第12話 水没都市
一時間後、駅前の広場に三浦は立っていた。
新品のリュックを背負い、カーゴパンツのポケットがやけに膨らんでいる。中身は飴だろう。「低血糖になると判断力が落ちるので」と言っていたのを思い出す。おにぎりは断ったが飴は持ってくる、という律儀さがこの男らしかった。
顔色は一時間前にロビーで別れた時と変わらず紙のように白く、唇の端がぴくぴくと痙攣している。
ただ、眼鏡だけは新しくなっていた。さっきまで蹴られて曲がったフレームをかけていたのが、予備の眼鏡に替えたらしい。度が合っていないのか、しきりに目を細めている。
「お待たせしました。準備はいいですか」
「は、はい……たぶん」
「飴、持ってきましたか」
「持ってきました! ぶどう味といちご味とレモン味があります。朝霧さんはどれがいいですか」
「今は大丈夫です。行きましょう」
電車に乗った。千葉県の湾岸部にあるC級ゲートまで、乗り換え一回で四十分ほどだ。
車内は朝のラッシュが過ぎた後の中途半端な混み具合で、座席の半分くらいが埋まっている。僕と三浦は並んで吊り革を掴んだ。三浦はリュックの肩紐を白くなるほど握りしめていて、吊り革の方はほとんど支えになっていない。
三浦は黙っていられないタイプらしかった。恐怖が高まると沈黙に耐えられなくなるのか、電車が動き出してすぐに口を開いた。
「あの、朝霧さん。さっき聞きそびれたんですけど」
「はい」
「リザードマンって、変温動物に近いって言ってましたよね。ってことは、水温が低い場所では動きが鈍くなるんですかね。冬場の方が安全とか、そういうのあります?」
「……よく覚えてますね。さっき一回言っただけなのに」
「あ、すみません。気になったことは覚えちゃうタイプで……余計なことでしたか」
「いえ、いい質問です。正直、僕も実戦で確かめたわけじゃないので分かりません。ゲートの中の水温が外の季節に連動するかどうかも不明です。今日行って確かめましょう」
「確かめるって……実験台は僕ですか」
「三浦さんは水に入らなくていいです。高いところに登って待機してもらいます」
「た、高いところ……。高所恐怖症ではないですけど、リザードマンに囲まれた高所は初めてです」
「誰だって初めてですよ、そんなの」
三浦が小さく笑った。笑うと顔色が少しだけましに見える。恐怖で硬直した表情筋がほぐれて、年相応の二十歳の顔になる。
一時間前に管理局のロビーで地べたに這いつくばっていた男と同一人物には見えなかった。
* * *
電車が湾岸エリアの駅に着き、ホームに降りた。潮の匂いが風に乗って鼻に届く。D級ゲートのあった内陸部とは空気の質が違う。湿度が高く、舌の上に塩気が乗る。
ゲートの管理施設は駅から徒歩十分ほどの場所にあり、かつての臨海副都心の地下駐車場がそのまま入口になっていた。駐車場の天井に設置された古い蛍光灯が黄色い光を投げかけ、壁のコンクリートには塩害による白い結晶がびっしりと浮いている。
管理局の受付カウンターは駐車場の一角にプレハブ小屋のように設えてあり、その安っぽさが逆に「ここは正規の施設ですよ」と主張していた。
受付の職員は二十代後半くらいの女性で、事務的な笑顔を浮かべて僕たちのカードを端末に通した。笑顔が消えるまでに二秒とかからなかった。
「ランク12と……ランク11。ここはC級指定ですよ。お二人だけですか?」
「はい。浅層での素材回収が目的です」
「浅層でも、C級の魔物は出ます。このランク帯でのデュオ入坑は、過去の統計上、生存率が著しく低いです。せめてもう一名、ランク20以上のアタッカーを――」
「自己責任で構いません。誓約書を書きます」
職員は溜息をつき、クリップボードに挟んだ誓約書を差し出してきた。「万一の場合、遺体の回収および搬出費用は別途請求いたします」という一文が、書面の最後に太字で印刷されている。
僕がサインをしている横で、三浦が震える手でペンを握った。
「三浦さん、名前くらいまっすぐ書いてください」
「む、無理です……手が……あ、『浦』の字が……なんか別の字になった……」
「書き直してください。誓約書が読めないと入坑許可が下りません」
「は、はい……! すみません……」
三浦が三度目の書き直しでようやくまともなサインを完成させた。職員がその字を見て何か言いたげな顔をしたが、結局何も言わなかった。
管理局に入坑を禁止する権限はない。書類が揃っていれば通すしかない制度だ。
* * *
ゲートの入口は、地下駐車場の最奥にあった。
コンクリートの壁に四角く切り取られた空間が、薄い青白い膜のようなもので覆われている。膜の向こう側は見通せない。光を吸い込むようでもあり、光を発しているようでもある、奇妙な界面だった。
近づくと肌の表面がぴりぴりと粟立つ。D級ゲートの入口ではこんな感覚はなかった。膜から漏れ出す魔力密度の格が違うのだ。
「三浦さん」
「は、はい」
「中に入ったら、僕の三歩後ろを歩いてください。僕が止まったら止まる。伏せろと言ったら伏せる。走れと言ったら走る。それだけ守ってくれれば、他は何もしなくていいです。」
「三歩後ろ。止まる。伏せる。走る。……覚えました」
「それと、もし僕が動けなくなったら、一人で出口まで走ってください。来た道を戻ればゲートの外に出られます」
「……朝霧さんを置いていくんですか」
「僕のことは気にしなくていい。三浦さんが生きて帰ることが最優先です」
三浦は口を開きかけて、閉じた。喉仏が上下したのが見えた。何か飲み込んだのだ。反論か、感情か。どちらにしても、言葉にはしなかった。
代わりに、カーゴパンツのポケットに手を突っ込んで何かを取り出した。飴だ。いちご味の包み紙を破いて、僕に差し出してくる。
「……なんですか」
「出発前に一個。低血糖になると判断力が落ちるって聞いたので」
「……じゃあ、もらいます」
三浦は自分の分のぶどう味を口に放り込んで、ガリッと噛み砕いた。飴を噛む人間を初めて見た。
「……飴は舐めるものですよ」
「緊張すると噛んじゃうんです。昔からの癖で」
僕はいちご味の飴を受け取り、口に入れた。甘い。安っぽい人工甘味料の味だが、ゲートの入口から漂う生臭い空気の中では、その安っぽさがかえって人間の世界の味がして悪くなかった。
飴を舌の上で転がしながら、膜に手を触れた。指先が冷たい水に浸かるような感触があり、一歩を踏み出す。視界が白く染まり、次の瞬間には別の世界に立っていた。
* * *
最初に来たのは匂いだった。
潮と腐敗が混じり合った、海辺のゴミ捨て場のような臭気が鼻腔を満たした。口の中のいちごの甘さが一瞬で吹き飛ぶ。
D級ゲートの腐敗水路も臭かったが、質が違う。あちらはカビと汚水の饐えた匂いだったのに対し、ここには塩気と有機物の腐敗が重層的に折り重なっていて、呼吸するたびに舌の上に薄い膜が張られるような不快感がある。喉の奥がイガイガして、反射的に咳き込みそうになった。
足元を波が洗っている。深さは足首ほどだが、水は温かかった。
体温よりわずかに低いくらいで、靴の中に沁み込んでくる感触が生ぬるく、気持ちが悪い。水底にはコンクリートの破片や錆びた鉄筋が沈んでいて、歩くたびにブーツの裏でがりがりと擦れる。何かぐにゃりと柔らかいものを踏んだ感触もあったが、確認する勇気はなかった。
見上げると、天井はなかった。代わりに鈍い灰色の空が広がっている。太陽はない。
光源がどこにあるのか分からない薄明るさで、まるで分厚い曇天の日の夕方のような、輪郭のぼやけた光が世界全体を覆っていた。
その光の中に、崩壊したビルの残骸が林のように突き出している。鉄骨がむき出しになったコンクリートの柱、ひしゃげた看板の残骸、割れた窓ガラスの破片が水面にきらきらと反射している。かつて人が暮らしていた場所の成れの果てが、灰色の海に沈んでいるのだ。
壁面を覆う苔が青白く発光していて、水面に落ちた光がゆらゆらと揺れる幻想的な模様を作っている。
その光に照らされた水面には油膜のような虹色の薄い層が浮いていて、腐敗臭の奥にかすかに甘い匂いが混じっていた。花が腐った時の匂いだ。
「……すごい」
背後で三浦が呟いた。恐怖ではなく、純粋な驚きの声だった。
「こんな場所があるんですね……。ビルが、海の中に……」
「綺麗に見えますか」
「いえ、怖いです。怖いけど……なんか、夢みたいで。悪い夢の方の」
的確な感想だった。ここはたしかに夢に似ている。水が温かくて、空に太陽がなくて、壁の苔が光っている。どれも現実にはあり得ない要素なのに、五感がそれを「ある」と認識してしまう。脳の処理が追いつかないまま、身体だけがこの世界を受け入れていく感覚だった。
そして、水面の向こうに目が光っていた。
ギョロリとした黄色い瞳が、崩れたビルの陰から僕たちを見つめている。一つではない。三つ、四つ、五つ。水面すれすれの高さに、爬虫類特有の縦長の瞳孔が等間隔に並んでいる。こちらを値踏みするように、瞬きもせずに。
「ひっ……め、目……目がいっぱい……」
三浦が僕の背中に張りつくように後退した。リュックの角が僕の肩甲骨に当たる。
「落ち着いて。まだこっちの出方を見てるだけです。……三浦さん、左のビルの一階、壁が崩れて棚みたいになってるところが見えますか」
「は、はい……あの、水面から少し高くなってるところですか」
「そこに登って、しゃがんで、動かないでください。リザードマンは水場で狩りをする習性があるりますから、乾いた高所には基本的に来ません」
「き、基本的に……基本的にってことは来ることもあるんですか」
「ゼロではないですけど、水面にいるよりずっと安全です。何があっても降りてこないで。僕が呼ぶまで」
「……分かりました。朝霧さん」
「はい」
「死なないでくださいね」
「努力します」
三浦が水を掻き分けてビルの残骸に取りつき、よじ登っていく。リュックが重そうで何度か腕が滑ったが、歯を食いしばって身体を引き上げた。
棚の上に座り込み、膝を抱えてこちらを見ている。唇が小さく動いていた。何か呟いている。飴でも食べているのかと思ったが、口の動きが違う。数を数えているのかもしれない。緊張を紛らわすための、自分なりの方法があるのだろう。
僕はフードを深く被り、両手の剣を抜いた。右手に守護者の牙剣。左手に銀蜂。
構造看破を発動すると、水面の下に沈んだリザードマンたちの輪郭が赤い線で浮かび上がった。鱗の継ぎ目、関節の可動域、首筋を走る動脈。弱点の地図が、水の向こうに透けて見える。
五体。うち三体が前方の柱の陰に固まっていて、残り二体が左右に散開している。包囲陣形だ。コボルトの烏合の衆だったのとは違う。こいつらは狩りを知っている。
手のひらが汗ばんでいた。剣の柄を握り直す。C級の魔物と正面から戦うのはこれが初めてだ。
レベル16の身体能力とスキルを信じるしかないが、実戦は未知数でしかない。構造看破で弱点は見えても、水中から飛び出す速度がD級とどれだけ違うのか、鱗がどこまで刃を弾くのか、やってみなければ分からないことばかりだ。
怖い。黒影のコートの袖の中で、指先が小刻みに痙攣している。
三浦からは見えないはずだ。フードの影が顔を隠し、袖が手首まで覆っている。見えないようにしている。怖がっているパートナーに、誰がついてきたいと思うだろうか。
前方の水面がかすかに膨らんだ。泡が一つ浮いて、弾ける。
来る。
水面が爆発した。
* * *
飛沫が視界を塞いだ一瞬の向こうから、緑灰色の巨体が突き出してきた。
全長は人間の一・五倍、立ち上がった体躯は二メートル近い。鱗はD級のコボルトの毛皮とは厚みが段違いで、水滴を弾いて鈍い光沢を放っている。
手には粗削りだが鋭利な石斧を握り、黄色い瞳が僕を正面から捉えていた。口が開く。牙の間から生臭い息が噴き出す。魚と血と泥を煮詰めたような臭いだった。
口の中の飴の甘さが一瞬で上書きされて消えた。
石斧が振り下ろされた。速い。風切り音が頬を掠め、回避が半テンポ遅れたら頭蓋を割られていた。
半身にして斧の軌道をずらし、懐に踏み込む。構造看破が首筋の赤いラインを照らしている。右手の牙剣を走らせた。
刃が鱗に触れた瞬間、硬い、と感じた。D級とは手応えがまるで違う。
コボルトの皮膚は布を裂くように切れたが、リザードマンの鱗は石を削るような抵抗がある。だが牙剣の切れ味がそれを上回った。守護者の素材で鍛造された刀身が鱗の継ぎ目に食い込み、下の肉を断つ。
温かい血が手の甲にかかった。人間の血より温度が低くて粘度が高い。ぬるりとした感触が皮膚に張りつく。
リザードマンが吠えた。痛みへの怒り。石斧を横薙ぎに振るってくる。バックステップで回避し、間合いを取り直す。
左右から二体目と三体目が同時に飛び出してきた。水飛沫を上げて突進してくる二体の軌道を構造看破が赤い線で描く。右からの石槍、左からの体当たり。片手武器では捌ききれない連携だが、双剣ならば話が違う。
右手の牙剣で石槍の穂先を弾き返し、同時に左手の銀蜂で体当たりの個体の前脚を切りつけた。浅い傷だが突進の勢いが崩れる。
その隙に、最初の一体の喉へ牙剣を走らせた。頸動脈を断つ感触が手首に伝わり、緑灰色の体液が扇状に飛び散る。残りの二体も、体勢が崩れた瞬間を逃さず連撃で仕留めた。
水面に三体のリザードマンが浮かんでいる。血で染まった水が崩れたビルの壁に当たって跳ね返り、複雑な波紋を作っていた。
呼吸が荒い。心臓がまだ暴れている。手の震えは戦闘中に消えていたが、それはアドレナリンが恐怖を塗り潰しているだけだ。
残りの二体は仲間が殺されたのを見て撤退したらしい。構造看破で追うと、水面の下を素早く移動する赤い線が遠ざかっていくのが見えた。追わない。深追いは事故の元だ。
「……終わりました。降りてきてください、三浦さん」
* * *
棚の上から三浦が恐る恐る顔を出した。頭のてっぺんと眼鏡の上半分だけが覗いていて、塹壕から偵察する兵士のような格好だった。
「お、終わったんですか。本当に」
「三体倒しました。残り二体は逃げたので、今は安全です。降りてきて、回収をお願いします」
「は、はい……!」
三浦がコンクリートの棚からずり降りてくる。水面に足が着いた瞬間、漂ってきたリザードマンの死体と目が合って「ひゃっ」と声を上げた。黄色い瞳がまだ開いている。死んでいるのにこちらを睨んでいるように見えた。
「こ、こいつ目が開いてるんですけど……」
「爬虫類は瞼の構造が違うんです。死んでも閉じないことがあるんです」
「へ、へぇ……。り、リザードマンの瞼って、人間みたいに上から下じゃなくて横に動くんですよね。瞬膜っていう半透明の膜があって、水中では……あ、すみません。緊張するとつい余計なこと喋っちゃって」
「いえ、続けてください。興味深いです局ですから」
「え、本当ですか? じゃあ一つだけ。リザードマンの鱗って、おそらくケラチン質じゃなくて骨質鱗だと思うんです。さっき朝霧さんが斬った時の音が、爪を切る音じゃなくて陶器を割る音に近かった。だとすると、鱗の成分は――あ、やっぱり長いですよね。すみません。回収します」
三浦はリュックを下ろし、解体用のナイフを取り出した。どこで手に入れたのか、小さいが刃のしっかりしたフォールディングナイフだった。研ぎ跡があるから中古だろう。
「魔石は心臓の近くですか?」
「少し上です。肋骨の間に手を入れて、奥の硬い石を掴んで引き抜く。力任せにやると傷がつくから、周りの組織を丁寧に剥がしてから」
「分かりました。……うっ」
三浦がリザードマンの胸にナイフを入れた瞬間、断面から生温かい体液が溢れ出した。血と胃液と、消化途中の魚の腐臭が混じった凄まじい臭いだ。
三浦の顔が緑色に変わり、口を押さえて横を向いた。
「おえ……っ、す、すみません、ちょっと……大丈夫です、できます……」
「無理しなくていいですよ。初めてなんだから」
「いえ、やらせてください。これが僕の仕事なんで」
三浦は涙目のまま作業に戻った。最初の一体には三分以上かかった。ぬるぬると滑る内臓をかき分けて奥の魔石を探り当て、引き出す時に粘液まみれの手が滑って落としそうになり、慌てて両手で受け止めている。
だが二体目から、手つきが変わった。切開する位置を正確に見定め、ナイフの角度を調整して最小限の切り込みから手を入れている。内臓を避ける指の動きが一体目とは段違いに滑らかだった。
魔石を取り出す際も、周囲の組織を丁寧にこそいでから引き抜いている。石に傷一つない。
「……器用ですね。前にも何かの回収作業をやっていたんですか」
「いえ、初めてです。ただ、父が宝石の研磨工をやっていたので、小さい頃から石の扱いだけは仕込まれました。石に傷をつけたら怒られたんです。……まあ、怒られるっていうか、殴られるっていうか」
三浦は苦笑いしながら三体目の魔石を布で丁寧に拭き、リュックに収めた。緑色の魔石が布の上で微かに発光している。D級のものより一回り大きく、色が深い。
「朝霧さん、この魔石、かなり純度が高いと思います。結晶の密度が均一で、内包物がほとんどない」
「目利きもできるんですか」
「石のことだけは分かります。それ以外は本当に何もダメなんですけど」
三浦は汚れた自分の手を見下ろして、少し不思議そうな顔をした。
「……変ですよね。さっきまで吐きそうだったのに、石を触り始めたら平気になった。手が覚えてるんですかね。」
「それは才能ですよ」
「え、才能……。こんなの才能って言います? モンスターの内臓から石を取り出すのが上手いって、履歴書に書けないですよ」
「履歴書には書けなくても、ここでは値段がつきます。傷のない魔石と傷だらけの魔石じゃ、買取価格が倍は違う」
「……本当ですか」
「本当です。三浦さんの手があるだけで、僕たちの収入は跳ね上がる」
三浦は少し驚いた顔をして、それから自分の汚れた両手をまじまじと見つめた。リザードマンの血と体液でぐしょぐしょに汚れた、細い指。
その指が、初めて「価値がある」と言われた時の表情は、五万円の前金を受け取った時より、ずっと嬉しそうだった。
* * *
それから二時間弱、僕たちは浅層を周回した。
パターンは同じだ。三浦がビルの残骸や柱の陰に隠れて待機し、僕がリザードマンを仕留め、三浦が駆け寄って魔石を回収する。回を追うごとに三浦の回収速度は上がっていき、七体目あたりからは僕が次の敵を探している間に作業を終えて追いついてくるようになった。
十体目を倒した直後、水底に沈んでいた鉄筋に足を引っかけて前のめりに三浦が転んだ。リュックの重みで起き上がれなくなっている。
「三浦さん!」
「だ、大丈夫です! リュックは無事です! 石は落としてません!」
膝をコンクリートの破片にぶつけたらしく、ズボンの裾に赤い染みが広がっている。だが三浦が最初に確認したのは自分の怪我ではなく、リュックの蓋のバックルだった。留まっているのを確認してから、ようやく立ち上がる。膝の傷は一瞥もしなかった。
「すみません、足元見えてなくて……」
「膝、見せてください」
「え、大丈夫ですよこれくらい。かすり傷です」
「この水に何が溶けてるか分からないので。見せてください」
三浦が渋々ズボンの裾をめくった。膝の皿のあたりの皮膚が擦りむけて、血が薄く滲んでいる。大した傷ではないが、汚水に浸かった傷口は感染のリスクがある。
ポケットの消毒液を取り出して傷口にかけた。
「い、痛っ……!」
「我慢してください。……次からはレガースか何か、膝を守るものをつけましょう」
「レガースって、脛当てですか? そんなの持ってないです」
「明日までに用意します。僕が」
「え、いいですよ! 自分の装備くらい自分で……」
「三浦さんが怪我をすると回収が止まってしまって稼ぎが減ってしまいますから。投資ですよ」
三浦は少し黙ってから、小さく笑った。
「朝霧さんって、優しいこと言う時、必ず理屈つけますよね」
「理屈がないと動けないタイプなんです」
「嘘ですよそれ。さっき消毒液出した時、理屈考える前に手が動いてたじゃないですか」
返す言葉がなかった。三浦は笑いながらリュックを背負い直して歩き出した。
* * *
計十三体のリザードマンを狩ったところで撤退した。三浦のリュックは魔石でパンパンに膨らんでいて、背負うたびによろめいている。
「重い……ですね。でも嬉しい重さです」
「明日はもう少し大きいリュックを持ってきてください」
「はい! ……あの、朝霧さん。ずっと聞きたかったんですけど」
「はい」
「戦う時、怖くないんですか?」
僕は少し考えた。嘘をつくべきか、正直に言うべきか。
三浦の顔を見る。予備の眼鏡の奥の目が、品定めではなく、純粋な疑問として僕を見ていた。
「……怖かったですよ。最初の一体が飛び出してきた瞬間、手が震えてた」
「え? 全然そうは見えなかったですけど」
「見せないようにしてるだけです。コートの袖の中で指が痙攣してるのは、三浦さんからは見えないでしょう」
「……なんで隠すんですか」
「怖がっている人間の後ろをついて歩きたいと思いますか」
三浦は少し考え込んで、それからゆっくりと首を横に振った。
「いいえ。……でも、怖がってるのに動ける人の後ろなら、ついていきたいと思います」
「……どう違うんですか、それ」
「怖くない人は、怖いものを知らない人です。怖いのに動ける人は、怖いものを知った上で動いてる人です。後者の方が、信用できますよ。だって、逃げたい気持ちが分かる人の方が、逃げるタイミングの判断も正確でしょう?」
妙に筋の通った理屈だった。怖がりの人間は、怖くない人間より多く考える。多く考えるから、多く備える。それが強さになる、と。慰めにしては論理的すぎて、少しだけ笑いそうになった。
ゲートの外に出ると、駐車場の蛍光灯の光がやけに温かく感じられた。受付の職員が僕たちを見て「ご無事で……」と絶句していたが、「明日も来ます」と告げたら複雑な顔をされた。
駅に向かう道を歩いていると、三浦がいつの間にか僕の隣に並んでいた。ゲートに入る前は三歩後ろにいた男が、今は横を歩いている。
「朝霧さん、お腹空きません? 僕、さっきからものすごく空腹で」
「リザードマンの内臓を嗅いだ直後によくそんなこと言えますね」
「あれはあれ、これはこれです」
改札の近くに小さな立ち食いそば屋があった。カウンターだけの狭い店で、出汁の匂いがゲートの腐臭を上書きしてくれた。かけそばを二つ注文する。三百円。
リザードマンの血がこびりついた袖のまま蕎麦を啜る二人組は異様だったはずだが、周りの客は特に何も言わなかった。
三浦が一口啜った途端、箸が止まった。
「……美味い。え、なんですかこれ。こんなに美味いものが三百円?」
「普通のかけそばですけど」
「普通じゃないです。出汁の取り方が丁寧だ。昆布を長時間浸けて、鰹は後から追い鰹で……いや、これ煮干しも入ってますね。甘みが残ってるから、煮干しの頭とワタを取ってから出汁を引いてる。手間かけてるなあ」
「……すごく詳しいですね」
「あ、すみません。料理は好きなんです。たまに妹のご飯、作ってるので。今度は朝霧さんにも何か作りましょうか。あ、でも何が好きですか。肉じゃが? カレー? ハンバーグ?」
「……まだ二回目の仕事ですけど」
「あ、そうでした。すみません、なんか勝手に親しくなった気になっちゃって……」
三浦が照れくさそうに頭を掻いた。その仕草で眼鏡がまたずれる。この男は眼鏡を直す回数が異常に多い。会話の句読点みたいに、何かの合間に必ず眼鏡に触る。
蕎麦を食べ終え、改札で別れた。三浦は「妹の病院に寄ってから帰ります」と言って、人混みの中に小走りで消えていった。リュックを背負った細い背中が、人波に紛れて見えなくなるまで、僕はなんとなくその場に立っていた。
* * *
帰りの電車の中で、今日の収支をスマホに入力する。魔石十三個。三浦の回収技術のおかげで傷のない完品が多い。推定市場価値は合計で十五万ほど。三浦への日当五万を引いて、僕の取り分は十万。D級の数倍の効率だ。
窓の外を流れる夕暮れの街並みを眺めながら、自分の手を見た。
震えてはいない。だが指の関節がまだこわばっている。拳を握り、開く。握り、開く。何度か繰り返して、ようやく指が普通に動くようになった。
三浦が言った「妹」という単語の時に、一瞬だけ声が柔らかくなったのを覚えている。さっきまで怯えていた目が、別の温度を帯びた瞬間。「妹のとこに寄る」と言った時の足取りは、ゲートに向かう時よりずっと速かった。
あの男を動かしているのは金ではない。金の先にある、妹の顔だ。それが誰なのか、どんな事情があるのかはまだ知らない。
今日の戦闘では一度も死ななかった。それが当たり前であるべきなのに、妙に新鮮だった。生きて帰ってきた。二人とも。
それだけのことが、三百円のかけそばと同じくらい、ありふれていてありがたかった。




