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3/12

冷めゆく紅茶

 王都の朝は、薄曇りだった。

 夜半の雨で石畳は黒く濡れ、行き交う馬車の車輪が泥を跳ねる。

 その鈍い音が、やけに静かな邸内に響いていた。


 セリーヌ・リュミエールは、朝の書斎で一通の報告書に目を通していた。


 淡く香るのは、紅茶ではなくインクの匂い。


 そこに記されていたのは、たった二行の文だった。


 ――エインズワース家、取引停止。

 ――バートン家、連盟より支援解除。


 それは報告書というより、死の宣告のような通知であった。


 セリーヌは手を止め、短く息を吐いた。


 窓の外では、曇天の光が灰色の庭に落ちている。


「……終わったわね」


 その呟きに、感情はなかった。

 彼女にとってこれは“復讐”ではない。

 あの日、約束が壊れた瞬間にすべては決まっていたのだ。


 扉の外から、ノックが響いた。

「お嬢様、リリア・バートン様が面会を希望されています」


 セリーヌのまつげがわずかに動く。


「理由は?」


「お詫びを申し上げたいと」


 セリーヌは報告書を閉じ、机の上に静かに置いた。その仕草だけで、答えはもう決まっているようだった。


「……そう。では、紅茶を淹れてちょうだい。

 私が飲み終えるまでの間だけ、お相手してさしあげるわ」



 ◇



 温室には、夜明けの名残がまだ漂っていた。

 水滴を含んだ薔薇がわずかに首を垂れ、光を吸い込むように静まっている。

 磨かれた床石に映る二つの影――セリーヌと、リリア・バートン。


 リリアは両手を胸の前で組み、震える指先を隠すように立っていた。


「……お時間をいただき、ありがとうございます」


 声は細く、どこか擦れている。


 セリーヌは対面の椅子に腰を下ろし、紅茶を注いだ。

 琥珀色の液体がカップに満ちる音だけが、会話の代わりに響く。


「構いませんわ。私の茶が冷めるまでは」


 リリアはその意味を理解し、唇を噛んだ。


「私……どうしても、お詫びを申し上げたくて」


「お詫びを?」


 セリーヌは紅茶の香りを確かめるように目を伏せた。


 湯気が薄れ、静かな空気の中で声だけが聞こえる。

「では、お尋ねしますわ」


 ゆっくりと顔を上げる。灰青の瞳が、真正面からリリアを射抜いた。


「何を詫びるつもりなのかしら? 裏切りを? それとも、立場の損失を?」


「そ、そんな……!」


 リリアの唇が震える。


「……私は、ただ――」


 リリアは必死に言葉を探した。


 セリーヌは微動だにせず、その様子を見つめていた。


「“ただ”――ね」


 セリーヌがゆっくりと紅茶を口にした。


「責任を逃れる人は、決まってそう言います。“ただ、仕方がなかった”“ただ、そうするしかなかった”――けれど、選んだのはいつだって本人なのですよ」


 リリアの頬が引きつる。

 視線を落としたまま、握った手が白くなる。


「……違うんです。私は……信じていたのです、アルフレッド様を」


「信じていた?」


 セリーヌはわずかに笑った。

 その笑みは、哀れみすらも帯びていた。


「いいえ、あなたが信じていたのは――“自分が愛されている”という幻想ですわ。彼の誠実も、私の信頼も、あなたにとってはただの飾りだったのでしょう」


「そんな……私は、そんなつもりじゃ――!」


「ええ、そうでしょうね」


 セリーヌの声が重なった。


「“そんなつもりじゃなかった”。でも、壊してしまったのは事実なのですよ」


 リリアは息を詰まらせ、椅子の縁を掴んだ。

 爪が震え、かすかな音を立てる。

 それでもセリーヌは一歩も動かない。


「あなたが壊したのは、私の婚約でも名誉でもないわ」


 静かな声が、薄曇りの朝に溶けていく。


「“信頼”よ。一度失えば、どんな愛でも取り戻せないもの」


 リリアの視界が滲む。

 けれど、涙を流すことはできなかった。

 その資格さえ、もう自分には残っていないと悟っていたから。


 セリーヌは立ち上がり、視線を一度だけリリアに落とした。


「――もう、よろしいですわね。紅茶が冷めてしまうわ」


 それだけを告げて、彼女は扉へと向かった。

 背を向けたまま、声の温度だけがわずかに変わる。


「あなたのために言っておきます。後悔は、誰にも聞こえないところでするものですわね」


 扉が閉まる音が響き、温室は再び静まり返った。


 リリアの前には、もう誰もいない。

 冷めた紅茶の表面に、震える涙の粒が落ちた。

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― 新着の感想 ―
信頼も信用も積み重ねですからね。 無くすのは一瞬 取り戻すのは 簡単ではないし 疑心が付き纏うし、、 今までより更に難しくなります。(・∀・) ま、恩知らずの人たちの信用とか、、 どん底レベからの更…
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