(中編)
翌日──
悠斗が、いつもより少しおくれて教室にはいると、豊正と目があった。
浅黒い腕を組んで、ロッカーのところに立っている。
いつにもまして、狷介な目つきをして。
教室の右後ろあたりを、睨みつけているように見える。
悠斗は、なんとなく目をそらしながら、自分の席へむかった。ちょうど、右後ろの席の七海と目が合ったので、「おはよ、」と小さく声をかける。七海は気難しげな顔で目をそらした。
(……なんだってんだよ)
席につく。左隣りは晶子の席だ。リズムよく長い指を動かして、ノートになにか書いている。
ふと思う。
七海が目をそらしたのは、自分からではなく、晶子から?
もちろん、確証はない。ただ、なんとなく目線の方向がそう見えただけだ。
「おそかったね」
晶子が、目を細めていった。悠斗はどきりとした。
「かーちゃんが寝坊して、家庭科の用意がさ……連絡いってるだろ」
悠斗は続けて、「七海がさ、」といいかけてやめる。かわりに、
「……豊正、どうしたんだよ。なんか……」
「なんか、ケンカしたみたい。快と」
いわれて、悠斗はそっと後ろをみる。豊正はもう席についていた。しかし、さっきまで睨みつけていたさきは、たしかに快のいるあたりだ。
「なんで?」
「しらない。……ねえ、ちょっと見てよ」
ノートをこちらへ押しつけてくる。
例によって、ごちゃごちゃと図形と文字がしきつめられていて、よくわからない。凸のような記号が、いろんな向きで並んで、そこから長い矢印がつきだしている。
ページの一番下には、こうある。
フォーメーションC−0
(再集合)
「なんだよ、これ」
「みっつめの作戦。でも、……だめだね。やっぱし、AとBにしぼろう」
「AとBって?」
「包囲と中央突破。他にもいろいろ考えたんだけど、練習してる暇がないもんね」
いつになく、はずむような声で晶子は続けた。
「でも、AとBだけでも、変化形はいろいろあるんだ。突撃隊には、ちょっと負担をかけるけど──」
「なあ、晶子」
早口にうんざりして、というわけではない。
いつもなら、わからないなりにいつまでも聞いていられるのだが──
今は、口をはさまずにはいられなかった。
「おれたち、……本当に勝てるのかな」
しぼりだすように、そう訊く。
結衣に? それとも、葵に? 1組の連中に? とっさに自問する。答えはない。
その、どれでもないような気がする。
「だいじょうぶ」
やさしい声が、背中をそっと撫でるように、
「……かてるよ。きみは」
なにかを見透かすような黒い瞳で、こちらをじっとみつめながら、晶子はそういった。
*
四時間目の体育は、ふたたび1組との合同練習だった。
騎馬戦でなく、クラス対抗のリレーだ。
本番では、男子の部と女子の部を別々にやるが、今日は同時に走っている。
5組男子のアンカーは、快。
1組女子のアンカーは、葵。
二人が、ほぼ同時にバトンを受けた。
1歩、2歩、3歩──
快がそれだけ進むあいだに、葵は2歩。
ここまでは、リードしている。
腕の振りが速い。ぴったり同じリズムで、足が地面を蹴っている。
4歩目を踏み出す前に、葵が前に出ていた。
5歩、6歩、7歩、
最初のコーナーにたどり着くころには、手が届かないほど離されていた。
(歩幅、)
息を乱しながら、かろうじてそう考える。
最初の数歩は、葵の脚がのびきっていなかった。それだけのことだ。
それだけのことで──
必死でカーブをまがる。
葵は、もうずっと先にいる。
──ちらりと、脇に目をやる。走りおえたものたちが、こちらを見ている。
手を振っていた。
すぐに目線をもどす。
心臓がはちきれそうだ。葵はどうせ、息も切らさずに走っているのだろう。
あと半周。少し、あせっている。
ペースをあげる。
葵は、どうやって──
──どん、と衝撃。
*
結果、男女とも5組の惨敗だった。
快が、周回遅れで走っていた七海にぶつかり、転倒した。
その間に、葵はもとより、1組の男子チームにも抜かれて、負けてしまった。
葵と、ふと目があった。
「ざーんねん。負けちゃったね」
にんまりと笑って、こちらに近づいてくる。
「……おれに言うなよ、」
悠斗は眉をしかめて目をそらした。
自分は中盤でほどほどに走っただけで、たいして活躍も、ミスもしていない。
「なにさ、からまれたみたいに」
「からまれてんだよ」
そう突き放すと、葵は、あぁー、とまのびした声をだして目をしばたかせた。
「それよりさァ、さっきのすごかったでしょ? びゅーんて引き離してさ」
葵はとくいげに胸をそらした。悠斗は、眉をひそめて黙ってしまった。
「なに、……なんか文句あんの」
「文句はねーけど、……」
無神経だろ、といいかけてやめた。
七海も快も、けがをしたわけではない。負け惜しみと思われるだけだ。
「なんだよぉ」
葵はずいと顔を近づけてきた。「くやしいんでしょ?」
「うるせーな、」そらさず、睨みつけてやる。
葵は、しばらく気圧されたように黙りこんでから、
「……騎馬戦で優勝するとか言ってたけど、これじゃ、ねぇ。」吐き捨てた。
一瞬、目の前が真っ暗になった。
*
応接室に呼ばれたときから、いやな予感はしていた。
ノックすると、担任の山野がドアをあけた。その表情をみて、結衣は予感が的中したのを知った。
黒いワンピースをきた母が、ソファに座っているのが見える。
対面には、1組の担任で学年主任の山下。
山野が、ためらいながら何か言おうとしたとき、山下の低い声がとんできた。
「お母さんの横に座ってもらいなさい」
「……はい。日浦さん、そこに」
うながされて、座る。母の腕に肘が触れると、つめたい悪寒がはしった。
山野は、おちつかなげに目線をさまよわせている。黒ぶちの眼鏡の奥に、涙がにじんでいるようにも見える。山下は、年配者らしく落ち着いているが、緊張はしているようだ。
心当たりは、ないではない。
「もう一度、説明していただけるかしら」
すきとおった高い声で、母はいった。
「休日に、私たちになんの連絡もなく、運動会の練習なんて。しかも、事前に担任の先生が把握してらっしゃらないなんて、そんなことありうるんですか?」
結衣は、思わず山野の顔をみた。まさか。
山野は懇願するように結衣に目線をむけた。小さく口を開いてまた閉じる。手が震えていた。
「そのように、山野からは聞いております。……そうですね、山野先生」
すぐ隣にいる山野の様子をまるで無視するように、まっすぐ前をみて、山下はいった。
「……はい」
ともかくも、山野は頷いた。目は伏せていたが。
「それじゃ、──いったい誰が首謀者なんでしょうね?」
なんとなく芝居がかったように、母は続けた。こちらも、山野の表情を気に留めた様子はない。
「首謀者、とは?」
「先生たちに隠れて、そんなことを企んだ首謀者ですよ。」
「おっしゃる意味が、よくわかりませんが」
山下は、あくまでも目線をはずさなかった。
「あら。それじゃ先生は、問題ないと思ってらっしゃるの」
「問題、ですか」
「先生のご存知ないところで、子どもたちがむりやり集められて、危険な活動に参加させられたとしても?」
「危険な活動、かはともかく──」
山下は結衣をちらりとみた。結衣は何か言おうとしたが、金縛りにあったように動けなかった。
「むりやり集められた、とは聞いていませんね。自主的に集まったのでは?」
「結衣は、塾に遅刻したんですよ。……これまで、そんなことは一度もなかったんです」
山下は一瞬黙りこんだ。それからすぐ、
「すみません、……それは聞いておりませんでした。どのくらい遅刻したんですか? 何時ごろ?」
「話をそらさないでください、先生」
母は、うれしそうに、笑った。いや、そのように思われた。
実際は、結衣はうつむいていたので、よくわからない。ただ、そんな気がしたのだ。
「そんなこと、どうでもいいんです。強制されたかどうかも。──ただ、監督責任があるでしょう? 大切な子供を預かる立場を、あなたたちは、どう考えていらっしゃるのかしら」
「それは、私たちとしては──」
「そもそも、危険だと思いませんか。騎馬戦だなんて、私が小学生のころには、あったかなあ」
「お母さん、それは今」
「あなたにお母さん、と言われる筋合いがあるかしら。……ねえ、結衣」
結衣はびくんと震えた。
そして、
きりりと唇をかんで、きめた。
ここで黙っていては、なにもかも消えてしまう。
立ち上がる。
あら、と意外そうに母は首をかしげた。
うつむいたまま、ママ、とつぶやく。母はなんでもないように、なあに、とこたえた。
汗がしたたりおちる。
くるりと足をうごかして、ソファを離れた。
えんじ色のカーペットがしかれた床の上に、正座する。
「日浦!」山下があわてて立ち上がる。
結衣はかまわず、床に手をついて、いった。
「ママ。私の、最後のお願いです」
母も、立ち上がっていた。
山野はすわったまま、凍りついたように目を丸くして、こっちを見ていた。
「今回だけは、好きにやらせて下さい。この……騎馬戦が終わるまでは。」
額を床につける。
「ばっ……」何かうめくのがきこえる。山下の声だ。
そのまま、ずいぶん長いあいだ時間がたったように思えた。実際は数秒だったかもしれない。
「結衣。顔をあげなさい」
無表情な声が、すぐ近くから聞こえてくる。
顔をあげる。母は、かがんでこちらを見つめてきていた。
なぜか、母の顔は、黒いもので塗りつぶされてでもいるように、見えなくなっていた。
「いいでしょう。あなたの、最後のお願い、きいてあげます」
つめたい、無機質な言葉が覆いかぶさってくる。
うれしさはなかった。ただ、ああそうか、と思った。
応接室をでていく音。「お母さん!」と山野が小さくさけぶ。叫ぶだけで、追いかけるわけではないようだ。
そのまま、座り込んでうつむいていると、山下が、しゃがんで、大きな手で肩をつかんできた。
「日浦。……すまなかった」
そう、言われた。
なぜか、涙はこぼれなかった。
*
悠斗と葵は、うんざりした顔で職員室を出た。
1組の担任がいなかったのはラッキーだった。一人に叱られるだけで済んだからだ。
「……あんたが手ぇ出すから」
いわれて、悠斗は顔をしかめて目をそらした。
「お前だって、反撃してきたじゃんか。それに、最初にいろいろ言ってきたのはさ……」
「あたしは、別に何もゆってないもん」
葵は頬をふくらした。本当に、そう思っているらしい。
「……もう、いいよ」悠斗はあきらめて首をふった。
「なによう。……だいたい、なんで急にそんな怒ってんの」
いわれて、ふと悠斗は考えこんだ。
なぜ? 自分でもよくわからない。騎馬戦にこだわる理由も。
翔が、泣きそうになっていたからか。
それとも、晶子のためか。
いや、そのどちらでもないような気がする。
2対1で、快に負けたこと。
結衣に帽子をとられたこと。
頭にちらつくのは、むしろそういったことだ。
それから──
『なっさけねーな。オトコのくせに』
二週間前、葵が、いつものように考えなしに口にした言葉が、ずっと胸に残っている。
横をむく。葵の顔をみあげる。
そう、見上げているのだ。頭ひとつ分も、身長が違うのだから。
「……女のくせに」
ぼそりと、口のなかだけでそうつぶやく。
「なんか言った?」
「べっつに」
悠斗はそっぽをむいた。知るもんか。
*
葵と悠斗が応接室の前を通ると、ちょうど結衣が出てくるところだった。
山野がドアをひらき、結衣がまず出て──それから、中から声をかけられて、山野だけ戻った。
結衣は、ひどく疲れきった顔をしていたが、二人の姿をみて、表情をすこし和らげた。
「どうしたの。……けんかした?」
「べっつに」と、葵。たいして機嫌が悪いふうではない。
「おれが勝った」
腕にできたあざを見せつけながら、悠斗はそう言ってやった。結衣は思わず噴きだした。
「まさか。……それで、今まで叱られてたの? もう給食始まるよ」
「そっちこそ。なんかあったの」
結衣はなんとなく哀しそうに目を細めて、ほほえんだ。
「なんにも。……いこう」
「あー!」
葵が前方を指さして大声をあげた。結衣はびくんと震えた。
「晶子の父ちゃんだ!」
指のさきにいたのは、グレーの背広姿の、痩せた男だった。
玄関口から入ってきたところのようだ。こちらに気づいて、親しげな目線を投げかけてくる。
「葵ちゃん!」
男のうしろから、ゆるいウェーブのかかった茶髪の女が入ってきた。晶子の母親だ。
「ゆーくんに、結衣ちゃんも。どうしたの?」
にっかりと笑って、問いかけてくる。
「別に……」悠斗はなんとなくばつの悪さを感じて、ごまかそうとした。しかし、葵が大声で、「ケンカ!」とさけぶ。「あたしが勝ったんだよお」
「へえ?」
晶子の母は、目をぱちくりさせて頷いた。
「おばさんは、なんで来たの?」
「ちょっとね、色々あいさつとか、手続きがあってさ……」
「そうなんだ」葵はなんだか嬉しそうに頷く。
晶子の母は、背がとても高い。葵と並んでも、普通の大人と子どものようにしか見えない。
「りかさん、もう行かないと、先生の時間が」
男が時計をみて声をかける。職員室へ行くらしい。
「あ! そうだね。葵ちゃん、またね」
晶子の母は大きく手をふりながら、大股で廊下をあるきだした。
男も歩きだしかけて、ふと思いとどまったようにふりむいた。
少しかがんで、真剣な顔で、
「悠斗くん。きみのことは、晶子からよく聞いてる」
あらたまって……なんですか、と聞き返そうとする。が、その前に、
「運動会、見に行くよ。頑張ってな」
そう、早口でいって、男は立ちあがった。
なんとなく、ごまかされたような気がして、悠斗は眉をひそめた。二人はきょとんとしていた。
すぐに、チャイムが鳴った。給食の麻婆豆腐の匂いが漂ってきた。
*
次の日曜日──
なぜか、運動公園に担任の水野がきていた。
晶子にきくと、軽く眉をしかめてため息をつかれた。本意ではないらしい。
さて──
みんなの前に出たとき、この前と違って、晶子の唇には笑みはなかった。
「今日が、最後の練習です。──」
けれども、結局、
「きょうは、準備運動のあと、すぐに、フォーメーションの練習。それから──」
口元はきりりとひきむすんだまま、
「紅白戦をやります。わたしのチームと、凛のチーム。あとで、組み合わせを発表するからね。」
目元だけ、にやりと微笑んで、そう、結んだ。
*
基本的に、バディは崩さない。
ただし、突撃隊の2騎だけは、分ける。
おおむね、騎馬どうしの力が同じくらいになるようにしてある。
紅組は、
晶子、悠斗、蓮、七海、豊正の5騎。
白組は、
凛、さくら、陽菜、拓海、快の5騎。
審判の水野をはさんで、むかいあった。
*
「……なんで凛を大将に?」
騎馬をくみあげる前に、悠斗は、こっそりと晶子にきいた。
白組の騎手のうち、いちばん強いのは、快。
晶子の力にあわせて、弱い者を大将にというなら、陽菜か拓海だろう。
凛は、しいて人に指示を出すようなタイプでもなし──
「決まってるじゃん。」
晶子は、楽しそうに微笑んで、耳元に唇をよせてきた。
「……これなら、勝てるからだよ。」
どういう意味だよ、ときく前に、晶子は自分の騎馬組のところへいってしまった。
なんにせよ──
(あいつ、絶対性格悪いな)
悠斗は、そう一人ごちた。いまさらのことではあったが。
*
先頭に、快と豊正がむかいあう。
快のうしろには、陽菜と拓海。
豊正のうしろには、蓮と七海。
大将とその相棒は、どちらも一番うしろに隠れている。
「凛!」
さくらが、左にひかえる凛に声をかける。
「前、だいじょうぶ?」
凛はこくんと頷く。
するどい、読み難い表情をしているが、手には汗がにじんでいた。
さくらの言うとおり、前にでている3騎では、いささか分がわるい。
快と豊正なら互角だろうが、左右の2騎がまずい。
出たほうがいいのか。
迷う。
「さくら、」
声をかけてから、また迷う。
迷っている間に、快と豊正、一瞬遅れて陽菜と蓮、拓海と七海がぶつかっていた。
*
快は、豊正の帽子をねらって右手をつきだした。
豊正は、かるく体を後ろにそらして避ける。
さらに手をのばして追いかける。
豊正は、大きく腕をふって、快の右手をはじいた。
もう一度、こんどは左手。
こんどは、左手ではじかれる。
攻めあぐねて、こちらが動きをとめると、豊正も止まる。
おかしい。
快は、無表情にこちらを睨みつける豊正の目をじっと見た。
その後ろに、にんまりといやらしく笑う晶子の顔が見えた。
*
それでいい、と豊正に小さくささやく声がきこえた。
悠斗はうずうずしながら、晶子の横で合図をまっていた。
「まだ?」
小さく、大輝が声をあげる。
「まだだよ、」とおさえる。
かれらも、自分の役割はわかっている。
早く出たくて、たまらないのだ。
*
快と豊正の決着は、なかなかつかない。
陽菜の騎馬はふらついていて、今にも崩れそうだ。
拓海はもう少しはもちそうだが、七海の帽子をとれそうにはみえない。
「さくら、」
凛は、もう一度そう声をかけた。
「うん、」
さくらも、同じく前線を注視している。
陽菜、快、拓海のうち一騎でもやられれば、さくらがすぐ穴を埋める。そういう作戦だ。
しかし──
「いくよ、」
凛は、自分の騎馬の三人にむかって、そういった。
「え、」
「私がいく。さくらは、このまま作戦通りに」
一緒にいこう。そういわなかったのは、最悪の形を恐れたからだ。
大将がうってでると同時に前線が破れて、囲まれるかたちになるのが一番こわい。
だから、さくらには残ってもらわねばならない。
少なくとも今、3対3で互角の形なら、脇から自分が出れば、一気に崩せる。
そこまで、凛は考えていた。
*
「よおし、きた」
晶子は、唇の両側にうかべた笑みをさらに大きくして、さけんだ。
「右、いけーっ!」
右ということは、蓮ではなく七海の側だ。
つまり、今のは、豊正、七海、悠斗に対する合図ということだ。
豊正が、七海と正対している拓海の帽子に手をのばす。
快は無視されたかっこうだ。
鼻白んだ快が豊正の帽子をとるのと、豊正の右手を拓海の両手が止めるのが同時だった。
前線の6騎のうち、これで1騎落ちたことになる。
さらに、同時。
凛の騎馬が、拓海のうしろから出てきていた。
それにあわせるように、七海の騎馬が、右にそれて凛に正対している。豊正が拓海の注意をそらした隙に、だ。
ようするに、凛に七海をあてるために、あいてを一つずつずらした形である。
そのために、結果として豊正がやられている。前線は、4対2だ。
勝てる、と凛は思った。
七海より、自分のほうが強い。そう思っている。
まして、拓海のとなりには快がいる。数秒後には、3対1の形がととのう。
その思いが、左側への警戒を、数秒遅らせた。
*
どん、と気持ちのいい音がした。
翔が、思い切りあいての肩に頭をぶつけた音だ。
迷いがない。相手が女子であろうが、今は関係ないらしい。
「っと──!」
騎馬を大きくゆらされて、凛は体勢を崩した。
落馬はしない。必死でバランスをとりながら、悠斗をにらみつけてくる。
凛が前にでたとたん、左側からつっこんできたのだ。
待ち構えていたとしか思えない。
「このっ!」
きりりと、唇をひきしぼる。
騎馬の高さもふくめ、凛の手は悠斗よりかなり高いところにある。手をのばせば、帽子はとれる。
馬のうえでなんとか体をひねって、左をむく。
意識が、きれてしまっていた。
正面にいる七海の存在を、完全に忘れている。
あとは、簡単だった。
*
子どもたちが反省会をしている間、水野は、事務所の裏口でたばこを吸っていた。
「水野先生、」
事務所の中から呼びかけられて、ふりむく。学年主任の山下だった。
ひとまわりも年上だが、あまりそうと意識したことはない。どちらかといえば、寡黙な男である。
「……来ていたんですか。」
「うちのクラスも、はりきっとるようで。集合時間は、もう少し後ですが」
いいながら、内ポケットから煙草の箱を取りだす。水野は、はあ、と曖昧に頷いて、言った。
「うちは、主に高橋が気合を入れてるようです。もちろん、他の子たちもついていってます」
「そうですか、高橋が……」
山下は、うなずいて煙草に火をつける。
「他の子たちは、知っとるんですか」
そういって、くわえる。かすかな音とともに、たばこの先がひときわ紅くなる。
「さァ……、」
水野は、眉をしかめてふうっと煙をはきだした。
「わかりません。私からは、一度も言ってませんが」
「そうですか……」
水野は、ちらりと山下の顔をみた。
伏せぎみにした目はいつも通りで、なんの感情も浮かんでいないように見える。
「……水野先生、子どもってやつは、」
少しだけ目をあげて、山下はいいかけた。
そして、もう一度唇をあけて、言葉を続けようとしたとき、
「せんせーい!」
事務所の玄関口から、高い声がとびこんできた。
*
「──だから、こうやってサ」
今日はなんだか、晶子の口数がやけに多いようだった。
「あいての横からいけるときは、帽子を狙うんじゃなく、体当たりでぶつかったほうがいいってこと」
いいながら、ちらりと悠斗と翔がいるほうをみる。紅白戦で凛を崩したことをいっているのだ。
「なんで?」と、蓮がきく。
「騎手は体をひねってすぐ横をむけるけど、騎馬ごと向きをかえるわけにはいかないからさ」
豊正が、ほう、と声をあげた。
凛は眉をしかめて顔を伏せている。
「おーいっ」
事務所のほうから、とつぜんの大声がとんでくる。
悠斗は、びくんと震えてふりむいた。ほかのものも、一瞬おくれて声のほうをみる。
葵だった。
上機嫌そうに、片手をあげて、走ってくる。
一組の他のものも、ぞろぞろとこちらに向かってくるようだ。
「……なにしに来たんだよ」
蓮が、小さくつぶやく。
七海、豊正も、同じような目つきで葵をみている。
ついこの間、悠斗とつかみあいの喧嘩をしたところは、みんな見ている。
そのきっかけとなった言葉も、知っている。
歓迎されようはずもなかった。
「なんだよぉ」
葵は、脳天気に唇をとがらせた。
「なんだ、じゃねーよ」
ベンチをはさんで葵に正対するかたちで、蓮が肩をいからせる。
ふたりの身長差は、頭ひとつ半くらい。ほとんど、大人と子供のように見える。
「なんかわかんないけど。……それよりさ、うちのクラスも今日みんな来てるんだ。試合しようよ。結衣んトコとは、やったんでしょ? 先生が審判やってくれるしさあ」
屈託のない申し出に、蓮は逆に黙りこんでしまった。
口を開いたのは、悠斗だった。
やろう──
そう、言おうとした瞬間。
晶子が、悠斗の口に手をあてた。ずいと前にすすみでて、目元をおだやかに細めながら、
「やらないよ。……もったいないでしょう」
そう、言った。
「えぇ?」
葵はすっとんきょうな声をあげた。
「あと一週間でしょ、ゆっくり待とうよ。……本番では、きっちり負かしてあげるからさあ」
試合をする気はないが、穏便にすませるつもりもないらしい。
葵のうしろにいる1組のものたちが、小さくざわめく。
「しゃあねえなー」
葵は、にんまりと笑った。
「じゃ、来週。あたし一人ででも、全員負かしちゃうからな」
うれしそうに捨てぜりふを言って、くるりと身をひるがえす。
他のものたちも後につづいて引き上げていく。
「さ、練習しよう。……もう一回基礎練習やって、2対1をやるよ」
晶子も、くるりと向きをかえて、にっこりと笑った。
悠斗は、なんとなく取り残された気持ちで、首もとをこすった。
そのとき、
(……ちょっと、アタマがいいからってさ、)
幾人かの、ねたむような視線とともに、誰かのつぶやきがこちらへ飛んできた。
晶子にむけられたものか──いや、クラス全体か。
悠斗は、ぐっと拳をにぎりしめて、それから、深呼吸とともにゆっくりと開いた。
いま、怒っても仕方がない。
あと、一週間だ。
*
どん、と景気のいい音をたてて、翔の頭が、良一の肩にぶちあたった。
良一のうえにのっている快のからだが揺れる。しかし、上半身はわずかに上下するだけで、じっと前をむいている。
翔の肩に手をかけている悠斗は、落ちないようにするだけで精一杯だ。
快は、すっと右手をのばして、悠斗の帽子をとった。
「……くっそ」
悠斗は眉をしかめて、快の顔をみた。
快はすずやかに笑っている。
騎馬をくずした。
「ごめん、」と騎馬の三人にかるく頭をさげる。
翔は首をふった。「いいよ」と、軽い口調で空がいう。大輝はぜいぜいと息を切らしている。
きゅうけーいっ、と七海の声がきこえた。
悠斗はぼんやりと目をさまよわせながら、歩きだした。
何度やっても、快にはまともに勝てない。
これでは──
晶子が水野と話しているのが目に入る。
どことなく上機嫌そうだ。
以前、晶子は悠斗に、勝てるといった。
たしかに、勝てるかもしれない。晶子のやりかたなら、1組にも、6組にも。
けれど、それは──
(おれは、)
5組が、ではなく。
(おれは、葵に勝てないのか?)
翔たちの前では言えなかった。
本当の本音をいえば、おれたちが、ではなく、おれが。
クラスの奴らも、翔たちも関係ない。
晶子の作戦で勝つのも、ニ騎や三騎で囲むのもいやだ。
騎馬戦だから、馬役といっしょに戦うのは仕方ないにしても、最後は自分の手で葵を馬からひきずりおろすか、帽子を奪うのでなければ、いやだ。
本当は、そう思っている。
もちろん、そんなことを言えるわけがない。
(せめて、勝てる見込みがあればな……)
いろいろと考えては、いた。
腕力では、葵はおろか快にもとてもかなわない。
それでも勝ちたいとなれば、何かうまい方法を考えるしかない。
(晶子じゃあるまいし…)
悠斗は首をふった。
考えがまとまらない。何か、思いつきそうな気もしたのだが。
「悠斗!」
翔がかけよってくる。
「ん……」
「今日はもう解散だってさ」
「え、……早くないか?」
悠斗は声を高くした。運動公園の使用時間は、まだあるはずだ。
「うん……、水野センセが、そろそろ解散しろって。1組も帰ったみたい」
「なんだよ……」
まわりを見る。みな、帰り支度をしている。
「せっかく……、」
つい、口にでていた。
じっと、地面を睨みつける。
「え?」
翔がけげんそうに聞き返してくる。
おれは、何を言おうとしたのか。
まさか、葵に勝てる方法を思いついたとでも。
「いや、……なんでもない」
いいながらも、悠斗はじっと地面を見たまま、動かなかった。
(快だって、葵にはかなわないんだ。どうやったって……)
ほとんど見上げるほどに体格の違う相手とつかみあいをして、どうなるというのか。
腕の長さも、力も違う。脚力も、なんなら体重だって。
いや。
体重──
(そうか……)
やっと、辿り着いた。
悠斗は顔をあげた。もう、翔は近くにはいないようだ。
かまわず、まわりを見回す。荷物をおいてあるあたりに、空がいた。
「空!」
空は、あ、と声をあげた。ちょっと困ったような笑みをうかべて、
「どうしたの? 翔も荷物おいたまんま行っちゃうし──」
「ごめん。じゃ、大輝は?」
「帰ったよ。塾だって」
「そっか……」
悠斗はため息をついた。あたりにはもう誰もいない。空はひとりで待っていてくれたらしい。
練習が必要だ。どうしても──
一人ではできない。
「空、もうちょっと時間いいかな」
「え? いいけど……」
「それじゃ──いや、」
二人では、たりない。
どうしても、実際に騎馬をくんで練習しないと──
「……ごめん、やっぱりいいよ」
「そう、……」
二人はなんとなく気まずい空気で、目を見合わせた。
少しの沈黙のあと、悠斗は口を開いた。
「その……どうしても、勝ちたいんだ」
「知ってるよ」
空は間髪入れずに答えた。
「……チームがじゃない。おれが、葵に勝ちたいんだ」
「知ってる。みんな、知ってるよ」
空の表情は読めない。
いつも、口元にやさしげな笑みを浮かべているだけだ。
「おれが、勝つために、……手伝ってほしいんだ」
吐き出す。
空に言っているつもりはない。
とにかく、溜まったものを出してしまいたかった。
「わかってるよ。……もっと早く、そう言えばよかったのに。」
「……言えるもんか。」
「晶子がいたから?」
反論しようとして、悠斗は言葉に詰まった。
案外、そうかもしれない。
「とにかくさ、……ちょっと、思いついたことがあるんだ。試したいんだけど……みんな、帰っちゃったからな。」
「うん、……あ、戻ってきたよ」
「え?」
翔が、運動公園の入り口からこっちへ向けて、歩いてきていた。
空が笑顔で手を振る。
翔のうしろからは、大輝がなんとなく硬い顔つきをして、ついてきていた。
「大輝!」
悠斗の声は、うわずっていた。少しためらったが、すぐに、
「みんな……ちょっと聞いてくれ。おれが……」
言いかけて、一度ためらい、言い直す。
「……おれたちが、正面から葵を倒す方法を思いついたんだ」
「1対1で?」翔が高い声をあげる。
「そう。……どうしても、あいつをやっつけたいんだ。手伝って欲しい」
「できるの!?」
大輝が大きな声をあげた。さっきまでの硬さはなくなっていた。
「できると……思う。いまから、練習したいんだ」
「いいよ、やろう」
大輝は即答した。
「でも、……塾は?」
「今日は休むよ。いいんだ」
目線を少しそらしながら、大輝はそういった。笑っていた。
「よし、やろう」
空と翔がうなずく。
まだ日は沈んでいない。練習する時間はたっぷりある。
*
二時間後──
悠斗が、家路をいそいでいると、快と豊正にゆきあった。
酒屋のとなりの、自動販売機の前である。
快の右手にはペットボトルのオレンジジュース、豊正は微糖のコーヒー。
いつになく、おだやかな表情だった。
「おい、」
豊正が手をあげて、悠斗をひきとめる。
「どうしたんだよ」
額の痣とすり傷のことを言っているらしい。
「ちょっと、……練習してたんだ。翔たちと」
「まじか。……すごいな」
「そっちこそ、」
悠斗は、あらためて二人をみた。身長は快のほうが高いが、童顔なのと、豊正のがっちりした体格のせいで、すこし年下にみえる。
ふと、二人は親戚か何かだろうか、と思った。どこがどう似ている、というわけでもないが。
「ケンカしてたんじゃないの?」
「ああ……まあ、さっきまで。」豊正がこたえる。
「心配かけて、ごめん。大したことじゃ──」
そう、快がいいかけると、豊正はにやりとしてさえぎった。
「こいつ、1組の芽衣とつきあってるんだぜ」
「え?」
意外だった。
相手が、ではない。
「そんなの、あるんだ……」
思わずそうつぶやくと、快は苦笑した。
「なんだよ、その言い方。」
「ていうか、お前は晶子とつきあってるんじゃねーの?」
豊正にそういわれて、悠斗は目を丸くした。
「え、……つきあってねーよ」
「ふーん」
必死で否定したつもりもないが、豊正はにやにやしながら黙りこんだ。
「で、……ケンカの原因は、それ?」
「あー、まあ……」
「芽衣が敵だから手ぇ抜いてんじゃないのかって、豊正がいうからさ、」
「……悪かったよ」
豊正は快から目をそらした。
「ま、自分でも、迷ってたようなとこはあってさ。みんなが頑張ってるのに、ちょっと乗りきれないっていうか」
屈託なくそう続ける快を、豊正はちょっと睨みつけた。
「お前、そういうとこが……」
「でも、こないだのリレーの練習でさ。おれ、転んだじゃん。それで、もうちょっとちゃんとしなきゃなって思ってさ──敵チームとはいえ、芽衣も見てるわけだし。」
「……カノジョにかっこつけるために、頑張るとさ」
豊正はまだ刺々しい口調だったが──
なんとなく胸におちるものを感じて、悠斗は頷いた。
「そういうのも、……いいんじゃないの。おれも、ある意味似たようなもんだし……」
いいながら、悠斗はナップサックから財布をだして、開けた。
あまり小遣いは残っていないが、ジュースを買うくらいはあった筈だ。
「どういう意味?」
「いや、葵にさ……」
そこで言葉をとめて、お金を入れ、少し迷ってからボタンを押す。スポーツ飲料。
とりだしてから、不自然な沈黙に気づく。
「悠斗、……おまえ」
すこし声を震わせて、豊正がつぶやく。
快は目をまん丸くしている。
「葵とつきあってんのか?」
「……ばか!」
悠斗は大声で叫んだ。
腹の底から、笑いがこみあげてきた。
*
帰宅後──
リビングにナップザックをおいて、自室へあがろうとすると、母にとめられた。
「ねえ、……あんた、アタマどうしたの?」
「え、」
悠斗は、しまった、という顔をしてたちどまった。
「ちょっと……、騎馬戦の練習でさ。ウマが崩れちゃって」
「ふーん……」
「たいしたことないよ。冷やしたし」
「いいけどさ……。ちょっと見せなさい」
ソファに座らされて、額をのぞきこまれる。
「ちょっと、腫れてるかな。まー、たいしたことなさそうだけど」
「……そうゆったじゃん」
「こないだより、ちょっとヒドいかなー」
さらっと言われて、悠斗は、え、と声をもらした。
「こないだは……」
「葵ちゃんとケンカでしょ。先生から聞いてるよ」
悠斗はうつむいて黙りこんだ。
母は、ぽこんと悠斗の頭のてっぺんを叩いて、
「葵ちゃんのお母さんからも、電話あったのよ。あんたには言わなかったけど。」
「べつに……たいしたことなかったし」
「ケガしたのが、あんただったからね。女の子の顔に傷つけてたら、大変よ」
あれが女かよ、と悠斗は口のなかでつぶやいた。
ソファから立ち上がる。
「疲れたから、ちょっと部屋にいるから……」
「あ、そうそう」
母は、ソファにぼすんと座りこんで、投げつけるようにいった。
「なんだか、ヘンな噂があるんだって? 4年生のクラス、成績順に決まってるとかなんとか……」
かまわず、部屋をでて、階段をあがる。
「あれ、ウソだからね。タムラさんたちが先生に確かめたってさ。……だいたい、成績順だったら、あんたと晶子ちゃんが同じクラスになるわけないもんね」
母の声がおいかけてくる。
(今さら……そんなこと、関係あるもんか)
悠斗はいらいらして階段をかけあがった。うすうすわかっていたことだ。
きっかけは、そういうことだったかも知れない。
けれども、今となってはもう、そんなことのためにやるのじゃない。
おれだけじゃない。みんな、そうだ。
あとはもう、本気で、やるしかないんだ。
それだけだ。
*
そして、また日曜日──
悠斗は、いつもより少し早い時間に家を出た。ただし今日は、ランドセルは背負っていない。
家をでたところで、晶子と。しばらくして、蓮、七海、豊正と合流する。
途中、葵や結衣と一緒になったが、誰も話しかけなかった。
七海は、ひどく口数が多かった。
*
朝の会のあと、着替え。
いつものように、男子は教室で、女子は更衣室で。更衣室の時間調整のため、少し待ってから、教師の指示で着替えにいく。担任の水野は、男子たちが着替え始めてから、職員室へ行くといって出ていった。
男子たちが着替えおわったころ、女子が戻ってくる。別のクラスの女子たちも移動していて、廊下はざわざわしている。
まっさきに入ってきたのは、七海。あとを、凛とさくらが続く。
凛は、口元をかたくして、眉を寄せている。
七海は蓮のところに寄っていき、高い声で何ごとか喋りだした。
悠斗は、教室の端のほうでなんとなく立ちつくしていた。自席のあたりでは、七海や蓮たちが大声で喋っている。
「なんか、みんな緊張してるね」
気がつくと、さくらがすぐ隣にきていた。クラスの雰囲気にちょっと気圧されたように、かるく目をふせて小さくなっている。
ふんわりとしたくせ毛が目について、悠斗は、「結ばないの?」と聞いてみた。先週の練習では、たしか後ろで縛っていたはずだ。
「ヘアゴム忘れてきちゃった」
へへ、とごまかし笑いをして、さくらはうなじに手をやった。わしゃわしゃと髪をまとめるしぐさをしながら、
「晶子ちゃんに借りようと思ったんだけどさあ、どっか行っちゃったのかなあ」
「どっか行ったって──」
教室を見回す。確かに晶子の姿はない。
「更衣室にはいたんだけど。トイレかなあ?」
「ふーん……」
女子たちが戻ってきてから、もう10分くらいは経っている。
そろそろ、水野も戻ってくる筈だ。
「……ちょっと、探してくる」
「え、」
「先生がきたら、うまく言っといてよ」
そう言いおいて、悠斗はふらっとその場を離れた。
「えー…」
あとに残されたさくらは、ぼんやりとうめいた。
*
廊下にはもう誰もいなかった。まさか女子トイレを見に行くわけにもいかないので、1階の更衣室の前まで往復してみることにする。
晶子を探すというより、いったん教室を出たかったのだ。息がつまりそうだった。
階段へゆこうと、6組の教室の前にさしかかったところで、妙な音がきこえた。
がさがさ、ざわざわと、ものが擦れるような小さな音だ。
人の声のような気もする。
どきどきしながら、6組の教室を通りすぎる。
階段の防火扉のかげ。そこから、聞こえてくる。
女の声だ。
かすかに、すすりあげるような──
耳をすましてみるが、つぶやいている内容はわからない。
さらに近づく。そして、気づく。
晶子だ。
防火扉のかげで、晶子が、膝を抱いて座り込んでいた。うつむいていて、顔は見えない。
すぐ近くまで悠斗がきても、気づいた様子はない。
悠斗は、額から汗が落ちるのを感じた。緊張しているのだ。
晶子は、まだ何かをつぶやいている。内容は、聞き取れない。
ただ、聞いたこともない低い声で。
じんわりと、汗がにじみ出るような重い音が、耳に入ってくる。
悠斗は、ひざまずいて、晶子に声をかけようとした。
そこで、気づく。
晶子は、震えている。
ひざがあたって、音をたてるほどに、強く。
つぶやき声がとまった。
晶子が顔をあげた。頬に涙のあとはなかったが、まんまるく見開いた目は潤んでいた。悠斗の目をじっと見つめて、何度か唇をふるわせたが、言葉は出なかった。
のどが、二回、こくんと動いた。
『たすけて』と、言われたような気がした。根拠もなく。
数秒、ふたりはそのまま沈黙した。それから、晶子はもう一度顔を伏せて、またあげた。涙の気配はすっかりきえて、いつもの大人びた顔にもどっていた。
「すぐ、戻るよ」
晶子は、あかるくそう言った。
悠斗は、なにか言おうと思ったが、言葉が出なかった。
かわりに、たちあがって右手をさしだした。
晶子は、しばらくためらってから、その手をつかんだ。
彼女の手は、汗にまみれて、まだ震えていた。
立ちあがろうとする。
脚がふるえて、よろめく。
悠斗はとっさに、晶子の背中に左手をまわして支えた。
晶子がぶじに立ち上がると、悠斗は握った手の力を抜いた。
離れない。晶子が、力をこめて握ったままだ。
晶子の口元には、かわらず、大人びた微笑みがはりついている。
けれども、眼のおくでは、別のことを訴えているようにみえた。
悠斗は、ぐっと眉根をよせて、晶子を睨みつけた。
他にどういう顔をしたらいいか、わからなかった。
「──おれが、」
言いかける。
自問する。なんと言おうとしたのか。おれが、葵を倒す? それとも──
おれが、お前を守る、とでも。
晶子のふるえが止まった。手が離れる。
こんどこそ、いつもの顔に戻って、晶子はにっこりと笑った。
「ありがとう。」
芯のはいった声で。
体操着のはしで手の汗をふいて、ハーフパンツの尻をたたいて埃をおとす。
「手、つないで行こうか。」
おどけた口調でそういって、こんどは晶子のほうから、右手をさしだす。
悠斗は、左手で、その手を握って、歩きだした。
不思議と、恥ずかしいとは思わなかった。
*
ふたりが教室に戻ってからほどなく、担任の水野が戻ってきた。
騎馬戦の組み合わせが発表される。
1回戦は、2組対4組、1組対3組。5組と6組は、シード扱い。
2回戦は、2組対4組の勝者と6組が戦い、次に、1組対3組の勝者と5組が戦う。
ここまでが、午前中。
昼食をはさんで、決勝戦は、午後だ。
「やったね、」
晶子は、くるりと教室をみまわして、みんなに聞こえるように言った。
「いい組み合わせだ。優勝できるよ」
ほっとしたような、笑い声がおきる。
「……2回勝てばいいんだもんな」と、悠斗は小さくいった。
晶子は、くつくつと笑って、「ちがうよ、」といった。
「なに?」
「2回も、3回もおんなじ。強いほうが勝つんだもの。……それより、」
「それより?」
「1回戦を、戦わずに見ていられるってこと。」
「……同じことじゃん」
ちがうよ、全然。晶子はたのしそうにそういった。
そのあと、水野がこまごまとした注意をあたえ、4年5組は教室をでた。
脚にビニールテープを貼った椅子を控え席にならべて、入場時間をまつ。
観覧の保護者たちが校庭に入って来る。
アナウンス──
運動会がはじまった。
*
1年、2年の徒競走。
玉入れ。
父兄参加の綱引き。
5年、6年のダンス。
午前中のプログラムが、次々と消化されていく。
4年生は、組体操と徒競走をおえ、午前中は騎馬戦を残すのみであった。
*
「さいごに、すこしだけ。」
いつもの、大人びた微笑みをふりまきながら、晶子はいった。
控え席の前に、まるで教師のようにたって、
「全体の作戦は私が指示します。それから先は、騎手が自分のチームに号令して。相方の騎馬からは離れないように気をつけて。相方がやられたら、他の味方に合流すること。それから──」
ここまでは、練習のたびに言っていたこと。
「大将をやっつけたら、すぐに、大声でアピールすること」
これは、初めての言葉だった。
すこし、ざわめきがおきる。
「大将を倒したらその時点で終了だよね。けど、審判がすぐ笛を吹いてくれなかったら? 僅差でこっちもやられたら、どっちが先かわからなくなっちゃう。審判はひとりじゃないしね」
水野は、横でそしらぬ顔をして立っている。彼も、審判として参加するはずだが。
「だから、大将を倒したら、できるだけ大声で叫んでください。『大将、倒した!』ってね」
それから、晶子はもう一度にっこりと微笑んで、
「だいじょうぶ。私たちがいちばん強いんだから。優勝しよう」
そう、いった。
*
1回戦と2回戦は、プログラム上はひと続きだから、シードになっているクラスも一緒に入場門をくぐり、1回戦がおわるまでグラウンドの端で待つことになる。
最初は、2組対4組。
「よく見ときなよ」
晶子は、悠斗に耳打ちした。
2組がこちら側、4組がむこう側。選手たちが、一直線にならぶ。
騎馬をくむ。
号砲。
*
ひとことでいって、終始、乱戦。
そのように見えた。
大将がどこにいるのかも、よくわからない。
赤帽をかぶった2組と、白帽をかぶった4組が入り乱れて、よくわからないうちに時間がきた。
「終了ーっ!」
審判の声がひびく。
判定の放送が流れる。
「……どっちが勝ったのかな」
悠斗は、すこし戸惑いながら呟いた。
時間切れということは、大将はやられていないはずだが、それすら、はっきりとはわからない。
「わからないでしょう」
晶子が、前をみつめたまま、小さくいった。
「統率がとれてないもの。やってる本人たちも、全然わかってないと思うよ」
「それって、」
「練習が全然足りてないってこと。……いや、そもそも、作戦とか統率って発想自体が、」
喋りながら、すこしずつ声が高くなっていく。
まばたきが少なくなって、
手にかすかな震えが、
とん、と小さな音がして、地面についた晶子の手に、あたたかいものが乗った。
悠斗の手だった。
「……おれたちが、いちばん強いんだろ。」
じっと、前をみつめたまま、悠斗がそうつぶやく。
「そうだよ。」
大きく息をついて、落ち着いた声で晶子はこたえた。
ふるえは止まっていた。
第二試合が始まった。
*
圧倒的であった。
1組対3組。決着まで、およそ50秒。
1組の大将である葵が、3組の大将の帽子をもぎとって終わった。
作戦、とか、統率、とか、そんなものはなかった。
1組の騎馬は、みんなばらばらに動いていたし、大将を包囲しようとしていた様子もない。
ただ、まんなかにいた葵の騎馬が、まっすぐ前にでて、同じくまんなかにいた大将を倒した。
それだけだった。
*
「……次の相手、あれか」
悠斗は、思わずそう呟いた。
わかっていたこととはいえ──
「その次は、あれだよ」
晶子は、まだグラウンドから目をそらさずにそういった。第二試合は、結衣のいる6組と、1回戦第1試合の勝者である2組だ。
決勝戦では、この試合の勝者と戦うことになる。
1組に勝てれば、の話だ。
*
6組は、作戦と統率のうち、少なくとも作戦は持っていたようだ。
晶子のいうところの、中央突破。
10騎、ひとかたまりになって、まっすぐ前に進む。
前方からは、結衣の姿は見えない。
およそ、1分30秒。
それだけ戦って、6組の騎馬はひとつも倒れなかった。
*
『2回戦、第2試合を始めます──』
アナウンス。
たちあがる。
水野の号令にしたがって、前にでる。
「ゆくよ、」と晶子が小さくつぶやく。自分に言い聞かせるように。
「いくぞ、」と悠斗は声をかける。翔と空と大輝が、小さくうなずく。
並ぶ。
騎馬をくむ。
対面の1組をみる。1組の騎馬の組み分けは、体育の授業で決めたそのままだ。騎馬の並びも、ほとんど変わっていない。葵を真ん中に、右側が男子、左側が女子の騎馬。
5組の騎馬の並びは、まえに6組と対戦したときと同じ。
快。
蓮。
七海。
悠斗。
晶子。
陽菜。
拓海。
凛。
さくら。
豊正。
それから、大輝や翔、馬役のものたち。
みな、緊張したおももちで、前を見すえている。
*
葵が笑っているのが見えた。
*
号砲。数秒後、晶子がさけぶ。
「作戦、いちーっ!」
包囲作戦。
悠斗は戸惑って、晶子をみた。
1組の騎馬たちは、ばらばらに前進しているようにみえる。大将を守ろうとしている様子もない。こういう場合は、一丸となって大将にとびかかる『中央突破作戦』でいくはずではなかったか。
晶子は前をむいたまま、悠斗の視線を察知したように、いった。
「あいての目線をみて。足並みはそろわないけど、みんなこっちをみてる。あれは『中央突破』だ」
いわれて、目をこらす。たしかに、そのようにも見える。
包囲作戦となれば、両翼が移動を完了するまで、少数で大将を守りきらねばならない。
1組の十騎が、一丸となってこちらに襲いかかってくるのを想像して、悠斗は身ぶるいした。
まず、快と豊正。
つづいて、蓮と七海、凛とさくら。
6騎が、左右両翼から、レンズの焦点をあわせるように1組の背後へとつっこんでゆく。
*
2週間前──
中央突破作戦では、疾さが重要であると、晶子はいった。
それでは、包囲作戦に必要なのは?
やはり、疾さだ。
包囲を完了させる速度と、手薄になった中央部分を突破する速度の戦いなのだ。
*
動きに迷いがないぶん、5組のほうが速い。
2つのフォーメーションにしぼって、練習を繰り返してきた成果である。
いっぽう、1組の作戦は、直前になって決めたものだ。
6組の真似をして全員で大将をねらうぞ、という程度で、そのための練習も何もしていない。
しかし──
*
快と豊正の騎馬が背後に近づいていくのを察知して、1組の騎馬たちの足並みが乱れる。
快の目の前にいるのは、翼の騎馬。
葵たちの前進についていけずに、少しおくれて孤立しかけている。
翼が、焦った顔をして快の顔をみた。
「ぶつかれ!」
快が大声でさけんだ。
姿勢を低くする。
どん、
と大きな音をたてて、快の騎馬が、翼の騎馬に側面からぶつかった。
*
葵の騎馬が先頭となって、5組の大将騎へとつっこんでいく。
あいだに、拓海と陽菜の騎馬がいるが、微動だにしない。
悠斗は、晶子の横にひかえている。こちらは、いまにもとびだしそうに体をかたむけている。
「時間をかせぐだけでいいよ」
ことさらゆっくりとした口調で、晶子はそう声をかけた。
「あと、30秒。それだけあれば、包囲できるだろうから」
*
快から少しおくれて、蓮の騎馬も、右側から1組の背後へとむかっていた。
ちらりと、前線をみる。
葵の手がのびる。
陽菜の肩へと──
(だめだ!)
もうずっと前のような気がするが、葵に抱えられて石垣から飛び降りた時のことを思い出した。
背筋に悪寒がはしる。
「後ろにまわるのはダメだ! 葵のとこに突っ込め!」
夢中で叫ぶ。七海がぎょっとしてこちらを見る。
馬役があわててとまる。大きく手を動かして、肩をたたく。
「急げ!」もう一度、さけぶ。
七海の騎も止まる。ひとことふたこと、七海が自分の馬役に声をかける。
ニ騎は、ふたたび走りだした。葵のほうへ向かって。
*
豊正は、あっというまに二騎を倒していた。
快も、翼の騎馬を崩したあと、もう一騎の帽子を奪い、豊正と合流した。
これで、6対10。数のうえでは、5組が大幅に有利になった計算だ。
どん、と衝撃が走った。
豊正の騎馬に、斜め前から別の騎馬がぶつかってきたのだ。
倒れるほどのことはない。
1組の、健一だった。1組では、葵についで足の速い少年で、リレーではアンカーをつとめている。
本隊からは完全にはなれて、正面から快と豊正に対峙する。
「やっつけるぞ。」
豊正がひくい声でいった。快はにいっと笑った。
*
蓮と七海のまえに、芽衣の騎馬がたちふさがった。
大きく両手をひろげて、進路を妨害してくる。
七海は、騎馬をとめずに、きっと目を細くして芽衣をにらみつけた。
芽衣は、きょとんと目を丸くして視線をうけとめる。
「そのまま、」
七海が小さく声をかける。
進路をかえずに、芽衣の騎馬にぶちあたれ、という意味だ。
蓮には特になにも言わない。役割はわかっているはずだ。
すっと、芽衣の右手がのびてくる。
姿勢を低くしながら、手をはらう。
次の瞬間には、騎馬どうしがぶつかっている。すばやく、両手を馬役の肩にかけ、耐える。
もう一度、芽衣の手がのびる。
はらう。
三度目は、なかった。
芽衣の頭から、帽子が消えていたからだ。
蓮の手から、赤帽がぽとりと落ちた。そのまま、ニ騎は芽衣の左右をぬけて走りぬけた。
芽衣は、しばらくぼうっと立ちつくしてから、ため息をついて、騎馬をおりた。
*
快が左、豊正が右。
健一の騎馬と、2対1の体勢である。
「左右にわかれて、はさむぞ」
豊正が、自分と快の馬役全員に聞こえるようにいった。
とうぜん、健一たちにも聞こえている。
聞こえているが、すぐには動けなかった。
快と豊正のどちらを攻撃したらいいのか、わからない。どちらに手を伸ばしても、もう片方に帽子を奪われるように思える。
そうしている間に、快と豊正は左右にわかれて、健一騎の両側を進んでいる。
そのまま、すれちがうようにみせて──
ふいに、快が動いた。
くるりと、身をひねって、後頭部から健一の帽子をねらう。
死角からの攻撃である。
とった、と思った。
寸前で、かわされていた。快の手がとどく寸前に、健一は身をしずめて帽子をおさえている。
一瞬おくれて、豊正が手をのばす。
ふたりの騎馬は、立ちどまって、騎手をしっかりと支えている。
豊正の左手を、健一が左手でにぎって止めた。
快が、もう一度、右手をだす。こんどは、帽子をとろうというのではない。
健一の右手首をつかんだ。
これで、健一は両手を封じられた。
快と豊正は目をみかわして、役割をきめた。動くのは、快。
上半身の力をめいっぱい使って、つかんだ手をひく。
健一が青ざめる。バランスをくずして、騎馬からおちそうになる。
同時に、快の左手が、健一の帽子へのびる。
抵抗できる体勢ではない。騎馬からおちるか、帽子をとられるか。それだけだ。
そう、思った次の瞬間──
快が、落馬していた。
*
凛は地面にころがったまま、快が勢いよく落ちるところを見た。
*
快の体操着の裾をつかんで、ひきずり落としたのは、1組の篠崎海斗だった。
1組の騎手のなかで、いちばん背が低い少年だ。
けれども、腕と、脚の太さは、快や豊正よりもずっと上だ。
たしか、スポーツ少年団でサッカーをやっていたはずだ。
豊正は、崩れた快の騎馬から、ちらりと右側に視線を移した。
凛とさくらの騎馬が、くずれてばらばらに座りこんでいる。
海斗が倒したのだろう。そばには、他の敵はいない。
いや。
倒れそうだった健一が、体勢をたてなおして、こちらを睨んでいる。
二対一。さっきとは、逆だ。
豊正は、唇をかんで気合をいれなおした。負けるつもりはないが──
晶子のところには、まだしばらく行けそうにない。
*
なすすべもなく、陽菜の騎馬がくずれた。
葵は、そのままの勢いで、拓海へと手をのばす。
蓮は歯噛みした。
あと、すこし。
拓海がやられてしまえば、あとは悠斗と晶子だけだ。
対するのは、葵をはじめ、3騎。
どう考えても、持ちこたえられるとは思えない。
「あおいーッ!」
一瞬でも。
ほんのわずかでも、注意をひければ。
そう、思って、叫んだ。声をかぎりに。
葵が、にやっと笑ってこちらをむいた。
*
失敗だった、と晶子は思った。
恐怖心に負けて、判断をあやまった。
包囲して、有利なかたちで攻撃することに、こだわりすぎたのだ。
こちらも、中央突破作戦を選択して、両軍のぶつかりあう最前線で葵を叩くべきだった。
今さら、こんなことを考えても仕方がないが──
「晶子!」
悠斗の声。はっと、現実にひきもどされる。
拓海がやられた。
葵にではない。葵といっしょに突っ込んできた美桜の騎馬に、ぶつかって落馬したのだ。
悠斗は、もう1騎の大和と戦っている。
大和の手をかわして、悠斗は思いきり姿勢をさげて、大和の右脚に腕をからませた。
「ひけーっ!」
さけぶ。それよりも早く、馬役の3人が動いている。後退。足元から崩す技だ。
大きな音をたてて、大和は地面に尻もちをついた。
美桜の手が、悠斗の頭にのびる。
「ぶつかれ!」
こんども、叫ぶ前に、3人はそのとおり動いている。
低く下げた翔の頭が、美桜の馬役である真美の喉元に。悠斗の手が、美桜のみぞおちに。
衝撃にたえられず、美桜の騎馬はくずれた。
葵は。
悠斗は、息を荒くしてまわりを見た。
三騎がこちらに襲いかかる寸前、なぜか葵だけが向きをかえて、それていった。
まわりこんで挟み撃ち、という感じでもなかったが──
いた。
すぐ近くに。
蓮と七海の騎馬のものたちが、うなだれて座りこんでいる。その間に、葵の騎馬がいる。
方向転換して、こちらをむく。
笑っていた。
「晶子、」
もう一度、悠斗はいった。
時間はよくわからない。残りあと1分くらいか。
「距離、とれ。」
残っているのは、悠斗と晶子、それに遠くに豊正。
相手側は、葵と、豊正の進路をふさぐ2騎。数は、おなじだ。
仮に、悠斗がやられても、豊正が2騎を倒せば、引き分けにできる可能性がある。
ただし、晶子が時間いっぱいまで逃げ切れば、の話だ。
「だめ、」
晶子は首をふった。
大将騎がはげしく動くことは想定していないから、晶子の馬役は、足が遅いものばかりだ。逃げられるとは思えない。
まだ、悠斗と2騎で葵に立ち向かったほうがマシだと、晶子は思っていた。
「……じゃあ、後ろにいろ。」
悠斗の考えは、少し違っていた。
晶子を守りながら戦うよりは、1対1で戦うほうが、楽だ。
いや。
葵と1対1で戦う機会が、ようやくやって来たのだ。
*
大輝が、かなり息を切らしている。
「いけるか、」と悠斗がきく。目線だけで、大丈夫だとこたえる。
葵は、にやにやと笑ってこちらをみている。
すぐに襲いかかってこないのは、余裕ぶっているのだと思ったが、どうやら違う。
葵の騎馬が、少し揺れている。騎馬役の3人の足が震えているようにも見える。
疲れているのだ。
葵の体力は底なしかもしれないが、ウマはそうじゃない。
いける。
翔の肩をたたいて、悠斗はいった。
「すぐつっこめ。今しかない」
言うのとほぼ同時に、3人の足が動いている。
倒れた騎馬のものたちの間をぬけて、走る。
葵はすこし意外そうに目を見開く。が、次の瞬間には、反撃の準備をととのえる。
そして、激突。
*
勝てるとか、勝てないとか、そんなことはもう頭になかった。
*
馬役の体格差もふくめて、葵と悠斗の頭の高さはだいぶ離れている。
悠斗の肩の高さが、葵の腰と同じくらいだ。
帽子をつかむには不都合だが、今はかえってありがたかった。
右脚を、もたれかかるようにして、右腕でがっしりとつかむ。左手は自分の帽子をおさえる。
号令をかけるまでもなく、3人が後退をはじめる。
動かない。
葵の脚は、がっちりと固定されたように、ゆるがなかった。
ふいに、肩に強い力がかかる。
葵が、上からおさえつけてきたのだ。
帽子だけはとられまいと、必死で左手に力をこめる。
もがく。
「はなれてーっ!」翔の声だ。
むりやり、ひきはがされるようにして、やっと離れる。
(ウマの差だ、)と、悠斗はおもう。
こちらの騎馬が後退したのに対し、葵の騎馬はなにも反応しなかった。
そのおかげで、首の皮一枚つながったのだ。
離れたとはいえ、ほとんど手が届きそうな距離だ。
ちらりと、晶子の騎馬が視界にはいる。
晶子が口をひらくのがみえる。なにか指示をだそうとしている。
「晶子、はなれてろ」
葵をにらみながら、そう言う。
それから、少し声をひそめて、翔たちに、
「あれ、やるぞ。」と、声をかける。
「どっち?」と大輝。
「上にいくほう。」
そう答えて、きっと口許をひきしめる。
先週の日曜日、必死で練習した、あれだ。
うまくいくかどうかは、わからない。だが、もうそれしかない。
「いっくよお」
葵は、たのしそうに手をひらひらさせた。
こちらは、動かない。
翔たちはぐっと腰を低くして、衝撃にそなえる。
葵の騎馬がうごいた。
走りだす。
すぐに、ぶつかる。
悠斗の体が大きくゆれる。下の三人が、地面をふみしめて踏ん張っている。
次の瞬間、葵が手をのばしてくる。悠斗は、動かない。避けようともしない。
そして、葵の手が、悠斗の帽子にとどく寸前、
悠斗は、跳んだ。
*
晶子は大きく口をあけて、ぼうっと見上げていた。
*
翔の右手と、大輝の右手。翔の左手と、空の左手。
それぞれ、つなぎあわせた上に、悠斗の足が乗っている。
悠斗が、その手を蹴って跳ぶ。同時に、三人は手に力をこめて、押し上げるように補助する。
タイミングが少しでもずれると、ただ落馬することになる。
ここまでは、うまくいった。
そして、ここから先は、練習では一度も試していない。
*
葵は、何も反応できなかった。
とつぜん、眼の前に、悠斗の顔があらわれたのだ。
首元に、手の感触。
ぎゅっと、抱きすくめられる。
体重がかかる。
ふたりぶんの体重が、足場に──
*
葵の騎馬が崩れた。
ふたりは、からみあうようにして地面にころがった。
ジャンプした悠斗が、葵に思い切り抱きついた。そのため、二人ぶんの体重を支えられずに、崩れたのだ。
葵は、信じられないものをみたように頬をひきつらせて、空を見上げていた。
悠斗は、数秒間、その顔をじっと見つめていたが、あわてて離れて、手をあげた。
言葉にならない想いが、胸の中でぐるぐるとうずまいていた。
ともかく、宣言しなくてはいけない。打ち合わせたとおりに。
「大将、倒したぞーっ!」
そう、叫んだ。
水野があわてて駆け寄ってくる。
試合終了であった。