(前編)
およそ3メートル四方の砂場がある。
牢屋である。
今は、ふたりの囚人が中におり、すぐ外にはふたりの見張りが立っている。
けいどろ、という遊びだ。
『泥棒』は、決められたエリアの中で、好きなように逃げる。
『警察』がそれを追う。
警察に捕まった泥棒は、牢屋に連行され、囚人となる。
囚人は、助けにきた仲間にタッチされなければ、牢屋から出ることができない。
すべての泥棒を牢屋に入れたら、警察側の勝ち。
時間切れまで逃げきることができたら、泥棒側の勝ちである。
さて━━
牢屋と設定された砂場の中にいるのは、小学校高学年くらいの少年と少女である。
少年はかなり小柄で、幼い顔つきではあるが、なんとなく目つきに険がある。
夏らしくない、裾長のワンピースをきた少女は、少年より少し背が高く、大人びてみえる。
ふたりは、砂場のまんなかあたりにしゃがみこんで、なにやら手を動かしていた。
小さな声で、なにやら話しながら、砂山や穴をつくっているようだ。
「やる気ねえのかよ、」
ぼそりと、見張り役の、坊主頭の少年がつぶやく。
見張りは、男女ひとりずつ。
もうひとりは、目の大きな、細身の少女である。
ふたりとも、砂場のわきに突っ立って警戒しているのだが、まったく動きはない。
「ちょっと、見まわりしてくる。」
見張りの少女は、くるりと見回してから、砂場に背を向けて歩きだした。
「おい、芽衣。」
少年は、不満そうに声をあげたが、すぐに思い直した。
砂場の西と北は、高さ3メートルほどの石垣でふさがれている。
南東にはトイレの建物があるから、攻めてくるには、南か東のどちらかをまっすぐ来るしかない。
芽衣は東に歩いていったから、自分は南を警戒していればいい訳だ。
背後で、がさりと、音がしたような気がした。
反射的に、砂場の方を見ると、囚人のふたり━━晶子と悠斗が、こっちをじっと見ていた。
こっちを、……いや、もしかすると、その向こうを。
晶子の手を見る。
ぱっ、ぱっ、と、じゃんけんをするようにすばやく動かしている。
まさか。
いや、前にも別の遊びで、似たようなことがあった。
こいつらは油断ならない。
南側にむきなおって、敵を探す。
見当たらない。が、建物の陰に隠れた可能性もある。
すこし離れたところには、生け垣がある。
その後ろに潜んで、こちらに走るタイミングをうかがっているのかもしれない。
ちらりと囚人たちのほうを見ると、目をそらしてそしらぬ顔をしている。
ちくしょう。
「そこから出るなよ!」
捨てぜりふのように叫んで、
少年━━翼は、いらいらしながら東へと早足で歩きだした。
くっくっくっ、と背後から、押し殺したような笑い声がおいかけてくる。
「……牢屋から勝手に出られるわけないじゃん。ねーぇ。」
ばかにしたような声。
生け垣まで、全力で走る。
あたりを見回す。
誰もいない。
くそ。
あわてて、引き返そうとしたとき、
ずざざっ、
と、砂を滑らすような大きな音が聞こえてきた。
*
数十秒前━━
ふたりの少年が、木々の間をぬけて走っていた。
童顔で細おもての美少年と、頭ひとつ背は低いががっちりとした体格の少年。
そして、彼らよりひときわ背が高く、足の長い少女が、後を追っている。
ほかの『警察』は、本堂のところで撒いた。
あとは、この少女━━葵だけだ。
葵をなんとか振り切って、牢屋にとびこめば、囚人たちを開放できる。
『泥棒』側である少年たちは、そう考えている。
制限時間まで、あと5分ほど。
今、囚人を解放できれば、勝ちにぐっと近づく。
しかし、葵は足が速い。
このゲームに参加しているメンバーの中で、……いや、来ていない者をふくめても、仲間うちで一番足が速く、すばやい。
出くわしてから、まだ10秒と経っていないのに、もう追いつかれそうだ。
ふたりは、汗だくになって、必死で走っている。
がっちりとした少年━━豊正は、ちらりと目を走らせた。
用意はできている。
「快、」
細おもての少年に声をかける。
頷く。
ちらりと、後ろをみる。
葵は、楽しげに笑っていた。
「もう疲れたの? おまえら」
走りながらとは思えないくらい、落ち着いた声で、
「ほーらっ」
あざけるようにいいながら、手をのばしてくる。
かわす。
転びそうになる。
葵は、ますます楽しそうに笑っている。
もうすぐ、階段。石段をおりれば、砂場までもう少しだが━━
(いまだ!)
豊正は、全力で地面を蹴って、走るむきをかえた。
快も、ほとんど同時に方向転換する。
葵は、ふしぎそうに眉をしかめる。
ふたりが向かう先は、いきどまりだ。
いけがきのむこうに、転落防止用の小さな手すりがあり、その先は崖である。
いや。
崖といっても、飛び降りられない高さではない。
2階建ての窓くらいだ。
ここを飛び降りるか、石垣をうまく滑り降りるかすれば、下はもう砂場である。
「よおし。」
走りながら、目で距離をはかる。
快と豊正は、いけがきの間をぬけて手すりに登り、そこから跳ぶはずだ。
その数秒の間に、捕まえてやる。
いけがきの手前から、手を伸ばすだけだ。触れるだけでいいのだから、簡単だ。
あと、三歩。
二歩。
一歩━━
大きく踏み込んで、ふたりを捕まえようとした葵の右腕に、だれかの掌がふれた。
「え?」
開襟シャツをきて、黒ぶちの眼鏡をかけた、色の黒い少年であった。
いけがきの中に伏せていたらしい。中腰に体をおこして、腕を掴んできた。
「蓮、」
葵は目をぱちくりさせて、とらえられた腕をじっと見た。
その間に、快と豊正は飛び降りてしまっている。
「あんた、……まちがえてんじゃないの。泥棒でしょ」
「間違えてないよ。僕が捕まったんだ。警察は泥棒を捕まえたら、牢屋まで連行するんだろ」
すました顔でそう言う。
何を言っているのかわかるまで、たっぷり数秒かかった。
ようするに、蓮は、自分が捕まるのとひきかえに葵を足止めして、快と豊正を逃がしたのだ。
しかも、石段のほうをまわって砂場まで蓮を連れていくとなれば、さらにタイムロスになる。
「……そお、じゃ……」
葵は、一瞬顔をしかめた後、にんまりと笑った。
「動くなよっ!」
ひと声さけんで、
蓮の背中と脚に腕をまわして、思いきりかつぎあげる。
「ちょっと!」
「あぶないぞ、」
あわてて叫ぶ少年を、こともなげに抱えて、いけがきに足を踏み入れる。
身長はだいぶ違うとはいえ、体重はそれほど変わらない筈だが、まるで赤子を扱うようだ。
横抱きにしたまま、膝をまげて、とん、と手すりの上にとびのる。かるがると。
「お前、まさか」
連は、おびえきった声をあげながら、両手で葵のシャツをつかんだ。
胸に顔があたる。葵は気にもとめない。姿勢を低くして力をためる。
「掴まってろよお」
しんそこ楽しそうにそう言って、すらりとした長い脚を空中へと投げ出した。
蓮は絶叫した。
*
また、数十秒ほど、時間をさかのぼる。
豊正と快は、大きな音をたてて砂場に着地した。
あらかじめ、晶子と悠斗が、大きな砂山をつくってある。そこをめがけて、飛び降りたのだ。
「よしっ」
にいっと笑って、晶子は豊正の手に触れる。悠斗は快に。
これで、2人は牢屋から出られるようになった。
すばやく周囲をみまわす。
「あっちに芽衣、あっちに翼が」
悠斗がみじかく言う。豊正がうなずく。
「芽衣のほうが遠いよ、あっちへ行こう」
早口で晶子が言うと、4人は東側へいっせいにかけだした。
翼は、もう気づいて、こちらへ向かってきている。
芽衣の姿は見えない。
砂場から、トイレの建物の横へと入る。翼からは死角になる。
と、いきなり、晶子が悠斗の右手首を掴んだ。
悠斗は、一瞬、とまどいを目にうかべて手元をみる。
長い指先に目がいく。くるんと、大人のように伸びた指が、きれいに手首に巻きついている。
晶子は、先をいく二人に目くばせをした。
そのまま、無言で、悠斗をトイレのほうへ引っ張っていく。
豊正と快は、二人のほうをみてうなずき、そのまま走っていった。
「ここじゃあ━━、」
悠斗は、不安そうに囁きかけた。晶子の考えていることはわかった。
二人がいるのは、トイレの入口を隠している壁の裏。砂場から直接は見えないが、その気になって横からのぞきこめば、まる見えである。
「大丈夫、翼は気づかないよ」
右手首を握ったまま、左手で悠斗の肩をかるく二回叩く。
背丈は、悠斗よりほんの少し高いだけだ。けれど、こうしていると彼女はずっと大人のようだ。
近くで、舌打ちの音。悠斗は身を固くした。
それから、回りこんでかけぬけていく足音。翼だ。
砂場につくったでこぼこのおかげで、ほんの一瞬だが足止めにはなったはずだ。
それでも、数秒後には、トイレのすぐ横を、気配が走りぬけていく。
少し、離れたところで、芽衣の声がきこえる。
豊正と快がみつかったようだ。逃げきれるといいが。
なぜか、蓮の悲鳴がきこえた。
二人は目を見合わせた。蓮は、わざと捕まって敵を足止めする役だ。豊正と快が降りてきたタイミングからすると、今ごろ牢屋に連行されているころだ。
つづけて、どしん、と大きな音。
少年たちが飛び降りたときよりも、ひときわ派手な━━
まさか。
悠斗は、晶子の掌にじんわりと汗がにじむのを感じた。
かすかな震えが、腕から伝わってくる。
横をむいて、顔をみる。
晶子は、こちらを見ていなかった。
ただ、震えながら、目をつりあげて嬉しそうに笑っていた。
*
着地してから数秒、葵はひざをまげて衝撃をこらえていた。
蓮は、葵の腕からころげおちるようにして砂場に座りこんだ。
「無茶苦茶すんなよ!」
かん高い声で、もう一度叫ぶ。
「いいじゃんか、……」
さすがに息を切らせて、葵はこたえた。二人とも、一瞬で汗まみれになっている。
「一番、近いんだもん。……ちゃんと、抱っこしといてやったろ?」
口角をあげて、してやったりとこちらを見下ろしてくる葵に、
「……ふざけんなよ、もう……」
蓮は、目をふせて呻くしかなかった。
「葵!」
東側から声がした。
翼である。
ひどく驚いた顔をして、トイレの脇を抜けてまっすぐ走ってくる。
「飛び降りたんか? ふたりで?」
「……二人でじゃねえよ」
蓮がそう呻いた。葵は、にんまりと笑ってガッツポーズをとった。
翼はちょっと眉をしかめて、すぐ話題をかえた。東側をさして、
「逃げられた。あっちへ全員行ったはず。芽衣も」
「よおし。追っかけるよ」
翼の肩を、ぱしんと叩く。
「見張りは?」
「いらない。もう時間ないもん」
とんとんと砂をふみしめて、葵は足踏みをした。動きたくてたまらないようだ。
「勝手にダツゴクすんなよ」
「しねーよ、ばか」
蓮と軽口をかわしてから、すぐ走りだす。翼もあわてて後を追う。
脇目もふらずに。
それから十秒ほどして、晶子と悠斗が壁の裏から出てきた。
*
ポールのてっぺんに設置された大時計が、1時をさした。時間切れだ。
*
「……うっそだろー!」
葵は地団駄をふんで叫んだ。
「蓮、絶対ダツゴクしたろ! 駄目っていったじゃん!」
「してねーよ」
蓮は、肩を大きく上下させて地面にへたりこんでいた。最後まで逃げ切ったのだ。
晶子は、蓮を解放してすぐ、芽衣に捕まった。
豊正と、快と、悠斗は、つづけざまに葵に捕まり、まとめて連行された。
そのときになって、ようやく、葵は蓮が牢屋にいないことを知ったのだ。
「ちゃんと、タッチして逃がしたよ」
晶子が、ふんわりと目を細めながらいった。
ゲームが終わって、両チームあわせて11名が、砂場に集まっている。
ほとんど、汗もかいていないのは、晶子だけだ。
「嘘じゃん! だって晶子、逃げてすぐ捕まって……あ!」
葵は、ようやく思いあたって大声で叫んだ。
「……あー! 隠れてた! 隠れてたんでしょ!」
「うん、……そうだよ」
晶子は、こらえきれずくつくつと笑い声をあげた。
「そこにいたんだ! ずっりー!」
「ずるくないよ」
「ずるい!……あ、じゃーコイツが飛び出してきたのも、」
「うん、私が考えた作戦」
「ずっりぃー…」
葵は子どもっぽく頬を膨らした。晶子は、なだめるように手をふって、
「葵たち強いんだもん。作戦考えないと」
「そーお?」
葵の表情はころころとかわる。
軽いヤツだな、と悠斗は思う。
あるいは、もう少し違う感想をもった者もいたかもしれない。
いずれにせよ、この戦いは、晶子たち5組が葵の率いる1組に勝利して、幕をとじた。
*
ケイドロが終わって、なんとなく弛緩した空気になった。
快と芽衣は、それぞれ用事があるらしく、帰っていった。
葵たちはまだまだ遊び足りなかったが、夏の暑さには勝てず、木陰でだらりと休んでいた。
「おーい!」
ふいに、澄んだ高い声がきこえてきた。
道路のほうからである。
皆が振り返ってそっちを見ると、サマーカーディガンの上に革鞄を背負った少女が立っていた。
「結衣!」
葵がうれしげに叫んだ。少女は、かけ寄ってきてにいっと笑った。赤ぶち眼鏡の奥で、長いまつげが元気よく揺れた。
「何やってたの?」
「ケイドロ。こっちが1人少ないんだ。入れば?」
蓮がそう言った。なんとなく、そっけない言い方だった。
「やりたいけど、」
結衣は残念そうに目を伏せて、太腿のあたりをかるく叩いてみせた。「今日これだからさあ。」膝上丈のスカートのことを言っているようだ。
「いいじゃん。コイツもワンピだし」
葵が親指で晶子を指す。もっとも、晶子は裾が乱れるほど走っていない。
「丈がちげーでしょ。それにこれから塾なんだよねえ」
「サボれば?」
葵がこともなげに言うと、結衣は一瞬だけ暗い顔をして黙りこんだ。
「……それよりさ、3時には塾終わるから、うち来ない? 『ハリーレース』買ったんだけど」
今月発売されたばかりのテレビゲームである。
「まじ? 行く!」
真っ先に葵が反応した。
「お前らも行くっしょ? 晶子は?」
「私、今日はだめ。早く帰らないと」
晶子は、うすく笑ったまま、首をふった。
「なんだよ。じゃー、……」
「おれと陸と翼は、このあと豊正の家にいくから。」
葵の機先を制するようにそう言ったのは、これまで黙っていた、茶髪の少年だった。蓮や悠斗のほうをみて、「お前らは? どうする?」と、続ける。
蓮は、すこし目線を動かしてから、
「俺も、豊正んとこ行こうかな。……いい?」
「いいよ」豊正は頷いた。
最後のひとりとなった悠斗は、
「いくよ。3時半くらいでいいの?」
「うん!」
結衣はうれしそうにこたえた。
*
少しして、豊正と大和と陸と翼、それに蓮は、公園を出ていった。
去りぎわ、蓮は悠斗の袖をひっぱって、トイレのほうに連れていった。
トイレの入口の壁の裏、さっき、悠斗たちが隠れていたあたりに来て、
「さっきの、お前ちょっとよくないぞ。」
「え?」
言われて、悠斗は軽く眉をしかめて聞き返した。蓮はさらに声をひそめて、
「ああいうときは、男のほうに来るもんだろ。」
「ああ、……さっきの。豊正んとこに? 誘われてないじゃん」
「関係ねーよ。そういうもんなの。」
おかしいな、と悠斗は思った。
こんなことを言う奴だっただろうか?
「女子と遊ぶなってこと? 晶子や葵はいいのかよ」
「そういうんじゃなくて……、」
蓮は少し苛立っているようだった。深く息をついて、
「みんなで遊ぶのはいいんだよ。家に行くとかっていうのはさ……」
「なに言ってるのかわかんねーよ」
「お前さ、」
言いにくそうに、しかしきっぱりと蓮は続けた。
眼鏡の奥の目が、じっとこちらを見つめていた。
「たまに、……言われてるんだぞ。晶子の金魚のフンって。」
「おまえ!」
悠斗は反射的に蓮の肩をつかんだ。蓮は目をそらさなかった。
「おれが言ってるんじゃないよ。でも、そういうのあるだろ。あんま女子と仲良くしてると。わかるだろ」
「わかんねーよ、」
吐き捨てて、肩から手をはなした。
目をそらす。
「こら!」
とつぜん、頭上から明るい声が降ってきた。
葵だった。
2メートルほどの壁の上に手をかけて、こちらに顔をつきだしている。
ジャンプしてよじのぼったらしいが、息も乱さずににやにや笑っている。
「なに、こそこそしてんだ? オトコ同士で!」
「ばーっか!」
蓮は叫びかえした。悠斗はふっと息をついた。
*
かちゃん。
ドアがあいて、結衣が顔をだした。
「なに突っ立ってんの?」
悠斗は言い訳をしようとして口ごもった。蓮の言葉が頭の隅にこびりついている。
「入ってよ。お菓子あるよ」
「ごめん、葵はこれないって……」
「うん、聞いた。あの子はもー、ねえ」
結衣はこともなげにそういって、軽く眉をしかめた。
一度家に帰った後、葵と一緒にここに来るはずだったのだが、家を出る直前に葵から電話があり、行けなくなったと言われたのである。なんでも、母親の誕生日で、家族で出かける約束なのを忘れていたということだった。
「入んなよ」
結衣はもう一度そういって、悠斗を招きいれた。
*
玄関の扉をくぐると、ひんやりした冷気が肌をしめつけた。
幅広の明るい廊下を通って、リビングへ通される。
大人が横になれるくらいの白いソファに、結衣の弟の憲史が、ちょこんと座っている。
親の姿は見えない。家にはいるようだが、ほとんど会ったこともない。
「ゆーくん!」
憲史はこちらを見るや、目を輝かせた。
「ゲームやろうぜ! おれ強いから」
言いながら、ばたばたと、ソファの対面にあるテレビに走っていく。
「待っててね」結衣はそういってキッチンのほうへ歩いていった。と同時に、ぐいと手のひらにコントローラーが押し付けられる。
「早くやろーぜ」子どもらしい押しの強い笑顔で、迫ってくる。
「わかったよ」悠斗はソファに腰をおろした。
憲史は結衣によく似た、線の細いととのった顔だちをしている。
しかし、雰囲気はまるで似ていない。
「よーしっ」
憲史がゲーム機のスイッチを入れる。ロゴ画面がテレビに映った。
「あ、もう始めてる」
盆に三人分のジュースとクッキーをのせて戻ってきた結衣が、口をとがらせた。
「いーじゃん、ほら」いいながら、憲史は乱暴にコントローラーを投げ渡した。
「一緒にできるの? これ」
結衣もソファにすわって、かちゃかちゃとコントローラーをいじりながら聞く。
「やったことないのか?」
結衣に聞くと、頷く。悠斗は少し不思議に思った。
憲史は、慣れた手つきでタイトル画面をスキップして、操作キャラクターを選んだ。
「ねーちゃんはこれにして」
「はいはい」
三人ともキャラクターを選択すると、ゲームが始まった。
レースゲームである。
ただし、乗り物ではなく、擬人化された動物のキャラクターが、走って競争するのだ。
「マニュアルねーの?」
悠斗がつぶやく。
「知らなーい」画面から目をそらさぬまま憲史がこたえた。
「いらんでしょ、そんなの」結衣は、準備運動のようにかちかちとボタンを押しながら言った。
カウントダウンがはじまる。
3、2、1…。
ゼロ。
出遅れた。
まごまごしている間に、憲史の使っているモグラのキャラクター、ついで結衣の操るウサギのキャラクターがかけぬけていく。
あせって、ちらりと結衣のほうを見る。
憲史とさして変わらないスムーズな手つきで、コントローラーを操っている。
「……うそつき」
「なあにが?」
小さな声でつぶやいたつもりが、即座に聞き返される。
目は、画面のほうをむいているが、ちゃんと聞こえていたらしい。
「絶対、初めてじゃないだろ」
ようやくスピードをあげるボタンを見つけた。必死に追いつこうとするが、うまくいかない。
「なんでさ?」
スタート地点からはるか離れたところで、憲史のキャラクターとはげしくぶつかりあいながら、さらに聞き返してきた。
「操作方法わかってんじゃん」
そういうと、結衣はきょとんとした顔をして、ちらりとこちらの手元に目をやった。
それから、すぐ画面に目をもどして、いそがしく指を動かすのはとめずに、
「手元を見て、まねするだけでしょ。簡単じゃない」
なんだそりゃ、と納得がいかないまま、いつのまにか悠斗は負けていた。
*
結衣が、3回続けて勝ったところで、いったん抜けた。
悠斗と憲史は、プレイが白熱するにつれてテレビに近づき、ソファから降りて、カーペットのうえにじかに座っている。
結衣は、ソファの上に足をあげて座り、後ろから二人のプレイを見ていた。
「ねえ、」
ふいに、結衣が口を開いた。
「ん?」
「蓮はさ、うち来ないよね」
「なんだよ、いきなり」
コースを選ぶ操作の手をとめて、悠斗はききかえした。
「べっつに……。前はさ、来てたじゃん。みんなでさ」
いわれて、初めて悠斗はそのことに思い至った。
結衣、葵、晶子、悠斗、そして蓮。
去年までは、大体そのメンバーで、あちこちに遊びに行っていた。
全員でこの家に集まったことも、何度もある。
「まあ、あのさ……」
悠斗は、目線を画面からはずしてさまよわせた。
なんと言ったものか、迷いながら、
「クラスも分かれたし……色々あんじゃない」
「そうだねえ。私が6組、葵は1組。あんたたちは5組か。なんだかねー」
結衣はふうっと昏いためいきをついた。
悠斗はコントローラーをおいた。憲史はなぜか黙っていた。
「……蓮は考えすぎなんだよ。」
「そうねえ、」
結衣は明るくいいかけて、ふと声のトーンを落とした。
「……あたしも考えすぎるほうかな、たぶん」
「なにを?」
「なんにも。……ねえ、あんたはいいよね。」
「え?」
聞き返すしかなかった。
結衣がどんな顔をしているのか気になったが、振り向くことはできなかった。
「……晶子がいて、さ。」
くらい声だった。
少しして、結衣はソファをおりて、空になったコップをもってキッチンへいった。
悠斗は無言のまま、コントローラーを拾ってボタンをおした。
*
5時をすぎて、悠斗は帰ることにした。
二人に見送られながら、ドアをしめる。
門をくぐってから、なんとなく二階を見上げる。電気がついている。
結衣の母親も家にいたはずだ。だが、最後まで姿は見なかった。
いつも、そうだ。
かちゃん。
ドアがあく小さな音、走り寄ってくる足音、
憲史だった。
「ゆーくん、」
デパートのロゴが入ったちいさな紙袋を、ぐいっと押しつけてくる。
「なに、」中を覗きこむと、ラップに包まれた菓子のようなものが入っていた。
「クッキー。さっき食べたじゃん。」
「ああ、……くれるの?」
「これ、ねーちゃんがパパに作ったやつの残りなんだよ。置いとくとママが捨てちゃうから」
言われて、とりあえず受け取る。
なんとなく不安な気分になったが、そういうこともあるのだろう、と自分を納得させる。
「……ねえ、」
よりいっそう声をひそめて、憲史は続けた。
「ゆーくん、また来てよ」
「ああ、」
「ねーちゃんさ、……誰かこないと、遊べないからさあ」
なんだよ、それ。
そう、聞き返そうとしたときには、もう、憲史は玄関のところまで戻っていた。
「あ、」
と、憲史が振り向いた。屈託のない笑顔で、
「今度くるとき、レンジャーカード持ってきて! 対戦しようよ」
「いいよ。もうあんまやってねーけど」
悠斗はほっとして笑みを返した。
いつのまにか、2階の明かりは消えていた。
*
結衣は、うつむきながらコップを洗いおえた。
階段を降りてくる足音がする。
ぴくんと、心臓が跳ねる。肩がずしんと重くなる。
ため息をつきそうになって、こらえる。
ドアが開く音。
「……結衣、」
しずかな、重い声が、背中にべったりと粘りついてくる。
結衣はふりむいて、笑顔をつくった。
「なあに、ママ」
「おともだち、来てたのね。」
今、はじめて知ったことのように、若い母親はそう言った。
結衣は、唇をこわばらせながら、それでも笑顔を保っていた。
「これ、仕舞ったらすぐ部屋で勉強するから。大丈夫よ、ママ」
「……そういうことを言ってるんじゃないのよ。結衣」
声のトーンは変えずに、母親は結衣の目をじっと見つめた。
紅い唇には、うすい笑みが浮かんでいた。
結衣はびくんと震えて、スポンジをとりおとした。
額のおくに鈍い痛みを感じる。
何かがおかしい。
「少し、話があるの。ママの部屋まで来てくれる?」
はい、と答えなければならない。
喉の奥がひりついて、言葉が出なかった。
だのに、母親は気にする様子もなく、くるりと振り向いて廊下へ出ていった。
ぶきみに、上機嫌そうな足取りで。
*
その、少しだけ、前の時間。
晶子も、同じように親に呼ばれて、リビングの椅子にすわっていた。
*
「……あなたはとても頭がいいものね。パパそっくり。」
ドアをくぐったところで立ちつくす結衣に、母親は平坦な褒め言葉を投げつけた。
書き物机のうえから、きれいな写真の入ったチラシのようなものを取る。
「だから、……きっと、合格すると思うの。」
……合格って?
喉のところまであがってきたが、こらえた。
今は、聞き返してはいけない。そう思った。
「とてもいい学校よ。学力も高いし、先生たちもとても熱心みたいでね……。それに、なんていうか、品格ってあるじゃない? あなたにとても合っていると思うの」
ぼんやりとした目つきで、ドアのほうを見ながら、母親はそう続けた。
まだ、聞き返してはいけない。そうは思ったが、
「……なんのこと、ママ」
口から、それだけは漏れた。
「あら、」
意外なことに、母親は怒らなかった。無視されることもなく、
「もちろん、あなたの話よ。中学受験はさせてあげるって、言ってたでしょう?」
まるで、結衣が望んだことのように、そう言った。
「ここなら、頑張れば、パパの通った高校にも、行けるんじゃないかしら。結衣、あなたなら。」
パパの高校。
ふっと気がついて、チラシをじっと見る。聞いたこともない校名が記されている。
所在地━━
「とう、きょう……、」
「そうよ、もちろん。おかしな子ね」
母親は、笑った。
ほんとうにおかしそうに、息を漏らして。
「ああ、……心配しなくていいのよ。おばあちゃんたちには、私から言っておくから、ね」
「パパの実家から通うってこと? それって……」
必死で頭をめぐらせる。
一縷の、わずかな希望にかけて、おもねるように結衣は言った。
「もしかして、……パパ、転勤になったの? 東京の支部にもどるの?」
「いいえ。どうしてそんなことを言うの?」
わざとのように芝居がかった様子で、母親は目を見開いた。
「じゃ、わたし……」
「もちろん、あなたひとりで行くのよ。……パパはお仕事があるし、憲史ちゃんを転校させるなんて可哀想でしょう」
かっと、熱いものが脳に流れこんできた。
黒い塊のようなものが、ずっしりと、胃を重くする。
だめだ、と思った。認めてはいけない。絶対に。わかりきっている。
それでも、唇から出てきたのは、たった一言だった。
「そうね、ママ。」
母親はにっこりと笑った。ほんとうに嬉しそうに。
「いい子ね、結衣。」
「ありがとう、ママ」
結衣は、じっとりと濡れた笑みが自分の顔にはりつくのを感じていた。
かろうじて自由になっていた手足に、灰色の鎖が巻きついていくのが見えた。
そうして、
喉から悲鳴をしぼりだすように、結衣はかぼそい声で、
「でもママ、……パパは、どう言ってるの?」
そう、言った。
もちろん、逆鱗に触れることはわかりきっていた。
*
翌日、月曜日の朝。
悠斗は、いつものように晶子の家の前で待っていた。
おそい。
もう、10分は待っている。
インターホンを押そうか迷っていると、ドアがあいた。
「……ごめん、寝坊したの」
いつもより少し低い声でそういって、晶子は長い指で欠伸をおさえた。
「大丈夫かよ」
「ん、…」
「目の下、」
大きな隈ができている。唸りながら瞼をこすった。もちろん、消えるわけもない。
髪もどことなく乱れている。本当に寝坊したようだ。
「はやく行こうぜ、」
促されて、晶子は、うめき声をあげながら門をでた。
立ちどまる。
遠くを見るように、ぼうっと、まっすぐに目線をむけて。
「おい、」
悠斗はいらいらして晶子の肩をつついた。
「……ごめん。」
晶子は、ぱちぱちと目をしばたかせて、謝った。
「もう…。行くぞ」
悠斗は歩きだした。
5歩ほど進んだところで、振り返る。
晶子は、まだ立ち止まっていた。
ゆっくりと、こちらを見て、かすかに唇を震わせている。
悠斗は、なにか言わなければいけないような気がしたが、言葉が見つからなかった。
*
早足で5分ほど歩く。
いつもより少し学校に近いところで、追いついた。
「蓮!」
うしろ姿に声をかける。すぐに横にならぶ。
「晶子が寝坊して……」
言いかけて、悠斗は口をつぐんだ。
眼鏡のおくの目に、なんだか押し殺したようなものを感じる。
「なんだよ、……昨日のこと、怒ってんの?」
「……そうじゃねーよ」
蓮は足をとめないまま、目をふせてちょっと頬を歪ませた。
悠斗は当惑した。今日は、よくわからないことだらけだ。
「おはよう。」と、やはり不機嫌そうに、赤い髪留めをつけた、背の低い少女が声をかけてくる。
「おはよう、七海。」晶子がこたえるが、こちらも、テンションは低い。
そういえば、ふたりは従姉妹どうしだったなと、悠斗はふと思いだした。
「なんか……、」
よくわからないままに、一緒に歩いているものたちの顔をみる。
蓮、七海、豊正、芽衣━━それから、葵。
葵は、いまにも噛み付きそうな顔をして、こちらを睨んでいた。
なんなんだよ━━、本当に。
蓮が、まっすぐ前を見たまま、口をひらく。
「そうやってすぐヤツアタリすんじゃん。そーいうとこなんじゃねーの」
「何がだよ!」
葵が叫ぶ。
「葵、」芽衣がなにか言おうとするが、葵は無視した。
「なにが、八つ当りよ。何も言ってねーじゃんか。」
「言ってんのと一緒だろ。」
「なんだってんだよ!」
今にもつかみかからんばかりに蓮に近づいて、葵は吠える。
「やめろよ。」
豊正が、節くれだった手をふたりの間にさしだして、止めた。
「アタマのいい奴にはわかんねーよ!」
葵がこんどは豊正にくってかかる。
悠斗は眉をひそめた。豊正が、頭がいいだって? どういう意味だろう。
頭がいいといえば━━そういえば、そろそろ、通りかかるころだ。
喫茶店の角のむこうから、はねるような声がきこえてくる。
憲史の声である。
それから、やさしくそれに答える、結衣の声。
「おはよう、」
と、結衣がたちどまって言った。
いつもと変わらぬ、かすかに憂いのある笑顔をみて、悠斗はなんだか安心した。
葵が、なぜか足をとめた。
「ばーっか!」
叫んで、学校へむけて走りだす。
芽衣が、ちょっと困り顔で結衣のほうをみて、すぐ葵のあとを追う。
結衣はきょとんとして目をしばたかせていた。心当たりは、ないらしい。
「……なんだ、あれ」
悠斗は、そうつぶやいた。
誰も、答えなかった。
*
なんとなく、教室全体がよどんだような嫌な空気につつまれていた。
悠斗は、落ち着かない気持ちをおさえながら、自分の席で、クラスメイトたちの話を聞いていた。
「蓮がさあ、口をすべらせたっていうか」
まだ少し顔をしかめながらも、いつもの早口で、七海がそう言う。
「すべらせてねーよ」
「ていうか、言わなくてもいいのに言っちゃったっていうか」
「ちげーよ」
蓮は短いくせ毛をくしゃくしゃにかきまわして、吐き捨てるように言った。
「4組のヤツに聞いたんだよ。ほんとだって」
「ほんとかもしんないけどさー、それ葵に言うのはさー」
悠斗はがまんしきれなくなって、口をはさんだ。
「何を聞いたんだよ?」
「だから……」
いいよどむ蓮より先に、七海が答える。
「今年のクラス分けは、成績順なんだってさ。」
「はあ?」
おもわず、悠斗は聞き返した。蓮が答える。
「だから、6組から1組まで、成績のいいヤツから順にクラス分けされてるんだって。4年生からは、そういうクラス分けになるんだと」
とすれば、結衣のいる6組が最上位で、悠斗たちの5組がその次。
葵や芽衣の1組は、最下位のクラスということになる。
「……そんなの、先生、言ってたか?」
「あたしたちに言うわけないじゃん。内緒でしょ」七海はあっさりと首を振った。「……でも、言われてみればーって感じ、するよね。ほんとの成績とか知らないけどさ、たぶん結衣が断然トップじゃん?」
「だよな。あいつ、きっと私立の中学行くんだぜ」
いまいち、二人の盛り上がりについていけず、悠斗は顔をそむけた。
朝、葵といた他のメンバーを探してみる。豊正は、教室の後ろのほうで快と何やら話している。晶子はすぐ隣の席にいるが、葵との最初のやりとりは当然、見ていないはずだ。
ふと、気がついて、口にだす。
「……晶子は?」
「え?」
「晶子、成績いいだろ。算数とか国語は、結衣より……」
「体育がダメじゃん」七海があっさりと指摘した。
「図工と音楽も」蓮がにやにやしながら続ける。
「……理科と社会も、結衣よりは悪いよ」そう、言ったのは、とうの本人だった。
聞いていたのか、と悠斗はちょっと驚いた。隣の席にいて、聞こえないわけもないのだが、ずっと上の空で考え事をしているように見えたのだ。
「暗記とか、苦手なんだよねえ」
うすい笑みを口元に浮かべて、晶子はそういった。
苦手じゃなくてやらないだけだろ、と悠斗は口のなかでつぶやいた。晶子が勉強しているところを見たことがない。宿題だって、なんのかんの言ってサボっていたりする。それでも、テストの点数は悠斗や蓮よりよほど良い。
頭のデキが違うのか、と、少し暗い気分になる。
からりとドアがあいた。担任の、若い男性教師が入って来る。
教室がざわつく中、蓮と七海は、あわてて自分の席へ戻っていく。
悠斗はなんとなく気が楽になって、大きく息をついた。ふと気になって、横の晶子に、
「そういえば、……今朝、なんか……」
訊こうとして、なんと言っていいものか迷う。
べつに、寝坊した理由を聞きたいわけではない。
ただ、なんとなく様子がおかしかった。それだけなのだ。
「ああ、」
晶子は、悠斗の考えを察したかのように、切れ長の目を細めて頷いた。
「ちょっと……考えてたんだ。ゆうべから、ずっと……」
「考えてた…って?」
聞き返しながら、悠斗は心臓の鼓動が速まるのを感じていた。頬が熱くなる。
「悠斗、」
まっすぐこちらをみて、口元にかすかな笑みをうかべながら、大人びた声で、
「誰にも忘れられないような、大きなこと……って、なんだと思う?」
晶子は、そういった。
「きりーつ!」
日直の声がした。悠斗はあわてて立ち上がった。晶子はもうそしらぬ顔で前をむいていた。
*
四時間目の体育は、1組と合同だった。
葵や芽衣たちの姿をみて、悠斗はなんとなく気まずい思いで目をそらした。
気のせいか、1組の他のものたちも、こちらと目をあわせないようにしているようにみえた。
「背の順にならべーっ」
教師の指示で、クラス別、男女別に、列をつくる。
悠斗は先頭である。葵と距離がとれて、少しほっとした。
「今からーっ、騎馬戦の組分けをするーっ!」
来月のあたまに行われる、運動会の練習である。
騎手ひとりに対し、馬役が3人。
馬役は、騎手の体重を支えなければならないので、体格のよい者が向いている。
背の順にならんだそれぞれの列で、前から5名までが、騎手ということになった。
そこに、後ろのものが、教師の指示で適当に割り振られていく。
悠斗のところに来たのは、豊正と快、それに翔という太った少年だった。
となりを見ると葵がいた。1組女子の最初の騎馬に、馬役として入ったようだ。
葵は、ぎりりと眉に皺をつくってこちらを睨んできた。
あわてて目をそらす。蓮のせいで、と悠斗は口のなかでつぶやいた。
それぞれ、騎馬をくむ。
先頭のひとりの左肩に、右後ろの者が左手を。
右肩に、左後ろの者が右手を置いて、二人の腕を交差させる。
それから、それぞれの空いた手を、先頭の者の手とつなぐ。
騎手は、つないだ手に足をかけて、交差した腕をまたぐ。
馬が立ち上がるときには、騎手は、前の者の両肩に手をおいて、体重をささえる。
足がすべった。
翔と豊正の手の上にのせた右足が、安定しない。
もう一度、乗せなおして力をこめる。
よろける。こんどは、左足だ。
「ごめん…、」小さな声で、翔が謝罪する。
「いや、おれが」悠斗は首を振って、翔の肩にかけた手の位置をかえた。
「もう一回、いこう。」快が二人をはげます。
体勢をたてなおして、もう一度たちあがろうとしたところで、隣の声が聞こえてきた。
「せんせーいっ! 無理でえす」
葵と組んでいた、騎手役の女子であった。
「どうした?」
1組担任の、中年の男性教師が駆け寄ってきた。
「葵ちゃんが大きすぎて、立てませえん」
悠斗たちはなんとなく気をとられて動きをとめた。葵はなんとなく気まずそうに腕をくんで立っている。たしかに、他の馬役と比べると、肩の位置がとびぬけて高い。
「なんとかならんか?」
困り顔の教師に促されて、葵たちはもう一度チャレンジした。
葵が先頭の馬役となり、手のひらを上にして後ろに手をつきだす。
他の二人は、葵の肩に手をおき、もう片方の手を葵の手と組み合わせる。
なんとか馬の形にはなった。
しかし、そこに騎手が乗り、立とうとすると、うまくいかない。
葵の肩の位置が高すぎて、騎手が、葵の体にうまく体重をかけられない。なんとかバランスを保とうとしているうちに、馬役どうしつないだ手が離れてしまう。手の位置も高すぎるのだ。
「こりゃー、無理だなあ」
教師は列を見渡して、ちょっと考えこむそぶりをした。
1組の女子のなかでは、葵が一番背が高い。うまく体格をあわせるのは、かなり難しい。
「……よし。棚橋、おまえ騎手になれ」
「ええ!?」
叫んだのは、葵ではなく他の3人だった。葵も意外そうな顔をしている。
葵は太ってはいないが、身長なりに重さはある。騎手になるのは難しいはずだ。
「大丈夫。馬も組み替える。栗田! 菱岡! 飯田! こっちと代わってくれ」
1組の女子のなかで、比較的体格のいい3人が呼ばれた。
教師の指示で、3人が馬をつくった。
葵は、こわごわとその上にのり、足をかける。
立ち上がった。
少しよろけたが、安定している。
「どうだ、走れそうか?」
頷く。
教師は安心した様子で、他の組のフォローをしに去っていった。
「……さあ、立とう」
快が、翔たちを促した。
もう一度、力をこめて立ち上がろうとする。
「……すげーな。ありゃ勝てねー」
豊正が、思わずといった調子で呟くのが聞こえた。
*
結局、悠斗たちの騎馬は、まともに走ることができなかった。
立ち上がろうとすると、翔が耐え切れずに崩れてしまう。
何度か試して、最後になんとか立つことはできたが、走りだすと悠斗が落ちてしまった。
授業が終わり、悠斗はため息をついて歩きだした。
翔は小さくなって目を伏せているが、彼のせいばかりではない。最後に落馬したのは、自分がバランスをとれなかったせいだ。
「ゆーとーっ!」
葵の声だ。
「なっさけねーな。オトコのくせに」
にやにやしながら、肩を叩いてくる。
落馬したことを言っているのだ。悠斗はちょっといらいらして首をふった。
「本番、あたしたちが簡単に勝っちゃうなー。走れねーんじゃ勝負にならないもんな」
「やめろよ」
足を止めずに、肩の手を振り払うが、葵は悠斗のかぶっていた赤白帽をとりあげて、髪の毛をくしゃくしゃにかきまわしてきた。
「いーじゃん。勉強できてもさあ、こういうことができねーとな……」
上機嫌そうだ。
いつもなら、このまま受け流しておくところだが……。
うつむいて、目に涙をためている翔の姿が、視界に入ってしまった。
「やめろって言ってんだろ!」
悠斗は大声をあげて、葵の手をつかんでいた。
ざわめきが止まった。
空気が凍ったような気がした。一瞬、後悔したが、もう引き返せないと思った。
葵は、逆に悠斗の手首をつかんで、自分の肩のところまで持ちあげた。
「なんだよ……」
ぎりりと歯をむいて、見下ろしてくる。
「じゃー、おまえ、勝てんのかよ」
「そういうこと言ってんじゃ━━」
「逃げんなよ!」
すぐそばに、葵の顔があった。
胸ぐらをつかまれる。
「おい、━━」
あわてたような、誰かの声。
「よせよ、葵」
豊正が、こちらに駆け寄ってくる。
胸のおくに、重いものが湧き上がるのを感じた。
「……やってやるよ」
唇から、勝手に言葉が漏れていた。
葵は、ばかにしたように鼻を鳴らした。悠斗はかっとなって続けた。
「勝つよ。見てろ。俺たちが絶対勝つ」
「へえ?」
いつのまにか、両方のクラスのメンバーが、まわりに人垣をつくっていた。
「そうだよ、」
わって入ったのは蓮だった。悠斗をおしのけるようにして、葵をにらみつける。
「1組なんかに負けるもんか。おれたちのほうが強い」
「勝手なこと言うなよ」
こんどは、1組の翼がわってはいる。
「5組なんか、運動できねーやつばっかのくせに……」
「ちょっと!」今度は、七海が叫ぶ。「調子にのんな! 馬鹿ばっかのくせに」
売り言葉に買い言葉であったが、その一言が、1組に火をつけたようだった。
遠まきに見ていたものも加わって、大声で怒鳴り合いがはじまる。
悠斗は困惑して周囲をみた。ここまでの騒ぎを起こしたかったわけではない。
5組担任の水野が、昇降口のあたりを歩いている。1組の担任はもう教室へ戻ってしまったようだ。
止めてもらうべきか、それとも、━━
……かぁん!
とつぜん、大きな金属音がした。
騒いでいたものたちは口をつぐんで、音のしたほうを見た。
渡り廊下のそばで、晶子が、金属製の熊手をもって立っていた。
これで、渡り廊下の屋根を叩いたものらしい。
水野が、こちらをむいた。
晶子は、熊手を放りだして、無造作にこちらへと歩みよってきた。
みんな、毒気をぬかれたように黙りこんでいる。
誰からともなく動いて、道をあける。
晶子は、葵のまえに進みでて、にっこりと笑った。
「楽しみだね」
「……何が、」と、刺々しい声で聞き返す。
「本番が、さ」
晶子の態度をはかりかねて黙っている葵の手を、晶子はかるく握った。
「葵、……あたしたちは、優勝するよ」
葵の顔が、かっと赤くなった。
前のめりになって口を開こうとした、その瞬間、
晶子は、葵の手に、ぱあんと大きな音をたてて自分の掌を叩きつけた。
「勝ったほうが正しい。それでいいでしょう?」
そういいながら、晶子はまだ微笑んでいた。
しかし、悠斗の目には、いつもの笑顔とはまるで違って見えた。
「……じょーとーだよ」
葵は戸惑ったように首を振って、それでもまだ怒りをこめた目でこちらを見下ろしてきていた。
「おい!」
ようやく、水野がこちらに駆け寄ってきていた。
「お前ら━━、」
「先生、」晶子が、すずやかな声でいった。
「騎馬の組み分け、変えてもいいでしょう? 私たちで」
「そりゃ……」
水野はどうしていいか分からない様子で、頭をかいた。
「いいけど、後にしろよ。……みんな、早く教室に戻れ」
「はぁい。……いこう、みんな」
晶子がそういうと、皆はぞろぞろと歩きだした。
葵も、怒りをこめた目でこちらを睨みつつ、黙って動きだす。
悠斗は、翔のところにかけ寄って、かるく背中を叩いた。
「気にすんなよ」
「……ごめん」と、小さな声で、翔がこたえる。もう、泣いてはいないようだ。
「負けねーよ。俺たち。……女なんかに負けるもんか。」
そう、言ってから、晶子や七海に聞かれていなかったかと、あわてて周りをみまわす。
聞かれたところで、べつに、どうということもないのだが。
*
4年生は6クラスある。運動会の騎馬戦はトーナメント式だから、2つのクラスがシード権を得ることになる。対戦の組み合わせは、当日くじを引くまでわからない。
どのクラスもだいたい40人くらいだから、騎馬は10組。足りないところは、3人で騎馬をつくる。
10組のうち1騎が、大将である。大将がやられたら、負けとなる。
相手を倒す方法は、騎馬を崩すか、かぶっている帽子を奪うか。
3分経っても、どちらの大将も生き残っていれば、その時点の残り騎馬の数で勝敗をつける。
1回戦と2回戦は午前中、決勝戦は午後。
毎年、運動会の花形競技の一つである。
*
うすぐらい部屋に、夕日がさしこんでいる。
和室である。
乱雑におかれた棚から、箱や資料のようなものがいくつもはみ出している。窓の下には、途中で放り出したような機械類がそのまま置かれ、子供らしい文房具や、使いふるしのおもちゃと、ごちゃまぜになっている。
晶子の耳に、ふすまをひらく音がきこえた。かきもの机から顔をあげる。
「あ、来たの」
ぼんやりしたような目を、まっすぐむけて、そう言った。
「来いっていったじゃん」
悠斗だった。右手に、文字がびっしり書かれたわら半紙をつまみあげている。
椅子のところまでつかつかと歩み寄って、「ん、」と紙をおしつける。
「あーい」
晶子は長い爪を器用にたてて、受け取った紙をつまんだ。
冷房の風で吹き飛びそうになるのをおさえて、机のうえにひろげる。
それは、クラスの名簿だった。
4人ごとに線が引かれ、それぞれの一人目にマルがついている。
ゆっくりと目を通してから、
「……、これ、男女別?」
「え?」
悠斗は眉をしかめた。なにを言っているんだろう。
「男女別に組み分けしたの?」
「そりゃ…、そうだろ。」
「なんで?」
「え…、」
少し頭をかいて、首をひねる。
「……なんででも」
「ふーん」
いいながら、晶子は机のうえに目線をもどした。
さきほどまで何度も書きなおしていた紙を、もう一度にらみつける。
悠斗は、眉をひそめて晶子の手元をのぞきこんだ。
「なんだ、できてんじゃん」
「まあ、ね」
ふたつの紙をみくらべて、ちょっと動きをとめる。
「……やっぱり、まずいよ、これ」
悠斗は、晶子がつくった、男女混合の組み分け名簿をさして、
「ぜったい、なんか問題でるとおもう」
「そうかなあ?」
うーんと低いうなりをあげて、かりかりとシャープペンシルをいじる。
晶子の名簿には、びっしりと細かい書き込みがされている。身長とか体重とか、『歩幅ひろい!』とか、体格に関することがほとんどだが、いくつか関係さそうな落書きもある。
いちばん下の欄外には、ぐるぐると三重丸をつけられた名前があって、そこへ向けて何本もの矢印が描かれていた。
棚橋葵
そういう、名前であった。
「とにかくさ、男と女は分けて、」
悠斗がいいかけた直後、晶子が声をあげた。「できた!」いつのまにか、名簿の書き込みが、倍ほどに増えていた。二重線で打ち消したり、矢印で間に入れたり、狭いところにいくつも名前を書き足したりしている。
「できたって、……」
「男女別。いま、つくりなおしたの。見てたでしょう」
悠斗は口をつぐんだ。しばらく紙をにらみつけるが、とても理解できない。
「かきなおすよ。」
晶子はなんということもなく、わきから新しい紙をとってシャープペンシルをはしらせた。
すぐに、新しい名簿ができる。あいかわらず、字は汚い。
「みてくれる?」
ああ、といくぶん気後れしながら受け取ったとき、また、からりとふすまがあいた。
洋菓子と、麦茶の入ったコップがふたつ載った盆をもった、背の高い女がたっていた。
晶子の母親である。
「どうぞ。これね、貰い物なんだけど。晶子が食べないから余っちゃってねー、」
机のうえに盆をおきながら、あかるい声でそう言う。
「甘いのきらいなんだもん。……えびせん、なかった?」
晶子が、めずらしく上目遣いで、あまえた声をだす。
「きのう、お父さんが食べてたじゃんか。あ、でもさきいかならまだあったかも。探してみよっか」
「うん、」
にやあっと、大きく歯をみせて晶子は笑った。
あまり、教室ではみせることのない顔だった。
ぱたんと襖が閉まってから、悠斗はマドレーヌの小袋をとって部屋のまんなかに座りこんだ。晶子も、椅子からおりてむかいあわせに腰をおろす。
「……これ、ずいぶん偏ってないか?」
「うん。」
けちをつけたつもりが頷かれてしまい、悠斗は戸惑った。
「快のチームと、豊正のチーム。動けるヤツがみんなここに集まってるだろ?」
その『動けるヤツ』の中には、悠斗は含まれていない。当然のことだが。
「そうだよ。……男女混合だったら、もう一隊いけたんだけど。」
「これじゃ、ほかが弱すぎるじゃん。それに大将騎だってさ━━」
大将は、晶子。
それは、きょうクラスのみんなで決めたことだ。
「もっと、走れるやつを集めたらいいじゃん。いいやつを七海や凛のとこにまわして、余り物だろ」
「そりゃ失礼だよ」
晶子はわざとらしく苦笑した。
「きまったメンバーしかいないんだから、仕方ない。いくら強いウマ役を集めたって、わたしじゃ葵と戦えないでしょ。他で勝たなきゃ」
「ふーん……、」
なんとなく納得したような顔をして、悠斗はもう一度名簿をみた。
騎手のうちに自分の名もある。背が低く、馬には向かないというだけのことだろうが━━
「……なあ、頼みがあるんだけど」
「ん?」
低い声でいわれて、晶子は片眉をあげた。
「翔、おれのチームに入れてよ」
「いいけど……、」
晶子は何かいいたげにこちらをじっと見た。悠斗は眉をしかめて見返した。
「……どうしても?」
「どうしても。」
「じゃ、……あとで書き換えとく。ところでさ、こっちも頼みがあるんだけど。」
「え?」
「練習場所を、とってほしいんだ」
「場所って……、校庭?」
「ううん。」晶子はかるく首をふった。「運動公園。町営の。悠斗のお父さんってたしか役場の人でしょ。予約の仕方きいてもらってさ━━」
「いいけど、」悠斗はちょっと混乱してききかえした。「先生にいえば、校庭使わせてもらえるんじゃないの。夕方とか休みの日とかでもさ━━」
「だって校庭じゃ、他のクラスにまるわかりじゃん」
悠斗は絶句した。
そこまで、考えるのか。
「いやあ━━、」晶子は、なんだか照れたように、「一応、ね。本気で気にするわけじゃないけど。」
そう、いった。
……どっかずれてんだよ、おまえ。
悠斗が、その言葉を口の中で噛み潰したとき、もう一度襖があいた。
「さきいかは?」
顔をだした母親がなにか言うよりも先に、晶子がたずねる。
「なかったっ!」にいっと笑って首をふってから、「悠斗くん、夕飯食べてくよね? おばさん、もう連絡しちゃった」晶子によくにた、長い指をひらひらと動かして、かるい口調で言う。
「ええまあ……じゃあ。」
悠斗は曖昧にうなずいた。
まだ、両親とも職場だろう。いますぐに帰っても、家には誰もいない。
カレーライスの匂いが漂ってきた。
*
悠斗が帰ったあと、晶子はもう一度母親に訊かれた。
もちろん、気が変わろうはずもなかった。
*
さて━━
つぎの日曜日。
運動公園に、クラスのほとんどの者がやってきていた。
ざわざわと騒ぐ女の子たちの中心で、七海がなにごとか喋っている。
男子たちは、晶子が持っている紙をのぞきこみながら、お互いつつきあっているようだ。
「集まってーっ!」
九時。
七海がさけぶ。
管理事務所の前の広場に、ぞろぞろとみんなが集まってくる。
「組み分けを発表しまーす。まず、隊長10人! いまから呼ぶからねーっ」
「ちょっと待てよーっ!」
事務所のなかにいた悠斗は、あわてて叫んだ。受け取ったばかりのお釣りと使用許可証をポケットに突っ込んで、おもてへ飛び出す。
七海は、まん丸い目でちらりと悠斗をみて、くくっと笑い声を漏らした。
「━━じゃ、いきまーす。1番隊長、快! 2番隊長、豊正! 3ばん、蓮! 4ばん、あたし! 5ばん、凛! 6番、さくら! 7番、陽菜! 8番、拓海! 9番、悠斗! 10番、晶子が大将でーす!」
呼ばれたものたちが、すこし照れくさそうに前に出てくる。
みな、動きやすそうな服装をしている。いつもスカートの晶子も、今日はジーンズだ。
「はーい、しずかにっ。それじゃ、メンバーを読み上げるから、隊長のまえに集まってねーっ」
ばたばたと忙しく手をふりながら、七海がさけぶ。
呼ばれた順に、それぞれ馬役が騎手のまえに集まる。
悠斗のところに来たのは、大輝、空、翔。
おせじにも、いいメンバーとは言えない。
「集まったらーっ! 騎馬を━━」
「七海。」
晶子が、すっと手をあげた。
そのまま、前に出て、七海のとなりに立つ。
「みんな、」
しずかな声で、
「ありがとう。」
なぜか、うれしそうに目を細めて、
「今日は、みんな来てくれたけど、運動会まで、そんなに時間はとれません。たぶん、あと2回か3回。それで、おしまいです。それで━━」
すっと、息をついて、くるりと全員の顔をみまわして、
「わたしたちは、優勝します。」
晶子は、そう、言ったのだ。
*
騎馬が立ちあがったあと、晶子は、くるりと周囲をあるいて、いちいち検分してまわった。
それから、何人かに声をかけて、位置をかえた。豊正の騎馬と、快の騎馬は、馬役をふたり交換した。
最後に、よろよろと危なっかしい足取りで大将騎が立ち上がると、晶子は満足げにわらった。
*
翔がもうふらついている。
悠斗は、軽く肩を叩いて気遣った。うしろの大輝と空も、余裕はないようだ。
隣には、晶子の騎馬。
ほかの騎馬は、もうずっと前にいる。
快の騎馬と、豊正の騎馬。
蓮の騎馬と、七海の騎馬。
凛の騎馬と、さくらの騎馬。
陽菜の騎馬と、拓海の騎馬。
悠斗の騎馬と、晶子の騎馬。
それぞれ、ペアをくんで、走っている。
『けして離れないように。練習中も、本番もね』
晶子は、そういった。どういう意味があるのかは、説明しなかった。
「あ、」
右後ろからつぶやく声。ふりむく間もなく、足元が滑った。
翔と大輝の手が離れたのだ。
がっ、と肩に衝撃がはしる。
地面にあたったのだ、と気づく前に、耳に痛みが走った。
「ごめん!」
悲鳴のような声が聞こえてくる。
めのまえに、黒ぶちの眼鏡が落ちていた。大輝のものだ。
「すべったんだ━━」
目を伏せるようにして、ちらちらとこっちを見下ろしてくる。
「いいよ、」
たちあがる。耳たぶを少し擦ったくらいで、もうどこも痛くない。
「大丈夫?」
空が、ふんわりした女のような目を細めて、顔をのぞきこんできた。
「どっこも。……組み直そうぜ」
「いやあ、いったん休憩しようか」
頭上から声がふってきた。
晶子だ。
「みんな、もう疲れちゃったみたいだし。」
ひどく青白い顔で、晶子はそういった。
騎手のくせに、いちばん息を荒くして、汗だくになっていた。
*
30分の休憩をはさんで、次の練習をすることになった。
個人戦。実戦を意識して、騎馬どうしで戦うのだ。
ただし、1対1ではなく、
*
快の組。
それから、晶子の組と、悠斗の組。
最初に、その組み合わせで、2対1の戦いをやることになった。
おてほんだよ、と晶子はいった。悠斗はすこし不満だったが。
3者が騎馬をくみおえて、対峙した。あいだは10メートルほどとって、七海が審判として立った。
晶子が、自信にみちあふれた目でこちらをみて、笑った。
「よぉい……はじめっ!」
七海が手をあげた。快の騎馬が、勢いよく突っ込んできた。
10歩の距離を、ちょうど10歩で。そういう足取りだった。
対して、こちらは動かない。いや、動けなかった。
「それでいいんだよ、」
みすかしたように、晶子がこちらをみる。
直後、騎馬がぶつかった。
正面衝突。
翔の額と、快の騎馬役である良一の胸が、大きく揺れながらぶつかった。
悠斗は、不安定にうごく足場にふらつきながら、まっすぐ前をみすえた。
快のととのった顔が、すぐ近くにあった。
手がのびてきた。
長い腕が、馬役ふたりぶんの距離をあっさりとこえて、悠斗の帽子へのびる。
つかむ。
右手首を、左手で。左手首を、右手で。
つかんで、とりあえず止める。力の差は歴然としていて、ずっとは止められそうもない。
足場もちがいすぎる。悠斗の足がのっている掌は、ひどく不安定だ。
このまま押し負ける。でなければ、騎馬が崩れる━━
そう思ったとき、ふいに、快の手から力が抜けた。
一瞬、幼子のような目をまるくして、首をかしげる。それから、すぐに悔しげに頬を歪める。
快の頭から、帽子が消えていた。
「勝負ありーっ!」
七海の声。
快の騎馬によりそうようにして、晶子の騎馬が立っていた。
右手の人差し指にかるく快の帽子をひっかけて、晶子はやわらかく笑った。
*
考えてみれば━━いや、考えるまでもなく、当たり前のことだった。
「2対1で戦うと、数が多いほうが勝ちます」
低学年の授業のような口調で、晶子は説明した。
「だから、相方の騎馬とはぜったい離れないように。相方がやられたら、すぐ他の味方をみつけてくっつきましょう。敵はなるべく1騎ずつ、はさみうちに。……さっき見せたように、1騎が囮になるのもいいですね。それから━━」
こういうときの晶子は、ほんとうに楽しそうだ。
なんだか、芝居がかったような歩き方で、みんなの前をうろうろと動きながら、続ける。
「……それから、進む方向や狙いは、騎手がちゃんと指示して下さい。全体が見えてますから。試合では、私が指示を出す場面もあります。大将から騎手に、騎手が馬に号令をかける。馬役の中でも先頭の人が舵をきって、後ろの二人はそれにあわせます」
みんな、真剣にきいているが、悠斗はすこし冷めていた。
体育教師にでもなるつもりか? 運動音痴で、ちょっと走ると貧血を起こすくせに。
とはいえ━━
さっきは、快に勝った。
葵の顔が、頭のなかにちらつく。胸が燃えあがるように熱かった。
おれが。
おれが、あいつに、勝てるとしたら。
きっと。
*
しきり直して、もう一度。
順ぐりに、1対2の対戦をくりかえした。何度目かの順番がまわってきて、ふたたび快との対戦。
あっさりと負けた。
両手首を握っておさえる、同じ形に持ち込んだのに。
押してくると思った瞬間に、強く引っ張られ、馬が崩れた。
横から帽子をさらおうとしていた晶子の手も、あっさりとかわされ、逆に帽子をとられた。
晶子は、なぜだか嬉しそうにしていた。
負けたくせに。
*
「……ごめん、踏ん張りきれなかった」
翔が頭をさげてきた。
「いや、……お前はわるくないよ。」
悠斗は頭をかきながらそういった。
翔はよくやっている。本当に。負けたのは自分のせいだ。
「悠斗!」
快が近寄ってきた。
「リベンジ。どーだ?」
ゆかいそうに笑って、
「あのさ、……ちょっと、いい?」
「何が?」
「今のさ。お前ら、おれたちよりちっちゃいじゃん? 力だって」
「……そうだけど、」
ちらりとチームメイトを見てつぶやいた悠斗に、快はあわてて手を振った。
「だから━━、正面から組み合ったら不利だってこと。こっちからすると、怖いのはさ、」
快は右足をちょいとあげた。脚が長いので細く見えるが、腿にはかなりの筋肉がついている。
「身長差があるから、下半身にがっつり組み付かれるとヤだなって思うよ。そんで、馬役も協力して、思いきりバックして引っ張るわけ。そしたら、たぶん崩せるんじゃないか」
「あー……、」
やけに具体的なアドバイスだった。
つかつかと仏頂面で、豊正がこちらに近づいてきて、いった。
「……さっき、二人ですこし話してたんだよ。俺たちも、葵と戦うときには、それ、やるよ。あいつ、俺たちより大きいもんな」
「うん、……」
悠斗はうなずいた。
そうだ。
勝ちたいのは、自分だけではないのだ。
*
ひととおりの練習が終わったが、まだまだ明るい時間だ。
みんな、帰ろうとせず、話しこんでいる。なんだか盛り上がっているようだ。
運動公園の利用時間は、まだある。
「……なあ、」
大時計から目をおろして、悠斗は晶子にいった。
「もう少し、━━」
「━━いやあ、やめとこう」
悠斗の声をさえぎるようにして、晶子は首をふった。
「やりすぎないほうがいい。それに、……私、もう限界」
晶子は口元に笑みをうかべていたが、脚はかすかに震えていた。
悠斗は思わずふっと息をついた。なんだか安心した。
ここ数日で、晶子が少し遠くへ行ってしまったように感じていたから。
「……なんだよ、それ。もう」
「いいじゃん。それに、悠斗の班、揃ってないでしょう」
「え?」
言われて、悠斗はあわてて後ろをふりかえった。全員いたはずだ。
ベンチの後ろに、空。その少し後ろに、翔がすわりこんでいる。
大輝がいない。
「あ、」
空が、いつもののんびりした声で、
「大輝、さきに帰ったよ。塾だってさあ」
そう、言った。
「……あ、そう」
なんだか気が抜けてしまった。悠斗は二人から目線をはずして宙をあおいだ。
翔の申し訳なさそうな目が、少しだけ煩わしくもあった。
*
その日の夜。
悠斗は、隣町のレンタルビデオ店にいた。
もう、夜中にちかい時間である。
兄の気まぐれに便乗したのだが、正直、すこし後悔していた。昼間の疲れで、もう眠い。
それでも、店に入ったときには嬉しくて、気に入りの特撮シリーズの棚にかけこんだ。
「あ、」
気まずそうな声。
思ってもいなかった顔があった。
大輝だ。
「おまえ…、」
夜にこんなトコ来たりすんの、とただ訊くつもりだったが、
「ごめん!」
大輝は、眼鏡がおちそうな勢いで頭をさげてきた。
悠斗はちょっと考えて、ようやく思い至った。
「……先に帰ったことなら、別に気にしてねーよ。塾じゃ仕方ないもんな。━━でも、」
いちおう、付け加える。
「━━今度から、おれにも言って行ってよ。同じチームなんだからさ」
「うん、……ごめん」
大輝は、もう一度、……今度はおおげさにでなく、軽く頭をさげた。
「……ほんとは、もうちょっとだけ早く帰るつもりだったんだ。けど、楽しくて……つい忘れててさ。電車の時間ギリになっちゃったから、慌てて飛び出したんだ」
「ふーん……」
悠斗はちょっと眉をしかめた。大輝はきょとんとして、
「なに?」
「いやあ、ちょっと意外っていうか、楽しかったってのが……」
悠斗は、なんとなく気を遣って言葉を選んだ。大輝は、ああ、とかるく頷いた。
「まあ、疲れたけどさ……」
「だよな。……ねえ、なに借りんの。おれはさ━━」
少し後ろめたくなって、悠斗は話題をかえた。すぐ横の棚から、いつものシリーズの新作をとって、
「━━これ。『レンジャーズ』の新しいやつ。テレビで見たトコだけど」
「ああ…、面白いよね」
大輝はちょっとうわずった声になった。
「……ぼくはさ、これが好きなんだ。『ザ・メドン』シリーズ」
大輝がさしたのは、ひとつ隣の棚、特撮映画もののコーナーだった。
「へえ……、これ、大人向けじゃないの。てか、昔のやつだろ。俺らが生まれる前の」
「そうだけど、新作も出てるんだよ」
いいながら、大輝が棚からとった作品は、たしかに新しいもののようだった。
「リメイクっての? 昔のと同じタイトルだけど、今の技術で、新しい脚本でさ。こないだ劇場でやったばかりなんだけど」
「ふーん……」
そういえば、CMで見たような気もする。
「……くわしいのな。なんか」
「うん、……僕さ、将来、こういうの━━」
いいかけて、大輝はふと動きをとめた。
聞こえてきたからだ。
棚ひとつむこう、いや、もうひとつ先か。
よく知っている声が。
『いったほうが━━』
店内放送と客たちのざわめきに紛れて、かすかにしか聞こえない。
それでも、
『━━いいんじゃないの。はっきり……、』
『こんな……くるのはよくないって?』
『違うよ。もうこんな……はやめなさいって。だって……』
大輝は、胸におもたいものを感じながら悠斗のほうを見た。
悠斗は眉をしかめている。聞こえているのかどうか、わからない。
『あの子、本当になにもできないんだから。勉強くらい、死ぬ気で頑張ってもらわなきゃ。』
ぞくり。
悪寒が、胸から口元まで一気にかけのぼってきた。
悠斗のほうを見る。顔をしかめて目を伏せている。
「……ごめん、」
大輝は、しぼりだすようにいった。
持っていたパッケージを棚に戻して、
「うちの親……、無神経なんだ」
そう、口をついて出てから、後悔して目をふせた。
ごめん、ともう一度いってから、背を向けて、歩きだす。
悠斗は、なにもいえずに、しばらく立ち尽くしていた。
*
次の練習の日は、すぐにやってきた。
「ふたつ、作戦を教えます。」
晶子は、みんなの前にでて、そういった。
中央突破と、包囲。
「まずは、そのふたつを身につけましょう。」
そうして、練習がはじまった。
*
一時間ほどやって、少し休憩していたとき、さくらが明るい声をあげた。
「あーっ!」
駐車場からつづく遊歩道のほうへ手を振る。
大勢の子どもたちが、こちらに歩いてきている。
その先頭に立っているのは、まつげの長い、赤いフレームの眼鏡をかけた少女であった。今日は、スポーツ用品メーカーのロゴが入った白い帽子をかぶって、黒地に赤いストライプの入ったトレーニングウェアをきている。
「結衣?」
蓮が、いぶかしげにつぶやいた。
結衣は、白い手をおおきくあげて、にっこりと笑った。
*
「あんたたちが、ここで練習してるって聞いたからさァ」
結衣は、悪びれるでもなく、
「となりのスペース。予約したの。やっぱし、うちも少しは練習しとかないと」
6組は、結衣が大将であるらしい。晶子たちと同じく、クラスのほぼ全員がここに来ている。
蓮をはじめ、5組のものたちは、戸惑った様子でかれらをみていた。晶子と悠斗、さくらの三人だけが、結衣をかこむようにして話している。
「結衣、やらねえのー?」
こちらも、なんとなく遠巻きにしながら、6組の亮介が声をあげた。結衣は、かるく手をふって、「ちょっと待っててぇー!」とさけんだ。
「……で、さァ」
結衣は、晶子の顔をかるく覗きこむようにして、手をあわせた。
「どうせだから、ちょっと一緒にやりたいっていうか……お互い参考になるんじゃないかなって」
悠斗はちらりと6組のものたちの顔色をうかがった。だれも驚いている様子はない。あらかじめ相談のうえということか。
「いいよ」
晶子は、こともなげにこたえた。
いや、少し、ほんの少し、上機嫌そうに、唇を歪めていたかもしれない。
「じゃあ、本番とおなじ3分。1回勝負ね。勝っても負けても、恨みっこなしってことで」
「え」
結衣は軽くうめいて、クラスメイトたちに視線を投げる。だれも答えない。
少しだけ目を伏せて、かるくため息。
「……おっけー、やろっか」
してやられた、という顔で。
*
「だいじょうぶ、」
晶子は、みんなを集めて、大人びた、やさしい声でいった。
「これは、わたしたちのための試合。わたしたちが、優勝するために━━」
唇のはしをつりあげて、なんだかとても嬉しそうに、
「6組には、踏み台になってもらいます」
そう、言った。
*
本番と同じくらいの距離を目分量でとって、開始線をひいた。
その線にそって、互いの騎馬がならぶ。
みな私服だが、帽子だけは、体育の授業でつかう赤白帽をかぶっている。
赤い帽子の6組は、右から、
亮介、
大翔、
陸、
悠希、
海斗、
結衣、
莉子、
美咲、
花音、
杏の順に、ならんでいる。
対して、5組は白帽子。
快、
蓮、
七海、
悠斗、
晶子、
陽菜、
拓海、
凛、
さくら、
豊正。
間隔は、ひとつおきに近く、その次は少し広く。
バディとなる騎馬どうしの距離を、密にしている。
ただし、快と豊正のペアだけは、別れて、両翼にいる。
かれらには、特別な役割があるからだ。
*
「突撃隊、とでもよぼうか」
晶子は、豊正と快のチームのものたちに、そういった。
「どちらの作戦でも、きみたちがいちばん重要だ」
だから、たのんだよ、と。
*
6組の騎馬たちは、どことなく落ち着かなげな様子で、ざわめいている。
結衣は、自分の騎馬のうえから左右を見渡して、大きな声でいった。
「快と豊正に気をつけて! あとはたいしたことない。普通にぶつかろう」
いいながら、なんとなく察してはいた。
たぶん、そういう戦いではない。
晶子。気をつけるならば、あいつだ。
そう、考えたところで、どうなるものでもないが。
*
全員が参加しているから、審判はいない。
かわりに、両軍の選手たちが、大声でカウントをする。
「さーんっ! にーっ! いちーっ!」
だんだん、声が強くなる。
脚に力がたまる。
「はじめーっ!」
開始の合図と同時に、6組の騎馬は、いっせいに走りだした。
5組の騎馬は、すぐには動かない。
たっぷり、5秒。
そのあいだ、じいっと前をみすえていた晶子が、右手をあげた。
「さくせーん、いちぃーっ!」
合図にさっと応えて、5組の騎馬が動きだす。
快と豊正は、交差するように中央へ。
あとのものたちも、開いた本をとじるように、大将の前にでて、ひとかたまりで突き進んだ。
*
「1騎に対して複数でかかれば、勝てる。この前やったでしょう」
いわれて、悠斗は前回の練習を思い浮かべる。
「だから、全員で中央にあつまって、敵の数より味方の数のほうが多いエリアをつくる。これが、中央突破作戦。……わたしが『作戦1』と号令したら、この形に動いて」
なるほど、とは思う。
けれども、悠斗はまだ不安だった。
2対1でも、結局、快には負けたではないか。
*
先頭に、快と豊正。
蓮と七海、凛とさくらが並んでその後方に。
陽菜、拓海、悠斗、晶子はさらに奥。自然に、3重の隊列ができる。
対して、6組は、隊列というほどのものはない。歩調もあわず、ばらばらに前進している。
結衣の騎がすこし突出して、そのあとに、悠希、海斗、莉子、美咲。あとの騎馬はかなり後ろだ。
五秒後、快と豊正が、結衣と接触した。
*
「中央突破作戦では、スピードがいちばん重要だよ」
晶子は、こういうことになると、とたんに饒舌になる。
「敵と味方は同じ数だけいるんだから、味方が一箇所にかたまっているということは、敵に包囲されるという事。……そうならないためには、どうするか?」
むろん、こたえるものは誰もいない。晶子は、みずから続ける。
「疾さ。それだけ。」
*
一秒でも早く、敵軍の中央にぶつかれ。
あいての両翼が、こちらを包み込む前に。
一秒でも早く、敵の大将をとらえよ。
他の騎馬が、大将を守ろうとする前に。
相手の態勢がととのう前に、一丸となって相手の大将をしとめる。
そうすることで、相手チームの大半を決戦に参加させず、数の優位を保ったまま決着する。
それが、中央突破作戦の肝であった。
*
ふたりの手が、同時に、左右から結衣の頭へのびた。
とれる。
そう、確信した。しかし、そうではなかった。
指先が、結衣の帽子のわずか上を、空をきってぬけていく。
結衣が、身をしずめて避けたのだ。
前傾姿勢となったふたりの肘に、下から手をあてて、軽くつきあげる。
のびきった腕が、ぽん、とはじかれて力が抜ける。
「はしれぇっ!」
高い声で号令。はっと気づいたように結衣の下にいる三人がスピードをあげる。
2秒ほどで、結衣はふたりの視界からきえた。間をすりぬけて、陣の奥へと。
快は、あわてて体を左にひねって後ろをむいた。すぐに方向転換して追わなくては。
すると、目の前に、結衣の顔があった。
(やられた!)
一瞬のできごとである。
結衣の騎は、かわらず全速力で、晶子のいる前方へと駆けている最中だ。
快は、結衣を目で追おうとするあまり、ふりむいた瞬間、大きく体をかたむけた。
頭を、帽子をつきだすような格好に。
わずかに早く、半身をこちらにむけて、結衣はその一瞬をまちうけていた。
「ごめんね、」
そう囁くのがきこえた。あわてて手をのばす。とどかない。体勢が不安定すぎる。
直後、頭から帽子の感触がきえた。結衣の騎はもう走りさっていた。
快は、なかば呆然として、急停止した騎馬のうえで数秒のあいだたちつくした。
*
凛は、きつい目をさらに細めて、かるく舌打ちした。
快がやられた。豊正は方向転換に手間取って、あとからきた4騎に囲まれている。
それでも、右に蓮と七海、左に自分とさくら。こちらも4騎で、大将である結衣を囲むかたちはできている。まだ、作戦どおりだ。
自分と七海で前をふさぎ、さくらと蓮が後ろから帽子をとる。それで終わるはずだ。
結衣が突っ込んでくる。
はやい。
凛と七海のあいだは、まだ少しあいている。強引につっこまれたら、通してしまうかもしれない。
とっさに、右腕を大きくつきだした。ちょうど、結衣の顔の高さに。
結衣は速度をゆるめない。
あたる。そう思った瞬間、
腕のつけねを掴まれて、ぐるりと体重が反転した。
足の下になにもない。
宙にういている。そう、気がつく。
*
凛が落馬した。
いや、結衣に落とされた。
凛のさしだした腕にぶつかりそうになっても、結衣の騎馬は速度をゆるめなかった。
ぶつかりそうになる寸前、結衣は両手で凛の肩と脇の下をつかんだ。
そのまま、騎馬の勢いと自分の体重をのせて、ひき倒したのである。
凛は、右側にバランスを崩して足をふみはずし、騎馬からころげおちた。
*
凛が、大きな音をたてて地面に叩きつけられた。
同時に、三人の馬役も、よろめいて倒れるように膝をつく。
すぐ後方にいた拓海の騎馬も、あおりをくって揺れた。拓海はかん高い声でうめいて、たてなおそうと身をふるわせている。いずれにせよ、すぐには動けそうにない。
右側にいる陽菜の騎馬は、脚がすくんでいるのか、まったく間合いをつめようとしない。
もう、結衣と晶子のあいだにいるのは、おれたちだけだ。
悠斗は、目の前にいる結衣の顔を、ぎりりと強くにらみつけた。
結衣は、大きく目をかがやかせて、うれしそうにこちらを見つめている。
晶子は、後ろでどんな顔をしているのだろう?
右手をのばしてくる。
手首をつかんで止める。
こんどは左手。
つかむ。
するりと抜けた。
(汗ですべった?)
いや、そうではない。
つかまれる瞬間に、結衣は手首をひねって隙間をつくっていたのだ。
そう、気がついたときには、結衣の顔がすぐ近くに迫ってきていた。
左手が、鞭のようにしなってとびかかってくる。
頭をしずめて、かわそうとする━━
と、
ふいに、結衣の顔が視界からきえた。
蓮、七海、さくら。
三人の手が、いっせいに結衣の肩と背中をおさえつけていた。
地面にむけて垂れた結衣の首から、はらりと帽子が落ちる。
勝った。ともかくも。
そう思って、ふっと息をついたとき、悠斗はふと違和感をいだいて眉をしかめた。
自分の帽子がない。
そこで、やっと気づく。
さきほどまで空いていた結衣の左手に、赤白帽がひとつ握られていた。
*
終わってみれば、すべてが作戦通りと言えないこともなかった。
考えなしに飛びだしてきた大将を、こちらの全戦力で包囲して、迅速に叩きつぶした。
そういう言い方もできる。
じっさい、試合後のミーティングで、晶子はそう説明した。
本当のところ、どう思っていたかは、わからない。
*
反省会をおえて、しばらく休憩となった。
15分後━━
*
「それじゃあ、本当なの、」
結衣と晶子は、事務所のうらで、フェンスに軽くもたれながら話している。
ペットボトルに入ったスポーツ飲料と、緑茶をそれぞれ飲みながら。
「うん。」
「じゃあ、さ━━、」
*
時間になっても晶子が戻ってこないので、悠斗は事務所のまわりをぐるりと歩いてまわった。
自動販売機の前を通って、あずまやの横をぬける。裏口に近づいたとき、声が聞こえてきた。
*
「賭けよう。本番で、うちのクラスが優勝したら、あなたは行かない。いいでしょ?」
*
「晶子、」
声をかけると、二人はすぐに口をつぐんで、こちらを振り向いた。
「すぐ行くよ。」
いつもの落ち着いた声で、そういって、歩きだす。
からんと、ごみ箱にペットボトルを投げ込む音。
こちらに近寄ってきた晶子に、悠斗は小さな声できいた。
「賭けって、何だよ。」
晶子はかるく首を振った。そのままわきを抜けて、運動場へと歩いていく。
(なんだよ、……もう)
悠斗はなんとなく苛立って、その場にとどまった。結衣のほうを見る。
結衣は、ふたえの目をかるく伏せて、じっと考えこむように壁をみつめていた。
*
約三時間後━━
大輝は、いつものように電車の中にいた。
二人がけの座席の通路側。膝の上には、算数の受験参考書。何度も目を走らせるが、内容が頭に入ってこない。
眉をしかめて、視線をはずす。
同じ車両の端に、6組の日浦結衣がいるのが目に入る。彼女はいつも立っている。席が空いていようと、いまいと。いつも、同じ駅から同じ車両に乗るが、話したことはない。
なんだかお腹が痛い。ここ最近、よくあることだが。
参考書をとじる。
どうせ、あとひと駅だ。
疲れているが、眠くはない。
このところ、あまり眠くならない。そのかわり、頭痛が少しする。
アナウンスが聞こえてきた。
ちらりと、結衣がこちらを見たような気がする。
胸が少し痛んだ。
*
結衣と同じ駅で降りて、人ごみにまぎれて改札を出た。
北口まで歩いて、遊歩道をぬけると大きな公園がある。そこを抜ければ、すぐだ。
公園のなかほどまできて、大輝は足を止めた。
まだ少し時間はある。
噴水のはしに腰かけて、参考書をひらく。
塾についてからやればいいのだが、なんとなくまだ行ってはいけない気がした。
ため息をつく。
簡単な計算問題がいくつか、それから図形が2つと、その解説。
なんていうことないページだ。一度は解いているから、とりあえず目を通すだけ。
ずきんと、頭の右側が痛む。
なんだか、目が滑る。
眼鏡をかけなおす。計算式を、声にだして読んでみる。もちろん、読めないわけがない。
頭がぼんやりしている。
二回、ページをめくりなおして、一度目をとじる。
大時計を見上げる。
(あれ……?)
いつのまにか、20分も経っている。
(疲れてんのかな…)
ぼんやりと、そう思う。
それから、もう一度目線をさげて、参考書をにらんだとき━━
鋭い痛みが、体の中央をつらぬいた。
「つっ……!」
うめいて、腰をまげる。
いやな匂いのする汗が、だらだらと額をつたう。
吐きけがする━━
(大丈夫……)そう、自分にいいきかせる。
初めてじゃない。だから、大丈夫だ。
お腹が痛いのも、頭がぼんやりするのも……。
足がすくんでしまうのも。
腹をおさえて、しばらく地面をみる。
脂汗がぼたぼたと垂れる。
涙は出てこない。
先月だったか、病院にかかったときのことを、思い出す。
『気のせい』という言葉は、医者は使わなかったが、家族はそのように解釈した。
だから、これは気のせいなのだ、きっと。
もちろん、そんなわけはない。
「はい、どうぞ。」
女の声。大輝ははっとわれにかえって、顔をあげた。
ミネラルウォーター。
さしだされたペットボトルのむこうに、赤ぶちの眼鏡をかけた色白の少女の顔。
日浦結衣だ。
なんだかちょっと目を伏せて、無表情に怒っているようにみえる。
「ああ、」と呻いて、大輝はペットボトルに触れた。
「常温だよ。冷たくないから」
「……ありがとう」
「電話、かそうか。かわりにかける?」
やつぎばやに言われて、大輝はすこし戸惑った。
年上の━━いや、大人と話しているみたいだ。
晶子に、すこし似ている。
「……いいよ、大丈夫だから」
そう、とかるく頷いて、結衣は大輝のよこに座った。
大輝はもらったペットボトルを開けて、水をひとくち飲んだ。すこし、落ち着いたようだ。
「かえったら?」
そう言われて、大輝は、ちらりと時計に目をやった。もう授業は始まっている。
「いや……、」
結衣も、おなじ授業に出ていた筈だ。
「ごめん。」
「べつに。」
なんと言っていいのか、わからなかった。
「おなか、痛いの?」
「少し。いつものことだから。」
「いつも?」
「いや……」
迷ったが、素直にこたえることにする。
「ここに来ると、時々。……いつもは、もっと、マシなんだ」
「病気?」
「……さあ。ストレスって言われたような気がする。よくわからないけど」
実際、よくわからない。
医者が言ったことより、そのあと母にぶつけられた言葉のほうをはっきり覚えている。
あまり思い出したくはないが。
「そっか、」
結衣が、立ちあがった。
ミネラルウォーターの礼をいおうとする。舌がもつれた。
「ねえ。……やめちゃったら?」
え、と間抜けな声で聞き返す。結衣は、真剣な目でこちらを見すえて、重ねて言った。
「やめなよ。塾なんか。」
大輝は呆然として、五秒ほど黙りこんだ。
ふつふつと怒りに似た感情がわきあがってくる。
「いきたくないんでしょう?」
どうしてかとても悲しそうに、結衣はそう続けた。
大輝はぎっと顔をあげて、結衣をにらみつけた。「君は━━」いいかけて、自制する。日浦結衣は6組。自分は一度も彼女より良い成績をとったことがない。だから何だ?
かわりに、吐きすてるように、こう言った。
「やめない。……やめるもんか。」
そう、と結衣はしずかにいって、目を伏せた。
あたりはもうすっかり暗くなっている。
月の光と、街灯のぼんやりとした灯りが、ふたりの頬をそっと照らしていた。