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夜空には丸い月が浮かんでいた。
街の灯りに星の輝きは薄く、ぽっかりと月だけが夜空に映えている。そこに不可侵な美しさを感じ取れば、人類がそこへ到達したことやその実在さえも、夜空を見上げる男、安隅憧治にはまるで嘘のようだった。
きっかけと呼べるほどの何かはなかった。強いて挙げるならば、五月だというのに日中の外気が真夏を思わせる暑さだったことだ。外回りの仕事にはつらく、体力の消費は前日比五割増しの勢いだった。だからなのか、仕事終わりに寄った居酒屋の、一杯目のビールから普段以上に酔いが回った。憧治の思考力は加速度的に鈍り、理性というブレーキが自然と緩んだ。
それは憧治が常日頃から、心の片隅で思っていたことだった。特別なことではなく、その場限りの思い付きでもなかった。
居酒屋を出ての帰り道。酔いで軽くなった足取りで、憧治の足は不意に実践へと動いていた。
その日、憧治は空を歩いた。
安隅憧治はもうすぐ三十歳を迎える既婚のサラリーマンだった。仕事は産業部材の法人営業、固定化されたルートセールスの中で御用聞きに動き回っている。
時刻は日付の変わる少し前。
憧治が帰宅した家の中は暗かった。
「冴都美ちゃん、帰ってる?」
いつものように妻の冴都美は仕事からまだ戻ってきていないようで、「ただいま」の代わりの言葉が暗いリビングに寂しく響いた。
憧治の妻、冴都美は大学時代の同期生だった。出会いは同じ講義を受けていたことで、度々重なれば自然とお互いを認識していた。只、当時は挨拶を交わすことはあっても、個人的な付き合いまでには発展していない。社会人になってから入った飲み屋での偶然の再会が、二人の関係の始まりだった。少し話せばお互いの苦労に共感、そこからとんとん拍子に付き合いが深まって、数年して結婚するまでに至ったのだ。
コップに水を汲んで飲み干すと、いがいがとした喉が癒えていく。リビングで椅子に背広を放ろうとして憧治の手が尻に触れると、砂がぱらぱらと床に落ちた。そういえば、どうやってあそこから戻ったのか覚えていない。何度か叫んだり、誰かに謝った気がする。
安隈夫婦は共働きで、世帯収入はそこそこある。二LDKの賃貸マンションで暮らしており、最近は結婚してから私物が増えて、引っ越しの話題がもっぱらの夫婦の会話だった。子どもはまだいない。憧治自身はそろそろ欲しいと思うことはあっても、冴都美の仕事の充実ぶりに提案することができず、一人で作れるものではないので半ば諦めている。
テーブルの上に空のコップを置くと、鞄も脱いだ背広もそのままに足早に書斎へ向かう。
付き合い始めから新婚当初まで、夫婦仲は良好だった。プロポーズする際、「世界で一番、君を幸せにしてみせる」と憧治は言った。その言葉と思いに嘘はなかったが、現実は思っていた以上に厳しい。仕事や私生活、全てにおいて、あの頃に描いていた未来と現在とでは若干の乖離がある。出費は年々かさみ、けれど給与が予定通りには比例しない。何なら憧治よりも冴都美の方が稼いでいる。安定なのか停滞なのか、日々の忙しさに判断を避ければ是正もできず、この先の見通しにも憧治が自信を持てずにいると、冴都美の向ける目が新婚時のそれとは変わってしまうのも、仕方がないことなのかもしれなかった。
半ば私室となっている書斎へ入り、憧治は後ろ手でドアを閉めた。ドア脇の電灯のスイッチに入れてから、明るくなった部屋の中で大きく息を吐く。
酔いはとうに醒めていた。平静を装っているものの、意識すれば心臓は早鐘のように鳴っている。
世界人口は七十億人を超えて、今も尚増え続けている。そんな多くの人が生きる世界で、個々人は全く同じ法則の下で生きている。そのことが、憧治には常々不思議でならなかった。数え切れないほどに人の数がいるならば、その中で誰か一人ぐらいは法則から逸脱した、例えば空を飛べるような人がいてもいいんじゃないかと思っていた。勿論、その考えが非現実的な、子どもが見るような空想だということも理解はしていた。
けれど、空を歩いた。足にはその感覚がいまだ残っている。
憧治は部屋の中央まで進むと、足に残る感覚をなぞるように宙へ右足を恐る恐る踏み出した。すると先ほどは靴底越しにあった感触が、靴下という薄布一枚の向こう側に現れる。床上から五センチほどの高さにある、固くも柔くもない何かを踏み込んで、さらに左足も同様に動かせば、憧治の体はそのまま宙に浮いていた。
息を呑む。
言葉が出ない。
夢じゃなかった。見下ろした床には電灯の作る自分の影が落ちている。夜の静けさに心臓の高鳴りだけが響き、耳にやけにうるさかった。
興奮は収まらず、憧治はそのまま検証を始めた。
着替えるのも忘れて、自身の引き起こす現象を何度も何度も繰り返す。全く未知の現象に気持ちは高まるばかりだ。
玄関から冴都美の帰宅の声が聞こえてくるまで、それは休むことなく続けられた。
そして迎えた週末の休日、憧治は行動に出た。