくなった。
それが良いことなのか悪いことなのか、まだ答えは出ない。




