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翌朝、憧治は一人でホテルを出た。
スーツ姿ながら手には何も持たず、近場へ散歩に出るかのような恰好だ。憧治自身、この外出が散歩なのか、そうではないのか、判別できていない。
ぶらぶらと商店街を抜けて、住宅街を歩いていく。
不意に鼻がむず痒くなり、大きなくしゃみが出た。下げた頭を持ち上げると、そこで抜けるような青空が視界いっぱいに広がった。
空なんて常にあるものなのに、久々に意識したその広がりに自身の体の小ささを意識させられる。そこにぎゅうぎゅうに抱え込んで苦しむ自分にも気付かされ、途端に馬鹿らしくもなってくる。
足を止めて空を見上げていると、ズボンのポケットで携帯端末が震動した。
画面を見れば冴都美からの着信で、出れば何を言われるかは考えるまでもない。憧治は呼び出しを続ける携帯端末の画面をしばらく眺め、切れないそれからもう一度空に視線を戻した。
そして、携帯端末の電源を切った。
何だ、この程度のことだったのか。抑え込まれていたものがふっと軽くなり、顔が自嘲するように笑みを刻む。
そうして歩みを再開し、何処ともなく歩き続ける。途中、流れる街中の景色の片隅に携帯端末の回収ボックスを見つけると、躊躇なくそこに自身のそれを放り込んだ。
都市鉱山からオリンピックのメダルを作る。そんな話があったらしい。怒る冴都美の顔が浮かび、そこにいつか見たテレビの中でメダルを掲げるメダリストの満面の笑みが重なって、思わず口から笑い声が漏れていた。
歩き疲れてきた頃に公園を見つけて、憧治はそこのベンチに腰を落ち着けた。
今日は平日。こんな時間にスーツ姿で座っていれば、何と思われるだろう。早めの昼休憩だろうか。もしかしたら自分をメディアで知る人に会うかもしれない。
公園にはベビーカーを手元に談笑する三十歳前後の女達、遊具や砂場で遊ぶ数人の子どもが見える。誰もがベンチに座る憧治のことなど意識していないようだった。
憧治の視線に気付いたのか、女達の中の一人が視線を向けてくる。憧治は慌てて目を逸らすも、その一人はそのままこちらへ近付いてきた。
只のミーハーか、それともセミナー関係者か。一瞬、体が強張るも、すぐに思い直して、ぼうっとそれを見つめた。ベビーカーは引いていない。パンツスーツ姿で、ビジネスバッグを肩に掛けている。
「お久しぶりです」
ベンチから五メートルほどの距離。声を掛けてきながらも、その歩みは止まらない。
「どうしてこちらへ? ああ、噂のセミナーですか」
女は視線を憧治に向けたまま、その隣に腰掛けてきた。
目の前の女が誰なのか、憧治には覚えがなかった。視界に収めつつ、記憶の中から心当たりを探してみる。
憧治が見当を付けるのと、女が自身のカバンを漁って名刺を取り出すのは同時のことだった。
「フリーの記者の鳴瀬と申します。こうやってご挨拶させて頂くのは初めてですね」
あの一年前の会見で、食って掛かってきた女記者だ。何で、あの女記者がここにいるのか。相手へ向けた目が自然と険しくなる。いまだ自分を取材対象としているのだろうか。
「鳴瀬さんは、その……」
「えっと、別に安隈さんを追っかけていたわけではありません」
憧治の訝しげな視線に、鳴瀬は慌てたようにそう続けた。
「ここ、おっきいタワーマンションが建つんですよ」
鳴瀬が顔を向けた方に視線をやれば、そこには確かに建設中の建物をフェンスで囲む工事現場がある。
「それで、ここらの日照権の問題を取り上げてほしいって、友人に頼まれましてね。まぁ、正直記事にしたところでとは思うんですけど、断れない相手でして」
「それだと誌面に載らないんでは……」
「それはまぁ、私にもこういう時に頼める相手がいますから。意外とこういう穴埋め記事にも需要はあるんですよ」
すらすらと紡がれる言葉に、憧治はそれが嘘だとは思えなかった。
只、あんな会見を開く報道も扱えば、こんな地域限定の生活に密接した問題も扱っている。因果な商売だとは思うも、何だか不憫にも思えた。
「セミナーどうですか?」
唐突に話題を変えて、鳴瀬はこちらを見てくる。
「ええ、まぁぼちぼち」
「あの時はすみません。疑ってしまって」
「いえ、そんな」
セミナーのことを、今は触れられたくなかった。だが憧治は意識して自然に言葉を返そうとするも、適当な言葉を発することしかできなかった。
「超能力ですか」
そう言って、鳴瀬は再び視線を工事現場へと戻した。
鳴瀬の態度にこちらを不審に思ったようなものは見えず、一先ずほっとする。今更、また以前のように記者の相手をしたくはなかった。
「あんな能力があれば、こんな問題、簡単に片が付くんでしょうね」
鳴瀬の見ている方へ、憧治も視線を向ける。
少し考えてみるも、何ができるわけでもなかった。
部外者立ち入り禁止のそこに、忍び込むことぐらいは難なくできる。フェンスで囲われた中にあるだろう資材の山に、手を付けることもきっとできる。しかしどちらも犯罪だ。
「こちらからお声掛けしてなんですが、すみません。この後、予定が入ってまして……」
その声に憧治が意識と視線を戻せば、気まずそうな顔がある。
「ああ、そうですか。お仕事、頑張ってください」
「すみません。失礼します」
鳴瀬はそう言うと立ち上がり、頭を下げた。
本当に忙しいのか、足早に公園を出ていったかと思うと腕時計を確認して走り出す。その姿はすぐに見えなくなった。
それを見届けてから、憧治は一人で再び建設中の建物を見上げた。
工事現場に佇むそれを視界に収めて、先ほど考えていたことをなぞっていく。
罪を犯すことはできない。物理法則は超越できても、社会のルールを無視することは絶対にできない。それは可能性の問題ではない。この社会で生きていく以上、人は自分ではない誰かによって課せられたルールでも勝手に越えてはならないのだ。
それを思うと、超能力は個人にとって大して有用ではないのかもしれないし、社会にとっては混乱を生むものでしかないのかもしれなかった。
自分で導き出した結論に、何だか無性に寂しくなる。憧治は何もする気が起きず、そのままぼんやり座っていた。
すると、しばらくしてそこへ誰かが近付いてきた。
「おじさん、見たことあるよ」
遊具で遊んでいた子どもの一人が、そう声を掛けてきたのだ。
こんな経験は今までなかった。どう対処したものか戸惑い、憧治は誤魔化すように笑顔を作る。
その対応に危険がないと見たのか、他の子ども達もわらわらと集まってきた。
「ねえねえ」
子ども達は無遠慮に、どんどんと踏み込んでくる。
面倒だと思いつつも、無下に追い返そうとして騒がれたり、泣かれたりしたら困ったことになる。
憧治は笑顔を作ったままに、「うん?」とだけ問い返した。
「おじさん、空飛べるんだよね?」
どの子も興味津々の顔で、その問いに穿ったものなどありはしない。
悪意のない、純粋さが眩しかった。だが超能力のことで寂寥感に苛まれて、今はそっとしておいて欲しかった。
助けを求めて、憧治は母親だろう女達のいる方に視線を向けた。
しかし彼女らはお喋りに夢中のようで、こちらに気付く者も中にはいたが会釈するだけで子どもを止めようとはしない。
「……ああ、そうかもね」
憧治は溜息を一つ吐くと、腹を括ってそう応じた。
その言葉に、子ども達は「ほら!」とか「やっぱり!」と歓声を上げる。
そしてその中の一人が、周りを代表するように口を開いた。
「ねえ、空の向こうには何があるの?」
「…………いや、空の向こうって宇宙があって、空気がなくて」
途端、飛んできた質問が突飛すぎて言葉に詰まり、何とか返した答えがそれだった。
けれどそんな答えでは満足しないようで、子ども達の視線は憧治の顔を離れず、続きの言葉を待っている。
「いや、おじさんも見たことないんだ」
その視線に、憧治は求められたことに思い当ってそう答えた。
「何だ、そうなの」
子どもの一人がそう言って、他の子ども達が「つまんなーい」と口々に言う。
それで用件は済んだのか、子ども達はあっという間に母親達のところへ走っていった。
「つまんないって……」
そんな呟きと共に苦笑が漏れる。
母親達のお喋りは終わったようで、子ども達が戻って来ると一組、また一組と公園を出ていく。
気が付けば、憧治は公園に一人きりだった。
一人になると、孤独であることを意識させられる。冴都美の怒った顔が思い浮かんで、それを振り払うようにベンチから立ち上がり、そのままの勢いで空を見上げた。
朝と変わらず、雲一つない青空が広がっている。
その空に、ふと先ほどの子どもの問いがぽかりと浮かんだ。
「空の向こう、か」
そうして憧治は空へ、足を一歩踏み出した。
最後までお読み頂き、ありがとうございました。