偏屈なステイシー・コリンズと幼馴染~超優秀な姉は、妹の初恋のひとと結婚する~
「ああ、ステイシーさん」
「……はい」
『嫌な相手に捕まった』──そうステイシーは思った。
この女教師ときたら、とにかく優秀な姉とステイシーを比較し、あーだこーだ言ってくるので面倒極まりないのである。
国立学園一般学科5年生、ステイシー・コリンズには、美人で頭もよく、なんでもできて性格もいいという、超優秀な姉がいる。
ステイシーにとっても姉・ユーフェミアは自慢だ。
だからといってまだ齢14。こういう輩のお言葉を長々有難く拝聴してられる程、人間ができてもいなかった。
……流石に長過ぎる。
粛々と聞いている素振りで俯き気味だった顔を上げ、口を開いた。
「せ「ステイシー」」
その時だった。
「こんなところにいたのか。 全く、待ちくたびれたよ……あ、先生。 ステイシーに用事ですか? まだ掛かります?」
わざとらしいタイミングで入ってきたのは、ロードリック・ウェルティ。
国立学園一般学科の同級生でステイシーの幼馴染だ。
眉目秀麗な彼はそこそこに成績も優秀な侯爵家の息子で、教師ウケも良い。
──外面がいいだけで少々腹黒いのだが。
(コイツ絶対、暫く傍観してた)
経験則からその確信があったステイシーは、心の中で舌打ちをする。
彼の登場により女教師は媚を売るような笑いを残して撤退したが、礼など言う気は欠片も生まれなかった。
この国の国立学園は俗に『貴族院』と呼ばれる。
だが通う中には裕福な平民もおり、学園内では皆平等という名目で、互いに家名は名乗らずファースト・ネームを呼び合って過ごす。
一般学科に通うふたりは14歳。
男子が士官でき、女子が社交界デビューを迎える15歳になる年にそれぞれ学科選択を行うので、今まさに進路で悩むお年頃だ。
ステイシーは、それにかこつけて余計な指導(という名の憂さ晴らし)をしてくる教師達に辟易していた。
勿論そんな教師ばかりではないけれど。
「ステイシー、さっきなにを言おうとしてたんだ?」
半笑いで尋ねてくるロードリックを見ずに、ステイシーは不機嫌そうな面持ちで答える。
彼を追い越し、早足で馬車へと向かいながら。
「『先生はそう仰いますけど、努力したら姉に追いつくと本気で思ってらっしゃいます?』」
想像通りの答えに、少し後ろでロードリックの笑う声。
実際ステイシーは、いちいち姉と比べて『だから貴女は努力が足らない』などと言う馬鹿にはいつもこう言ってやりたい。
『姉は大変な努力家でもあるんですよ』と。
なにかと比べられがちなステイシーが姉を羨み僻む気にはなれないのは、姉が自分に優しいことや美人で才気に溢れることだけではなく、この一点が大きい。
姉は姉なりに苦労をしているのを、一番間近で見ているのもまたステイシーなのだ。
姉、ユーフェミアは責任感が強い。
期待されたら応えたいと思うのは誰だってそうだろうが、とてもじゃないがあんなに努力はできないと思う。
仮に姉と同様のスペックが、自らに備わっていたとしても。
「ウッカリ言う前に助けた礼とかはないわけ?」
「楽しんで見てた人にぃ? 冗談やめてよ」
幼馴染であるふたりの両親は共に文官。
それぞれ王都の高級住宅地に邸宅を持ち、隣家である。
時代が移り変わり女性の社会進出が多少進んでも、家柄や血筋を重んじる家庭の子らは『 学園に入るからこそ』早々に婚約している者も少なくない。
そういった者とは違いふたりは特に婚約関係にはないが、帰りは学園の馬車で一緒に帰るのが常。
単純に、馬が合うのだ。
優秀な姉に優秀な幼馴染。
周囲からのやっかみはもう慣れっこ……と言いたいところだが、全く傷つかないわけでもない。
優しく努力家でもある姉を羨み僻む気になれなくても、心の奥底の澱というか……そういう気持ちはどうしても消えずにある。
礼など言うつもりはサラサラないが、わかっていながら無神経を貫くロードリックの存在は、ステイシーにとっては有難かった。
『可哀想な妹』にだけはなりたくない。
「すみません、今空いてる馬車がこれしかなくて。 それともお待ちになりますか?」
「いや、構いません。 お願いします」
少し時間が遅くなったせいで、ステップの破損した馬車しか空いていなかった。
先に乗り込んだロードリックが、ステイシーに手を差し出す。
ややバツの悪い気持ちで手を借りて、一言「どうも」と告げると彼はニヤリと笑った。
ステップはなくとも、当然ながら馬車は普通に走る。
夕方になっても馬車の窓から刺すように明るい、太陽の光。まだ若い葉の鮮やかな緑がキラキラと揺れる。
「……日が長くなったな」
何気なく呟いたロードリックの言葉。
ステイシーはそれには答えず、肘をついて窓の外を眺めるロードリックをぼんやりと視界の端に入れた。
時折、幼馴染の彼は妙に大人びた顔をする。
そのことになんだか今日は苛立つ。
ステイシーはその理由に心当たりがあったから、握り込んだ拳と口を固く結んだ。
余計なことを言わないように。
──ロードリック・ウェルティは、ウェルティ侯爵家の養子である。
本来彼は現在王立騎士団団長を務める『剣聖』、ブライアン・ローレンの末子。
彼がウェルティ家の養子になった経緯に、特別複雑な事情はない。ウェルティ家に子が生まれず、ブライアンの元に嫁いだ子沢山の姉の、新たに産まれてくる子供を養子に求めただけの……どこにでもある話だ。
その5年後に、ウェルティ夫妻の間に新たな命が宿ることも、また。
夫妻はロードリックをローレン家に戻すことなく我が子と同様に愛した。
だが皮肉なことに、幼い頃から聡い子だった分余計に彼は、その心中に複雑なものを抱えながらの成長を余儀なくされていた。
ロードリックのウェルティ家との関係は良好だ。彼は弟の面倒をよく見て、両親とも朗らかに話す。
でもステイシーは知っている。
ロードリックの成績がそこそこいいのは、どうとでも立ち回れるようにだということを。
(必ず成果を出すけど期待に応えようと膨大な努力をするのと、本当はそれができるのに探り探り努力をしてそれなりの結果を出すに留めるのと、それなりの努力しかできなくて、努力より下にしか結果を出せないのではどれが一番マシなのかな……)
時々そんな風に思う。
あまりにも馬鹿馬鹿しいのですぐやめるけれど。
「よっと」
「はは。 淑女じゃねーな」
壊れたステップも、降りる分には大したことではない。……少しはしたないくらいなもので。
重いスカートの裾をふわりと翻し、躊躇なく飛び降りるステイシーに、ロードリックが笑う。
「これくらいを『降りれな~い』とか言うのが淑女なら、別に淑女じゃなくていーし」
「でもお前、その掛け声はないだろ」
「じゃあ『どっこいせ』?」
思わずといった感じで笑ってしまった御者に明るく礼を言って、ふたりはそれぞれの家へと足を向けた。
「ステイシー。 弟の勉強を見たら、後でそっちに行くから。 来るんだろ? 先生」
「ああ、うん……多分?」
別れ際に掛けられた声に、ステイシーは曖昧に答える。
先生とは、ユーフェミアの婚約者であるカルヴィン・マクマホンのこと。
彼はまだ若く平民だが、将来を嘱望されている優秀な軍医である。
ふたりがカルヴィン医師を『先生』と呼ぶのは医者だからではない。彼を支援していた両家の意向で、学生時代のカルヴィンをふたりの家庭教師として雇っていたからだ。
先生は穏やかで、優しい。
医師になる前から医師としての資質に長けていた彼は、敏感で辛抱強く聞き上手で、相手の気持ちを慮って丁寧に話し、とても口が堅い。
だからロードリックは彼が好きだ。
……勿論、ステイシーも。
ロードリックの『好き』より、ずっと。
ユーフェミアとカルヴィンは、もうすぐ結婚する。
時代の移行により多少かたちが変化しても、貴族になにかと柵が多いのは変わらない。
結婚式はそんな柵と、平民であるマクマホン夫妻の為、場所や呼ぶ人を変えて二度行うようだ。
その話し合いもあり、ここ最近カルヴィンがこの家にくる頻度は高くなっている。
ステイシーは憂鬱な気持ちで玄関に向かう。
憂鬱なのは、カルヴィンが来ることではない。
気持ちを表に出さないように、それでいて楽しげに装わなければならないことが、憂鬱なのだ。
姉とカルヴィンの結婚を祝福している──そこに嘘はなく、あっていい筈もない。
なのになんで、気持ちはひとつじゃないのだろうか。
敬愛し、自分を愛してくれる姉へ、持つべきでない妬みや僻みが心の奥底でどうしても消えてくれないのと一緒で、その気持ちもどうしても消えてくれない。
「ただいま」
「お帰りなさいませ、お嬢様」
メイドのアビーが出迎え、鞄を受け取る。
カルヴィンはまだ来ていないようでホッとした。
母と姉はリビングルームでお茶をしているらしく、時間が少し遅くなったのを理由に敢えて着替えず、そのまま向かう。
そうすれば、着替えを理由にいつでも席を立てるから。
「お帰りなさい、ステイシー」
「あら、ステイシーったら着替えもせずに」
「ごめんなさい、少し喉が渇いて。 ……お腹も減ったし」
母はステイシーに厳しくしないので、そんな淑女らしからぬ言葉にも「仕方のない子」の一言と僅かな苦笑で許容する。
不器用で要領が悪いくせに敏感なステイシーに、母は昔から手を焼いていた。
娘と昔の自分とは性格も環境も違う。
愛情を注いで育てているつもりだが、それが上手く伝わっているかわからない。
とりわけステイシーには、厳しくする必要がなかった優秀な姉がいる。
過去にユーフェミアと比べてしまうような言葉を迂闊にも口に出してしまい、ステイシーをとても傷付けたことがある。
それからはどうしても、叱るのを避ける傾向にあった。
幸いなことに姉妹仲も家族仲も良く、ステイシーもいい子に育っている。
母にとって少し難しい子なのは変わりないが、ユーフェミアが出来すぎているだけなのだ。
「ステイシー、今週末は貴女のドレスを買いに行きましょう?」
「──……ドレスを?」
アーモンドの砂糖菓子を口に入れていたステイシーは、それを飲み込んでから怪訝な顔をした。
平民の生活水準も上がり働く貴族も増えたこの国では、今や貴族であれ、無闇矢鱈とドレスを買う必要がなくなっている。
学園という未成年者の交流の場もできたことで、社交界デビュー前の娘がドレスを着る機会は大幅に減った。
楽器まで嗜むユーフェミアのように演奏会などがあれば別だが、それだって産業が進んだこともあって、買っても既製品だ。
学生のステイシーは、公式の場ですら大体の場合は制服で済んでしまう。姉の結婚式でも勿論、ステイシーは制服を着るつもりでいた。
「ええ、貴女には買ってあげたことがなかったでしょう?」
「──あ……」
まだ姉と自分の違いをハッキリと認識していなかった幼い頃。ユーフェミアの演奏会のドレスを羨んで泣いたことがあった。
ひらひらと揺れるドレスを着たユーフェミアは、妖精か天使かと誰もが思うくらいに美しかったから。
『ステイシー、どうせ私もすぐに着れなくなるわ。 そうしたら貴女にあげる』
『……ほんとう?』
ユーフェミアもまだ成長期だったし、そもそも演奏会ぐらいでしか着る機会もないドレスだ。実際演奏会が終わるとドレスは、そのまま収納として使用している空き部屋にしまわれた。
少し大きくなってからステイシーはそこに忍び込み、まだサイズが合わないドレスをこっそり合わせてみた。
サイズのせいだけでなく、姉にはあんなにも似合っていたドレスは、ステイシーにはちっとも似合わなかった。
陽に透けるような美しく柔らかいピンクブロンドに、儚げな白い肌。
くっきりとした二重の大きな目には、深く蒼く、輝く瞳。小さく形の良い高い鼻と口。
そんなユーフェミアとステイシーは、造作だけでいえば全く似ていない訳では無く、むしろところどころのパーツは似ている。
目や口や鼻の形自体はよく似ているのだが、ステイシーは奥二重で鼻は低い。
肌の色も健康的なだけで日に焼けなければおそらくは同じだろう。
大きく違うのは、ピンクブロンドと言うには赤味の強い直毛癖の固く量の多い髪と、幼さが強調されがちな丸い顔だろうか。
両親が予てから思っていたことに、ようやくその時ステイシーは気付いた。
ユーフェミアが特別なのだ。
両親の良いところだけを選び取って生まれてきたような、ユーフェミアだけが。
ステイシーはその時の事を今でもハッキリと覚えている。
『姉だけが特別』と思う中に強く残る、居た堪れないような、やり切れないような、そんな気持ちに。
鏡の中の自分に、みっともなく嗚咽を漏らし続けたことを。
それからステイシーは、女の子らしい格好をしなくなった。
年頃になって母の自分への気持ちを薄々理解するようになっても、できる限り自然な範囲でそれらを拒否し続けた。
姉に憧れて伸ばしていた髪も、あれからずっと肩より少し上の長さで切り揃えている。
『姉だけが特別』
その言葉にどこか救われながら、同時にずっと歯噛みをしながら過ごしていたステイシーには、彼女なりの小さな矜恃がある。
「──う~ん、要らない」
ステイシーはなるべく適当にそう言った。
母には悪いが、ドレスを買ってもらう訳にはいかない。──女の子らしいのが嫌でも、贅沢だからでもない。
着たらきっと、惨めな気持ちになってしまうから。
なるべく純粋に、姉の結婚を祝いたいのに。
悟られてはいけない諸々を抱えているステイシーは、場の空気をおかしくしない為に道化を続ける。
「制服が気楽でいいし、来年になったら嫌でも着るじゃない。 勿体ない……」
さも嘆かわしげにそう言って、ドラジェを摘んだ。
傷付きながらも長年培ってきた彼女の保身による道化は、もう演技とは言えないぐらい板に付いている。
呆れた顔をして「もう、折角の機会なのに」と女の子らしくしない娘に残念がる母を、姉が微笑ましく宥める……そんないつもの光景に、ステイシーは内心で安堵していた。
しかし、それは自ら泥沼に足を突っ込む結果となって返ってくることとなる。
「なら、私が演奏会で着ただけのドレスが数着あったでしょう? あれを着たらどう?」
「え……」
「そうね! サイズが合わない部分を少し直せば丁度いい筈だわ」
母は浮かれた調子でアビーにドレスを持ってくるよう命じる。
──嫌だ。
(でも)
純粋に、母と姉は可愛いステイシーに、ドレスを着せたいだけ。
それがわかっているだけに、ここはとりあえずイヤイヤ従うのが正解で、他に選択肢はない。
なにかしら理由を付けて結婚式には着なければいい……それだけのことだ。
せめてもの抵抗に、着るのは一着のみ。
一番地味なドレスを選ぼうとしたが、母と姉に阻まれ、ふたりが選んだものを着ることになった。
「お嬢様、とてもお可愛らしいですよ」
「……またぁ」
「ふふ、少しお化粧もしましょう。 奥様とユーフェミア様もビックリなさいますよ」
「ええ……」
アビーの言葉通り、母と姉はステイシーの可愛らしさに大いにはしゃいだ。
思っていたよりはずっとマシに感じるのは、育ったからだろう……そうステイシー自身も感じたが、それも含めてただただ気恥ずかしい。
卑屈になるのは良くない。
わかっていても……いや、わかっているからこそ、道化ていたかった。
女の子未満の存在でいれば、比べて苦しい気持ちは格段に下がるのだから。
「よく似合っている」「可愛い」とふたりが褒める度、ぎこちなく照れ笑いを浮かべる様こそ本当の道化のようで、ステイシーは居た堪れなかった。
早くこの場から逃れたい。
気持ちがままならなくなる前に。
「失礼致します」
「!!」
突然のノック音と執事の声に、心臓が冷たく跳ねる。
心は震えが止まらないくらい冷たくなっているのに、羞恥に体温が否応なく上がるのを感じ、ステイシーはどうしようもなく狼狽えた。
なんでもいいから理由を付けてこの場から逃げ出さなければならないのに、もうなにも思いつかない。
「カルヴィン先生と、ロードリック坊っちゃまがいらしてますが、こちらにお通ししても?」
「ええ」
「や……」
『やめて、恥ずかしいから!』──そう口に出せれば良かったのに、動揺していたステイシーはその判断が僅かに遅れた。
せめて玄関ホールで待たせていたのなら違っただろう。だが客人とはいえ、相手はいつものふたり。
既に手前まで案内していた彼等に、扉が開くと同時にドレス姿を見られてしまった。
「──」
「──」
「──」
ふたりはまず純粋に、ステイシーの女の子らしい姿に驚いて瞠目し、動きを止めた。
それはたかが一瞬の、精々ほんの数秒の沈黙。
だがステイシーの気持ちは、既にギリギリのところにあった。
──笑え。
自ら『似合わない』と、『こんなの着せられて恥ずかしい』と。
そう言って笑うんだ。
「……なにそれ」
僅かな沈黙を破ったのは、ロードリックの嘲笑。
ただの間でしかなかった筈の沈黙は、その一言で賑やかだった場を本当の無音で包む。
響くのは、続けたロードリックの声だけ。
「全然似合ってないよ、ステイシー」
「──ロードリ」
ギリギリだったステイシーの涙腺は、幼馴染の名を呼ぶ途中で決壊した。
同時にそのまま自室へと駆け出すステイシーを、大人達はなにが起こったのか認識できずにただ呆然と見送る。
同様に彼女を見送っていたロードリックは「どうして」と誰かが尋ねる前に、部屋の中の皆に頭を下げた。
「……すみませんでした! なんだか気恥ずかしくて……僕、謝ってきます」
それだけ言うと、彼も小走りでステイシーの部屋へと向かう。
普段行儀がよく、ステイシーとはじゃれ合いながらも仲の良い様子のロードリックが、彼女に投げ付けた酷い言葉。
残された大人達はそれに驚き、一転しての謝罪に困惑した。
だが、そう謝罪されては静観に回らざるを得ない。
なにぶんふたりは14歳……『難しい年頃』なのだから。
「ステイシー」
「……」
ノックをして呼びかけるが返事はない。
ノブを回し、鍵がかけられていないのを確認すると、少し遅れて付いてきたアビーに軽く顔を向け「そこにいて、扉は開けとくから」とだけ言うと扉を開いた。
「──入るよ、ステイシー」
話を聞かれたくないのだろうとは理解しつつも、躊躇なく奥のベッドへと足を進めるロードリックに、見守る側のアビーは杞憂とは思えど『なにかあってはいけない』と少しだけハラハラする。
ロードリックはそんなアビーの気持ちを知ってか知らずか、ベッドサイドのスツールに腰を下ろした。
ステイシーとふたりの時に見せる不遜な感じで足を組み、軽く肘をついて布団の山になった部分を見る。
中でグズグズと泣いてるステイシーの様子にロードリックは不快そうに眉根を寄せたあと、視線を逸らして鼻で笑った。
「今日は何度も助けるなぁ、ステイシー? 礼を言ってくれても構わないんだけど」
「……冗談、でしょ」
「馬鹿言え。 『拗らせ幼馴染』という恥ずかしい役回りだぞ」
「いつ……いつからっ、知ってた……の」
「それこそ馬鹿かよ。 ……ああ、大丈夫、俺くらいだろ」
もう何に泣いているのかよくわからないくらい、ステイシーは泣いた。
あの時みたいだ。そう思う。
あの時と違うのは、傍にいるのがみっともない泣き顔を写した鏡ではなく、キルトの外で声しか聞こえない幼馴染だけれど。
「──ホントは似合ってた、ドレス」
だからステイシーは、彼がどんな顔でこう言ったかなんて知らない。
「嘘だ」
「馬鹿だな」
「……馬鹿馬鹿うるさいっ」
「卑屈な馬鹿。 ……なあ、腹減らない? そろそろ出てきたら?」
礼など言うつもりはサラサラないが、わかっていながら無神経を貫くロードリックの存在は、ステイシーにとってはやっぱり有難かった。
ようやくキルトの中から出てきたステイシーが不機嫌そうにまず発した一言は「お腹減った」。ロードリックがそれに笑う。
「あーあ、髪ぐっちゃぐちゃ」
「……うるさいな」
「可愛くない」
「言われなくても知ってますぅ」
「嘘ウソ、可愛い! ステイシー最高!! ドレス超似合ってる!」
「殴っていい?」
これからドレスを脱ぐステイシーを残して部屋を出るロードリックは、扉の前で振り返ってまじまじとステイシーを眺めるともう一度「似合ってる」と告げた。
「ぐちゃぐちゃな頭と、ドロドロの化粧でも、すっごく似合ってるよ」
という余計な一言を添えて。
ステイシーは枕を投げ付けたが、素早く退出したロードリックの代わりに枕がぶつかったのは扉だった。
入れ替わりに入ってきたアビーは気を利かせ、既に洗顔の準備を用意している。
「大丈夫です?」
「ん? うん……」
ロードリックが気を割いたので、アビーの耳に話の内容は届いてはいない。
だからおそらく、アビーの言う『大丈夫』とステイシーのそれとは全く別なのだろう。
でも──
「うん、大丈夫」
もう平気。
きっと大丈夫。
事実、カルヴィンとロードリックを交えた夕餉はいつも通り賑やかなものだった。
カルヴィンにドレス姿を褒められても、ステイシーは自然に振る舞うことができた。
『先生は優しいからなんでも褒める』と恥ずかしげに不貞腐れるのを、『照れてる』とロードリックが茶化す。──そんな、いつもの光景にステイシーはロードリックを見た。
それが、いつもの光景なのだと気付いて。
「……なに? まだ怒ってんの?」
「別にぃ」
「ほらロードリック、これも食べなさい。 育ち盛りなのだから」
怒っているのはむしろ姉の方で、テーブルに並べられた食事からわざとロードリックの苦手ものを多く取り分けている。
その度ステイシーは笑いを堪えるのに必死だ。
「ユーフェミア、男には素直になれない時期があるんだよ。 それに」
そこまで言ってカルヴィンはチラ、とステイシーを見て、困った顔で笑った。
「正直言うと僕も、さっきはなんだか複雑だった。 ……女の子は知らぬ間に綺麗になる」
溜息を吐いて「これからが心配だ」と嘆くカルヴィンに母と姉が笑う。
ステイシーはやっぱり居心地が悪かったものの、先程までのとは違う。胸の痛みはあるけれど、そこにはどこか穏やかな諦念があった。
この人は自分を好きにならない。
きっと、姉がいなくても。
新郎新婦を祝福するような晴天の中、王都での結婚式は行われた。
チャペルのある国立公園を借りて開かれる盛大なガーデンパーティは、テーブルに並ぶ豪勢な食事と共に屋台も出ている。
些か庶民的なようだが、実はそうでもない。
軍医でもある平民のカルヴィンと、貴族子女で、研究者でもあるユーフェミアには身分差を問わず友人知人が多過ぎる故こうなっただけのこと。
祭りのようなここではきっと、ステイシーのドレスなんて目立ちもしなかっただろう。
だが、結局ステイシーは制服で出た。
「──あれだけ騒いで制服とか。 偏屈か」
ロードリックが呆れた顔をするが、そう言う彼も制服である。
「別に合わせなくても良かったのに」
「俺が着飾って誰得だよ」
「喜ぶ子はいるんじゃない? アンタ、外面と顔面がいいから」
「大して知らない奴を喜ばせても俺は得しない。 それよりステイシーが喜んだ方がまだマシだろ? 有難く喜んどけ」
「ワー感激ィ」
幼馴染のふたりは、相変わらずわちゃわちゃとじゃれあっていて、そこに特別な変化はない。
ただ、変わらないわけではなく、緩やかに変化はしている。
今、この時も。
ステイシーは母に呼ばれ、少しの間ふたりは離れた。未成年で社交界デビューすらしていないステイシー自身には特にやることはないが、家には諸々柵がある。
挨拶などを終え、それからも解放されたステイシーは、再びロードリックの方へと向かう。
「ロ……──!」
あの日馬車でしていたような大人びた表情に、ステイシーは声を掛けずに彼の視線の先を追う。
そこにいたのはロードリックの実の父親。
『剣聖』、ブライアン・ローレン。
ふたりがまだ幼く、なにも知らない頃にステイシーにだけ語った『騎士になる』というロードリックの言葉。
ある時を境に一切口にしなくなったが。
あの日馬車に乗るために、久し振りに繋いだ彼の掌の皮は堅く、厚かった。
(……どっちが偏屈だか)
溜息をひとつ。
見なかったことにして、ステイシーは幼馴染に粗雑に声を掛ける。
「ロードリック! アンタまだいたの?」
「失礼な。 ……もういいの?」
大したことない言葉の端に垣間見える違う気遣いには、気付かないふりで軽く頷く。
こんなに仲のいいふたりですら、互いの全てを語ることはない。
「まだ居るならあっち行こ。見て、アイスクリームの屋台」
「さっきケーキ食ってなかった? そんなに甘い物ばっかり食べてると太るぞ」
「……アイスクリームは溶けるから太らないんだよ」
「なにその理論」
緩やかに変化する時の中、相変わらずの遣り取りをしながら、ふたりは軽い足取りで目的の方向に移動する。
強い南風が横切り、すぐ消えた。
「きゃ」
「大丈夫? ユーフェミア」
「ええ……あら」
周囲に散らばった祝福の花びらが舞い上がり、ゆっくり落ちていく。
その中央にいるのは本日の主役。
誰かが『風も祝福している』などと、気の利いたことを言う。
「──見てカルヴィン」
「はは」
一息ついていたその、本日の主役の視線の先。
「ここから見ると、彼等が祝福を受けてるみたいだ」
花びらが舞う中に見えるのは、じゃれ合いながら歩くステイシーとロードリックの姿。
微笑ましくふたりを見てから、新郎新婦は笑い合った。