(後編)
退場したあとすぐ、水野に連れだされて、昇降口のところできつく叱られた。
悠斗は、すいません、と一言だけいって、黙りこんだ。
一緒に呼びだされた葵は、大丈夫です、と小さく言って、うつむいていた。
「水野先生、」
1組担任の山下が、呼びにきた。
「棚橋のご家族と話をしましょう。病院へ行かせないと」
葵は口を半開きにして、うぇ、と呻いた。
「そうですね。頭を打ったように見えたし」
「大丈夫だって、センセ……」
「いや、俺にはそう見えた。あとは、ご家族に判断してもらう」
水野は断固としてそういった。
数人いた審判のうち、落下の瞬間、一番近くにいたのは水野である。
葵は、まじかよ、とつぶやいて顔をしかめた。悠斗はなんとも言えずに、立ちつくしていた。
「中山は?」
山下がいうと、水野は小さく首をふった。
「棚橋が下になって落ちましたんで、たぶん大丈夫だと思いますが。どっちにせよ、ご家族には説明しないといけないでしょうね」
「……じゃ、いっしょに行きましょう」
早口でそういうと、山下はきびしい目をして二人に手招きをし、早足で歩き出した。
*
葵の体格がいいのは、父親ゆずりのようだった。
「……この、ばかっ!」
父親は、手をださんばかりのいきおいで葵を怒鳴りつけた。葵は一瞬びくっとして、すぐに不平そうに唇をまげた。
「なーんで、あたしが、」
「母さんから、さっき聞いたからだ。悠斗くんにケガさせたそうだな」
ぴしりと言って、頭を下げている悠斗の父に向きなおる。
「中山さん、そういうわけですから、謝罪はけっこうです。だいたい、競技中の事故ですから」
「いや、それとこれとは」
悠斗の父は頭をあげたが、頬はゆるめなかった。悠斗はうつむいて黙っていた。
「たとえ、悠斗くんがやりすぎたとしても……その原因を、うちの娘がつくったってことでしょう。謝るのは、こっちのほうですわ」
「そんなの、もう半月も前のことじゃん……」
葵はまだ不服そうに、そう呟いた。
だまっていた葵の母が、口をひらく。
「あなた、その前にも悠斗くんと喧嘩してたでしょう。前々からお互いやりあっていたのに、今日のことだけ見て悠斗くんを責めるわけにはいかないって、お父さんは言ってるんです」
しずかな言い方だが、ぴしりとはねつけるような威厳があった。
「……かーちゃん、どこまで知ってんの」
「お母さんはなんでも知ってます。……ねえ?」
腕組みをしたまま、悠斗の母に目配せをする。悠斗の母は苦笑いをして、夫と目を見合わせた。
「とにかく、……お母さん」
山下が口をはさんだ。緊張しながらも、少し安堵したような口ぶりで、
「頭を打っている可能性があるので、念のため病院に行かれたほうがいいかと思います。大丈夫とは思いますが──」
「すこおし、こぶができてるだけだと思いますけどねえ。先生がそうおっしゃるなら」
そういって、葵の母は、自分より背が高い娘の頭をなでた。
「……これ以上、ばかになったら困っちゃうもんねえ」
「なんてことゆーんだよ、かーちゃん…」
葵はそう呟きながらも、動かず、撫でられるままに任せていた。
「病院代は、こちらで出させてもらいますから──」
「いや、やめてください。中山さん」
葵の父は、ちょっと笑いながら手をあげて遮った。
「そんなことを言ったら、悠斗くんがケガをした時の慰謝料だの何だのって話になる。お互い、なしにしましょうよ。子供も気を使ってしまいますから」
それから、腰をおとして、悠斗の顔を正面からみすえて、
「……悠斗くん。これに懲りずに、今までどおり娘と仲良くしてくれるかい」
今までどおり、というところを、強く。にっこりと笑いながら、そういった。
悠斗は、うなずくしかなかった。
*
「ゆーと!」
少し、気まずい昼食の時間をおえて、悠斗が中庭へとむかっていると、後ろから葵の声がした。
「……病院に行ったんじゃなかったのかよ」
「あとにしてもらった。決勝戦は見たいもん」
おいついて、そう言ってから、葵はしばらく黙っていた。
悠斗もあえて口をきかないまま、30秒ばかり。
葵は目をそらして、うつむきながら、小さな声でいった。
「……色々、わるかった。ごめんなさい」
悠斗は、じっと葵の顔を見つめて、唇をかみしめた。
それから、深呼吸をして、
「……こっちも、やりすぎた。ごめん」
そう、いった。
ふたりは、安堵して息をついた。どちらからともなく、笑いがこみあげてきた。
「アンタが、あそこまでやるとは思わなかったなあー」
背筋をやわらかくのばして、葵はいった。悠斗はちょっと眉をしかめて、
「ごめんって言ってるじゃんか」
「褒めてんだよ、ばか。……そういえば、知ってた?」
「なにが?」
「クラスが成績順で決まってるとか。あれ、ウソらしいよ」
葵は得意げにそういった。悠斗は、知ってたよ、と小さくつぶやいた。
なあんだ、と葵はいって、笑った。
悠斗は、すこし表情をゆるくして、次の言葉をさがした。
「……おれはさ、やっぱ男だからさ……」
なんといったものか迷いながら、
「負けたくなかったんだよ。おまえが強いったって、女じゃん……」
「ふーん、」
葵はちょっと悠斗の顔から目をそらした。少し、上を見あげるようにして、つぶやく。
「なんかさ、……めんどくさいよね。男とか女とかさァ。成績がどうとかさ……だんだん、そういうの考えるようになっちゃうんだね。……そういうもんなのかなあ」
「うん……」
なんとなく後ろめたくなって、悠斗はうつむいた。
ぱあんと、肩に痛みがはしった。
手を振り下ろした葵が、「ばぁか、気にすんなよ」と、笑った。
「知ってんだから。……晶子、もうすぐ外国へ行っちゃうんだって? だからさ、今年が最後ってことなんでしょう。がんばんなよ」
「──え?」
心臓が止まりそうだった。
「葵、いまなんて」
「え?」
ざわめくような沈黙が、ふたりのあいだに流れた。葵はもう一度、え、とつぶやいてから、
「……知らなかったの?」
と、小さな声でいった。
*
晶子は、いちょうの木に背をもたせて座っていた。疲れたらしく、いまいち焦点のあわない目で、ぼんやりと前をながめている。
悠斗が中庭にやってくると、晶子は座ったまま、くるりとまわりを見渡して、
「……そろそろ、始めようか。全員そろってないけど……」
そう、言った。
悠斗は、かまわず、クラスメイトたちのあいだをぬけて晶子の前に歩みでた。
「晶子、」
「……ああ、」
晶子は、かわらずぼやけたような目つきで、ゆっくりと悠斗の顔をみて、うなずいた。
悠斗はかっとして、肩をつかんで大声をだした。
「どうして、言わなかった」
晶子はぐっと目を大きく見開いて、まばたきをした。唇が動くが、言葉が出る前に七海が叫んだ。
「ちょっと、悠斗!」
「……七海、おまえ知ってた?」
「え、」
ふりむいて、七海の目をじっと見る。
何のことかわからない、という顔ではなかった。
「……ごめん」と、晶子がいった。
悠斗は、もう一度、晶子のほうをむいた。みんながこちらを注目している。
晶子はたちあがって、すっと目を細めた。すこし、いつもより高い声で、
「いえなかったんだ。……いや、言わずにおこうと思ってた」
「……おれだけか?」
「まさか。私からは、クラスのだれにも言ってないよ」
晶子はちらりと七海の顔をみた。七海は、気まずそうに目をそらした。
「……ごめん、わたしがお父さんから聞いて……みんなに言っちゃった」
「なんの話なの?」と、さくらが声をあげる。悠斗はそれを無視して、七海にするどい目線を投げた。
「じゃあ、なんでおれには──」
「だって……悠斗には、あたしから言っちゃいけないと思って」
悠斗は七海から目をはずして、地面を見た。ふつふつと、やり場のない怒りがこみあげてくる。
「……知ってたヤツ、手、あげろよ」
顔をあげて、吐き捨てるようにいう。
半分ぐらいのメンバーが、そっと手をあげた。
「くっそ……」
「悠斗、」
晶子が、しずかな声で。
「ごめん。」
もう一度、そういって、つめたい手で悠斗の腕にふれた。
悠斗が落ち着くのを待つように少し間をおいてから、一歩前に進み出る。
「みんなも、ごめん。知ってた人もいるみたいだけど、私からちゃんと話しておきます。……お父さんのつとめていた会社がつぶれて、別の会社にいくことになりました。わたしもついていくので、もうすぐ引っ越します。カナダに。」
「カナダって……」拓海が、ぼうぜんとつぶやく。
「前の会社と、取引のあったところなんだって。会社がなくなる話をしたら、すぐに声をかけてくれたらしいの。すごいよね」
さらりと、なんでもないことのように。
「……いつから、わかってたんだ」
悠斗が低い声で訊く。晶子はよどみなくこたえる。
「さいしょに聞いたのは、たしか1月。本決まりになったのは、最近だけど──」
そんなに長い間──
悠斗は、唇をかみしめた。
「だから、さ。勝ちたいんだ。最後の試合。お願い。……あと、ちょっとだから」
誰も、なにも答えなかった。
晶子は、どこか満足気ににっこりと笑って、言葉を続けた。
「……さて、話が前後したけれど、次の試合は──」
「待ってくれ」
隅のほうに立っていた豊正が、大きな声をあげた。
「その前に──」「言わなくていいよ、」
となりに座っていた快が、遮った。
どことなく元気のない声で。額からは、大粒の汗が流れている。
「そんなわけにいくかよ」「だって、」
押し問答が始まりそうなところを、晶子が大きな声で遮る。
「快、──けが、してるの?」
「ぜんぜん──」
「右腕がうまく動かねえんだって。さっき、落ちたときにひねったかなんかで。」
豊正が、すぱっとそう答える。
「先生に言わないと、」さくらがあわてて立ちあがる。
「やめてよ。……ほら、一応、動くんだ。箸だって持てたしさ。」
快は顔をしかめながら腕を少しあげて、手を握ってみせた。かすかに震えている。
「……お前、それで帽子の取り合いできんのかよ。」
「やらせてよ。」
にいっと笑ってみせる。
「葵のこともあるし、ここでケガ人が出たら、騎馬戦が中止になっちゃうかもよ。……決勝戦が終わってから、痛みだしたってことにするからさあ。大丈夫だよ」
「快……」
晶子は、快に歩み寄ってひざまづいた。白い腕にそっと触れて、快の目をみつめる。
「私のことは……気にしなくていいから。」
「そうは、いくもんか。」
快は、やさしい笑みをうかべたまま、そっと左手で晶子の手をどけた。
「ここでリタイアしたら、おれ、めちゃくちゃかっこわるいじゃん。……晶子は頭いいんだからさあ、おれが左手しか使えなくても勝てる作戦、考えて。絶対だよ」
晶子は、しばらく沈黙してから、目を伏せて、
「……ありがとう。」
と、言った。
*
ミーティングの場所から、少し奥に入った木陰で、大輝が横になっていた。
空が、その枕元に正座して、下敷きで大輝の頭を扇いでいる。
「悠斗!」
翔が、声をかけてくる。悠斗は、早足で大輝のところまで歩み寄って、いった。
「ここにいたのか。……おい、大丈夫?」
大輝は、口をひらいたが、すぐには言葉が出なかった。
「お腹、痛いんだって……」翔が、小さな声でいう。
「なんでもないよ。……ちょっと疲れただけ」大輝が、息を荒くしながら、やっとそう言う。
「ばかいえ、」
悠斗は、小さくそういって、目をさまよわせた。
午前の部が終わってから、もう40分は経っている。
「……決勝戦は、休ませてもらおう」
悠斗がそういうと、大輝はぐっと目を見開いた。
「いやだ」
「快もけがしてるんだ。ふたりとも見学にして、騎馬を組み替えて──」
「絶対いやだ!」
大輝は、腕に力をこめて上半身をおこした。脂汗にまみれた顔を悠斗に近づけて、にらむ。
「あのワザを練習したのは、僕たちだけだ。組み換えたら、できなくなる」
「だって、お前……」
「悠斗、……きみは」
ほんのちょっと、ためらうように間をおいてから、大輝は続けた。
「なんのために、あれだけ練習したんだ。葵を倒すため? それとも、晶子が外国へ行くからか」
「……知ってたのか」
「先週、きいたよ」
翔が、きまずそうにそっぽをむいた。
「ぼくは、自分のためだ」
大輝は、自分にいいきかせるように、そういった。
「これだけやれるんだ、っていうことを、みせつけてやりたいんだ。そのために練習したんだ。だから、絶対に勝つんだ。途中でやめるなんて、できるもんか」
悠斗は、まばたきもせずにじっと大輝の言葉をきいていた。
とくん、と心臓が大きく動く音がした。
「悠斗、きみだって、ほんとはそうだろ」
堰をきったように止まらなかった。翔も、空も、あえて止めようとはしなかった。
「葵をやっつけただけで満足か。そうじゃないはずだ」
大輝はぎっと悠斗を睨みつけた。
ふっと、腹の底から何かがわきあがってきた。
(そうだ)
じんわりと、背中が汗で湿ってくる。
(……晶子がどうだろうと、関係あるもんか。)
唇の両側がつりあがる。
自分のために、やるのだ。仲間も同じ気持ちなら、なんの遠慮がいるものか。
いつのまにか、悠斗は笑っていた。
「よし、やろう」
そう、大きな声で、いった。
*
山野の号令で、6組の騎馬がならぶ。
亮介、
大翔、
陸、
悠希、
海斗、
結衣、
莉子、
美咲、
花音、
杏。
騎馬の組み合わせも、並ぶ順番も、5組と練習試合をした時と同じだ。
結衣は、6組の騎馬をみた。こちらは、前の試合とは、騎馬の組み合わせが違うようだ。
作戦にあわせて、ということだろう。
(……気合、入ってるんだ。)
結衣はため息をついた。
今日は、勝てるだろうか。
*
「……それじゃあ、本当なの?」
結衣がかさねて問いかけると、晶子は困ったように眉根を寄せた。
頷く。
「じゃあ、さ──」
深呼吸。
いくつもの光景が、頭をよぎる。
最後には、言葉が勝手に飛び出してくる。
「賭けよう。本番で、うちのクラスが優勝したら、あなたは行かない。いいでしょ?」
*
「……お母さんもさ、一緒に行くっていうもんだから」
なんでもないことのように、晶子はそう言って、目を細めた。
「話したこと、あったっけ? うちのお母さん、もともと……技術翻訳? の仕事をしてて、お父さんの勤めてた会社で、立ち上げの時から働いてたんだって」
聞いた覚えはなかった。
ひとの親の仕事の話なんて、どうせ、聞いてもあまり覚えていないものだが。
「だから、カナダの会社に来ないかってお誘いは、お父さんとお母さん、セットの話なの。……そこまでは、私に話があった時にはもう決まってた。それで──」
結衣は、ぼうぜんとして黙りこんでいた。
まだ、信じられない。
「──私は、残ってもいいって。七海のところに居候することになるみたいだけど……」
……よかったじゃない。
そう、言いかけたとき、晶子がまた口を開いた。
にっこりと、笑いながら。
「でも、もう決めたの。私は、家族についていく。だから、もうすぐお別れだね。結衣」
*
ぎりぎりまで迷っていてよいのだと、母はかさねていった。
けれども、晶子は、考えをかえるつもりはなかった。
*
関係のないことだ。
晶子が、どこへゆこうとも。
友達とはいえ──いや、そうであればこそ、相手が決めたことは尊重すべきだ。
だけど、
(……ひとつくらい、思い通りになるものがあってもいいじゃない)
せめて、
最後に。
どうせ、自分は、あの母からは逃れられないのだから。
*
号砲。
*
悠斗の組は、右のはじで、左翼にいる豊正と連携する役割だった。
前の試合では、快がつとめていた役である。
開戦と同時に、しゃにむに敵陣の裏へと走りこみ、豊正と合流して、本隊と挟撃する。
一応、七海・蓮の組、凛・さくらの組があとに続くことになっているが、それは、全てがうまくいった場合のことだ。
最悪、豊正と二騎だけで、大将を狙わなければならない。
走る。
6組のものたちの意識は、前方へ向いているようだ。
ここまでは、晶子の読みどおり。
6組は、実戦練習を一度しかしていない。
1試合目を見るかぎり、かなり統率がとれた動きをはしているが、複数の陣形をみっちり練習するような時間はなかっただろう。
だから、決勝戦も、全体としては1試合目と同じ動きをするはずだ。
すなわち、全騎が一箇所に集まって、大将めがけて前進してくる。
その『読み』が、晶子がたてた作戦の大前提であった。
ほとんど、戦うことなく敵陣の背面にたどりついた。
豊正とアイ・コンタクト。
ちらりと馬役の様子をみる。大輝も、空も、まだ大丈夫だ。
『突撃隊が裏に回るのは、さっきの試合より簡単だろうね』
晶子は、当然のことのようにいった。
『6組は、1組よりずっと統率がとれてる。つまり、事前にきめた作戦に忠実だってことね。試合が始まったあとは、大将が指示をだしている様子はないし、たぶん、そういう練習もしてないんでしょう。
だから、大将から離れて動く騎馬はことさら攻撃されない。というより、できないんだ』
できるだけ疾く、有利な位置を占めて、攻撃を開始せよ。
それが、かれら二騎の突撃隊に与えられた役目だった。
有利な位置とは、すなわち、敵陣の真裏。
敵の作戦が前回と同じなら、大将にいちばん近い位置である。
*
「……なあるほど、そういう作戦ね」
結衣は、くるりと周りをみて、ひとりごとをいった。
わかったところで、周知するすべはない。いや、たとえ伝えたとしても、あらかじめ練習した動きから外れるわけにはいかない。混乱すれば、相手の思うつぼだ。
『全員でまとまって、前へ進む』
たった、それだけのことを身に付けるのに、練習時間のほとんどを費やしたのだ。
だから、私がやるしかない。
結衣は、そっと騎馬役の肩から右手をはなして、首筋をつついた。
「……すぐ反転して。私たちだけで、後ろの敵をやっつける」
ささやく。
私たち。
ほんとうは、私が、というつもりだった。
*
悠斗と豊正が、ならんで敵陣のほうをむく。
大将の結衣が、ただ一騎でまちうけていた。
「……とるぞ。」と、豊正がつぶやく。
おれたちで、決着をつけるのだ、と。
結衣は、あざけるような笑みをうかべて、こちらを向いている。
完全に、自軍に背を向けて孤立した格好である。
どういうつもりか。
悠斗は、かっとなった。
「いけ、」と、するどく声をかける。
翔、空、大輝の三人にである。
翔がまず、そして一瞬遅れて後ろの二人が反応する。
豊正が、あわてて自分の馬役に声をかける。
まず悠斗が、そのあとに豊正の騎馬が続く形になった。
豊正は、ちらりと結衣の後ろ、両軍がぶつかりあっているところに目を走らせる。
さすがに、晶子のところまでは見通せない。うまくいっているのかどうか、皆目わからない。
作戦が裏目にでた場合、一気に防備をつきやぶられて、晶子がやられてしまう可能性がある。
そうなる前に、決着をつけねばならない。
やはり、ここで結衣を倒すしかない。
悠斗が、先に手をだしかける。
が、結衣の手で牽制されて、ひっこめる。
一瞬、にらみあうように硬直して、互いの体に触れないまま、また牽制しあう。
焦れたのは、豊正だった。
ぐっと、ウマを前にすすめ、結衣の騎馬に左側面からあたる。
身体をかたむけて、体重を相手側にあずけるようにして、両手で結衣の首をとらえようとする。
全身でのしかかってくるのだから、ふせぎようがない。
両手を使ってかわせば、その間に悠斗が帽子をとりにくるだろう。
結衣は、すばやく身体を後ろにかたむけて、豊正の重心から身をそらした。
両手で、豊正の右腕をつかむ。すばやく腰をひねって、つかんだ腕を、外側に強くそらすように力をくわえる。
「いでぇッ!」
豊正が悲鳴をあげる。
肘と肩の関節をおさえられている。動けない。
悠斗はなんとか助けようと手を伸ばすが、豊正自身の身体がじゃまになって、結衣まで届かない。
(うそだろ……。)
合気道でもやっているのか。
なんにせよ、不安定な騎馬の上で、ここまでの動きができるとは信じられない。
豊正は、必死で結衣をふりほどこうとするあまり、足場が不安定になっている。
ウマがゆれる。
とつぜん、結衣が手を離した。間髪入れずに、左手を大きく突き出して、豊正の肩を強く押す。
あっけなく、豊正の騎馬がくずれた。
*
うまくいった。
見るかぎり、こちら側にまわってきているのは豊正と悠斗だけ。
背を向けているから直接は見えないが、残りの敵は大将の晶子を守りながら、こちらの主力と戦っているはずだ。
5組の作戦は、先ほどの試合と同じだろう。
あいての攻撃を正面から受け止めながら、別働隊が裏に回る。挟み撃ちだ。
だから、各個撃破する。
豊正は倒した。あとは、悠斗を倒してしまえば、正面に集中するだけだ。
*
「……まわりこめ。結衣と位置をいれかえるんだ」
「でも、」
「いいから。」
小さく、そう会話する。
悠斗の騎馬は、結衣の左側から、すれちがうように前にでた。結衣が意外そうにこちらをみる。
かるく、手をつきだして牽制し、にらみあいながら位置をかえる。
これで、悠斗は、結衣と、6組の本隊のあいだにはさまれた格好となる。
もっとも、6組の本隊はもう前進して、5組とぶつかっているため、悠斗の背後には、まだ少し開いた空間がある。
はさまれたというより、結衣が本隊に合流するのをさまたげているとも言える。
「後ろが気にならない?」
結衣が、わざとらしく大声をあげて訊く。
無視する。
「……いくぞ。ここでやっつける」
「ジャンプ?」
「いや──」
悠斗は首をふった。
葵を倒したワザは、晶子からもう使うなと言われている。
ためらっている悠斗を、見透かしたように目をあわせて、結衣は笑った。
「跳ぶの?」
やってみろ、といわんばかりに。
その瞬間、悠斗は決断した。
「あれじゃない。もうひとつのやつだ。やろう」
三人が息を飲む。
あのワザは、練習で成功したことがない。
正確にいえば、まともに練習すらできなかった。相手がいなかったからだ。
騎馬役への負担は、ジャンプよりもよほど大きい。
それでも、ためらいはなかった。
「わかった。タイミングは」と、大輝がきく。
「おれが合図したら、すぐ。左斜めからいくぞ」
悠斗は、汗がにじむような低い声で、そういった。
*
長い長い鎖が、手足にからみついている。
からまりあって、どう外していいものか皆目わからない。
鎖のはじだけは、見えている。母が握っているのだ。
じゃらり、じゃらりと、
結衣のゆくところには、いつも鎖の音がついてまわる。
切れぬ鎖であるならば、いっそ──
(……やめよう、)
深呼吸。
目の前のことに集中するのだ。
立ちはだかっているのは、悠斗の騎馬だけ。
そのむこうには、味方の本隊。
さらに遠くはよく見えないが、5組の大将をふくむ数騎が、こちらの攻撃を防いでいるはずだ。
みたところ、味方が優勢のようだ。
ここで無理に合流せずとも、倒されずにいれば良い、ということになる。
練習試合のときの感触からすれば、悠斗はたいして強くない。
警戒するべきは、葵をやっつけた『ジャンプ』だけだ。
「……姿勢を低くして。こらえてね」
そう、指示をだす。
下半身のバランスをたしかめる。
大丈夫だ。
とびつかれても、崩れない自信はある。
あるが、もっと簡単に対処する方法がある。
跳ぶ前に、帽子をとってしまえばよいのだ。
騎馬の上から跳ぶには、両脚をまげて溜めをつくる必要がある。
しかも、あいての身体にとびつくのだから、騎馬どうしほとんど密着していなければならない。
タイミングさえつかめば、簡単に帽子はとれるはずだ。
悠斗が、にいっと笑った。
距離をつめてくる。
ジャンプするつもりか。
それとも、正面からあたって帽子を狙うか。
どちらも、怖くない。
その、どちらでもなかった。
*
ウマ同士がぶつかった衝撃をこらえると、悠斗は間髪いれずに結衣の側に体を預けた。
姿勢を低くして、結衣の腰に手をまわして、強く抱きしめる。
結衣の手がのびてくる。その手が、帽子にとどくより一瞬はやく、
翔、大輝、空の三人が、いっせいに姿勢をくずして、膝立ちになった。
悠斗の足がのっている掌も、30センチほど地面に近づいた。
悠斗の身体も、それにつれて落下する。
ウマから降りたわけではないが、降りたのと同じである。
瞬間的に、ふたりぶんの体重が、結衣のウマにかかった。
*
(……やられた!)
結衣は全身から脂汗が噴き出るのを感じた。
完全に、踏ん張るタイミングをはずされてしまった。
『ジャンプ』の溜めがなかったので、油断したのだ。
あわてて、姿勢を低くして、足に力をこめる。
ぐっ、と腰が引っ張られる。
重い──
くぅ、と口から息が漏れる。
足場が崩れそうになる。
そして、二秒、三秒──
こらえた。
見おろす。
すぐ下には、悠斗の帽子。
反射的に、右手をふるう。
これをとれば、終わりだ。1秒もかからない。
そして、
結衣は、自分の頭に帽子がないのに気づいた。
*
悠斗は、結衣の腰から手を放して、顔をあげた。
結衣の肩ごしに、むこうをのぞく。
晶子が、結衣の帽子を取っていた。
間に合うとは思わなかった。
もう少しタイミングがズレていれば、最悪の展開になっていた。
「え……、」
結衣は、まだ理解できないらしく、きょとんとして周りを見回している。
「……やったね、悠斗」
晶子が、疲れきった顔で、ぜいぜいと息を切らしながら、やっとそう言った。
「わたしたちの、勝ちだ。」
笛が、鳴った。
*
「……分散、再集合。むつかしい作戦だけど、やるしかないと思う」
最後の作戦会議。晶子は、低い声でそういった。
どことなく暗い顔つきではあったが、目は笑っていた。
途中までは、1組と戦った『包囲作戦』と同じ。
ただし、そのままでは、大将のいる中央を突破されて一気に負けてしまう可能性がある。
だから、大将をいったん逃がすことを考える。
具体的には、こうだ。
まず、快と晶子は、あらかじめ騎馬役を交換しておく。
今回は、快が実質的に戦力にならないのと、晶子がかなり激しく動かなければならないからだ。
試合が始まると、悠斗と豊正の二騎が、まず突撃隊として敵の背面にまわる。
それを追って、右翼で七海と蓮、左翼で凛とさくらが動くが、彼らはまだ背面までは行かない。
裏ではなく左右から、敵軍にあたって、戦線を支える。
正面に残るのは、快、拓海、陽菜、晶子。
このうち、3騎を捨て駒にして、晶子を逃がす。
晶子は、状況をみて右か左に大きくまわりこみ、敵軍の背面までゆく。
このとき、七海、蓮、凛、さくらのいずれかが、移動をサポートする。
そして、最終的に、生き残った騎馬すべてが敵軍の背面に集結し、団結して攻撃する。
そういう作戦であった。
大将を含めた全体の戦力は、6組が上。
こちらが勝っているのは、指揮系統を保ちつつ、バディ単位で個別に動く能力だ。
ならば、正面からぶつかるとみせかけて、機動でひっかきまわすしかない。
晶子は、そう考えた。
*
実際には、完全に作戦通りにいったわけではない。
凛とさくらが予定より早くやられてしまい、晶子は七海と蓮にかばわれながら必死で駆けた。
豊正が早々に倒されたこともあり、後ろにまわるのが少し遅ければ、悠斗に続いて晶子も帽子をとられ、あっさり負けていただろう。
悠斗が注意をひいている間に、結衣の後ろにまわることができたのは、僥倖だった。
ともかくも──勝利は、勝利であった。
*
結衣は、現実感のない足どりで、地面におりた。
あとからあとから、涙がこぼれ落ちてくる。
足元がおぼつかない。
──たったひとつ。
たったひとつくらい、思い通りになるものがあってもいい。そう、思っていた。
なのに……。
嗚咽がこぼれ出る。
「結衣。」
そっと、だれかの腕が背後から結衣の胸に触れた。
晶子だった。
「だいじょうぶ。ずっと、友達だよ。どこへ行っても。」
母のような。
結衣が知るはずもない、やさしい母のような声だった。
全身に巻きついた鎖が、少し軽くなったような気がした。
*
そうして、彼らの運動会は終わった。
*
そして──
*
「おい、──電話!」
リビングの兄によばれて、悠斗はのたくたと体をおこした。
けだるそうに階段をおりて、受話器をうけとる。
一週間たっても、まだ疲れがとれない。体より、気持ちの問題かもしれないが。
「はい。……もしもし」
『なにしてたの?』
結衣の声だった。なんだか少し怒っているような。
「なにって……、寝てた。なんだよ、なんか約束あったっけ?」
『ないよ、そんなもん』
やっぱり、怒っているようだ。
運動会が終わってから、結衣とはほとんど話していない。しかし、まさか決勝戦のことを根に持っているわけではないだろう。
『ねえ、……知らないの?』
「だから、何が」
『晶子、きょう出発だよ』
悠斗は息を呑んで黙りこんだ。
知らなかったわけではない。
金曜のホームルームで、別れのあいさつだってしている。
『あきれた。なにも聞いてないの?』
「日付は、聞いてたけど……。」
『それだけ?』
「あと、何があんだよ。……今週、あんま晶子と喋ってないしさ……」
こんどは、結衣が沈黙する番だった。
しばらくして、『はぁ、ばっかじゃないの!』と、吐き捨てるような声が聞こえてきた。
「なんだよ、お前だってさ……」
『あたしたち、お別れ会やったもん。昨日』
「昨日? あたしたちって誰だよ」
『あたしと晶子と、葵と七海』
なんとなく、意外なメンバーだった。
『女子には、女子のつきあいがあんの。それで、あんたたちはどうなの』
「どうって……」
『晶子、3時24分の飛行機だって。あたしは行かないけど。』
さんじにじゅうよんふん、と悠斗はぼうっと繰り返した。
それから、また、言葉がみつからずに黙りこんでしまった。
用件は、それを伝えることだったらしい。
それだけ、じゃあね、といって、電話はきれてしまった。
*
結衣は、電話をきってから、しばらくじっとしていた。
大きく、息をついて、目をとじる。
スマートフォンをロックして、ベッドから起きあがる。
ふたたび、目を開く。
決然とした意思をこめて。
くらい廊下を、こつこつと音をたてて歩く。
(……鎖なんて、)
しずかに、胸のうちだけでつぶやく。
こんこん、とノック。
返事はない。
かまわず、大きな声で、結衣はよびかけた。
「ママ。……話があるの。聞いて」
*
昼メシ、どうする。と、兄の声。
悠斗は、リビングのソファに座ったまま、じっと足元を睨んでいた。
何もいわずにいると、兄は台所で何か作り始めたようだった。
父も母も、夕方まで帰ってこない。
ゆくとすれば──
*
兄がラーメンの器をもって、リビングにやって来た。
小さく声をかけて、悠斗の前にも器を置く。
テレビをつける。
しばらくして、悠斗がうつむいたまま、口をひらく。
「兄ちゃん、……車出せる?」
「あん?」
大学生の兄は、ラーメンをすする手をとめて、
「かーちゃんの車なら鍵あるから、出せるけど。なんで?」
「空港、……いける?」
「あー、……」
兄は、ちょっと宙を見上げるようにして考えこんだ。
「……行ったことないけど、多分な。なんだよ、なんかイベントでもあったっけ?」
「見送りに、……」
「だれの?」
悠斗は答えなかった。
「……ま、いいや。何時だよ? 急ぐなら、はやくそれ食っちまえよ」
さんじにじゅうよんふん、と悠人はつぶやくようにいった。
兄は眉をひそめた。「もしかして国際線か?」頷く。「それじゃ──」
「すぐ出ないとダメだぞ。出発のずっと前にチェックインしちゃうんだから──」
「そうなの?」
「俺も、よく知らんけど。チェックイン時間とか、空港のどこで会うとか、聞いてねえの?」
悠斗は首をふった。そもそも、見送りにきてくれと言われたわけではないのだ。
「ラーメン、すぐ食っちゃえ。おれ、着替えてくるから」
「兄ちゃん」
兄の背後から、悠斗は小さく声をかけた。
「……おれ、行ったほうがいいのかな。」
答えはなかった。
悠斗は、もそもそと箸を動かした。ひどく、味気ない食事だった。
*
車の中で、悠斗はほとんど口をきかなかった。
兄も黙っていた。ただ、時間だけを気にしていた。
*
「……それじゃ、」
晶子と、両親。
晶子の伯父にあたる七海の父、七海の母、それから七海。
滑走路がみえるレストランで身内だけの食事会をおえて、ロビーにでた。
もう少ししたら、搭乗手続きをはじめなければならない時間である。
「うん。……元気でね」
七海は、赤くなった眼をほそめて、しょんぼりと晶子の顔をみあげた。
「手紙、かくよ」
晶子は、涙の気配もなく、口元にうっすらと笑みをうかべてそういった。
「またお休みがとれたら、帰ってくるからさあ」
快活に笑いながら、晶子の母はそういった。
七海の父が、ああ、とうなずいて、晶子のほうをみた。
「むこうが辛くなったら、晶子ちゃんだけでも、いつでも帰ってきなよ」
「そうよ、」と、七海の母。「きょうだいみたいなもんなんだから。七海だって喜ぶわ」
「ありがとう、おばさん」
晶子は、かるく頭をさげて、おちついた口調で応えた。
「ねえ、」
七海は急に声をひそめて、晶子の近くに寄っていった。
「……悠斗には? いってないの?」
「なにを?」
大人びた笑みをくずさないまま、晶子は問い返した。
「なにをって……、」
「もう、いいよ。最後の願いごとは、かなったんだし」
なによ、それ。
七海は、口のなかでそうつぶやいたが、声は出なかった。
「──晶子!」
とつぜん、するどい声がきこえた。
悠斗の声だった。
七海は、目を見開いて頬をゆるめた。
晶子は、表情をかえなかった。
「あの、──」
悠斗と一緒にいた、大学生くらいの男が、口ごもりながら何かいいかけた。
「見送りに、」と、悠斗がいった。急いできたらしく、息を乱しながらこちらへ歩みよってくる。
「きてくれたの?」
そう、うれしそうに叫んだのは、晶子ではなくその母だった。
悠斗は、かまわずに晶子の前に立った。
七海をおしのけるようにして、まっすぐ、晶子の目を見つめる。
「どうしたの?」
「晶子、おれは──」
いろいろなことが、頭をよぎる。
「おれは、……」
行くな、と。
そう──
「……遅くなって、ごめん。結衣から、今日きいて……」
もし、おれがあと5歳、年上だったら。
そう、言えただろうか。
「いいよ、気にしないで」
晶子は、しずかに首をふって、笑った。
「来てくれて、ありがとう」
でも、今のおれは、ただの子供で、
だから、
「……やめろよ、」
せいぜい、こんなことくらいしか、言えない。
「え?」
「そうやって、……笑うの、やめろよ。お前、いつもさ……」
いつのまにか、涙声になっていた。
懸命に、目から涙をこぼすことだけはこらえて、悠斗はいった。
「いつも、……そうやって、一人で、笑ってんじゃん。そういうの、やめろよな」
それだけ、やっと、口にして、悠斗は目を伏せた。
しばらく、誰も口をきかずに時間がすぎた。
悠斗は、耐え切れなくなって、顔をあげた。
晶子の目から、涙がぼろぼろとこぼれ落ちていた。
「悠斗、」
涙声。はじめて聞くように思う。
「わたし──行きたくない。行きたくないよう」
晶子は、子供のように顔をくしゃくしゃにして、泣いていた。
母が、そっと晶子を抱きしめて、背中をさすった。