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(中編)

 翌日──


 悠斗(ゆうと)が、いつもより少しおくれて教室にはいると、豊正(とよまさ)と目があった。

 浅黒い腕を組んで、ロッカーのところに立っている。

 いつにもまして、狷介な目つきをして。

 教室の右後ろあたりを、睨みつけているように見える。

 悠斗は、なんとなく目をそらしながら、自分の席へむかった。ちょうど、右後ろの席の七海(ななみ)と目が合ったので、「おはよ、」と小さく声をかける。七海は気難しげな顔で目をそらした。


(……なんだってんだよ)


 席につく。左隣りは晶子(しょうこ)の席だ。リズムよく長い指を動かして、ノートになにか書いている。


 ふと思う。

 七海が目をそらしたのは、自分からではなく、晶子から?

 もちろん、確証はない。ただ、なんとなく目線の方向がそう見えただけだ。


「おそかったね」

 晶子が、目を細めていった。悠斗はどきりとした。

「かーちゃんが寝坊して、家庭科の用意がさ……連絡いってるだろ」

 悠斗は続けて、「七海がさ、」といいかけてやめる。かわりに、

「……豊正、どうしたんだよ。なんか……」

「なんか、ケンカしたみたい。快と」

 いわれて、悠斗はそっと後ろをみる。豊正はもう席についていた。しかし、さっきまで睨みつけていたさきは、たしかに快のいるあたりだ。

「なんで?」

「しらない。……ねえ、ちょっと見てよ」

 ノートをこちらへ押しつけてくる。

 例によって、ごちゃごちゃと図形と文字がしきつめられていて、よくわからない。凸のような記号が、いろんな向きで並んで、そこから長い矢印がつきだしている。

 ページの一番下には、こうある。


 フォーメーションC−0

   (再集合)


「なんだよ、これ」

「みっつめの作戦。でも、……だめだね。やっぱし、AとBにしぼろう」

「AとBって?」

「包囲と中央突破。他にもいろいろ考えたんだけど、練習してる暇がないもんね」

 いつになく、はずむような声で晶子は続けた。

「でも、AとBだけでも、変化形はいろいろあるんだ。突撃隊には、ちょっと負担をかけるけど──」

「なあ、晶子」

 早口にうんざりして、というわけではない。

 いつもなら、わからないなりにいつまでも聞いていられるのだが──

 今は、口をはさまずにはいられなかった。

「おれたち、……本当に勝てるのかな」

 しぼりだすように、そう訊く。

 結衣(ゆい)に? それとも、(あおい)に? 1組の連中に? とっさに自問する。答えはない。

 その、どれでもないような気がする。


「だいじょうぶ」

 やさしい声が、背中をそっと撫でるように、

「……かてるよ。きみは」

 なにかを見透かすような黒い瞳で、こちらをじっとみつめながら、晶子はそういった。



 四時間目の体育は、ふたたび1組との合同練習だった。

 騎馬戦でなく、クラス対抗のリレーだ。

 本番では、男子の部と女子の部を別々にやるが、今日は同時に走っている。


 5組男子のアンカーは、(かい)

 1組女子のアンカーは、葵。


 二人が、ほぼ同時にバトンを受けた。

 1歩、2歩、3歩──

 快がそれだけ進むあいだに、葵は2歩。

 ここまでは、リードしている。

 腕の振りが速い。ぴったり同じリズムで、足が地面を蹴っている。


 4歩目を踏み出す前に、葵が前に出ていた。


 5歩、6歩、7歩、

 最初のコーナーにたどり着くころには、手が届かないほど離されていた。

(歩幅、)

 息を乱しながら、かろうじてそう考える。

 最初の数歩は、葵の脚がのびきっていなかった。それだけのことだ。

 それだけのことで──


 必死でカーブをまがる。

 葵は、もうずっと先にいる。


 ──ちらりと、脇に目をやる。走りおえたものたちが、こちらを見ている。

 手を振っていた。


 すぐに目線をもどす。

 心臓がはちきれそうだ。葵はどうせ、息も切らさずに走っているのだろう。

 あと半周。少し、あせっている。

 ペースをあげる。

 葵は、どうやって──


 ──どん、と衝撃。



 結果、男女とも5組の惨敗だった。

 快が、周回遅れで走っていた七海にぶつかり、転倒した。

 その間に、葵はもとより、1組の男子チームにも抜かれて、負けてしまった。


 葵と、ふと目があった。

「ざーんねん。負けちゃったね」

 にんまりと笑って、こちらに近づいてくる。

「……おれに言うなよ、」

 悠斗は眉をしかめて目をそらした。

 自分は中盤でほどほどに走っただけで、たいして活躍も、ミスもしていない。

「なにさ、からまれたみたいに」

「からまれてんだよ」

 そう突き放すと、葵は、あぁー、とまのびした声をだして目をしばたかせた。

「それよりさァ、さっきのすごかったでしょ? びゅーんて引き離してさ」

 葵はとくいげに胸をそらした。悠斗は、眉をひそめて黙ってしまった。

「なに、……なんか文句あんの」

「文句はねーけど、……」

 無神経だろ、といいかけてやめた。

 七海も快も、けがをしたわけではない。負け惜しみと思われるだけだ。

「なんだよぉ」

 葵はずいと顔を近づけてきた。「くやしいんでしょ?」

「うるせーな、」そらさず、睨みつけてやる。

 葵は、しばらく気圧されたように黙りこんでから、

「……騎馬戦で優勝するとか言ってたけど、これじゃ、ねぇ。」吐き捨てた。


 一瞬、目の前が真っ暗になった。



 応接室に呼ばれたときから、いやな予感はしていた。

 ノックすると、担任の山野(やまの)がドアをあけた。その表情をみて、結衣は予感が的中したのを知った。

 黒いワンピースをきた母が、ソファに座っているのが見える。

 対面には、1組の担任で学年主任の山下(やました)

 山野が、ためらいながら何か言おうとしたとき、山下の低い声がとんできた。

「お母さんの横に座ってもらいなさい」

「……はい。日浦さん、そこに」

 うながされて、座る。母の腕に肘が触れると、つめたい悪寒がはしった。

 山野は、おちつかなげに目線をさまよわせている。黒ぶちの眼鏡の奥に、涙がにじんでいるようにも見える。山下は、年配者らしく落ち着いているが、緊張はしているようだ。

 心当たりは、ないではない。

「もう一度、説明していただけるかしら」

 すきとおった高い声で、母はいった。

「休日に、私たちになんの連絡もなく、運動会の練習なんて。しかも、事前に担任の先生が把握してらっしゃらないなんて、そんなことありうるんですか?」

 結衣は、思わず山野の顔をみた。まさか。

 山野は懇願するように結衣に目線をむけた。小さく口を開いてまた閉じる。手が震えていた。

「そのように、山野からは聞いております。……そうですね、山野先生」

 すぐ隣にいる山野の様子をまるで無視するように、まっすぐ前をみて、山下はいった。

「……はい」

 ともかくも、山野は頷いた。目は伏せていたが。

「それじゃ、──いったい誰が首謀者なんでしょうね?」

 なんとなく芝居がかったように、母は続けた。こちらも、山野の表情を気に留めた様子はない。

「首謀者、とは?」

「先生たちに隠れて、そんなことを企んだ首謀者ですよ。」

「おっしゃる意味が、よくわかりませんが」

 山下は、あくまでも目線をはずさなかった。

「あら。それじゃ先生は、問題ないと思ってらっしゃるの」

「問題、ですか」

「先生のご存知ないところで、子どもたちがむりやり集められて、危険な活動に参加させられたとしても?」

「危険な活動、かはともかく──」

 山下は結衣をちらりとみた。結衣は何か言おうとしたが、金縛りにあったように動けなかった。

「むりやり集められた、とは聞いていませんね。自主的に集まったのでは?」

「結衣は、塾に遅刻したんですよ。……これまで、そんなことは一度もなかったんです」

 山下は一瞬黙りこんだ。それからすぐ、

「すみません、……それは聞いておりませんでした。どのくらい遅刻したんですか? 何時ごろ?」

「話をそらさないでください、先生」

 母は、うれしそうに、笑った。いや、そのように思われた。

 実際は、結衣はうつむいていたので、よくわからない。ただ、そんな気がしたのだ。

「そんなこと、どうでもいいんです。強制されたかどうかも。──ただ、監督責任があるでしょう? 大切な子供を預かる立場を、あなたたちは、どう考えていらっしゃるのかしら」

「それは、私たちとしては──」

「そもそも、危険だと思いませんか。騎馬戦だなんて、私が小学生のころには、あったかなあ」

「お母さん、それは今」

「あなたにお母さん、と言われる筋合いがあるかしら。……ねえ、結衣」

 結衣はびくんと震えた。

 そして、


 きりりと唇をかんで、きめた。

 ここで黙っていては、なにもかも消えてしまう。


 立ち上がる。

 あら、と意外そうに母は首をかしげた。

 うつむいたまま、ママ、とつぶやく。母はなんでもないように、なあに、とこたえた。

 汗がしたたりおちる。

 くるりと足をうごかして、ソファを離れた。

 えんじ色のカーペットがしかれた床の上に、正座する。

「日浦!」山下があわてて立ち上がる。

 結衣はかまわず、床に手をついて、いった。

「ママ。私の、最後のお願いです」

 母も、立ち上がっていた。

 山野はすわったまま、凍りついたように目を丸くして、こっちを見ていた。

「今回だけは、好きにやらせて下さい。この……騎馬戦が終わるまでは。」

 額を床につける。

「ばっ……」何かうめくのがきこえる。山下の声だ。

 そのまま、ずいぶん長いあいだ時間がたったように思えた。実際は数秒だったかもしれない。

「結衣。顔をあげなさい」

 無表情な声が、すぐ近くから聞こえてくる。

 顔をあげる。母は、かがんでこちらを見つめてきていた。

 なぜか、母の顔は、黒いもので塗りつぶされてでもいるように、見えなくなっていた。

「いいでしょう。あなたの、最後のお願い、きいてあげます」

 つめたい、無機質な言葉が覆いかぶさってくる。

 うれしさはなかった。ただ、ああそうか、と思った。

 応接室をでていく音。「お母さん!」と山野が小さくさけぶ。叫ぶだけで、追いかけるわけではないようだ。

 そのまま、座り込んでうつむいていると、山下が、しゃがんで、大きな手で肩をつかんできた。

日浦(ひうら)。……すまなかった」

 そう、言われた。

 なぜか、涙はこぼれなかった。



 悠斗と葵は、うんざりした顔で職員室を出た。

 1組の担任がいなかったのはラッキーだった。一人に叱られるだけで済んだからだ。

「……あんたが手ぇ出すから」

 いわれて、悠斗は顔をしかめて目をそらした。

「お前だって、反撃してきたじゃんか。それに、最初にいろいろ言ってきたのはさ……」

「あたしは、別に何もゆってないもん」

 葵は頬をふくらした。本当に、そう思っているらしい。

「……もう、いいよ」悠斗はあきらめて首をふった。

「なによう。……だいたい、なんで急にそんな怒ってんの」

 いわれて、ふと悠斗は考えこんだ。

 なぜ? 自分でもよくわからない。騎馬戦にこだわる理由も。

 翔が、泣きそうになっていたからか。

 それとも、晶子のためか。

 いや、そのどちらでもないような気がする。


 2対1で、快に負けたこと。

 結衣に帽子をとられたこと。


 頭にちらつくのは、むしろそういったことだ。

 それから──

『なっさけねーな。オトコのくせに』

 二週間前、葵が、いつものように考えなしに口にした言葉が、ずっと胸に残っている。

 横をむく。葵の顔をみあげる。

 そう、見上げているのだ。頭ひとつ分も、身長が違うのだから。

「……女のくせに」

 ぼそりと、口のなかだけでそうつぶやく。

「なんか言った?」

「べっつに」

 悠斗はそっぽをむいた。知るもんか。



 葵と悠斗が応接室の前を通ると、ちょうど結衣が出てくるところだった。

 山野がドアをひらき、結衣がまず出て──それから、中から声をかけられて、山野だけ戻った。

 結衣は、ひどく疲れきった顔をしていたが、二人の姿をみて、表情をすこし和らげた。

「どうしたの。……けんかした?」

「べっつに」と、葵。たいして機嫌が悪いふうではない。

「おれが勝った」

 腕にできたあざを見せつけながら、悠斗はそう言ってやった。結衣は思わず噴きだした。

「まさか。……それで、今まで叱られてたの? もう給食始まるよ」

「そっちこそ。なんかあったの」

 結衣はなんとなく哀しそうに目を細めて、ほほえんだ。

「なんにも。……いこう」

「あー!」

 葵が前方を指さして大声をあげた。結衣はびくんと震えた。

「晶子の父ちゃんだ!」

 指のさきにいたのは、グレーの背広姿の、痩せた男だった。

 玄関口から入ってきたところのようだ。こちらに気づいて、親しげな目線を投げかけてくる。

「葵ちゃん!」

 男のうしろから、ゆるいウェーブのかかった茶髪の女が入ってきた。晶子の母親だ。

「ゆーくんに、結衣ちゃんも。どうしたの?」

 にっかりと笑って、問いかけてくる。

「別に……」悠斗はなんとなくばつの悪さを感じて、ごまかそうとした。しかし、葵が大声で、「ケンカ!」とさけぶ。「あたしが勝ったんだよお」

「へえ?」

 晶子の母は、目をぱちくりさせて頷いた。

「おばさんは、なんで来たの?」

「ちょっとね、色々あいさつとか、手続きがあってさ……」

「そうなんだ」葵はなんだか嬉しそうに頷く。

 晶子の母は、背がとても高い。葵と並んでも、普通の大人と子どものようにしか見えない。

「りかさん、もう行かないと、先生の時間が」

 男が時計をみて声をかける。職員室へ行くらしい。

「あ! そうだね。葵ちゃん、またね」

 晶子の母は大きく手をふりながら、大股で廊下をあるきだした。

 男も歩きだしかけて、ふと思いとどまったようにふりむいた。

 少しかがんで、真剣な顔で、

「悠斗くん。きみのことは、晶子からよく聞いてる」

 あらたまって……なんですか、と聞き返そうとする。が、その前に、

「運動会、見に行くよ。頑張ってな」

 そう、早口でいって、男は立ちあがった。

 なんとなく、ごまかされたような気がして、悠斗は眉をひそめた。二人はきょとんとしていた。


 すぐに、チャイムが鳴った。給食の麻婆豆腐の匂いが漂ってきた。



 次の日曜日──


 なぜか、運動公園に担任の水野(みずの)がきていた。

 晶子にきくと、軽く眉をしかめてため息をつかれた。本意ではないらしい。

 さて──

 みんなの前に出たとき、この前と違って、晶子の唇には笑みはなかった。

「今日が、最後の練習です。──」

 けれども、結局、

「きょうは、準備運動のあと、すぐに、フォーメーションの練習。それから──」

 口元はきりりとひきむすんだまま、

「紅白戦をやります。わたしのチームと、(りん)のチーム。あとで、組み合わせを発表するからね。」

 目元だけ、にやりと微笑んで、そう、結んだ。



 基本的に、バディは崩さない。

 ただし、突撃隊の2騎だけは、分ける。

 おおむね、騎馬どうしの力が同じくらいになるようにしてある。


 紅組は、

 晶子、悠斗、(れん)、七海、豊正の5騎。

 白組は、

 凛、さくら、陽菜(はるな)拓海(たくみ)、快の5騎。


 審判の水野をはさんで、むかいあった。



「……なんで凛を大将に?」

 騎馬をくみあげる前に、悠斗は、こっそりと晶子にきいた。

 白組の騎手のうち、いちばん強いのは、快。

 晶子の力にあわせて、弱い者を大将にというなら、陽菜か拓海だろう。

 凛は、しいて人に指示を出すようなタイプでもなし──

「決まってるじゃん。」

 晶子は、楽しそうに微笑んで、耳元に唇をよせてきた。

「……これなら、勝てるからだよ。」

 どういう意味だよ、ときく前に、晶子は自分の騎馬組のところへいってしまった。

 なんにせよ──

(あいつ、絶対性格悪いな)

 悠斗は、そう一人ごちた。いまさらのことではあったが。



 先頭に、快と豊正がむかいあう。

 快のうしろには、陽菜と拓海。

 豊正のうしろには、蓮と七海。

 大将とその相棒は、どちらも一番うしろに隠れている。


「凛!」

 さくらが、左にひかえる凛に声をかける。

「前、だいじょうぶ?」

 凛はこくんと頷く。

 するどい、読み難い表情をしているが、手には汗がにじんでいた。

 さくらの言うとおり、前にでている3騎では、いささか分がわるい。

 快と豊正なら互角だろうが、左右の2騎がまずい。

 出たほうがいいのか。

 迷う。

「さくら、」

 声をかけてから、また迷う。


 迷っている間に、快と豊正、一瞬遅れて陽菜と蓮、拓海と七海がぶつかっていた。



 快は、豊正の帽子をねらって右手をつきだした。

 豊正は、かるく体を後ろにそらして避ける。

 さらに手をのばして追いかける。

 豊正は、大きく腕をふって、快の右手をはじいた。

 もう一度、こんどは左手。

 こんどは、左手ではじかれる。

 攻めあぐねて、こちらが動きをとめると、豊正も止まる。


 おかしい。


 快は、無表情にこちらを睨みつける豊正の目をじっと見た。

 その後ろに、にんまりといやらしく笑う晶子の顔が見えた。



 それでいい、と豊正に小さくささやく声がきこえた。

 悠斗はうずうずしながら、晶子の横で合図をまっていた。

「まだ?」

 小さく、大輝(だいき)が声をあげる。

「まだだよ、」とおさえる。

 かれらも、自分の役割はわかっている。

 早く出たくて、たまらないのだ。



 快と豊正の決着は、なかなかつかない。

 陽菜の騎馬はふらついていて、今にも崩れそうだ。

 拓海はもう少しはもちそうだが、七海の帽子をとれそうにはみえない。 

「さくら、」

 凛は、もう一度そう声をかけた。

「うん、」

 さくらも、同じく前線を注視している。

 陽菜、快、拓海のうち一騎でもやられれば、さくらがすぐ穴を埋める。そういう作戦だ。

 しかし──

「いくよ、」

 凛は、自分の騎馬の三人にむかって、そういった。

「え、」

「私がいく。さくらは、このまま作戦通りに」

 一緒にいこう。そういわなかったのは、最悪の形を恐れたからだ。 

 大将がうってでると同時に前線が破れて、囲まれるかたちになるのが一番こわい。

 だから、さくらには残ってもらわねばならない。

 少なくとも今、3対3で互角の形なら、脇から自分が出れば、一気に崩せる。

 そこまで、凛は考えていた。



「よおし、きた」

 晶子は、唇の両側にうかべた笑みをさらに大きくして、さけんだ。

「右、いけーっ!」

 右ということは、蓮ではなく七海の側だ。

 つまり、今のは、豊正、七海、悠斗に対する合図ということだ。

 豊正が、七海と正対している拓海の帽子に手をのばす。

 快は無視されたかっこうだ。

 鼻白んだ快が豊正の帽子をとるのと、豊正の右手を拓海の両手が止めるのが同時だった。

 前線の6騎のうち、これで1騎落ちたことになる。

 さらに、同時。

 凛の騎馬が、拓海のうしろから出てきていた。

 それにあわせるように、七海の騎馬が、右にそれて凛に正対している。豊正が拓海の注意をそらした隙に、だ。

 ようするに、凛に七海をあてるために、あいてを一つずつずらした形である。

 そのために、結果として豊正がやられている。前線は、4対2だ。


 勝てる、と凛は思った。


 七海より、自分のほうが強い。そう思っている。

 まして、拓海のとなりには快がいる。数秒後には、3対1の形がととのう。

 その思いが、左側への警戒を、数秒遅らせた。



 どん、と気持ちのいい音がした。


 (しょう)が、思い切りあいての肩に頭をぶつけた音だ。

 迷いがない。相手が女子であろうが、今は関係ないらしい。

「っと──!」

 騎馬を大きくゆらされて、凛は体勢を崩した。

 落馬はしない。必死でバランスをとりながら、悠斗をにらみつけてくる。

 凛が前にでたとたん、左側からつっこんできたのだ。

 待ち構えていたとしか思えない。

「このっ!」

 きりりと、唇をひきしぼる。

 騎馬の高さもふくめ、凛の手は悠斗よりかなり高いところにある。手をのばせば、帽子はとれる。

 馬のうえでなんとか体をひねって、左をむく。

 意識が、きれてしまっていた。

 正面にいる七海の存在を、完全に忘れている。


 あとは、簡単だった。



 子どもたちが反省会をしている間、水野は、事務所の裏口でたばこを吸っていた。

「水野先生、」

 事務所の中から呼びかけられて、ふりむく。学年主任の山下だった。

 ひとまわりも年上だが、あまりそうと意識したことはない。どちらかといえば、寡黙な男である。

「……来ていたんですか。」

「うちのクラスも、はりきっとるようで。集合時間は、もう少し後ですが」

 いいながら、内ポケットから煙草の箱を取りだす。水野は、はあ、と曖昧に頷いて、言った。

「うちは、主に高橋(たかはし)が気合を入れてるようです。もちろん、他の子たちもついていってます」

「そうですか、高橋が……」

 山下は、うなずいて煙草に火をつける。

「他の子たちは、知っとるんですか」

 そういって、くわえる。かすかな音とともに、たばこの先がひときわ紅くなる。

「さァ……、」

 水野は、眉をしかめてふうっと煙をはきだした。

「わかりません。私からは、一度も言ってませんが」

「そうですか……」

 水野は、ちらりと山下の顔をみた。

 伏せぎみにした目はいつも通りで、なんの感情も浮かんでいないように見える。

「……水野先生、子どもってやつは、」

 少しだけ目をあげて、山下はいいかけた。

 そして、もう一度唇をあけて、言葉を続けようとしたとき、

「せんせーい!」

 事務所の玄関口から、高い声がとびこんできた。



「──だから、こうやってサ」

 今日はなんだか、晶子の口数がやけに多いようだった。

「あいての横からいけるときは、帽子を狙うんじゃなく、体当たりでぶつかったほうがいいってこと」

 いいながら、ちらりと悠斗と翔がいるほうをみる。紅白戦で凛を崩したことをいっているのだ。

「なんで?」と、蓮がきく。

「騎手は体をひねってすぐ横をむけるけど、騎馬ごと向きをかえるわけにはいかないからさ」

 豊正が、ほう、と声をあげた。 

 凛は眉をしかめて顔を伏せている。

「おーいっ」

 事務所のほうから、とつぜんの大声がとんでくる。

 悠斗は、びくんと震えてふりむいた。ほかのものも、一瞬おくれて声のほうをみる。


 葵だった。


 上機嫌そうに、片手をあげて、走ってくる。

 一組の他のものも、ぞろぞろとこちらに向かってくるようだ。

「……なにしに来たんだよ」 

 蓮が、小さくつぶやく。

 七海、豊正も、同じような目つきで葵をみている。 

 ついこの間、悠斗とつかみあいの喧嘩をしたところは、みんな見ている。

 そのきっかけとなった言葉も、知っている。

 歓迎されようはずもなかった。

「なんだよぉ」 

 葵は、脳天気に唇をとがらせた。

「なんだ、じゃねーよ」

 ベンチをはさんで葵に正対するかたちで、蓮が肩をいからせる。

 ふたりの身長差は、頭ひとつ半くらい。ほとんど、大人と子供のように見える。

「なんかわかんないけど。……それよりさ、うちのクラスも今日みんな来てるんだ。試合しようよ。結衣んトコとは、やったんでしょ? 先生が審判やってくれるしさあ」

 屈託のない申し出に、蓮は逆に黙りこんでしまった。

 口を開いたのは、悠斗だった。


 やろう──


 そう、言おうとした瞬間。

 晶子が、悠斗の口に手をあてた。ずいと前にすすみでて、目元をおだやかに細めながら、

「やらないよ。……もったいないでしょう」

 そう、言った。

「えぇ?」 

 葵はすっとんきょうな声をあげた。

「あと一週間でしょ、ゆっくり待とうよ。……本番では、きっちり負かしてあげるからさあ」

 試合をする気はないが、穏便にすませるつもりもないらしい。

 葵のうしろにいる1組のものたちが、小さくざわめく。

「しゃあねえなー」

 葵は、にんまりと笑った。

「じゃ、来週。あたし一人ででも、全員負かしちゃうからな」

 うれしそうに捨てぜりふを言って、くるりと身をひるがえす。

 他のものたちも後につづいて引き上げていく。

「さ、練習しよう。……もう一回基礎練習やって、2対1をやるよ」

 晶子も、くるりと向きをかえて、にっこりと笑った。

 悠斗は、なんとなく取り残された気持ちで、首もとをこすった。


 そのとき、


(……ちょっと、アタマがいいからってさ、)

 幾人かの、ねたむような視線とともに、誰かのつぶやきがこちらへ飛んできた。

 晶子にむけられたものか──いや、クラス全体か。

 悠斗は、ぐっと拳をにぎりしめて、それから、深呼吸とともにゆっくりと開いた。

 いま、怒っても仕方がない。


 あと、一週間だ。



 どん、と景気のいい音をたてて、翔の頭が、良一(りょういち)の肩にぶちあたった。

 良一のうえにのっている快のからだが揺れる。しかし、上半身はわずかに上下するだけで、じっと前をむいている。

 翔の肩に手をかけている悠斗は、落ちないようにするだけで精一杯だ。

 快は、すっと右手をのばして、悠斗の帽子をとった。

「……くっそ」

 悠斗は眉をしかめて、快の顔をみた。

 快はすずやかに笑っている。

 騎馬をくずした。

「ごめん、」と騎馬の三人にかるく頭をさげる。

 翔は首をふった。「いいよ」と、軽い口調で空がいう。大輝はぜいぜいと息を切らしている。

 きゅうけーいっ、と七海の声がきこえた。

 悠斗はぼんやりと目をさまよわせながら、歩きだした。

 何度やっても、快にはまともに勝てない。

 これでは──


 晶子が水野と話しているのが目に入る。

 どことなく上機嫌そうだ。


 以前、晶子は悠斗に、勝てるといった。

 たしかに、勝てるかもしれない。晶子のやりかたなら、1組にも、6組にも。

 けれど、それは──


(おれは、)


 5組が、ではなく。


(おれは、葵に勝てないのか?)


 翔たちの前では言えなかった。

 本当の本音をいえば、おれたちが、ではなく、おれが。

 クラスの奴らも、翔たちも関係ない。

 晶子の作戦で勝つのも、ニ騎や三騎で囲むのもいやだ。

 騎馬戦だから、馬役といっしょに戦うのは仕方ないにしても、最後は自分の手で葵を馬からひきずりおろすか、帽子を奪うのでなければ、いやだ。

 本当は、そう思っている。


 もちろん、そんなことを言えるわけがない。


(せめて、勝てる見込みがあればな……)

 いろいろと考えては、いた。

 腕力では、葵はおろか快にもとてもかなわない。

 それでも勝ちたいとなれば、何かうまい方法を考えるしかない。

(晶子じゃあるまいし…)

 悠斗は首をふった。

 考えがまとまらない。何か、思いつきそうな気もしたのだが。

「悠斗!」

 翔がかけよってくる。

「ん……」

「今日はもう解散だってさ」

「え、……早くないか?」

 悠斗は声を高くした。運動公園の使用時間は、まだあるはずだ。

「うん……、水野センセが、そろそろ解散しろって。1組も帰ったみたい」

「なんだよ……」

 まわりを見る。みな、帰り支度をしている。

「せっかく……、」

 つい、口にでていた。

 じっと、地面を睨みつける。

「え?」

 翔がけげんそうに聞き返してくる。


 おれは、何を言おうとしたのか。

 まさか、葵に勝てる方法を思いついたとでも。


「いや、……なんでもない」

 いいながらも、悠斗はじっと地面を見たまま、動かなかった。

(快だって、葵にはかなわないんだ。どうやったって……)

 ほとんど見上げるほどに体格の違う相手とつかみあいをして、どうなるというのか。

 腕の長さも、力も違う。脚力も、なんなら体重だって。

 いや。

 体重──

(そうか……)

 やっと、辿り着いた。

 悠斗は顔をあげた。もう、翔は近くにはいないようだ。

 かまわず、まわりを見回す。荷物をおいてあるあたりに、(そら)がいた。

「空!」

 空は、あ、と声をあげた。ちょっと困ったような笑みをうかべて、

「どうしたの? 翔も荷物おいたまんま行っちゃうし──」

「ごめん。じゃ、大輝は?」

「帰ったよ。塾だって」

「そっか……」

 悠斗はため息をついた。あたりにはもう誰もいない。空はひとりで待っていてくれたらしい。

 練習が必要だ。どうしても──

 一人ではできない。

「空、もうちょっと時間いいかな」

「え? いいけど……」

「それじゃ──いや、」

 二人では、たりない。

 どうしても、実際に騎馬をくんで練習しないと──

「……ごめん、やっぱりいいよ」

「そう、……」

 二人はなんとなく気まずい空気で、目を見合わせた。

 少しの沈黙のあと、悠斗は口を開いた。

「その……どうしても、勝ちたいんだ」

「知ってるよ」

 空は間髪入れずに答えた。

「……チームがじゃない。おれが、葵に勝ちたいんだ」

「知ってる。みんな、知ってるよ」

 空の表情は読めない。

 いつも、口元にやさしげな笑みを浮かべているだけだ。

「おれが、勝つために、……手伝ってほしいんだ」

 吐き出す。

 空に言っているつもりはない。

 とにかく、溜まったものを出してしまいたかった。

「わかってるよ。……もっと早く、そう言えばよかったのに。」

「……言えるもんか。」

「晶子がいたから?」

 反論しようとして、悠斗は言葉に詰まった。

 案外、そうかもしれない。

「とにかくさ、……ちょっと、思いついたことがあるんだ。試したいんだけど……みんな、帰っちゃったからな。」

「うん、……あ、戻ってきたよ」

「え?」

 翔が、運動公園の入り口からこっちへ向けて、歩いてきていた。

 空が笑顔で手を振る。

 翔のうしろからは、大輝がなんとなく硬い顔つきをして、ついてきていた。

「大輝!」

 悠斗の声は、うわずっていた。少しためらったが、すぐに、

「みんな……ちょっと聞いてくれ。おれが……」

 言いかけて、一度ためらい、言い直す。

「……おれたちが、正面から葵を倒す方法を思いついたんだ」

「1対1で?」翔が高い声をあげる。

「そう。……どうしても、あいつをやっつけたいんだ。手伝って欲しい」

「できるの!?」

 大輝が大きな声をあげた。さっきまでの硬さはなくなっていた。

「できると……思う。いまから、練習したいんだ」

「いいよ、やろう」

 大輝は即答した。

「でも、……塾は?」

「今日は休むよ。いいんだ」

 目線を少しそらしながら、大輝はそういった。笑っていた。

「よし、やろう」

 空と翔がうなずく。

 まだ日は沈んでいない。練習する時間はたっぷりある。



 二時間後──


 悠斗が、家路をいそいでいると、快と豊正にゆきあった。

 酒屋のとなりの、自動販売機の前である。

 快の右手にはペットボトルのオレンジジュース、豊正は微糖のコーヒー。

 いつになく、おだやかな表情だった。

「おい、」

 豊正が手をあげて、悠斗をひきとめる。

「どうしたんだよ」

 額の痣とすり傷のことを言っているらしい。

「ちょっと、……練習してたんだ。翔たちと」

「まじか。……すごいな」

「そっちこそ、」

 悠斗は、あらためて二人をみた。身長は快のほうが高いが、童顔なのと、豊正のがっちりした体格のせいで、すこし年下にみえる。

 ふと、二人は親戚か何かだろうか、と思った。どこがどう似ている、というわけでもないが。

「ケンカしてたんじゃないの?」

「ああ……まあ、さっきまで。」豊正がこたえる。

「心配かけて、ごめん。大したことじゃ──」

 そう、快がいいかけると、豊正はにやりとしてさえぎった。

「こいつ、1組の芽衣とつきあってるんだぜ」

「え?」

 意外だった。

 相手が、ではない。

「そんなの、あるんだ……」

 思わずそうつぶやくと、快は苦笑した。

「なんだよ、その言い方。」

「ていうか、お前は晶子とつきあってるんじゃねーの?」

 豊正にそういわれて、悠斗は目を丸くした。

「え、……つきあってねーよ」

「ふーん」

 必死で否定したつもりもないが、豊正はにやにやしながら黙りこんだ。

「で、……ケンカの原因は、それ?」

「あー、まあ……」

芽衣(めい)が敵だから手ぇ抜いてんじゃないのかって、豊正がいうからさ、」

「……悪かったよ」

 豊正は快から目をそらした。

「ま、自分でも、迷ってたようなとこはあってさ。みんなが頑張ってるのに、ちょっと乗りきれないっていうか」

 屈託なくそう続ける快を、豊正はちょっと睨みつけた。

「お前、そういうとこが……」

「でも、こないだのリレーの練習でさ。おれ、転んだじゃん。それで、もうちょっとちゃんとしなきゃなって思ってさ──敵チームとはいえ、芽衣も見てるわけだし。」

「……カノジョにかっこつけるために、頑張るとさ」

 豊正はまだ刺々しい口調だったが──

 なんとなく胸におちるものを感じて、悠斗は頷いた。

「そういうのも、……いいんじゃないの。おれも、ある意味似たようなもんだし……」

 いいながら、悠斗はナップサックから財布をだして、開けた。

 あまり小遣いは残っていないが、ジュースを買うくらいはあった筈だ。

「どういう意味?」

「いや、葵にさ……」

 そこで言葉をとめて、お金を入れ、少し迷ってからボタンを押す。スポーツ飲料。

 とりだしてから、不自然な沈黙に気づく。

「悠斗、……おまえ」

 すこし声を震わせて、豊正がつぶやく。

 快は目をまん丸くしている。

「葵とつきあってんのか?」

「……ばか!」

 悠斗は大声で叫んだ。

 腹の底から、笑いがこみあげてきた。



 帰宅後──

 リビングにナップザックをおいて、自室へあがろうとすると、母にとめられた。

「ねえ、……あんた、アタマどうしたの?」

「え、」

 悠斗は、しまった、という顔をしてたちどまった。

「ちょっと……、騎馬戦の練習でさ。ウマが崩れちゃって」

「ふーん……」

「たいしたことないよ。冷やしたし」

「いいけどさ……。ちょっと見せなさい」

 ソファに座らされて、額をのぞきこまれる。

「ちょっと、腫れてるかな。まー、たいしたことなさそうだけど」

「……そうゆったじゃん」

「こないだより、ちょっとヒドいかなー」

 さらっと言われて、悠斗は、え、と声をもらした。

「こないだは……」

「葵ちゃんとケンカでしょ。先生から聞いてるよ」

 悠斗はうつむいて黙りこんだ。

 母は、ぽこんと悠斗の頭のてっぺんを叩いて、

「葵ちゃんのお母さんからも、電話あったのよ。あんたには言わなかったけど。」

「べつに……たいしたことなかったし」

「ケガしたのが、あんただったからね。女の子の顔に傷つけてたら、大変よ」

 あれが女かよ、と悠斗は口のなかでつぶやいた。

 ソファから立ち上がる。

「疲れたから、ちょっと部屋にいるから……」

「あ、そうそう」

 母は、ソファにぼすんと座りこんで、投げつけるようにいった。

「なんだか、ヘンな噂があるんだって? 4年生のクラス、成績順に決まってるとかなんとか……」

 かまわず、部屋をでて、階段をあがる。

「あれ、ウソだからね。タムラさんたちが先生に確かめたってさ。……だいたい、成績順だったら、あんたと晶子ちゃんが同じクラスになるわけないもんね」

 母の声がおいかけてくる。

(今さら……そんなこと、関係あるもんか)

 悠斗はいらいらして階段をかけあがった。うすうすわかっていたことだ。


 きっかけは、そういうことだったかも知れない。

 けれども、今となってはもう、そんなことのためにやるのじゃない。

 おれだけじゃない。みんな、そうだ。


 あとはもう、本気で、やるしかないんだ。

 それだけだ。



 そして、また日曜日──


 悠斗は、いつもより少し早い時間に家を出た。ただし今日は、ランドセルは背負っていない。

 家をでたところで、晶子と。しばらくして、蓮、七海、豊正と合流する。

 途中、葵や結衣と一緒になったが、誰も話しかけなかった。

 七海は、ひどく口数が多かった。



 朝の会のあと、着替え。

 いつものように、男子は教室で、女子は更衣室で。更衣室の時間調整のため、少し待ってから、教師の指示で着替えにいく。担任の水野は、男子たちが着替え始めてから、職員室へ行くといって出ていった。

 男子たちが着替えおわったころ、女子が戻ってくる。別のクラスの女子たちも移動していて、廊下はざわざわしている。

 まっさきに入ってきたのは、七海。あとを、凛とさくらが続く。

 凛は、口元をかたくして、眉を寄せている。

 七海は蓮のところに寄っていき、高い声で何ごとか喋りだした。

 悠斗は、教室の端のほうでなんとなく立ちつくしていた。自席のあたりでは、七海や蓮たちが大声で喋っている。

「なんか、みんな緊張してるね」

 気がつくと、さくらがすぐ隣にきていた。クラスの雰囲気にちょっと気圧されたように、かるく目をふせて小さくなっている。

 ふんわりとしたくせ毛が目について、悠斗は、「結ばないの?」と聞いてみた。先週の練習では、たしか後ろで縛っていたはずだ。

「ヘアゴム忘れてきちゃった」

 へへ、とごまかし笑いをして、さくらはうなじに手をやった。わしゃわしゃと髪をまとめるしぐさをしながら、

「晶子ちゃんに借りようと思ったんだけどさあ、どっか行っちゃったのかなあ」

「どっか行ったって──」

 教室を見回す。確かに晶子の姿はない。

「更衣室にはいたんだけど。トイレかなあ?」

「ふーん……」

 女子たちが戻ってきてから、もう10分くらいは経っている。

 そろそろ、水野も戻ってくる筈だ。

「……ちょっと、探してくる」

「え、」

「先生がきたら、うまく言っといてよ」

 そう言いおいて、悠斗はふらっとその場を離れた。

「えー…」

 あとに残されたさくらは、ぼんやりとうめいた。



 廊下にはもう誰もいなかった。まさか女子トイレを見に行くわけにもいかないので、1階の更衣室の前まで往復してみることにする。

 晶子を探すというより、いったん教室を出たかったのだ。息がつまりそうだった。

 階段へゆこうと、6組の教室の前にさしかかったところで、妙な音がきこえた。 

 がさがさ、ざわざわと、ものが擦れるような小さな音だ。

 人の声のような気もする。

 どきどきしながら、6組の教室を通りすぎる。


 階段の防火扉のかげ。そこから、聞こえてくる。


 女の声だ。

 かすかに、すすりあげるような──


 耳をすましてみるが、つぶやいている内容はわからない。

 さらに近づく。そして、気づく。


 晶子だ。


 防火扉のかげで、晶子が、膝を抱いて座り込んでいた。うつむいていて、顔は見えない。

 すぐ近くまで悠斗がきても、気づいた様子はない。

 悠斗は、額から汗が落ちるのを感じた。緊張しているのだ。

 晶子は、まだ何かをつぶやいている。内容は、聞き取れない。


 ただ、聞いたこともない低い声で。

 じんわりと、汗がにじみ出るような重い音が、耳に入ってくる。


 悠斗は、ひざまずいて、晶子に声をかけようとした。

 そこで、気づく。

 晶子は、震えている。

 ひざがあたって、音をたてるほどに、強く。


 つぶやき声がとまった。


 晶子が顔をあげた。頬に涙のあとはなかったが、まんまるく見開いた目は潤んでいた。悠斗の目をじっと見つめて、何度か唇をふるわせたが、言葉は出なかった。

 のどが、二回、こくんと動いた。


『たすけて』と、言われたような気がした。根拠もなく。


 数秒、ふたりはそのまま沈黙した。それから、晶子はもう一度顔を伏せて、またあげた。涙の気配はすっかりきえて、いつもの大人びた顔にもどっていた。

「すぐ、戻るよ」

 晶子は、あかるくそう言った。


 悠斗は、なにか言おうと思ったが、言葉が出なかった。

 かわりに、たちあがって右手をさしだした。 


 晶子は、しばらくためらってから、その手をつかんだ。

 彼女の手は、汗にまみれて、まだ震えていた。


 立ちあがろうとする。

 脚がふるえて、よろめく。


 悠斗はとっさに、晶子の背中に左手をまわして支えた。

 晶子がぶじに立ち上がると、悠斗は握った手の力を抜いた。

 離れない。晶子が、力をこめて握ったままだ。


 晶子の口元には、かわらず、大人びた微笑みがはりついている。


 けれども、眼のおくでは、別のことを訴えているようにみえた。


 悠斗は、ぐっと眉根をよせて、晶子を睨みつけた。

 他にどういう顔をしたらいいか、わからなかった。

「──おれが、」

 言いかける。

 自問する。なんと言おうとしたのか。おれが、葵を倒す? それとも──


 おれが、お前を守る、とでも。


 晶子のふるえが止まった。手が離れる。

 こんどこそ、いつもの顔に戻って、晶子はにっこりと笑った。

「ありがとう。」

 芯のはいった声で。

 体操着のはしで手の汗をふいて、ハーフパンツの尻をたたいて埃をおとす。

「手、つないで行こうか。」

 おどけた口調でそういって、こんどは晶子のほうから、右手をさしだす。

 悠斗は、左手で、その手を握って、歩きだした。

 不思議と、恥ずかしいとは思わなかった。



 ふたりが教室に戻ってからほどなく、担任の水野が戻ってきた。

 騎馬戦の組み合わせが発表される。


 1回戦は、2組対4組、1組対3組。5組と6組は、シード扱い。

 2回戦は、2組対4組の勝者と6組が戦い、次に、1組対3組の勝者と5組が戦う。

 ここまでが、午前中。

 昼食をはさんで、決勝戦は、午後だ。


「やったね、」

 晶子は、くるりと教室をみまわして、みんなに聞こえるように言った。

「いい組み合わせだ。優勝できるよ」

 ほっとしたような、笑い声がおきる。

「……2回勝てばいいんだもんな」と、悠斗は小さくいった。

 晶子は、くつくつと笑って、「ちがうよ、」といった。

「なに?」

「2回も、3回もおんなじ。強いほうが勝つんだもの。……それより、」

「それより?」

「1回戦を、戦わずに見ていられるってこと。」

「……同じことじゃん」

 ちがうよ、全然。晶子はたのしそうにそういった。


 そのあと、水野がこまごまとした注意をあたえ、4年5組は教室をでた。

 脚にビニールテープを貼った椅子を控え席にならべて、入場時間をまつ。

 観覧の保護者たちが校庭に入って来る。

 アナウンス──


 運動会がはじまった。



 1年、2年の徒競走。

 玉入れ。

 父兄参加の綱引き。

 5年、6年のダンス。

 午前中のプログラムが、次々と消化されていく。


 4年生は、組体操と徒競走をおえ、午前中は騎馬戦を残すのみであった。



「さいごに、すこしだけ。」

 いつもの、大人びた微笑みをふりまきながら、晶子はいった。

 控え席の前に、まるで教師のようにたって、

「全体の作戦は私が指示します。それから先は、騎手が自分のチームに号令して。相方の騎馬からは離れないように気をつけて。相方がやられたら、他の味方に合流すること。それから──」

 ここまでは、練習のたびに言っていたこと。

「大将をやっつけたら、すぐに、大声でアピールすること」

 これは、初めての言葉だった。

 すこし、ざわめきがおきる。

「大将を倒したらその時点で終了だよね。けど、審判がすぐ笛を吹いてくれなかったら? 僅差でこっちもやられたら、どっちが先かわからなくなっちゃう。審判はひとりじゃないしね」

 水野は、横でそしらぬ顔をして立っている。彼も、審判として参加するはずだが。

「だから、大将を倒したら、できるだけ大声で叫んでください。『大将、倒した!』ってね」

 それから、晶子はもう一度にっこりと微笑んで、

「だいじょうぶ。私たちがいちばん強いんだから。優勝しよう」

 そう、いった。



 1回戦と2回戦は、プログラム上はひと続きだから、シードになっているクラスも一緒に入場門をくぐり、1回戦がおわるまでグラウンドの端で待つことになる。

 最初は、2組対4組。 

「よく見ときなよ」

 晶子は、悠斗に耳打ちした。

 2組がこちら側、4組がむこう側。選手たちが、一直線にならぶ。

 騎馬をくむ。

 号砲。



 ひとことでいって、終始、乱戦。

 そのように見えた。

 大将がどこにいるのかも、よくわからない。

 赤帽をかぶった2組と、白帽をかぶった4組が入り乱れて、よくわからないうちに時間がきた。

「終了ーっ!」

 審判の声がひびく。

 判定の放送が流れる。

「……どっちが勝ったのかな」

 悠斗は、すこし戸惑いながら呟いた。

 時間切れということは、大将はやられていないはずだが、それすら、はっきりとはわからない。

「わからないでしょう」

 晶子が、前をみつめたまま、小さくいった。

「統率がとれてないもの。やってる本人たちも、全然わかってないと思うよ」

「それって、」

「練習が全然足りてないってこと。……いや、そもそも、作戦とか統率って発想自体が、」

 喋りながら、すこしずつ声が高くなっていく。

 まばたきが少なくなって、 

 手にかすかな震えが、


 とん、と小さな音がして、地面についた晶子の手に、あたたかいものが乗った。

 悠斗の手だった。


「……おれたちが、いちばん強いんだろ。」

 じっと、前をみつめたまま、悠斗がそうつぶやく。

「そうだよ。」

 大きく息をついて、落ち着いた声で晶子はこたえた。

 ふるえは止まっていた。


 第二試合が始まった。



 圧倒的であった。

 1組対3組。決着まで、およそ50秒。

 1組の大将である葵が、3組の大将の帽子をもぎとって終わった。

 作戦、とか、統率、とか、そんなものはなかった。

 1組の騎馬は、みんなばらばらに動いていたし、大将を包囲しようとしていた様子もない。

 ただ、まんなかにいた葵の騎馬が、まっすぐ前にでて、同じくまんなかにいた大将を倒した。

 それだけだった。



「……次の相手、あれか」

 悠斗は、思わずそう呟いた。

 わかっていたこととはいえ──

「その次は、あれだよ」

 晶子は、まだグラウンドから目をそらさずにそういった。第二試合は、結衣のいる6組と、1回戦第1試合の勝者である2組だ。

 決勝戦では、この試合の勝者と戦うことになる。

 1組に勝てれば、の話だ。



 6組は、作戦と統率のうち、少なくとも作戦は持っていたようだ。

 晶子のいうところの、中央突破。

 10騎、ひとかたまりになって、まっすぐ前に進む。

 前方からは、結衣の姿は見えない。


 およそ、1分30秒。


 それだけ戦って、6組の騎馬はひとつも倒れなかった。



『2回戦、第2試合を始めます──』

 アナウンス。

 たちあがる。

 水野の号令にしたがって、前にでる。

「ゆくよ、」と晶子が小さくつぶやく。自分に言い聞かせるように。

「いくぞ、」と悠斗は声をかける。翔と空と大輝が、小さくうなずく。


 並ぶ。

 騎馬をくむ。


 対面の1組をみる。1組の騎馬の組み分けは、体育の授業で決めたそのままだ。騎馬の並びも、ほとんど変わっていない。葵を真ん中に、右側が男子、左側が女子の騎馬。

 5組の騎馬の並びは、まえに6組と対戦したときと同じ。


 快。

 蓮。

 七海。

 悠斗。

 晶子。

 陽菜。

 拓海。

 凛。

 さくら。

 豊正。


 それから、大輝や翔、馬役のものたち。

 みな、緊張したおももちで、前を見すえている。



 葵が笑っているのが見えた。



 号砲。数秒後、晶子がさけぶ。

「作戦、いちーっ!」

 包囲作戦。

 悠斗は戸惑って、晶子をみた。

 1組の騎馬たちは、ばらばらに前進しているようにみえる。大将を守ろうとしている様子もない。こういう場合は、一丸となって大将にとびかかる『中央突破作戦』でいくはずではなかったか。

 晶子は前をむいたまま、悠斗の視線を察知したように、いった。

「あいての目線をみて。足並みはそろわないけど、みんなこっちをみてる。あれは『中央突破』だ」

 いわれて、目をこらす。たしかに、そのようにも見える。

 包囲作戦となれば、両翼が移動を完了するまで、少数で大将を守りきらねばならない。

 1組の十騎が、一丸となってこちらに襲いかかってくるのを想像して、悠斗は身ぶるいした。


 まず、快と豊正。

 つづいて、蓮と七海、凛とさくら。 

 6騎が、左右両翼から、レンズの焦点をあわせるように1組の背後へとつっこんでゆく。



 2週間前──

 中央突破作戦では、疾さが重要であると、晶子はいった。

 それでは、包囲作戦に必要なのは?

 やはり、疾さだ。

 包囲を完了させる速度と、手薄になった中央部分を突破する速度の戦いなのだ。



 動きに迷いがないぶん、5組のほうが速い。

 2つのフォーメーションにしぼって、練習を繰り返してきた成果である。

 いっぽう、1組の作戦は、直前になって決めたものだ。

 6組の真似をして全員で大将をねらうぞ、という程度で、そのための練習も何もしていない。

 しかし──



 快と豊正の騎馬が背後に近づいていくのを察知して、1組の騎馬たちの足並みが乱れる。

 快の目の前にいるのは、(つばさ)の騎馬。

 葵たちの前進についていけずに、少しおくれて孤立しかけている。

 翼が、焦った顔をして快の顔をみた。


「ぶつかれ!」

 快が大声でさけんだ。

 姿勢を低くする。


 どん、


 と大きな音をたてて、快の騎馬が、翼の騎馬に側面からぶつかった。



 葵の騎馬が先頭となって、5組の大将騎へとつっこんでいく。

 あいだに、拓海と陽菜の騎馬がいるが、微動だにしない。

 悠斗は、晶子の横にひかえている。こちらは、いまにもとびだしそうに体をかたむけている。

「時間をかせぐだけでいいよ」

 ことさらゆっくりとした口調で、晶子はそう声をかけた。

「あと、30秒。それだけあれば、包囲できるだろうから」



 快から少しおくれて、蓮の騎馬も、右側から1組の背後へとむかっていた。

 ちらりと、前線をみる。

 葵の手がのびる。

 陽菜の肩へと──


(だめだ!)


 もうずっと前のような気がするが、葵に抱えられて石垣から飛び降りた時のことを思い出した。

 背筋に悪寒がはしる。

「後ろにまわるのはダメだ! 葵のとこに突っ込め!」

 夢中で叫ぶ。七海がぎょっとしてこちらを見る。

 馬役があわててとまる。大きく手を動かして、肩をたたく。

「急げ!」もう一度、さけぶ。

 七海の騎も止まる。ひとことふたこと、七海が自分の馬役に声をかける。

 ニ騎は、ふたたび走りだした。葵のほうへ向かって。



 豊正は、あっというまに二騎を倒していた。

 快も、翼の騎馬を崩したあと、もう一騎の帽子を奪い、豊正と合流した。

 これで、6対10。数のうえでは、5組が大幅に有利になった計算だ。


 どん、と衝撃が走った。


 豊正の騎馬に、斜め前から別の騎馬がぶつかってきたのだ。

 倒れるほどのことはない。

 1組の、健一(けんいち)だった。1組では、葵についで足の速い少年で、リレーではアンカーをつとめている。

 本隊からは完全にはなれて、正面から快と豊正に対峙する。

「やっつけるぞ。」

 豊正がひくい声でいった。快はにいっと笑った。



 蓮と七海のまえに、芽衣の騎馬がたちふさがった。

 大きく両手をひろげて、進路を妨害してくる。

 七海は、騎馬をとめずに、きっと目を細くして芽衣をにらみつけた。

 芽衣は、きょとんと目を丸くして視線をうけとめる。

「そのまま、」

 七海が小さく声をかける。

 進路をかえずに、芽衣の騎馬にぶちあたれ、という意味だ。

 蓮には特になにも言わない。役割はわかっているはずだ。

 すっと、芽衣の右手がのびてくる。

 姿勢を低くしながら、手をはらう。

 次の瞬間には、騎馬どうしがぶつかっている。すばやく、両手を馬役の肩にかけ、耐える。

 もう一度、芽衣の手がのびる。

 はらう。

 三度目は、なかった。

 芽衣の頭から、帽子が消えていたからだ。

 蓮の手から、赤帽がぽとりと落ちた。そのまま、ニ騎は芽衣の左右をぬけて走りぬけた。


 芽衣は、しばらくぼうっと立ちつくしてから、ため息をついて、騎馬をおりた。



 快が左、豊正が右。

 健一の騎馬と、2対1の体勢である。

「左右にわかれて、はさむぞ」

 豊正が、自分と快の馬役全員に聞こえるようにいった。

 とうぜん、健一たちにも聞こえている。

 聞こえているが、すぐには動けなかった。

 快と豊正のどちらを攻撃したらいいのか、わからない。どちらに手を伸ばしても、もう片方に帽子を奪われるように思える。

 そうしている間に、快と豊正は左右にわかれて、健一騎の両側を進んでいる。

 そのまま、すれちがうようにみせて──


 ふいに、快が動いた。


 くるりと、身をひねって、後頭部から健一の帽子をねらう。

 死角からの攻撃である。

 とった、と思った。

 寸前で、かわされていた。快の手がとどく寸前に、健一は身をしずめて帽子をおさえている。

 一瞬おくれて、豊正が手をのばす。

 ふたりの騎馬は、立ちどまって、騎手をしっかりと支えている。

 豊正の左手を、健一が左手でにぎって止めた。

 快が、もう一度、右手をだす。こんどは、帽子をとろうというのではない。

 健一の右手首をつかんだ。

 これで、健一は両手を封じられた。

 快と豊正は目をみかわして、役割をきめた。動くのは、快。

 上半身の力をめいっぱい使って、つかんだ手をひく。

 健一が青ざめる。バランスをくずして、騎馬からおちそうになる。

 同時に、快の左手が、健一の帽子へのびる。

 抵抗できる体勢ではない。騎馬からおちるか、帽子をとられるか。それだけだ。


 そう、思った次の瞬間──


 快が、落馬していた。



 凛は地面にころがったまま、快が勢いよく落ちるところを見た。



 快の体操着の裾をつかんで、ひきずり落としたのは、1組の篠崎海斗(しのざきかいと)だった。

 1組の騎手のなかで、いちばん背が低い少年だ。

 けれども、腕と、脚の太さは、快や豊正よりもずっと上だ。

 たしか、スポーツ少年団でサッカーをやっていたはずだ。

 豊正は、崩れた快の騎馬から、ちらりと右側に視線を移した。

 凛とさくらの騎馬が、くずれてばらばらに座りこんでいる。

 海斗が倒したのだろう。そばには、他の敵はいない。


 いや。


 倒れそうだった健一が、体勢をたてなおして、こちらを睨んでいる。

 二対一。さっきとは、逆だ。


 豊正は、唇をかんで気合をいれなおした。負けるつもりはないが──

 晶子のところには、まだしばらく行けそうにない。



 なすすべもなく、陽菜の騎馬がくずれた。

 葵は、そのままの勢いで、拓海へと手をのばす。

 蓮は歯噛みした。

 あと、すこし。

 拓海がやられてしまえば、あとは悠斗と晶子だけだ。

 対するのは、葵をはじめ、3騎。

 どう考えても、持ちこたえられるとは思えない。

「あおいーッ!」

 一瞬でも。

 ほんのわずかでも、注意をひければ。

 そう、思って、叫んだ。声をかぎりに。


 葵が、にやっと笑ってこちらをむいた。



 失敗だった、と晶子は思った。

 恐怖心に負けて、判断をあやまった。

 包囲して、有利なかたちで攻撃することに、こだわりすぎたのだ。

 こちらも、中央突破作戦を選択して、両軍のぶつかりあう最前線で葵を叩くべきだった。

 今さら、こんなことを考えても仕方がないが──

「晶子!」

 悠斗の声。はっと、現実にひきもどされる。

 拓海がやられた。

 葵にではない。葵といっしょに突っ込んできた美桜(みお)の騎馬に、ぶつかって落馬したのだ。

 悠斗は、もう1騎の大和(やまと)と戦っている。

 大和の手をかわして、悠斗は思いきり姿勢をさげて、大和の右脚に腕をからませた。

「ひけーっ!」

 さけぶ。それよりも早く、馬役の3人が動いている。後退。足元から崩す技だ。

 大きな音をたてて、大和は地面に尻もちをついた。

 美桜の手が、悠斗の頭にのびる。

「ぶつかれ!」

 こんども、叫ぶ前に、3人はそのとおり動いている。

 低く下げた翔の頭が、美桜の馬役である真美(まみ)の喉元に。悠斗の手が、美桜のみぞおちに。

 衝撃にたえられず、美桜の騎馬はくずれた。


 葵は。


 悠斗は、息を荒くしてまわりを見た。

 三騎がこちらに襲いかかる寸前、なぜか葵だけが向きをかえて、それていった。

 まわりこんで挟み撃ち、という感じでもなかったが──


 いた。


 すぐ近くに。

 蓮と七海の騎馬のものたちが、うなだれて座りこんでいる。その間に、葵の騎馬がいる。

 方向転換して、こちらをむく。

 笑っていた。

「晶子、」

 もう一度、悠斗はいった。

 時間はよくわからない。残りあと1分くらいか。

「距離、とれ。」

 残っているのは、悠斗と晶子、それに遠くに豊正。

 相手側は、葵と、豊正の進路をふさぐ2騎。数は、おなじだ。

 仮に、悠斗がやられても、豊正が2騎を倒せば、引き分けにできる可能性がある。

 ただし、晶子が時間いっぱいまで逃げ切れば、の話だ。

「だめ、」

 晶子は首をふった。

 大将騎がはげしく動くことは想定していないから、晶子の馬役は、足が遅いものばかりだ。逃げられるとは思えない。

 まだ、悠斗と2騎で葵に立ち向かったほうがマシだと、晶子は思っていた。

「……じゃあ、後ろにいろ。」

 悠斗の考えは、少し違っていた。

 晶子を守りながら戦うよりは、1対1で戦うほうが、楽だ。

 いや。


 葵と1対1で戦う機会が、ようやくやって来たのだ。



 大輝が、かなり息を切らしている。

「いけるか、」と悠斗がきく。目線だけで、大丈夫だとこたえる。

 葵は、にやにやと笑ってこちらをみている。

 すぐに襲いかかってこないのは、余裕ぶっているのだと思ったが、どうやら違う。

 葵の騎馬が、少し揺れている。騎馬役の3人の足が震えているようにも見える。

 疲れているのだ。

 葵の体力は底なしかもしれないが、ウマはそうじゃない。

 いける。

 翔の肩をたたいて、悠斗はいった。

「すぐつっこめ。今しかない」

 言うのとほぼ同時に、3人の足が動いている。

 倒れた騎馬のものたちの間をぬけて、走る。

 葵はすこし意外そうに目を見開く。が、次の瞬間には、反撃の準備をととのえる。

 そして、激突。



 勝てるとか、勝てないとか、そんなことはもう頭になかった。



 馬役の体格差もふくめて、葵と悠斗の頭の高さはだいぶ離れている。

 悠斗の肩の高さが、葵の腰と同じくらいだ。

 帽子をつかむには不都合だが、今はかえってありがたかった。

 右脚を、もたれかかるようにして、右腕でがっしりとつかむ。左手は自分の帽子をおさえる。

 号令をかけるまでもなく、3人が後退をはじめる。

 動かない。 

 葵の脚は、がっちりと固定されたように、ゆるがなかった。 

 ふいに、肩に強い力がかかる。

 葵が、上からおさえつけてきたのだ。

 帽子だけはとられまいと、必死で左手に力をこめる。

 もがく。

「はなれてーっ!」翔の声だ。

 むりやり、ひきはがされるようにして、やっと離れる。

(ウマの差だ、)と、悠斗はおもう。

 こちらの騎馬が後退したのに対し、葵の騎馬はなにも反応しなかった。

 そのおかげで、首の皮一枚つながったのだ。

 離れたとはいえ、ほとんど手が届きそうな距離だ。

 ちらりと、晶子の騎馬が視界にはいる。

 晶子が口をひらくのがみえる。なにか指示をだそうとしている。

「晶子、はなれてろ」

 葵をにらみながら、そう言う。

 それから、少し声をひそめて、翔たちに、

「あれ、やるぞ。」と、声をかける。

「どっち?」と大輝。

「上にいくほう。」

 そう答えて、きっと口許をひきしめる。


 先週の日曜日、必死で練習した、あれだ。

 うまくいくかどうかは、わからない。だが、もうそれしかない。


「いっくよお」

 葵は、たのしそうに手をひらひらさせた。

 こちらは、動かない。

 翔たちはぐっと腰を低くして、衝撃にそなえる。

 葵の騎馬がうごいた。

 走りだす。


 すぐに、ぶつかる。


 悠斗の体が大きくゆれる。下の三人が、地面をふみしめて踏ん張っている。

 次の瞬間、葵が手をのばしてくる。悠斗は、動かない。避けようともしない。

 そして、葵の手が、悠斗の帽子にとどく寸前、


 悠斗は、跳んだ。



 晶子は大きく口をあけて、ぼうっと見上げていた。



 翔の右手と、大輝の右手。翔の左手と、空の左手。

 それぞれ、つなぎあわせた上に、悠斗の足が乗っている。

 悠斗が、その手を蹴って跳ぶ。同時に、三人は手に力をこめて、押し上げるように補助する。

 タイミングが少しでもずれると、ただ落馬することになる。


 ここまでは、うまくいった。

 そして、ここから先は、練習では一度も試していない。



 葵は、何も反応できなかった。

 とつぜん、眼の前に、悠斗の顔があらわれたのだ。

 首元に、手の感触。

 ぎゅっと、抱きすくめられる。

 体重がかかる。

 ふたりぶんの体重が、足場に──



 葵の騎馬が崩れた。

 ふたりは、からみあうようにして地面にころがった。

 ジャンプした悠斗が、葵に思い切り抱きついた。そのため、二人ぶんの体重を支えられずに、崩れたのだ。

 葵は、信じられないものをみたように頬をひきつらせて、空を見上げていた。

 悠斗は、数秒間、その顔をじっと見つめていたが、あわてて離れて、手をあげた。


 言葉にならない想いが、胸の中でぐるぐるとうずまいていた。


 ともかく、宣言しなくてはいけない。打ち合わせたとおりに。

「大将、倒したぞーっ!」

 そう、叫んだ。


 水野があわてて駆け寄ってくる。

 試合終了であった。




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