監査局からの調査
セリーヌは報告書の束をめくりながら、眉をわずかに寄せた。
提出期限を過ぎた書類は一通もない。数字も整っている。
書式も統一され、余白の取り方まできっちり揃っている。
整然とした帳簿は、それだけで人を安心させる。
だが同時に、どこか味気ない。
効率と正確さの上に積み上げられた数字の列を見つめながら、
セリーヌは小さく息をついた。
「――今日も、変わらないわね」
その独り言をかき消すように、扉の向こうから控えめなノックが響いた。
「お嬢様、監査局のアナスタシア・ルーベル様が、お見えです」
ペン先が止まる。
セリーヌは少しだけ表情を和らげた。
「通してちょうだい」
そういい彼女は、来客者用の準備を始めた。
――もう、あれから一ヶ月半が過ぎていた。
父の容態は、あまり良くないらしい。
北方の療養先から届く手紙は、どれも短く、筆跡も日に日にかすれていく。
代筆の行も混じるようになり、本人の手になる文字はほとんど見かけなくなった。
当初は一時的な代理のつもりだったが、この分ではしばらく長くなりそうだ。
会計、契約、在庫――商会の実務は全てセリーヌの手に渡っている。
「……まあ、いつものことね」
淡々と呟いて、書類の束を整える。
任される以上は、やり遂げる。それがリュミエールの名を背負う者の責務だ。
机の上の書簡をそっと脇へ寄せると、扉の向こうから軽い足音が近づいてきた。
それは、久しく聞いていなかった明るい響きだった。
「お久しぶりです、リュミエール様!」
明るい声が、部屋の空気を一変させた。
振り向けば、アナスタシア・ルーベルが満面の笑みを浮かべて立っていた。
前回よりも軽装で、制服の袖を少し折り返している。
快活な雰囲気はそのままに、どこか仕事に慣れた余裕さえ感じさせた。
「ちゃんと覚えててくださって嬉しいです! 本日、書類確認に伺いました!」
セリーヌはペンを置き、ため息ともつかない息をひとつ落とした。
「……あなたの声、廊下まで響いていたわ」
「えっ、ほんとですか? すみません! でも元気なのは良いことですよね!」
まるで曇り空に陽が差すように、アナスタシアの笑顔が部屋を明るくしていた。
「さて、と!」
アナスタシアは書類鞄を開き、手際よく書簡の束を取り出した。
その動作に無駄がない――元気な印象の裏に、確かな実務経験が垣間見える。
「こちら、前回お預かりしていた月末分の確認書類になります! 総じて問題なしです!」
そう言いながら、アナスタシアは手元の帳簿を指で軽く叩いた。
「……ただ、一点だけ――少し、確認をお願いしたい件がありまして」
セリーヌは静かに眉を上げた。その声音の変化を察したのか、アナスタシアは少しだけ姿勢を正した。
「ええと……本来なら私の口から直接申し上げるような話ではないんですが」
言いにくそうに視線を落とし、それでも真正面から見上げる。
「監査局のほうで、リュミエール商会の“決算報告”に関して――調査対象に指定されたんです」
セリーヌの手が止まった。
紅茶の香りが、わずかに重く沈む。
「……“調査対象”? それはつまり、疑われているということかしら」
セリーヌの声音は穏やかだった。
だが、その静けさがかえって鋭く、アナスタシアは思わず姿勢を正した。
「い、いえっ! 正式な疑惑というわけではなくて!」
アナスタシアは慌てて手を振る。
「上層部が“念のため”って言ってるだけなんです! 最近、王都全体で監査の基準が厳しくなっていて……」
アナスタシアは言葉を探すように少し間を置き、声を潜めた。
「というのも……最近、密輸の取り締まりが強化されてるんです。かなり大規模なものが見つかったらしくて」
セリーヌは眉をわずかに動かす。
アナスタシアは続けた。
「王都に持ち込むことが禁止されている武器や、治療用名目で流れてる危険薬……。そういうものが、市場に出回っているみたいで」
「危険薬?」
「ええ。元は鉱山作業員向けの鎮痛剤だったそうです。少量なら問題ないんですが、濫用すると依存性が出るって」
アナスタシアは小さく首を振る。
「そういうものが裏で取引されてるんですよね……」
セリーヌはペンを置き、目を細めた。
「王都の治安局は何をしているのかしら」
「治安局も売買をしている市場までは抑えてはいるんですけど、製造元――つまり“どこから流れてきているのか”が、まだ特定できていないみたいなんです」
「……だから、監査局も神経を尖らせているというわけね」
「はい。武器も薬も“王都では絶対に手に入らないはず”のものですから。でも、一般流通しないぶん、価格が異常に釣り上がってて……噂では、一丁の銃で商人一人が三ヶ月間は暮らせるとか」
アナスタシアは苦々しく笑った。
「それで、“取引規模の大きい商会ほど怪しい”っていう風潮になっちゃってるんです。……だから、うちの上も慎重で」
「なるほどね」
セリーヌは机上の書類を指先で軽く叩いた。
軽い音が、張りつめた空気をわずかに震わせた。
「つまり――“疑わしいものは片端から調べろ”、というわけね」
「……そんな感じです」
アナスタシアの返事は小さく、申し訳なさげだった。
セリーヌはしばらく黙ったまま、窓の外に視線を向けた。
外では、春の名残を含んだ風が、薄い雲をゆっくりと流している。
「……それでですね」
アナスタシアは言いにくそうに唇を結び、それから思い切って続けた。
「月末の書類のほかに、もし可能であれば――“輸入用”の取引決算書も拝見させていただけますか?」
「輸入分、ですって?」
「はい。こちらで調査しますので!」
アナスタシアは慌てて両手を振った。
「決して、疑っているわけじゃないんです!」
アナスタシアは勢いよく話した。
「ただ、王都の取引記録の照合作業で、各商会の“輸入ルート”を一度洗い直すことになってて……上から、“念のため、主要商会にも提出を求めておけ”と」
セリーヌは静かに書類を閉じた。
「なるほど。状況は理解したわ」
声に刺はなかった。ただ、冷静な確認の響きだけがある。
「……とはいえ、随分と急な話ね。準備には少し時間をもらえるかしら?」
「もちろんです!こちらは期限は設けていませんので、準備出来次第お願いします!」
アナスタシアは慌ててメモを開きながら答える。
「輸入関連の決算書は、今後の照合データとして重要になるので、原本の閲覧だけでも十分です。こちらで確認を取りますので!」
セリーヌは小さく頷き、椅子の背にもたれた。
「ええ。協力しましょう。うちの取引に問題はないもの」
「ありがとうございます!」
アナスタシアの顔がぱっと明るくなる。
「書類はルネに手配させるわ。準備が整い次第、あなた宛てに連絡します」
「はい、助かります! 本当に……すみません、こんな時期に」
「いいのよ、気にしなくて」
セリーヌはやわらかく首を振った。
「むしろ、あなたが直接来てくれたのは助かるわ。こういう話は、手紙より顔を見てするほうがいいもの」
そういって、彼女は決算報告書の束を手に取った。




