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リビングのテーブルを挟んで、憧治と冴都美は向かい合って座っている。
「憧治くん、これは?」
発せられる冴都美の声は硬い。
大学時代は肩まであった黒髪は耳が隠れるほどでばっさりと、コンタクトだった視力矯正は眼鏡となって、如何にも仕事のできそうな雰囲気を漂わせている。そう憧治に見えるのは大学時代とのギャップからか、それとも単に収入差からくる劣等感からなのか。
冴都美は憧治の目を見ながら、右手を差し出してきた。その手には彼女の携帯端末が握られている。光る画面には有名なインターネットの動画サイト、それもここ最近、憧治がよく見ている動画が表示されていた。
久々二人共に帰宅が早く、夕食を一緒に取った。そして食器を洗い、風呂に入り、これから余暇を過ごそうという時になって、冴都美が憧治をリビングに呼んだ。
憧治が促されて席に着くと、冴都美は対面の椅子を引いて、そこに着席した。対立の位置関係だ。その席を選んだことに意図を感じて緊張が高まり、それは冴都美の問いに一層となった。
携帯端末から視線を戻せば、冴都美の物言いたげな視線とぶつかった。それでも憧治が何も言えずにいると、冴都美の指が動いた。画面の動画が再生される。するとよく知る声が、その手元から流れ始めた。
休日の早朝、憧治はまだ目覚める前の街中を歩いていた。
時折すれ違うのは新聞配達に回るバイクや猫ぐらい。憧治に関心を向けてくる者はいなかった。
やって来たのは近場の自然公園。広い敷地に緑だらけのそこは普段からあまり人気がなく、早朝の開園直後もあって全く人の姿がなかった。
憧治は公園の奥へと進み、木が生い茂る森のような一画で足を止めた。人目につかないだろう場所で辺りに視線を走らせて、誰もいないことを念入りに確かめる。
そうして十分な時間を取ってから、再び動き始めた憧治の足は宙を踏んだ。まるでそこに階段があるかのように、右、左と交互に踏み出して、その足は確実に憧治を一歩ずつ空へ近付いていく。
見上げていた木々を見下ろす位置まで来るのは、それからすぐのことだった。
憧治は目的の位置まで来ると、ズボンのポケットから携帯端末を取り出して、そのカメラをもはや遠い地面へと向けた。
冴都美の手元、携帯端末から聞こえてきたのは緊張からか、震えた声だった。
『今、私は空を飛んでます』
憧治がその動画を見るのは、今回が初めてではない。最初に見た時には流れる音声に違和感を持った。しかし数日視聴を繰り返せば、それも慣れから払拭された。そうなると次に気になり始めたのは、動画から聞こえてくる音声そのものだった。
『すごい。見てください。本当に飛んでるんです』
震え声に語彙力の乏しさが合わさって、動画の音声は何処か滑稽な印象を与えてくる。
携帯端末の画面上では、空から地上を映していた映像がゆっくりと高空へ移っていく。早朝の、何処までも広がる空が明るくなっていく様は何度見ても美しい。
画面からは撮影者の言葉が二言、三言と続いている。だがそれらに先ほど感じた印象は拭えず、殊更聞き取ろうとは思えなかった。
「憧治くんの声だよね?」
そんな動画の音声を遮って、強い声が部屋に響いた。
冴都美の目には呆れと非難が浮かんでいる。もう誤魔化せる気はしなかった。
「ああ、そうだよ」
「……最近、スマホをずっと握ってて変だと思ったの。パソコン見て、びっくりした。いい歳して、ホント何してるの」
書斎のPCは共用で使っている。お互いに使用頻度は高くなく、個別のアカウントやパスワードの設定もない。インターネットに投稿した動画を、ブラウザの履歴から調べられたのだろう。
初めて作成した動画の評価が気になって、憧治は投稿したサイトのページを何度も確認した。
動画のタイトルは『世界初! 空を飛んでみた!!』とした。正確には歩いているのだが、世界初の映像の前ではちょっとした表現の誤差だ。
スピーカーから聞こえる自身の声が聞き慣れず、音声編集が若干甘くなるも、出来上がった動画に満足していた。けれど投稿してから早一週間、動画の視聴回数は一向に伸びずにいる。
動画にはコメントが一つ。『ドローン乙』とだけ寄せられていて、それを見た瞬間から憧治は自分の中で気持ちが急速に冷めていくのを感じていた。
「最初はあれ、あの、浮気してるのかと思ったの。それがこんなくだらないこと……。安心したけど、けどこんなことで不安させられたと思うと、ねぇ、わかるでしょ?」
わからない、と言えば角が立つ。だがこれまでの苦労を思えば、くだらないことと一蹴されると腹が立った。浮気も疑われていたとなると、日頃自分をどのように見ていたのか。憧治の冷めていた気持ちがわずかながらに熱を持つ。
「……あのさ、俺、本当に飛べるんだよ」
「はあ?」
憧治は立ち上がり、テーブルから離れた。そして冴都美を見ると、そのまま踏み台へ上るように宙を踏む。
冴都美の視線は憧治に合わせて上向き、それから憧治の足元へ移動する。
二人の会話はそこで途切れた。
その日、憧治は初めて人が卒倒する姿を見た。