書斎に吹く風
扉の向こうに立っていたのは、思いのほか若い女性だった。
明るい栗色の髪を無造作に束ね、制服の袖口から覗く手首には、細いインク染みがいくつも刻まれている。
年の頃は十八にも満たないだろうか。だが、その眼差しには不思議と力があった。
お辞儀をしながら差し出された身分証には、「監査局第一課 アナスタシア・ルーベル」と記されていた。
「このたび王都監査局に着任いたしました。リュミエール商会様の監査を担当させていただくこととなりまして、ご挨拶に伺いました!」
元気のいい声が、書斎の空気を破った。
あまりに快活で、セリーヌは思わずまばたきをする。
「……そう。わざわざご丁寧に」
「はいっ。ええと、その……エインズワース領の鉱山開発に関連する書類提出の件も確認したくて――あ、でもお忙しい時間に突然すみません!」
慌てて言葉を継ぐアナスタシア。
机の上の帳簿を見て、感嘆したように目を丸くする。
「うわ……これ、全部、手書きなんですか? 綺麗……!」
「ええ。数字は人に任せられませんもの」
「すごいです……! うちなんて、上司が数字の“3”と“8”を見間違えて、大騒ぎでしたよ」
ぽろりとこぼれる愚痴に、セリーヌは小さく唇を緩めた。
「商会では帳簿の付け方は徹底されているとは思うので、そのような事はないと思いますが、監察官って皆さん我流の書き方をするんですよ。もううちの上司は字の癖が強くて強くて……」
ほんの一瞬、心がほどける。
――こんな率直な話し方をする人間に、彼女は長らく出会っていなかった。
ルネが香り高い紅茶を置くと、アナスタシアは姿勢を正した。
「実は、監査って“調べる”より“知る”ことが大事なんです。数字だけじゃ見えないことが多くて。だから、まずはお話を伺いたくて……!」
「話、ですか?」
「はい。リュミエール商会がどうしてここまで信頼を築けたのか――ずっと興味があって!」
セリーヌは目を細めた。
若い監査官が放つ熱量は、警戒よりも、どこか懐かしいものを思い起こさせる。
「……そんなもの、語るほどのことじゃないわ。取引は誠実に、契約は明確に。それだけよ」
「でも、それが難しいんですよね!」
アナスタシアは、まるで講義でも始めるような勢いで椅子の背に手をかけた。
「どんな商会も一応は“誠実”を掲げてます。でも実際にそれを続けられるのは、一握りだけです。リュミエール商会が二十年も取引停止ゼロなんて、奇跡みたいな話ですよ」
「奇跡ではないわ。仕組みと規律の結果よ」
セリーヌは紅茶を口に含み、淡々と答える。
「誰もが同じ帳簿を見て、同じ基準で判断できるようにする。私情を挟んだ贔屓とかはもってのほかよ。それが一番の信頼になるのよ」
アナスタシアはその言葉を静かに聞いていた。
「やっぱり、そうなんですね」
彼女は小さく頷きながら、机の上の契約書の束に視線を落とした。
「整っていて、無駄がなくて……見ていて気持ちがいいです。書類だけじゃなくて、空気まで落ち着いてる気がします」
セリーヌは目を瞬かせた。
思いがけない感想に、言葉が出ない。
「私、まだ駆け出しで、監査も覚えることばかりなんですけど……そういう雰囲気に惹かれてしまうんです」
セリーヌは紅茶を置き、姿勢を正した。
「……雰囲気、ね」
アナスタシアはこくりと頷いた。
「はい。うまく言えないんですけど……帳簿や契約って、その商会の考え方が出る気がして。リュミエール商会の書類は、“正しくありたい”って気持ちが、全部の文字に行き渡っているようで」
セリーヌは目を伏せた。
紅茶の香りが、ふと遠くの記憶を呼び起こす。
――かつて、自分も同じことを言われたことがあった。
父に、初めて帳簿の整理を任された日。
数字は人の顔を映す鏡だ、と。
「……褒め言葉として受け取っておくわ」
「もちろんです!」
アナスタシアは少し頬を赤らめ、慌てて姿勢を正した。
その仕草が、どこか憎めない。
セリーヌは微かに口元を緩めた。
それが笑みだと気づいたのは、自分でも少し後のことだった。
「あなた、監査官なのに、ずいぶん感覚的なのね」
アナスタシアは、はにかむように笑って頷いた。
「よく言われます。本当は感覚的に考えてはいけない職業ではあるんですけどね!」
それからしばらく、季節の話や連盟の噂など、他愛のない会話が続いた。
セリーヌにとっては珍しいことだった。
誰かと、言葉を交わす――ただそれだけの時間。
気づけば、机の上の紅茶はいつの間にか半分ほど冷めていた。
「では、そろそろ、失礼しますね」
アナスタシアは椅子を引きながら、懐中時計を確認した。
「本日はご挨拶だけのつもりだったのに、つい長居してしまいました……」
「構わないわ。退屈しなかったもの」
「まあ、嬉しいです!」
アナスタシアはぱっと顔を明るくし、書類を胸に抱いた。
「では、所定の書類は来月末までお願いしますね!また確認しに伺います!」
「ええ、承知したわ」
扉の前で、アナスタシアは振り返った。
「機会があれば――もっといろいろお話ししましょう!」
セリーヌは軽くまばたきをして、短く頷いた。
残ったのは、わずかに甘い紅茶の香りだけ。
セリーヌは視線を落とし、冷めたカップを見つめた。
――妙に、心地よかった。
それがどういう感情なのか、彼女自身はまだわからなかった。




