近江屋
「ここのはずなんだが」
近江屋は表向きは
土佐藩御用達の醬油商の
邸宅として使われていた。
しかしどういう訳か
今は人気がしない。
万次郎が注意深く障子を開けると、
醸造された醬油の代わりに
血の臭いが鼻腔の奥へ触れた。
部屋には無数の刀傷が刻まれた痕跡と、
刀で切り捨てられた死体。
近江屋の中を進むほどに
血の臭いが濃くなっていった。
「誰か居らんか!?」
あまりの惨状に
万次郎が血相を変えて、
慎重だった足取りを乱し
奥へズカズカと進んで行く。
さらに血の臭いの濃い
奥まった座敷の障子を開けると、
書を私たちに受け渡すはずの坂本龍馬が
変わり果てた姿でいた————
「流石は、北辰一刀流。
このボクに一太刀浴びせるとはね」
脇差に手をかけたまま刺客の男が、
プロトゴエティアを脇に抱え
陰険な笑みを浮かべている。
男は浪人風のいで立ちで
羽織を着こみ、その袖口の
白いだんだら文様が返り血を
浴びて赤黒く染まっていた。
「その人相に格好、貴様……
新選組の人斬り鍬次郎だな」
万次郎が浪人の格好と顔立ちを見るなり、
その正体を言い当てる。
新選組————
最近京都でよく耳にする浪士隊の名だ。
尊王攘夷に荒れる世相において、
幕府に仇なす逆賊を取り締まる
組織であったはず。
討幕派と見なされた龍馬が
そのたぐいの組織から
目を突けられていた事は
知っていたけれど、
新選組もプロトゴエティアを狙っていたとすれば、
龍馬の殺害はただの政治上の駆け引きではなくなる。
「組織の犬に、美国八百子か……」
私を見るなり、鍬次郎が心底
うんざりしたように眉をしかめる。
「あんたと会うのは
これが初めてだけど?」
「おっと、そうだったw」
鍬次郎は何かしくじったような表情になるも、
すぐに不敵な笑みを取り戻してみせる。
「書を返せ!」
とっさにピストルを取り出し
万次郎が鍬次郎を射撃する。
が、鍬次郎はまるで
幻術を使ったかのように
姿を消し去るのであった————
「くそっ、逃がすかよ」
「万次郎!」
すでに座敷を飛び出した万次郎の背中を、
追うために私も座敷を出ようする。
しかし今度は突如として目の前に、
音もなく、おかめの面を被った
軽装の女が現れる。
「……そなたの相手はこの私だ」
立ちはだかるなり、おかめは
小ぶりの金属片を複数素早く投げつける。
とっさにその飛び道具を避けてみせるも、
そのいくつかは初めから陽動だったのか、
おかめは私の動きを先読みしていた。
私は最後の一撃を避け損ねてしまい、
肌を裂き床に刺さった金属片を一瞥すると
槍の穂先のような両刃に
握りの後部は輪状の形状をなしている。
それはかつてこの国が
戦国の世にあったとき、
諜報活動に従事した忍び達が
使っていた得物であった。
「……くノ一ね」
私の問いにおかめは
否定も肯定もする気配さえなく、
今度はより大振りの苦無を構え
飛ぶと同時に斬りかかって来る。
『代わりなさい。
あなたではその刺客には敵わない』
苦無の白い鋼が私の目前で煌く。
すんでのところで私はヴェパールに
体を預ける事に成功した。
固い鱗に覆われた幹のように
太い腕が苦無の白刃を防いでいた。
「ほう。
その威勢がどこまで
続くか見ものだな」
攻撃を防がれ
おぞましく変貌した腕を見ても、
おかめは驚くこともなくあしらう。
相手はとうに私の中に巣食う
存在を知っているらしい。
「どうした。
この程度なのか?」
「バカな……
なぜ動きが見える……」
悪魔の力である怪力、
高速の動きをもってしても
太刀打ちできないものはあるらしい。
ただの人間であるはずの存在に
思わず私は傷口を抑える。
「美国、そなたは
いずれどうあがいても
その悪魔に取り込まれる。
しかし、私に付いて来るならば、
救ってやらんこともない」
目の前のおかめが一体
何を言っているのか分からない。
ただ直感的に鍬次郎の
仲間ではないと感じた。
おかめがここに居るのは、
龍馬の暗殺でも、
秘伝書を奪うためでも、
私の足止めでもない。
もっと得体のしれない
大きな何か————
「しっかりしろ!
そんな奴の口車に乗るんじゃなか!」
万次郎の言葉が響いた。
近江屋へ戻って来た万次郎の手中には、
プロトゴエティアがあった。
「まさか、奪い返されただと!?」
「八百子受け取れ!」
気を確かに持ち直した私は、
勢い良く投げられた
プロトゴエティアを受け取る。
書が引き寄せられるように
私の手に収まった瞬間。
心の底に溜まった迷い、雑念、
苦悩が晴れていくのが分かる。
『なに!
私の力が消されてゆく……』
気が付けばヴェパールの気配は消え、
私の体は元の美国八百子の体に戻っていた。
これまで余裕を崩さずにいた
おかめが一瞬うろたえる。
その隙を私は見逃さない。
床に刺さった苦無の一本を、
力任せに引き抜き
おかめの面を叩き割る。
「馬鹿め……
後悔するぞ」
おかめの面を被っていた女が
素顔を手で覆いつつ、
音もなく姿を消してしまった。
「あなた、
どうやってそれを!?」
「あいつが最期に鍬次郎に
一矢報いてくれたおかげでな」
そう言うと万次郎は床に
僅かに散った血の跡を指さした。
「へぇ、幻術で姿を隠せても
血の臭いと跡までは隠せなかったようね」
龍馬によって斬り付けられた
鍬次郎の傷は思いのほか深く、
その鮮血を辿った激戦の末に
書を取り戻すことに成功したらしい。
私たちは床に横たわったままの
同胞の亡き骸へ手を合わせる。
「じゃあね、龍馬……」
あとは組織が壮烈な殉死を遂げた
志士を丁重に弔ってくれる事だろう。




