第1話 穴
"穴"が開いたあの日、世界は一度終わって、また始まった。
テレビ画面の向こうで繰り返された「ゲート発生」という言葉は、今や日常の一部だ。天気予報の隣に「本日のゲート発生状況」が表示される。
傘を持つか持たないかと同じ感覚で、人はゲートの位置を確認し、迂回ルートを選ぶ。
世界の変化に呼応するように、人間もまた変化した。
覚醒者。そう呼ばれる彼らの能力は、しかし平等ではなかった。動体視力が少し上がるだけ。痛みに少し鈍くなるだけ。大半の覚醒者は、そんな「誤差」のような力しか持たない。
――だが、例外はいる。炎を操り、空間を断ち、死者を蘇らせるような「英雄」たち。
ゲート発生から七年。夢見た英雄になれず、暗い穴の中で肉塊に変わる者は後を絶たない。それでも、僕らはその穴に潜る。
理由は単純。金がいいからだ。
最初に聞こえたのは、自分の靴底がコンクリートを擦る音だった。
天井の配管に結露がびっしりと張りついていて、そこから落ちる雫が規則的に床を叩いている。蛍光灯の白い光は弱々しく、十メートル先で闇に溶けていた。
ゲートを潜った先の空間は、地下駐車場をそのまま通路にしたみたいな場所だった。
現実の延長のようでいて、空気の密度が決定的に違う。鼻の奥にまとわりつく湿気は、雨の日の地下街とも違う。もっと有機的な、何かが呼吸しているような重さだ。
十数人の足音がバラバラに進んでいく。その足音の一つ一つが壁に反射して、まるで人数が倍いるように聞こえた。
「緊張するな……」
自分の声が、思ったより乾いていた。唾を飲み込もうとして、喉が張りついているのに気づく。
僕の名前は朝霧透。
ハンター登録して半年、ようやく実地研修に通された――D級の小型ゲート。国の管理下で、監視員付き、初心者向け。
説明会で配られたパンフレットには「安全性は確保されています」と書いてあった。その文字を何度も読み返したことは、誰にも言えない。
「透くん、大丈夫?」
隣を歩く女性が小声で聞いてきた。同じ研修組の一人、飯田明菜さん。
肩に小さな盾を提げていて、栗色の髪をひとつに結んでいる。研修組の中では落ち着いている方だが、盾を握る手の甲に薄く汗が光っていた。
「……うん。大丈夫、たぶん」
「たぶん、って。それ大丈夫じゃないやつだよ」
明菜さんが少しだけ笑った。笑い方に癖がある。口の右端だけが先に上がる、ちょっと不器用な笑い方だ。
その笑顔に、ほんの一瞬だけ気が楽になる。でも、すぐに喉の渇きが戻ってきた。
先頭では、現場リーダーの男が淡々と指示を出していた。日焼けした肌にベテランの貫禄がある。こういう研修を何十回もやってきたのだろう。
声には慣れと、それでも消しきれない緊張の両方が混じっていた。
「入ったら慌てない。叫ばない。走らない。モンスター出現は基本一体、二体。索敵役が見つけたら前衛が止める。後衛は距離を取って援護。いいな?」
「はい!」と何人かが返事をした。
僕は声が出なかった。口を開けたのに、肺の底に空気が残っていなかった。
後ろで、研修組の少年が隣の男に囁いている。彼は高校を出たばかりくらいの年齢で、装備が体に合っておらず、肩当てがずり落ちかけていた。
「なあ、マジでモンスター出んのかな」
「出るに決まってんだろ。D級つっても、死人は毎年出てるぜ」
「うわ、やめろよ。聞きたくねぇ……お前さっきから不安煽ってくるなよ」
「事実を言ってるだけだっつの」
僕は武器を握り直した。研修用の貸与品。鉄パイプみたいな簡易棍が一本。
グリップには前の使用者がつけたであろう爪痕が残っていて、手袋越しでも凹凸が分かる。それを握る手汗が、手袋の内側で滑って気持ち悪い。
奥の暗がりから、カン、と金属音がした。
配管を何かが叩いたような、短くて硬い音。それが通路の天井を伝って、妙に長く尾を引いた。
「……え、なに今の」
誰かが呟いた。全員の足が同時に止まる。
空気が変わった。さっきまでの湿っぽさの上に、鉄の味が乗ってくる。舌の奥で錆を舐めたような感覚。
明菜さんが息を止めたのが、隣にいるから分かった。肩が固くなっている。
「……何かいる」
震えた声。前の方で索敵担当の女性が手を上げる。その手も震えていた。
「反応あり。左奥、柱の向こう」
全員が一斉にそっちを見た。
柱の影から、黒いものが滲み出ていた。最初は壁のシミかと思った。だがシミは動かない。これは動いている。
ゆっくりと、粘液が垂れるような動きで、柱の向こう側から「生えてくる」ようにして姿を現した。
犬みたいなシルエット。だが脚の関節が逆に曲がっている。首が妙に長い。そして頭が――二つある。
それぞれの口だけがやけに大きくて、唾液に濡れた歯が蛍光灯の白い光を反射してぬらぬらと光った。
「……うそ」
「あれ、研修用の個体じゃねえぞ……! でかすぎる!」
後ろの男が叫んだ。リーダーが声を張る。声の端が裏返っていた。
「前衛、止めろ! 後衛は――」
そこで声が途切れた。
影が跳んだ。距離が一瞬で消えた。踏み込みじゃない。五メートルの空間が圧縮されたみたいな、ワープじみた移動。視線が追いつかない。
僕の目が影の位置を捉えた時には、もう遅かった。
リーダーの身体が宙に浮いていた。
柱に叩きつけられる音が、骨が砕ける湿った音と混ざって通路に響く。
床に落ちたのは、人の形をしていたものの残骸だった。まだ動いている。動いているのに、形がおかしい。
「え……?」
「う、うわあああ!!」
「医療班! 誰か医療班!!」
悲鳴が重なる。でも、医療班も動けない。影がまだそこにいる。
リーダーだったものの傍らに四本の脚で立ち、二つの頭をゆっくりと持ち上げて、こちらを見ている。
血を踏んでいるのに、足音がしない。濡れた肉の床の上に立っているのに、音がない。
その無音が、何よりも怖かった。
僕の足が、勝手に後ろへ下がる。一歩。もう一歩。
膝の裏が震えていて、次の一歩が出ない。
「透くん……」
明菜さんが僕の服の袖を掴んだ。その指が冷たい。自分の肌より冷たい指が、布越しに腕に食い込んでいる。
震えてる。僕も震えてる。握り返すことすらできない。
鉄パイプを握っているはずの右手は、もう何も握っている感覚がなかった。
影が、また跳んだ。今度はこっちへ。
二つの頭が同時に口を開く。
「――っ」
息が止まる。走れない。叫べない。手も上がらない。
視界が狭くなっていく。端から暗くなって、中央に影だけが残る。トンネルの中を覗いているみたいだ。
死ぬ、って、こういう感じなのか。
痛くもなければ、怖くもない。ただ世界が閉じていく。
視界いっぱいに、赤い文字が現れた。
現実の壁も、床も、血も、全部が一枚のガラス越しになって、その上に文字だけが浮かんでいる。ゲームのUI画面を現実に貼り付けたみたいな、異様な光景だった。
【死亡ログ】
原因:咬断
部位:頸部
評価:E
備考:恐怖による判断停止/逃走未遂すら成立せず
「……は?」
声にしたつもりが、音にならない。唇が動いた感覚だけがある。
死んだ? 僕が? 首を噛み砕かれた?
痛くなかった。痛みを感じる時間すらなかったのだ。ただ「死亡ログ」という無機質な情報だけが、暗闇の中で冷たく光っている。
【ログ通知】
再挑戦が可能です
再挑戦。その二文字が意味するところを、脳が理解することを拒んでいる。
頭の中で「嘘だ」「夢だ」がぐるぐる回る。それなのに、身体は勝手に――
「――っ!!」
跳ね起きた。
蛍光灯の白い光。コンクリートの匂い。天井の配管の結露。さっきと同じ通路。さっきと同じ空気。
背中に冷たい汗が張りついていて、シャツが肌にべったりとくっついている。
僕は反射的に首に手を当てた。右手で、左手で、両手で。首の前を、横を、後ろを触る。
噛まれた感触はない。傷もない。皮膚がある。気管がある。頸動脈が脈打っている。
なのに、さっきの映像だけが脳内に焼き付いて消えない。歯が首筋に触れた瞬間の、あのひんやりとした金属的な感触。
「透くん?」
明菜さんの声がすぐ隣からした。
生きてる。普通に歩いてる。さっきと同じ栗色の髪、同じ盾、同じ不安そうな目。
「……え?」
「どうしたの? 急に立ち止まって。足、攣った?」
前を見る。リーダーもいる。さっき柱に叩きつけられて血の塊になったはずの男が、何事もなかった顔で歩いている。日焼けした肌。ベテランの貫禄。声に慣れと緊張が混じっている。
全部、さっきと同じだ。
――世界が、巻き戻ってる。僕だけが、さっきの"終わり"を覚えている。
【ログ通知】
"本ラン"は続行可能です
次回評価は行動データを参照します
心臓が暴れている。肋骨の内側を拳で殴りつけているみたいに、ドクドクと脈打っている。
足が震える。膝が笑う。でも周りは誰も気づかない。当たり前だ。彼らにとっては何も起きていない。
「透くん、顔色……大丈夫? 本当に真っ白だよ」
「……うん。ごめん。なんでもない」
なんでもないわけがない。でも、説明できない。
「僕、さっき死にました」なんて言ったら頭がおかしいと思われる。正気を疑われるか、パニックを起こしたと判断されて強制退出させられるか。どっちにしても、もう二度とゲートに入れなくなる。
怖い。無理だ。進みたくない。踵を返して走り出したい。ゲートの外に出て、家に帰って、布団を被って、全部忘れたい。
でも――さっきのログが、頭の奥で冷たく光っている。
評価:E。恐怖による判断停止。逃走未遂すら成立せず。
……それ、僕だ。情けないくらい、正確に僕だ。
何もできなかった。叫ぶことすらできなかった。ただ固まって、死んだ。このまま止まったら、また同じ終わりが来る。同じ評価がつく。同じ「E」が。
「……行く」
「え?」
「行こう。大丈夫。……たぶん」
明菜さんが心配そうに僕を見ている。口の右端が、今度は下がっていた。
僕だって笑えない。でも足は動く。震えながらでも、前に出る。
「たぶん」が漏れてしまったけど、もうそれでいい。確信なんてないまま、進むしかない。
二度目の突入は、最初より地獄だった。
道の角。柱の影。照明の切れ目。壁のシミ。天井から垂れる配管。全部が"あいつが出てくる場所"に見える。
さっきまで何でもなかった景色が、丸ごと脅威に変わっている。心臓が収まらない。口の中がカラカラに乾いていて、歯茎に舌がくっつく。
その時、さっきより少し先で、研修組の少年が足をもつれさせた。
肩当てがずり落ちて視界を塞いだらしく、それを直そうとして躓いた。
「うわっ!」
派手な音を立てて転がる。金属の装備がコンクリートに当たる甲高い音が通路に響き渡った。
全員が凍りついた。
影が反応した。柱の向こうから、黒い二つ頭がぬるりと姿を現す。
さっきと同じ動き。同じシルエット。口の中の唾液が蛍光灯を反射する。
「やべえ! 誰か助けろ!」
「動くな! 動いたら狙われる!」
少年は立てない。膝を打ったのか、顔を歪めて地面に這いつくばっている。泣きそうな目でこっちを見た。
あの目を知っている。さっきの僕と同じ目だ。恐怖で判断が止まって、身体が言うことを聞かない。
あのままだと死ぬ。さっきの僕みたいに、何もできずに死ぬ。
胸の奥で、さっきのログがもう一度浮かんだ。
評価:E。恐怖による判断停止。
――それだけは、嫌だ。もう一回あれを見るくらいなら、叫んで恥をかく方がずっとましだ。
僕は足元の金属片を掴んだ。壁のネジか、何かの破片。指の腹に当たる角が尖っていて、少し痛い。
その痛みが、固まっていた全身をわずかに解凍した。
「こっちだ!!」
叫んだ声が、自分のものと思えないくらい変だった。裏返って、割れて、みっともない叫びだった。でも大きかった。
金属片を壁に叩きつけると、甲高い音が通路中に反響する。
影が止まった。
二つの頭が、少年から僕に向き直る。四つの目が暗闇の中で光った。
「朝霧くん!? 何やって……!」
明菜さんの悲鳴。だけど僕の足は完全には止まらなかった。
半歩だけ後ろに下がる。逃げるんじゃない。距離を取るだけだ。影の注意を引きながら、少年から離れる。
影が跳んだ。今度は見えた。五メートルが一瞬で消える跳躍。空気を切る音すらしない。
だが、二度目は知っている。軌道を知っている。だから半歩が間に合った。
爪の先が頬の横を通り過ぎる風圧を感じた瞬間、前衛の槍使いが横から突っ込んだ。
「今だ! 押せ押せ!!」
槍が影の肩口に刺さる。貫いてはいない。刺さって止まっただけだ。硬い。
影が吠える。二つの口が同時に開いて、鉄と腐肉の混じった息が噴き出した。近距離で嗅ぐそれは、嘔吐を誘うほどの悪臭だった。
「盾! 盾で押し込め!」
「右! 右から回ります! 少年を引っ張って!」
声が出ていた。僕の声だ。震えてる。情けない。裏返ってる。
明菜さんが少年の腕を掴んで引きずる。後衛が魔弾を撃ち込む。前衛が影を押し返す。盾が歯に噛まれてひしゃげたが、その間に二本目の槍が腹に突き刺さった。
永遠みたいな数分の末、影は倒れた。
黒い身体が床に溶けるみたいに崩れ、最後に残ったのは拳大の黒い石だけだった。魔石。モンスターが消えた証拠。
僕の足が、ゆっくりと崩れた。膝から力が抜けて、そのまま床に座り込む。
鉄パイプがカランと音を立てて転がった。手が、やっと震え始めた。
戦っている間は震えなかったのに、終わった瞬間にまとめて来た。歯がカチカチ鳴っている。自分で止められない。
「朝霧! 大丈夫か!」
「し、死んでない……よね、僕……」
「死んでねえよ! お前すげえな、よく声出せたな! あれがなきゃあの坊主は終わってたぞ」
槍使いが肩を叩いてくる。ベテランの手は分厚くて、叩かれると骨に響く。痛い。
でも、その痛みが嬉しかった。痛いということは、まだ生きている証だ。
ゲートの外の光は、やけに白かった。
午後の陽射しが目に沁みて、しばらく手で庇を作らないと前が見えなかった。ゲートの中の蛍光灯に慣れた目には、自然光がまるで別の世界のもののように眩しい。
空気も違う。排気ガスと草と人の匂い。ゲートの中にはなかった「生活」の匂いだ。
少年が近づいてきた。さっき転んだ男の子だ。
肩当てはもう外していて、手に持ったまま僕の前に立った。目が赤い。鼻の頭も赤い。泣いていたのだろう。
「あの……さっき、ありがとうございました。あなたが声を出してくれなかったら、僕……」
「……いや。僕も怖かっただけだよ。叫んだだけ」
「叫んでいただいたおかげで助かりました。ありがとうございます。本当に」
少年は深く頭を下げて、走って去っていった。仲間のところに戻るのだろう。
その背中を見送りながら、僕は何も言えなかった。
でも、その言葉が胸に落ちた瞬間、少しだけ呼吸が楽になった気がした。肺の奥に引っかかっていた何かが、ほんの少しだけ溶けた。
視界の端に、赤い文字が静かに浮かぶ。
周りには誰もいない。ゲートの出口から少し離れたベンチの近くで、僕は一人で立っていた。
【ログ予告】
評価ランクは上位領域へ拡張可能(未解放)
次回死亡時、詳細条件が開示されます
"次回死亡時"。
その四文字が、胸の奥に冷たく沈む。
次がある、とシステムは言っている。僕がもう一度死ぬことを、当然の前提として。
僕は弱い。強くない。武器もない。経験もない。叫ぶことしかできない。
でも、このログが見える限り――僕は何かに巻き込まれている。選ばれたのか、利用されているのか、それすら分からない。
分かるのは一つだけ。
僕は一度、死んだ。そして、戻ってきた。
首元に手を当てる。傷はない。痛みもない。
けれど、あの瞬間の冷たさだけが皮膚の下にこびりついていて、指先で触れるたびに蘇る。消えない。たぶん、ずっと消えない。




