冷めゆく紅茶
王都の朝は、薄曇りだった。
夜半の雨で石畳は黒く濡れ、行き交う馬車の車輪が泥を跳ねる。
その鈍い音が、やけに静かな邸内に響いていた。
セリーヌ・リュミエールは、朝の書斎で一通の報告書に目を通していた。
淡く香るのは、紅茶ではなくインクの匂い。
そこに記されていたのは、たった二行の文だった。
――エインズワース家、取引停止。
――バートン家、連盟より支援解除。
それは報告書というより、死の宣告のような通知であった。
セリーヌは手を止め、短く息を吐いた。
窓の外では、曇天の光が灰色の庭に落ちている。
「……終わったわね」
その呟きに、感情はなかった。
彼女にとってこれは“復讐”ではない。
あの日、約束が壊れた瞬間にすべては決まっていたのだ。
扉の外から、ノックが響いた。
「お嬢様、リリア・バートン様が面会を希望されています」
セリーヌのまつげがわずかに動く。
「理由は?」
「お詫びを申し上げたいと」
セリーヌは報告書を閉じ、机の上に静かに置いた。その仕草だけで、答えはもう決まっているようだった。
「……そう。では、紅茶を淹れてちょうだい。
私が飲み終えるまでの間だけ、お相手してさしあげるわ」
◇
温室には、夜明けの名残がまだ漂っていた。
水滴を含んだ薔薇がわずかに首を垂れ、光を吸い込むように静まっている。
磨かれた床石に映る二つの影――セリーヌと、リリア・バートン。
リリアは両手を胸の前で組み、震える指先を隠すように立っていた。
「……お時間をいただき、ありがとうございます」
声は細く、どこか擦れている。
セリーヌは対面の椅子に腰を下ろし、紅茶を注いだ。
琥珀色の液体がカップに満ちる音だけが、会話の代わりに響く。
「構いませんわ。私の茶が冷めるまでは」
リリアはその意味を理解し、唇を噛んだ。
「私……どうしても、お詫びを申し上げたくて」
「お詫びを?」
セリーヌは紅茶の香りを確かめるように目を伏せた。
湯気が薄れ、静かな空気の中で声だけが聞こえる。
「では、お尋ねしますわ」
ゆっくりと顔を上げる。灰青の瞳が、真正面からリリアを射抜いた。
「何を詫びるつもりなのかしら? 裏切りを? それとも、立場の損失を?」
「そ、そんな……!」
リリアの唇が震える。
「……私は、ただ――」
リリアは必死に言葉を探した。
セリーヌは微動だにせず、その様子を見つめていた。
「“ただ”――ね」
セリーヌがゆっくりと紅茶を口にした。
「責任を逃れる人は、決まってそう言います。“ただ、仕方がなかった”“ただ、そうするしかなかった”――けれど、選んだのはいつだって本人なのですよ」
リリアの頬が引きつる。
視線を落としたまま、握った手が白くなる。
「……違うんです。私は……信じていたのです、アルフレッド様を」
「信じていた?」
セリーヌはわずかに笑った。
その笑みは、哀れみすらも帯びていた。
「いいえ、あなたが信じていたのは――“自分が愛されている”という幻想ですわ。彼の誠実も、私の信頼も、あなたにとってはただの飾りだったのでしょう」
「そんな……私は、そんなつもりじゃ――!」
「ええ、そうでしょうね」
セリーヌの声が重なった。
「“そんなつもりじゃなかった”。でも、壊してしまったのは事実なのですよ」
リリアは息を詰まらせ、椅子の縁を掴んだ。
爪が震え、かすかな音を立てる。
それでもセリーヌは一歩も動かない。
「あなたが壊したのは、私の婚約でも名誉でもないわ」
静かな声が、薄曇りの朝に溶けていく。
「“信頼”よ。一度失えば、どんな愛でも取り戻せないもの」
リリアの視界が滲む。
けれど、涙を流すことはできなかった。
その資格さえ、もう自分には残っていないと悟っていたから。
セリーヌは立ち上がり、視線を一度だけリリアに落とした。
「――もう、よろしいですわね。紅茶が冷めてしまうわ」
それだけを告げて、彼女は扉へと向かった。
背を向けたまま、声の温度だけがわずかに変わる。
「あなたのために言っておきます。後悔は、誰にも聞こえないところでするものですわね」
扉が閉まる音が響き、温室は再び静まり返った。
リリアの前には、もう誰もいない。
冷めた紅茶の表面に、震える涙の粒が落ちた。