閉ざされた扉の向こう
王都の午後は、柔らかな曇り空だった。
遠くの鐘楼が三度鳴り、湿った風が薔薇の香りを運んでくる。
けれど、リュミエール邸の中は静まり返っていた。
書斎の机には、新たな契約書の束が積まれている。
本来なら、これらは父――リュミエール商会の当主が目を通すべきものだった。
だが彼は今、北方領への長期出張に出ている。
名目は「新規鉱山との契約交渉」だが、実際は体調を崩しての静養に近い。
その間、邸内と商会の采配を任されているのは、ただ一人。
セリーヌ・リュミエール。
「……代理、ね」
今までにも何度か経験したことはある。
だが、こうして父の名代として活動するのは――あの騒動以来、初めてだった。
“侯爵家の茶会での婚約破棄”。
王都の誰もがその出来事を忘れてはいない。
皮肉なことに、契約を破棄した家が、いま最も信用を持つに至ったのだ。
セリーヌは手元の報告書に目を落とした。
しかし、最初からそうだった訳ではない。商人あがりの家として肩身が狭かった時期があった。
ただ、蓋を開けてみれば、見下されていた立場が、すっかり逆転しているのも――なんという皮肉な話だろう。
話題が途切れたときにだけ、都合よく微笑みを向けられ、舞踏会では「お相手いたしますよ」と気まぐれに手を差し伸べられた。
そのすべてが“好意”ではなく“施し”であることを、幼いセリーヌは痛いほど理解していた。
だから、彼女には絶対的な信頼をおける人物はいなかったし、商会も同様だった。
“信頼”とは常に契約の上で成り立つもの。
それがリュミエール家の掟であり、セリーヌが最も早く学んだ現実だった。
父はいつも言っていた。
「口ではなく、紙に残るものを信用せよ」と。
その言葉を、彼女は一度たりとも疑わなかった。
そして実際、それで家はここまで繁栄した。
だが、その代償に、セリーヌは気づかぬうちに“人”を遠ざけていた。
誰かに相談することも、心を預けることもなく、ただ効率と自身の誠実さだけを秤にかけて判断を下す日々。
婚約相手に至っても、半ば打算的なものに過ぎなかった。彼の誠実さや家柄よりも、リュミエール家との利害が噛み合う――その一点で選ばれた関係だった。
最初から“愛”など期待していなかったし、彼もまた“信頼”より“利便”を求めていた。
互いにそれを理解していたからこそ、当初は上手くいっていたのだ。
だが、人は往々にして、慣れた均衡を壊したくなる生き物だ。
彼が心変わりした瞬間、すべては崩れ去った。
愛を理由に、契約を踏み越えた。
そのときセリーヌは悟った――自分が信じていたのは人ではなく、約束という形だけだったのだと。
以来、彼女は決して誰にも情を見せなくなった。感情を交えた取引は、最も不確実で、最も危うい。だからこそ、信頼を築くなら数字で。絆を結ぶなら印章で。
それが彼女の生き方になった。
けれど、その徹底した冷静さの裏で、時折胸が痛くなることがあった。
勝っても、褒められても、満たされない。
称賛も恐れも、結局は“距離”を作るだけだ。
「……信じられる人、ね」
誰に聞かせるでもなく呟いたそのとき――
扉の向こうから、ノックが響いた。
「お嬢様、面会の申し出がございます」
「誰?」
ペンを置いたセリーヌの声は、わずかに疲労を帯びていた。
「商会連盟から、新任の監査官が。ご挨拶に伺いたいと」
「……この時期に?」
思わず小さく眉を寄せる。
本来、監査官の挨拶など年度の改まる頃に済ませるものだ。
今は決算期の真っ只中――訪問の意図が全く読めなかった。
とはいえ、追い返す理由もない。
不用意に門前払いなどすれば、後々厄介なことになる可能性があった。
監査局の役人というのは、礼を欠いた相手には徹底的に厳しくなりがちだ。
「……不義理を働いたと思われて、後で商会の帳簿をひっくり返されたらたまらないわね」
皮肉を混ぜた独り言に、執事のルネが微かに眉を動かした。
「では、お通ししてよろしいでしょうか」
「ええ。――後でお茶の用意もお願い」
暫く後、扉がゆっくりと開かれた。
柔らかな光の中に、一人の少女の影が現れる。
まだ声も名も知らぬその来訪者に、セリーヌは思わず手を止めた。
どこか場違いなほど明るい空気が、閉ざされた書斎の空気をかすかに揺らす。
その日――セリーヌ・リュミエールは、後に生涯の親友となる人物と出会うことになった。