第11話 日常への帰還と最初の駒
廃棄坑道のあるエリアを離れ、電車に揺られること三十分。
改札を抜けると、そこにはいつもと何も変わらない夕暮れの街が広がっていた。
会社帰りのサラリーマンが足早に横を通り過ぎ、制服姿の学生がイヤホンを付けたまま笑い合い、スーパーの袋を提げた主婦が自転車のカゴに荷物を詰め込んでいる。
街頭ビジョンからはニュースキャスターの声が流れていて、どこかのC級ゲートでスタンピードの兆候が観測されたと淡々と報じている。行き交う人々はそれを、天気予報と同じ温度で聞き流していた。
数十分前まで、殺され、殺し返していたことが嘘のようだった。
黒影のコートの内側に隠した二振りの剣――守護者の牙剣と銀蜂の硬質な重みだけが、あそこで起きたことが現実だったと告げている。
アドレナリンが引いていくにつれ、全身に鉛のような疲労感がのしかかってきた。
肉体的な消耗というよりは、精神の摩耗だ。Lv16に上がった身体は頑丈なはずなのに、脳の奥が痺れるように熱い。
駅前の自動販売機でブラックコーヒーを買い、一気に流し込んだ。強烈な苦味とカフェインが、現実との接続を取り戻してくれる感覚がある。缶の冷たさが掌に心地よかった。
* * *
築三十年のボロアパート。
鍵を回し、ドアを閉め、チェーンをかけた瞬間に、ようやく肩の力が抜けた。
靴を脱いで部屋に上がり、リュックを床に下ろす。安物のベッドと書類が散乱したローテーブルがあるだけの殺風景な部屋だが、ここにはモンスターも、ナイフを隠し持った人間もいない。
まずシャワーを浴びた。蛇口をひねると熱い湯が肩を打ち、血と汗と埃が排水溝に流れていく。
湯気の中で鏡に映る自分の身体を見た。以前より筋肉が引き締まり、腹筋の輪郭が浮き出ている。腕には細かな擦り傷があったが、すでにかさぶたになりかけていた。Lv16の回復力だ。
五感も変わっている。シャワーの水滴が落ちる音の一粒一粒が、粒立って聞こえる。壁の向こうの隣人がテレビのチャンネルを変えた音まで拾ってしまう。
この感覚のズレに慣れなければ、日常で誤って力を使いすぎて生活が破綻する。
シャワーを止めた後、僕は洗面台の前に立ったまま、手を洗い続けていた。最近は毎日こうしてる。
石鹸を泡立て、指の間を擦り、爪の隙間をブラシでこすり、流し、また泡立てる。血なんてとっくに落ちている。分かっている。でも、二階堂の首を切った時の手応えが、指先にこびりついて消えないのだ。
肉を断つ抵抗感。温かい飛沫。石鹸の匂いの下に、まだ鉄錆の匂いが残っている気がした。
三度目の手洗いの途中で、自分が何をしているのか客観的に理解して、蛇口を止めた。タオルで手を拭く。震えてはいない。ただ、指先だけがやけに冷たかった。
* * *
風呂上がり、ローテーブルの上に今日の戦利品を広げた。
コボルトの牙と毛皮、ジェネラルの魔石、マイン・オーガの魔石。そして、西条から奪った魔法剣「銀蜂」。部屋の中に、鉄錆と獣の臭いが薄く充満した。
守護者の牙剣と銀蜂を並べて置く。黒と銀。対照的な二振りだ。
牙剣の方は手に馴染みすぎていて、もはや自分の腕の延長でしかない。問題は銀蜂の方だ。大手クランが使っていただけあって、造りは精巧だった。
構造看破を発動すると、刀身の内部構造が透けて見える。中空部分に風属性の魔力回路が刻まれていて、魔力を流すと刀身の周囲に空気の層が生まれる仕組みだった。空気抵抗を極限まで減らし、刺突速度を加速させる。
単純だが、職人の技術が詰まった良い剣だ。
双剣士の補正がかかった状態で左手に持つと、利き手ではないのに違和感なく振れた。軽く素振りをすると、ヒュンッという高い風切り音が鳴った。
装備の確認を終え、冷蔵庫を開けた。中身はほとんど空だったが、帰りに寄ったスーパーで買った国産の厚切りステーキ肉と缶ビールが入っている。
フライパンに油を引き、塩胡椒をしただけの肉を強火で焼いた。
食事を終えてベッドに座り、スマホを取り出した。ハンター専用のマーケットアプリ「ハンターズ・マーケット」を起動する。魔石や素材の相場を確認するためだ。
オーガの魔石の平均取引価格は三十万前後。コボルトの素材と合わせれば、今日の稼ぎは合計で五十万近くになる計算だった。同年代の会社員の月収の倍が、たった数時間で手に入ったことになる。
だが、同じアプリのオークションタブを開いた瞬間、その高揚感は消し飛んだ。
トップページに目玉商品として表示されていたのは、スキルブック「火球」。現在価格、千二百万円。その下に並ぶワイバーンの革鎧は三千万。
桁が違う。この世界で「強くなる」ためのアイテムは、札束で殴り合うような価格で取引されている。五十万なんて端金だ。装備のメンテナンスとポーションの補充で消えてしまう額でしかない。
強くなるには金がいる。金を稼ぐには強さがいる。その循環を高速で回すしかない。
次の目標はC級ゲート「水没都市」だ。だがそこで一つの現実的な問題にぶつかる。
C級の魔物は素材一つ一つが大きくて重い。ソロで潜ればすぐにリュックが一杯になってしまうし、戦闘中にリュックを抱えたままでは動きが鈍る。
効率よく稼ぐには、戦利品を管理して運搬してくれる専門職が必要だった。口が堅く、余計なことを詮索せず、安く使える人間。そんな都合のいい相手がいるだろうか。
スマホのアラームをセットして布団に潜り込んだ。明日は柳商会で換金して、次の狩りの準備だ。
つけっぱなしのテレビからニュースのチャイムが流れた。ランク82の鳴神竜二が北海道のゲートで行方不明になった続報だった。生存は絶望的だと、キャスターが沈痛な顔で読み上げている。
画面の中の出来事が、他人事には思えなかった。
* * *
翌朝、柳商会の暖簾をくぐると、開店直後の店内には埃っぽい古書と機械油の匂いが混じっていた。
カウンターの奥で新聞を読んでいた柳爺さんが、眼鏡越しに呆れたような視線を向けてくる。
「いらっしゃい……って、またあんたか」
「買い取りをお願いしたくて」
僕はリュックの中身をカウンターに並べた。大量のコボルトの毛皮と牙。そしてゴロリと転がる赤黒いオーガの魔石。
爺さんの目が一瞬だけ鋭く光り、新聞を畳んで魔石を手に取った。鑑定用のルーペを覗き込むその手つきは、ただの古道具屋の親父のものではなかった。
「マイン・オーガの魔石か。純度が高い。傷ひとつない綺麗な処理だ。……廃棄坑道のボスだな」
「ええ。運良く死体を見つけまして」
爺さんはジロリと僕を見たが、すぐに口元を緩めて計算機を叩き始めた。
正規の換金所に持ち込めば相場通りの額が出るが、ランク12の人間がオーガの魔石を持ち込めば「どこで手に入れた」と根掘り葉掘り聞かれる。二階堂たちの遺品も、表に出せる品ではない。
柳商会は買い叩くが、品物には興味を持っても経緯には興味を持たない。そういうところが、この店を信用できる理由だ。
「全部で五十二万だ。低ランクハンターの稼ぎにしては多すぎる額だが、どうする?」
「現金でお願いします」
札束が入った茶封筒を受け取る。命の重みがある。僕は封筒を内ポケットにしまい、店を出ようとして、ふと足を止めた。
「柳さん。人を探しているんですが……最近、荷物持ちの募集ってしてませんか。C級に手伝いで連れていきたい案件があって」
爺さんは吸い殻を摘み上げて匂いを嗅ぎ、灰皿にゆっくりと潰した。話題を転換する時の、この男の癖だ。
「ポーターねえ。最近はなり手が少なくてな。みんな一発逆転を夢見てアタッカーになりたがるから、荷物持ちなんて地味な仕事は誰もやりたがらない」
「……ですよね」
「ただまあ、一人だけ心当たりがある。いっつも売れ残ってる男がいてね。真面目だけが取り柄で、魔力測定値はそこそこ高いのにスキルの発現が遅くてアタッカーになれない。だから万年ポーター扱いの……名前は確か、三浦だったかな」
三浦。腐敗水路で一緒に地獄を見た男だ。おどおどしていて気が弱くて、いつも損な役回りを押し付けられていた。あいつがまだハンターを続けているのか。辞めないと言っていたのを思い出す。
「……もし見かけたら、声をかけてみます」
「おう。……死ぬんじゃねえぞ」
爺さんの短い言葉を背に、僕は店を出た。
* * *
ハンター管理局東京支部のロビーは、午前十時の時点ですでに人で溢れていた。
正面の巨大な電光掲示板には関東近郊のゲート発生状況が流れ、その下の換金カウンターには魔石の袋を抱えたハンターたちが列を作っている。職員が電子天秤に魔石を載せるたびにピッと電子音が鳴り、列の後ろからため息や舌打ちが漏れた。
空調が効いているはずなのに、人いきれと汗と革装備の獣臭が混じった空気がロビー全体に澱んでいて、鼻の奥に膜が張るような不快感があった。
最新素材のアーマーを纏った高ランクハンターが受付を通り過ぎるたびに、周囲の視線がそちらに吸い寄せられていく。彼らの装備からは魔力が微かに放たれていて、近くを通ると肌がぴりぴりした。
対照的に、ロビーの隅――通称「掃き溜め」と呼ばれるエリアには、装備のボロボロなハンターたちが壁際のベンチに座り込んでいた。ベンチの脚が一本折れていて、座るとぎしぎし軋む。誰も直さない。直す理由がないのだ。
僕はその掃き溜めの方へ足を向けた。柳爺さんの言っていた「売れ残りの男」を探すためだ。喧騒の中に、聞き覚えのある怯えた声が混じっているのを見つけた。
「た、頼みます! 今回だけでいいんです! 荷物持ちでも、囮でも何でもやりますから!」
柱の陰で、小柄な男が二人組のハンターに頭を下げていた。安っぽい布の服に使い古された皮の鞄。痩せた身体に黒縁の眼鏡。フレームが曲がっていて、右のレンズにヒビが入っている。
記憶にある姿よりもさらにやつれていたが、間違いない。三浦だ。
「あぁ? しつけぇな。お前みたいな不発弾を入れる枠なんてねえんだよ」
「前回もビビって小便漏らしたらしいじゃねえか。縁起が悪ぃんだよ、あっち行け」
二人組が三浦の肩を押した。三浦がよろめいて床に手をつくが、すぐに這うようにして二人の前に戻り、頭を下げ続ける。
声は涙混じりで、ロビーの喧騒の中でもやけに通った。周囲のハンターたちがチラリと視線を向けるが、すぐに興味を失って目を逸らしていく。弱い人間が踏まれる光景は、ここでは壁紙と同じだ。
「お願いします……! 今月、どうしても金が必要なんです……!」
「知らねえよ! テメェの家の事情なんか!」
男の一人が三浦の肩を蹴り飛ばした。鈍い音がして三浦が床に転がり、眼鏡が外れて数メートル先まで滑っていった。
僕はそれを見ながら、自分の中で冷えた計算が走るのを感じていた。
借金と家族という逃げられない事情を持つ人間は裏切らない。プライドを捨てて地べたを這える今の彼なら、僕が提示する条件に飛びつくだろう。
二人組が去っていくのを見届けてから、僕はゆっくりと三浦に近づいた。床に転がった眼鏡を拾い上げ、曲がったフレームを指先で慎重に戻してから差し出した。
「……眼鏡、落ちてますよ」
三浦がビクリと肩を震わせ、恐る恐る顔を上げた。涙と鼻水で汚れた顔に、驚きが浮かんだ。
「あ……朝霧、さん……?」
「覚えていてくれたんですね。少し話せますか。仕事の話があります」
* * *
自販機コーナーのベンチに座った。冷却音が低く唸っていて、蛍光灯の一本がジジジと点滅している。隣のベンチでは疲れ切ったハンターが口を開けて眠り込んでいて、膝の上にカップ麺の空き容器が載っていた。
僕は缶コーヒーを二つ買い、一つを三浦に渡した。三浦はそれを両手で包むように持って、小さく「ありがとうございます」と言った。缶の冷たさが気持ちいいのか、しばらく額に当てていた。蹴られた肩が痛むのだろう。
「単発の依頼です。役割は荷物持ち。場所はC級ゲート『水没都市』」
「は、はい! 喜んで――え?」
三浦の返事が途中で裏返った。数秒間固まり、缶コーヒーを持つ手がかすかに震え始めた。
「あの……C級、ですか? 朝霧さん、確かランクは……」
「12です」
「で、ですよね!? C級なんて無理ですよ! あの……C級の出現モンスターって、リザードマンとかアシッド・サーペントとか、体長が人間の倍以上あるやつばかりで……ええと、とにかく危険です!」
「メンバーは僕と三浦さんの二人だけです」
三浦が椅子から転げ落ちそうになり、隣で寝ていたハンターがびくりと目を覚まして舌打ちした。
「じ、冗談ですよね? 死にますよ!? 絶対に死にます!」
「死にませんよ。僕がいる限りは」
根拠のない自信ではない。西条たちを返り討ちにした今の僕なら、C級のモンスター程度はおそらく捌ける。三浦には指一本触れさせない。そう思える程度には、僕は強くなった。
――それでも、手のひらにはじっとりと汗が滲んでいた。絶対なんてものはこの世界には存在しない。それを一番よく知っているのは、四回死んだ僕自身だ。
「報酬は日当5万。ドロップ品の運搬量に応じて成果報酬も出します。うまくいけば一日で10万以上にはなる」
「じゅ、10万……!?」
三浦の目が大きく見開かれた。低ランクハンターが一日で稼げる額ではない。恐怖と欲望が天秤にかかっているのが、震える指先と食いしばった唇から手に取るように分かった。
「で、でも……やっぱり無理です。ランク11の僕じゃ、C級の空気にあてられただけで動けなくなります。命あっての物種ですし……」
「僕はあなたに『戦え』とは言っていません。僕の後ろについてきて、ドロップ品をリュックに詰める。それだけでいいんです。戦闘に参加する必要はないし、魔法を使う必要もない」
僕はカバンから五万円を取り出し、テーブルの上に置いた。柳商会で換金したばかりの、折り目がついた一万円札が五枚。三浦の視線が紙幣に吸い寄せられ、喉仏が上下するのが見えた。
「前金です。これを受け取れば、契約成立です」
三浦は震える手で札束を見つめていた。缶コーヒーの表面に結露がびっしりと張りついていて、水滴がゆっくりと缶を伝い落ちてテーブルに小さな水たまりを作っている。
長い沈黙だった。やがて三浦の手がゆっくりと伸びて、金を取った。
指先が紙幣の端に触れた瞬間、三浦の手つきが変わったのに気づいた。さっきまで震えていた指が急に正確になり、札を一枚ずつ確認してから丁寧に揃えて封筒にしまっている。金を扱う手だけが別人のように落ち着いていた。
「……本当に、荷物を持つだけでいいんですか?」
「ええ。ただし、ゲート内で見たこと聞いたこと、その一切を他言無用です。僕の戦闘スタイル、手に入れたアイテム、全て。もし約束を破れば――」
言葉を切った。具体的な罰則は言わない方がいい。想像に任せた方が恐怖は増す。三浦は青ざめた顔でこくこくと頷いた。
「わ、分かりました! 誓います! 誰にも言いません!」
「契約成立ですね。出発は一時間後。駅前の広場に集合してください」
「は、はい! あの……朝霧さん」
立ち上がりかけた三浦が、思い出したように振り返った。
「あの、お昼ご飯って持っていった方がいいですか? ゲートの中でも食べられるんですかね。僕、おにぎり作ってこようかと思うんですけど……朝霧さんの分も」
C級ゲートに潜る恐怖で半泣きだった男が、次の瞬間にはおにぎりの心配をしている。このズレた気遣いに、僕は少しだけ面食らった。
「……いえ、二時間で帰りますから大丈夫です」
「そ、そうですか。じゃあ飴だけ持っていきます。低血糖になると判断力が落ちるって聞いたので……」
三浦は封筒を大事そうに両手で抱え、何度も頭を下げながらロビーの雑踏に消えていった。人混みの中で一度だけ振り返って、ぺこりと会釈する。律儀な男だ。
僕は自販機のベンチに座ったまま、ぬるくなった缶コーヒーを飲み干した。苦い。舌の奥に残る苦みを飲み込みながら、無意識に首元に触れていた。
四回分の死の冷たさは、もう日常の一部になりつつある。触れても驚かなくなった。それが良いことなのか悪いことなのか、分からない。
最初の駒が手に入った。頼りない、ひび割れた駒だ。だが使い方次第では、それなりに役に立つ。
――そこまで考えて、僕は自分の思考に気持ちの悪さを覚えた。
駒。いつから僕は人間のことをそんな風に呼ぶようになったのだろう。半年前の僕は、研修ゲートで震えていただけの小心者だった。それが今では他人の弱みを計算し、金で動かし、「駒」と呼んでいる。
二階堂の首を切ったせいだろうか。この「ロード」という力が、僕を少しずつ別の何かに変えているのか。答えは出ない。
ただ、三浦が怖がりながらもおにぎりの心配をしていた、あの妙にずれた優しさが、頭の隅に引っかかったまま消えなかった。




