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序章 覚醒

――風の音。


目を覚ましたとき、秋山崇は湿った土の匂いと、頬を撫でる草の感触に包まれていた。


まぶたをゆっくりと開ける。頭上には、低く垂れ込めた曇天。灰色の空が広がり、ところどころに切れ間ができて、そこから鈍く光が差し込んでいた。風が木々の葉をかすかに揺らし、耳には鳥のさえずりや虫の羽音が届く。どこか現実味のない静けさだった。


「……ここは……どこだ……?」


喉はひどく渇き、頭には鈍い痛みが残っていた。自分が誰なのか、なぜここにいるのか、全てが曖昧だった。見知らぬ草原に一人。近くには、緩やかな斜面と岩場、背後には鬱蒼とした森が広がっている。人工的な音も、建造物も、まるで存在しない。


ゆっくりと体を起こし、辺りを見渡す。身につけていたのは、汗を吸った白いTシャツと、やや泥のついたジーンズ。足元はスニーカー。どれも記憶にはない。


ポケットを探ると、小さなナイフと携帯用の水筒、火打石のようなものが見つかった。首元には、簡易的なプラスチックのタグがかけられている。


『NO.17』――それだけが記された識別札。


「番号……?」


その文字を見つめた瞬間、頭の奥に何かが引っかかった。だが、すぐに霧のように意識の外へと消えていった。


崇は立ち上がり、まずは水を探すために歩き始めた。地面はぬかるんでおらず、草はやや乾いている。森へと続く道を慎重に進むと、やがて小さな川にたどり着いた。透明度の高い水が浅く流れ、川辺には小魚が泳ぎ、光に反射してきらめいている。


手を浸してみる。冷たく、心地よい感触。掌で水をすくい、喉を潤した。どこかで浄水された水に慣れていたせいか、自然の味に違和感を覚えたが、今はそれを咎める余裕もなかった。


川沿いに下っていくと、開けた場所に出た。そこには、自分と同じように呆然と立ち尽くしている人影が二つ。


「……あんたも、ここに?」


声をかけたのは、30代後半と思しき短髪の男だった。日焼けした肌に引き締まった体つき。警戒心を含んだ視線を崇に向ける。


「ああ……気がついたら、この辺に倒れていた。あなたも……?」


「似たようなもんだ」


もう一人の男が口を開く。やや華奢な体型で眼鏡をかけていたが、どこか落ち着かない様子だった。「神谷って……呼ばれてた気がする。はっきりは思い出せないけど」


「俺は……秋山崇。たぶん、そうだったはず」


短髪の男も名乗った。「坂井だ。自分の名前だけは、なぜか頭に残ってた」


三人は互いに確認し合い、自分たちが同じように記憶の一部を失っていること、同じタグをつけていること、そしてなぜか最低限のサバイバル用品を所持していたことを知った。


時間の感覚が曖昧なまま、空は次第に薄暗くなっていった。三人は協力して寝床を探し、森の外れにある廃屋を発見した。半壊した木造の建物。壁の一部は崩れ落ち、床には苔が生えているが、屋根はなんとか残っていた。


「今夜はここで過ごそう。これ以上うろつくのは危険だ」


崇のポーチには火打石と小型ナイフ、乾燥した着火剤が入っていた。坂井が周囲で枯れ枝を拾い、神谷が廃材を組んで簡易な焚き火を作る。火が上がると、三人はようやく冷えた体を温め、静かに語り合い始めた。


「……記憶が曖昧でも、体はちゃんと動く。不思議だよな」


「でも名前だけは残ってる。俺たちは“記憶喪失”じゃない。選ばれてる……のかもな」


神谷の言葉に、崇は小さく頷いた。


「なんらかの意思で、ここに連れてこられた……そう思うのが自然だ」


「でもなんのために? テレビの企画とか、極秘訓練とか?」


「それなら説明があるはずだ。タグをつけて、記憶を曖昧にして、放り出すなんて……普通じゃない」


誰も答えを持っていなかった。ただ、この島が“普通”ではないという確信だけが、徐々に彼らの中で形を取り始めていた。


夜が深まる。


焚き火がパチパチと音を立てる中、遠くで奇妙な音が響いた。


「……叫び声か?」


坂井が耳を澄ませた。その瞬間、確かに聞こえた。遠く、森の向こう。風に乗って流れてきたのは、明らかに人間のものと思われる悲鳴だった。


「やめろ……やめてくれぇぇぇええええ!!!」


神谷が息を呑む。「今の……」


「間違いない。誰かが……襲われてる」


だが、どこで、誰に、なぜ。答えは出ない。


「確認に行くのは……危険だ」崇が静かに言った。「今の俺たちは武器もなく、状況も不明だ。無闇に動くべきじゃない」


坂井も頷く。「夜が明けてからでも遅くない。まずは生き延びることを優先しよう」


その夜、三人は交代で見張りを立てながら眠ることにした。


しかし、その後も夜風に紛れて、うめき声、笑い声、獣の咆哮のような奇声が響き続けた。


崇は寝付けず、天井の抜けた木枠の間から曇った空を見上げていた。脳裏には、自分がなぜここにいるのかという疑問と、次第に形になり始める一つの恐怖が浮かんでいた。


――これは事故でも、偶然でもない。


――何かに巻き込まれている。


翌朝、崇たちは廃屋を出て、周囲を調べることにした。


森の奥で、一つの死体を見つけた。


顔を潰され、衣服が裂け、全身を泥にまみれたその遺体は、崇たちの誰とも面識がない。が、その首元には自分たちと同じような番号タグがあった。『NO.09』


神谷が震える声で言った。


「……これ、昨日の……声の……」


誰も何も言えなかった。空は青く晴れていたが、足元の死体がこの島の現実を突きつけていた。


「ここは……安全じゃない」


崇はその言葉をかみしめながら、背筋に冷たいものが這い上がるのを感じていた。


――生き延びなければ。


――この島から、抜け出す手段を見つけるまでは。



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