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憧治の事情などお構いなしに、日常は続いていく。
超能力を得て、特別な自分という自負は得られても、それが金銭には直結しない。憧治は生活費を稼ぐため、定時前出社からの残業という仕事の日々を変わらず過ごしている。
繁忙期もやってきて、定期的に迎える休日は疲労から何もやる気が起きず、無為に過ごして終わってしまう。せっかく覚えた動画編集も、投稿した動画の視聴回数が相変わらずで、一度冷めた意欲に再度火は付かずにいた。
またあの出来事から憧治と冴都美との間に変化はなかった。
あの日、冴都美は倒れてからすぐに目を覚ました。その後は憧治の超能力を夢の中の出来事とでもするかのように、普段通りの態度を取り続けている。憧治は生活の中で冴都美を注意深く観察しているが、そこに以前との違いを見つけられていない。
今日も憧治が帰宅すると、家には誰もいなかった。
最近はお互いに仕事が忙しい。朝の起き抜けに挨拶を交わすとどちらかが先に家を出てしまい、顔を合わせる時間も少なくなっている。
冴都美に変化が見えない上に探る機会すらなくなって、憧治は只々やきもきしている。身近な相手のことを知ろうとしているだけなのに、それができない。まるで一人相撲を取っているようで焦れてしまい、そもそもこんな状況で結婚している意味があるのかと、そんな疑問が浮かんでくることさえあった。
リビングで遅い夕食を済ませて、憧治は夫婦の寝室へ向かう。
頭をよぎる考えが飛躍するのは、仕事があまりにも忙しいからか。今まで結婚生活に多少の不満を感じたことはあっても、否定しようとまで思ったことはなかった。それこそ夫婦の時間が減ったからかもしれない。
寝室のベッドに目を向けても、冴都美の姿は当然なかった。
憧治は寝間着に着替えると、誰もいないダブルベッドに倒れ込む。
明日は休日だ。早々と寝て、明日一日もじっくり体を癒すのに使おう。疲労が癒えさえすれば、不埒な考えが浮かぶのも何かの間違いだったと、そう思えるようになるはずだ。
目を瞑っても、気掛かりになかなか寝付けなかった。けれど疲労は確かに蓄積されているようで、憧治の無意識の抵抗も長くは続かなかった。
夢を見ていた。
街を歩いている。
道で、花屋が鉢植えを並べて売っていた。
その一つを手に取ってみれば、ずしりとくる重さだ。
土だけが盛られていて、まだ芽は出ていない。
鉢植えを買った。
そのまま抱えて持ち帰り、日当たりのいい場所に鉢を置いた。
水をやった。
次の日も、水をやった。
その次の日も、水をやった。
芽が出た。
水をやり続けていると、木になった。
腰ほどの高さでこんもりと、それは茶の木だった。
葉を摘むと、途端に茶葉になる。
お茶を入れると、小さな湯呑に鮮やかな緑が映えた。
次の日も、葉を摘み、お茶を入れた。
その次の日も、葉を摘み、お茶を入れた。
木は枯れない。
日の光を浴びて、いつも青々としている。
煌めく木を眺めながら、初めて湯呑を持ち上げた。
そして湯呑に唇が触れたところで、誰かの声がした。
「……きて、ねぇ、起きて」
耳元で声がする。
憧治が逃げるように身をよじるも、声は止まない。
「もう! 早く起きてよ!」
体が揺すられて、憧治は渋々薄目を開けた。
部屋の中は薄暗く、まだ夜は明けていないように思える。そのまま様子を探ってみれば、ベッドの脇でこちらを見下ろす冴都美がいた。
「おはよう。ほら、着替えたら出掛けるよ」
「……え? は?」
「急いでね。間に合わなくなるから」
目が合った途端、冴都美は矢継ぎ早に言葉を続けて、それからすぐに部屋を出ていった。
その姿を漫然と見送った後、憧治はのろのろと枕元の携帯端末を手に取った。画面が示す時刻は朝の四時だ。
憧治が一先ず部屋着に着替えると、戻ってきた冴都美はそのまま憧治を外へ連れ出した。
連れられた先は自宅マンションの共用駐車場、そこに停車する軽自動車の前。その後部座席に憧治は押し込められて、冴都美の運転で車は発進した。
そうして何処へ向かっているのか、車が進み続けて三十分。冴都美からの説明はいまだない。
憧治はしばらく黙って、窓に流れる街中の景色を眺めていた。時間の経過によって、寝起きの中途半端な眠気からようやく解放されつつあった。
「なぁ、何処へ行くんだよ? それに、この車は?」
「借りたのよ。もうすぐ着くから、そこのバッグ確認しといて」
安隈家に自家用車はない。レンタカーだとは思っていたが、それを事実だと確かめると、その準備のよさに疑問は尚更増すばかりだった。
後部座席の、憧治の隣には見覚えのない大きなスポーツバッグが置かれていた。
「なんだこれ……?」
手元に引き寄せて中身を確かめてみれば、出てきたのは憧治の普段の生活から縁遠い代物だ。目元を覆い隠す白いオペラマスクに黒い燕尾服、体全体を覆えるほどの黒いマントなど。仮装パーティーに参加するために用意されたかのような品々だ。
取り出して眺めている内に、車が止まった。
運転席から冴都美が振り返ってきて、憧治を見た。
「さあ、急いで!」
画面は日本列島の天気図から週間天気予報、そして街頭カメラの映像に切り替わる。
『……ライブカメラの映像は駅前の広場です。今日は午後から雨との予報が出ていますので、多くの方の手に傘が目立ちますね』
『降車時の混雑では人へぶつけないように、また置き忘れにも注意してください』
カメラが映すのは空から見下ろす駅前の光景。映像はそのままに、音声はスタジオでのキャスターの会話が流れている。
『現在も広場には通勤、通学の方たちも多く、これからさらに増えてきますからね。……あら、足を止めてるのは、何かトラブルでしょうか。皆さん立ち止まっていて、人が……』
広場を行き交う多くの人々。空から映す小さい姿は忙しく動いているのもあって、まるで蟻のようだった。
そんな動き回る人々が、ぽつりぽつりと足を止める。
その原因はすぐに明らかとなった。足を止めて、棒立ちとなった人が一様に顔を向けたところから、何者かが現れたのだ。
黒ずくめの衣装に同じ色のマントがはためいている。映像からでもその場の異様な雰囲気が伝わってくる。その者の周囲に人はいない。遠巻きに眺める人はいても、その者が歩けば足を止めていた人達はこぞって道を開けていた。
『何ですかね?』
その声と同時だった。
カメラが捉えるその姿が、ほんのわずかに大きくなる。
怪しげな、黒ずくめの衣装を着込んだ者の歩みが変化した。カメラの位置を把握しているのか、その顔はカメラへと向けられている。そしてゆっくりとそのカメラに近付いてきていた。
『……あれ?』
一瞬の静寂の後、キャスターの呆けた声がした。
その顔は白いオペラマスクで隠されていて、わからない。只、その姿は確実に大きくなってくる。
駅近くにある商業ビルの、高層階に設置された街頭カメラは、ゆっくりと空を歩き、近付いてくる者を映し続けた。
そのまま番組は終わった。
映像が次の番組へと切り替わったところで、携帯端末の画面上を流れる動画も終了した。
憧治は駅前で空中歩行を見せた後、そのまま指示された街ビルの屋上へ逃れた。そこで衣装を脱いで何食わぬ顔でビルから脱出、冴都美と合流すると、二人で自宅へ帰ってきた。
つい先ほど遅い朝食を終えて、今は自宅のリビングでそれぞれが自身の携帯端末を使い、動画サイトを確認しているところだった。
「いい感じね」
「これ、大丈夫なの?」
動画サイトのランキングには、先ほど見た動画と同じ内容のものがいくつも並んでいる。放送局の権利など無視しているだろう拡散に、この勢いはしばらく持続しそうな予感がした。
「別に。私達が動画を上げてるわけじゃないし」
「そういうもんなのかな」
騒ぎが大きくなると思うと法律や条例など、今まで考えていなかったことが懸念となって憧治の頭に思い浮かぶ。冴都美がどこまで考えているのか、今朝の行動から察しようにも突飛なそれに全く見当が付かなかった。
「それと」
「うん?」
「憧治くんの上げたあの動画、消しといてね。邪魔だから」
冴都美は椅子から立ち上がると、話は終わったとばかりにリビングから出ていこうとする。
「……邪魔って、何だよ」
寝室へ向かう背中に声を掛けるも、返事はない。
憧治には冴都美の考えていることが、何一つわからなかった。