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(前編)

 およそ3メートル四方の砂場がある。

 牢屋である。

 今は、ふたりの囚人が中におり、すぐ外にはふたりの見張りが立っている。

 

 けいどろ、という遊びだ。


『泥棒』は、決められたエリアの中で、好きなように逃げる。

『警察』がそれを追う。

 警察に捕まった泥棒は、牢屋に連行され、囚人となる。

 囚人は、助けにきた仲間にタッチされなければ、牢屋から出ることができない。

 すべての泥棒を牢屋に入れたら、警察側の勝ち。

 時間切れまで逃げきることができたら、泥棒側の勝ちである。


 さて━━


 牢屋と設定された砂場の中にいるのは、小学校高学年くらいの少年と少女である。

 少年はかなり小柄で、幼い顔つきではあるが、なんとなく目つきに険がある。

 夏らしくない、裾長のワンピースをきた少女は、少年より少し背が高く、大人びてみえる。

 ふたりは、砂場のまんなかあたりにしゃがみこんで、なにやら手を動かしていた。

 小さな声で、なにやら話しながら、砂山や穴をつくっているようだ。

「やる気ねえのかよ、」

 ぼそりと、見張り役の、坊主頭の少年がつぶやく。

 見張りは、男女ひとりずつ。

 もうひとりは、目の大きな、細身の少女である。

 ふたりとも、砂場のわきに突っ立って警戒しているのだが、まったく動きはない。

「ちょっと、見まわりしてくる。」

 見張りの少女は、くるりと見回してから、砂場に背を向けて歩きだした。

「おい、芽衣(めい)。」

 少年は、不満そうに声をあげたが、すぐに思い直した。

 砂場の西と北は、高さ3メートルほどの石垣でふさがれている。

 南東にはトイレの建物があるから、攻めてくるには、南か東のどちらかをまっすぐ来るしかない。

 芽衣は東に歩いていったから、自分は南を警戒していればいい訳だ。


 背後で、がさりと、音がしたような気がした。


 反射的に、砂場の方を見ると、囚人のふたり━━晶子(しょうこ)悠斗(ゆうと)が、こっちをじっと見ていた。

 こっちを、……いや、もしかすると、その向こうを。

 晶子の手を見る。

 ぱっ、ぱっ、と、じゃんけんをするようにすばやく動かしている。

 まさか。

 いや、前にも別の遊びで、似たようなことがあった。

 こいつらは油断ならない。

 南側にむきなおって、敵を探す。

 見当たらない。が、建物の陰に隠れた可能性もある。

 すこし離れたところには、生け垣がある。

 その後ろに潜んで、こちらに走るタイミングをうかがっているのかもしれない。

 ちらりと囚人たちのほうを見ると、目をそらしてそしらぬ顔をしている。

 ちくしょう。

「そこから出るなよ!」

 捨てぜりふのように叫んで、

 少年━━(つばさ)は、いらいらしながら東へと早足で歩きだした。


 くっくっくっ、と背後から、押し殺したような笑い声がおいかけてくる。

「……牢屋から勝手に出られるわけないじゃん。ねーぇ。」

 ばかにしたような声。


 生け垣まで、全力で走る。

 あたりを見回す。

 誰もいない。

 くそ。

 あわてて、引き返そうとしたとき、


 ずざざっ、


 と、砂を滑らすような大きな音が聞こえてきた。



 数十秒前━━


 ふたりの少年が、木々の間をぬけて走っていた。

 童顔で細おもての美少年と、頭ひとつ背は低いががっちりとした体格の少年。

 そして、彼らよりひときわ背が高く、足の長い少女が、後を追っている。

 ほかの『警察』は、本堂のところで撒いた。

 あとは、この少女━━(あおい)だけだ。

 葵をなんとか振り切って、牢屋にとびこめば、囚人たちを開放できる。

『泥棒』側である少年たちは、そう考えている。

 制限時間まで、あと5分ほど。

 今、囚人を解放できれば、勝ちにぐっと近づく。

 しかし、葵は足が速い。

 このゲームに参加しているメンバーの中で、……いや、来ていない者をふくめても、仲間うちで一番足が速く、すばやい。

 出くわしてから、まだ10秒と経っていないのに、もう追いつかれそうだ。

 ふたりは、汗だくになって、必死で走っている。

 がっちりとした少年━━豊正(とよまさ)は、ちらりと目を走らせた。

 用意はできている。

(かい)、」

 細おもての少年に声をかける。

 頷く。

 ちらりと、後ろをみる。

 葵は、楽しげに笑っていた。

「もう疲れたの? おまえら」

 走りながらとは思えないくらい、落ち着いた声で、

「ほーらっ」

 あざけるようにいいながら、手をのばしてくる。

 かわす。

 転びそうになる。

 葵は、ますます楽しそうに笑っている。

 もうすぐ、階段。石段をおりれば、砂場までもう少しだが━━

(いまだ!)

 豊正は、全力で地面を蹴って、走るむきをかえた。

 快も、ほとんど同時に方向転換する。


 葵は、ふしぎそうに眉をしかめる。

 ふたりが向かう先は、いきどまりだ。

 いけがきのむこうに、転落防止用の小さな手すりがあり、その先は崖である。

 いや。

 崖といっても、飛び降りられない高さではない。

 2階建ての窓くらいだ。

 ここを飛び降りるか、石垣をうまく滑り降りるかすれば、下はもう砂場である。

「よおし。」

 走りながら、目で距離をはかる。

 快と豊正は、いけがきの間をぬけて手すりに登り、そこから跳ぶはずだ。

 その数秒の間に、捕まえてやる。

 いけがきの手前から、手を伸ばすだけだ。触れるだけでいいのだから、簡単だ。


 あと、三歩。

 二歩。

 一歩━━


 大きく踏み込んで、ふたりを捕まえようとした葵の右腕に、だれかの掌がふれた。

「え?」

 開襟シャツをきて、黒ぶちの眼鏡をかけた、色の黒い少年であった。

 いけがきの中に伏せていたらしい。中腰に体をおこして、腕を掴んできた。

(れん)、」

 葵は目をぱちくりさせて、とらえられた腕をじっと見た。

 その間に、快と豊正は飛び降りてしまっている。

「あんた、……まちがえてんじゃないの。泥棒でしょ」

「間違えてないよ。僕が捕まったんだ。警察は泥棒を捕まえたら、牢屋まで連行するんだろ」

 すました顔でそう言う。


 何を言っているのかわかるまで、たっぷり数秒かかった。


 ようするに、蓮は、自分が捕まるのとひきかえに葵を足止めして、快と豊正を逃がしたのだ。

 しかも、石段のほうをまわって砂場まで蓮を連れていくとなれば、さらにタイムロスになる。

「……そお、じゃ……」

 葵は、一瞬顔をしかめた後、にんまりと笑った。

「動くなよっ!」

 ひと声さけんで、

 蓮の背中と脚に腕をまわして、思いきりかつぎあげる。

「ちょっと!」

「あぶないぞ、」

 あわてて叫ぶ少年を、こともなげに抱えて、いけがきに足を踏み入れる。

 身長はだいぶ違うとはいえ、体重はそれほど変わらない筈だが、まるで赤子を扱うようだ。

 横抱きにしたまま、膝をまげて、とん、と手すりの上にとびのる。かるがると。

「お前、まさか」

 連は、おびえきった声をあげながら、両手で葵のシャツをつかんだ。

 胸に顔があたる。葵は気にもとめない。姿勢を低くして力をためる。

「掴まってろよお」

 しんそこ楽しそうにそう言って、すらりとした長い脚を空中へと投げ出した。

 蓮は絶叫した。



 また、数十秒ほど、時間をさかのぼる。


 豊正と快は、大きな音をたてて砂場に着地した。

 あらかじめ、晶子と悠斗が、大きな砂山をつくってある。そこをめがけて、飛び降りたのだ。

「よしっ」

 にいっと笑って、晶子は豊正の手に触れる。悠斗は快に。

 これで、2人は牢屋から出られるようになった。

 すばやく周囲をみまわす。

「あっちに芽衣、あっちに翼が」

 悠斗がみじかく言う。豊正がうなずく。

「芽衣のほうが遠いよ、あっちへ行こう」

 早口で晶子が言うと、4人は東側へいっせいにかけだした。

 翼は、もう気づいて、こちらへ向かってきている。

 芽衣の姿は見えない。

 砂場から、トイレの建物の横へと入る。翼からは死角になる。

 と、いきなり、晶子が悠斗の右手首を掴んだ。

 悠斗は、一瞬、とまどいを目にうかべて手元をみる。

 長い指先に目がいく。くるんと、大人のように伸びた指が、きれいに手首に巻きついている。

 晶子は、先をいく二人に目くばせをした。

 そのまま、無言で、悠斗をトイレのほうへ引っ張っていく。

 豊正と快は、二人のほうをみてうなずき、そのまま走っていった。

「ここじゃあ━━、」

 悠斗は、不安そうに囁きかけた。晶子の考えていることはわかった。

 二人がいるのは、トイレの入口を隠している壁の裏。砂場から直接は見えないが、その気になって横からのぞきこめば、まる見えである。

「大丈夫、翼は気づかないよ」

 右手首を握ったまま、左手で悠斗の肩をかるく二回叩く。

 背丈は、悠斗よりほんの少し高いだけだ。けれど、こうしていると彼女はずっと大人のようだ。


 近くで、舌打ちの音。悠斗は身を固くした。

 それから、回りこんでかけぬけていく足音。翼だ。

 砂場につくったでこぼこのおかげで、ほんの一瞬だが足止めにはなったはずだ。

 それでも、数秒後には、トイレのすぐ横を、気配が走りぬけていく。

 少し、離れたところで、芽衣の声がきこえる。

 豊正と快がみつかったようだ。逃げきれるといいが。


 なぜか、蓮の悲鳴がきこえた。


 二人は目を見合わせた。蓮は、わざと捕まって敵を足止めする役だ。豊正と快が降りてきたタイミングからすると、今ごろ牢屋に連行されているころだ。


 つづけて、どしん、と大きな音。

 少年たちが飛び降りたときよりも、ひときわ派手な━━


 まさか。


 悠斗は、晶子の掌にじんわりと汗がにじむのを感じた。

 かすかな震えが、腕から伝わってくる。


 横をむいて、顔をみる。

 晶子は、こちらを見ていなかった。


 ただ、震えながら、目をつりあげて嬉しそうに笑っていた。



 着地してから数秒、葵はひざをまげて衝撃をこらえていた。

 蓮は、葵の腕からころげおちるようにして砂場に座りこんだ。

「無茶苦茶すんなよ!」

 かん高い声で、もう一度叫ぶ。

「いいじゃんか、……」

 さすがに息を切らせて、葵はこたえた。二人とも、一瞬で汗まみれになっている。

「一番、近いんだもん。……ちゃんと、抱っこしといてやったろ?」

 口角をあげて、してやったりとこちらを見下ろしてくる葵に、

「……ふざけんなよ、もう……」

 蓮は、目をふせて呻くしかなかった。

「葵!」

 東側から声がした。

 翼である。

 ひどく驚いた顔をして、トイレの脇を抜けてまっすぐ走ってくる。

「飛び降りたんか? ふたりで?」

「……二人でじゃねえよ」

 蓮がそう呻いた。葵は、にんまりと笑ってガッツポーズをとった。

 翼はちょっと眉をしかめて、すぐ話題をかえた。東側をさして、

「逃げられた。あっちへ全員行ったはず。芽衣も」

「よおし。追っかけるよ」

 翼の肩を、ぱしんと叩く。

「見張りは?」

「いらない。もう時間ないもん」

 とんとんと砂をふみしめて、葵は足踏みをした。動きたくてたまらないようだ。

「勝手にダツゴクすんなよ」

「しねーよ、ばか」

 蓮と軽口をかわしてから、すぐ走りだす。翼もあわてて後を追う。

 脇目もふらずに。


 それから十秒ほどして、晶子と悠斗が壁の裏から出てきた。



 ポールのてっぺんに設置された大時計が、1時をさした。時間切れだ。



「……うっそだろー!」

 葵は地団駄をふんで叫んだ。

「蓮、絶対ダツゴクしたろ! 駄目っていったじゃん!」

「してねーよ」

 蓮は、肩を大きく上下させて地面にへたりこんでいた。最後まで逃げ切ったのだ。

 晶子は、蓮を解放してすぐ、芽衣に捕まった。

 豊正と、快と、悠斗は、つづけざまに葵に捕まり、まとめて連行された。

 そのときになって、ようやく、葵は蓮が牢屋にいないことを知ったのだ。

「ちゃんと、タッチして逃がしたよ」

 晶子が、ふんわりと目を細めながらいった。

 ゲームが終わって、両チームあわせて11名が、砂場に集まっている。

 ほとんど、汗もかいていないのは、晶子だけだ。

「嘘じゃん! だって晶子、逃げてすぐ捕まって……あ!」

 葵は、ようやく思いあたって大声で叫んだ。

「……あー! 隠れてた! 隠れてたんでしょ!」

「うん、……そうだよ」

 晶子は、こらえきれずくつくつと笑い声をあげた。

「そこにいたんだ! ずっりー!」

「ずるくないよ」

「ずるい!……あ、じゃーコイツが飛び出してきたのも、」

「うん、私が考えた作戦」

「ずっりぃー…」

 葵は子どもっぽく頬を膨らした。晶子は、なだめるように手をふって、

「葵たち強いんだもん。作戦考えないと」

「そーお?」

 葵の表情はころころとかわる。

 軽いヤツだな、と悠斗は思う。

 あるいは、もう少し違う感想をもった者もいたかもしれない。


 いずれにせよ、この戦いは、晶子たち5組が葵の率いる1組に勝利して、幕をとじた。



 ケイドロが終わって、なんとなく弛緩した空気になった。

 快と芽衣は、それぞれ用事があるらしく、帰っていった。

 葵たちはまだまだ遊び足りなかったが、夏の暑さには勝てず、木陰でだらりと休んでいた。

「おーい!」

 ふいに、澄んだ高い声がきこえてきた。

 道路のほうからである。

 皆が振り返ってそっちを見ると、サマーカーディガンの上に革鞄を背負った少女が立っていた。

結衣(ゆい)!」

 葵がうれしげに叫んだ。少女は、かけ寄ってきてにいっと笑った。赤ぶち眼鏡の奥で、長いまつげが元気よく揺れた。

「何やってたの?」

「ケイドロ。こっちが1人少ないんだ。入れば?」

 蓮がそう言った。なんとなく、そっけない言い方だった。

「やりたいけど、」

 結衣は残念そうに目を伏せて、太腿のあたりをかるく叩いてみせた。「今日これだからさあ。」膝上丈のスカートのことを言っているようだ。

「いいじゃん。コイツもワンピだし」

 葵が親指で晶子を指す。もっとも、晶子は裾が乱れるほど走っていない。

「丈がちげーでしょ。それにこれから塾なんだよねえ」

「サボれば?」

 葵がこともなげに言うと、結衣は一瞬だけ暗い顔をして黙りこんだ。

「……それよりさ、3時には塾終わるから、うち来ない? 『ハリーレース』買ったんだけど」

 今月発売されたばかりのテレビゲームである。

「まじ? 行く!」

 真っ先に葵が反応した。

「お前らも行くっしょ? 晶子は?」

「私、今日はだめ。早く帰らないと」

 晶子は、うすく笑ったまま、首をふった。

「なんだよ。じゃー、……」

「おれと陸と翼は、このあと豊正の家にいくから。」

 葵の機先を制するようにそう言ったのは、これまで黙っていた、茶髪の少年だった。蓮や悠斗のほうをみて、「お前らは? どうする?」と、続ける。

 蓮は、すこし目線を動かしてから、

「俺も、豊正んとこ行こうかな。……いい?」

「いいよ」豊正は頷いた。

 最後のひとりとなった悠斗は、

「いくよ。3時半くらいでいいの?」

「うん!」

 結衣はうれしそうにこたえた。



 少しして、豊正と大和(やまと)(りく)と翼、それに蓮は、公園を出ていった。

 去りぎわ、蓮は悠斗の袖をひっぱって、トイレのほうに連れていった。

 トイレの入口の壁の裏、さっき、悠斗たちが隠れていたあたりに来て、

「さっきの、お前ちょっとよくないぞ。」

「え?」

 言われて、悠斗は軽く眉をしかめて聞き返した。蓮はさらに声をひそめて、

「ああいうときは、男のほうに来るもんだろ。」

「ああ、……さっきの。豊正んとこに? 誘われてないじゃん」

「関係ねーよ。そういうもんなの。」

 おかしいな、と悠斗は思った。

 こんなことを言う奴だっただろうか?

「女子と遊ぶなってこと? 晶子や葵はいいのかよ」

「そういうんじゃなくて……、」

 蓮は少し苛立っているようだった。深く息をついて、

「みんなで遊ぶのはいいんだよ。家に行くとかっていうのはさ……」

「なに言ってるのかわかんねーよ」

「お前さ、」

 言いにくそうに、しかしきっぱりと蓮は続けた。

 眼鏡の奥の目が、じっとこちらを見つめていた。

「たまに、……言われてるんだぞ。晶子の金魚のフンって。」

「おまえ!」

 悠斗は反射的に蓮の肩をつかんだ。蓮は目をそらさなかった。

「おれが言ってるんじゃないよ。でも、そういうのあるだろ。あんま女子と仲良くしてると。わかるだろ」

「わかんねーよ、」

 吐き捨てて、肩から手をはなした。

 目をそらす。

「こら!」

 とつぜん、頭上から明るい声が降ってきた。

 葵だった。

 2メートルほどの壁の上に手をかけて、こちらに顔をつきだしている。

 ジャンプしてよじのぼったらしいが、息も乱さずににやにや笑っている。

「なに、こそこそしてんだ? オトコ同士で!」

「ばーっか!」

 蓮は叫びかえした。悠斗はふっと息をついた。



 かちゃん。

 ドアがあいて、結衣が顔をだした。

「なに突っ立ってんの?」

 悠斗は言い訳をしようとして口ごもった。蓮の言葉が頭の隅にこびりついている。

「入ってよ。お菓子あるよ」

「ごめん、葵はこれないって……」

「うん、聞いた。あの子はもー、ねえ」

 結衣はこともなげにそういって、軽く眉をしかめた。

 一度家に帰った後、葵と一緒にここに来るはずだったのだが、家を出る直前に葵から電話があり、行けなくなったと言われたのである。なんでも、母親の誕生日で、家族で出かける約束なのを忘れていたということだった。

「入んなよ」

 結衣はもう一度そういって、悠斗を招きいれた。



 玄関の扉をくぐると、ひんやりした冷気が肌をしめつけた。

 幅広の明るい廊下を通って、リビングへ通される。

 大人が横になれるくらいの白いソファに、結衣の弟の憲史(のりふみ)が、ちょこんと座っている。

 親の姿は見えない。家にはいるようだが、ほとんど会ったこともない。

「ゆーくん!」

 憲史はこちらを見るや、目を輝かせた。

「ゲームやろうぜ! おれ強いから」

 言いながら、ばたばたと、ソファの対面にあるテレビに走っていく。

「待っててね」結衣はそういってキッチンのほうへ歩いていった。と同時に、ぐいと手のひらにコントローラーが押し付けられる。

「早くやろーぜ」子どもらしい押しの強い笑顔で、迫ってくる。

「わかったよ」悠斗はソファに腰をおろした。

 憲史は結衣によく似た、線の細いととのった顔だちをしている。

 しかし、雰囲気はまるで似ていない。

「よーしっ」

 憲史がゲーム機のスイッチを入れる。ロゴ画面がテレビに映った。

「あ、もう始めてる」

 盆に三人分のジュースとクッキーをのせて戻ってきた結衣が、口をとがらせた。

「いーじゃん、ほら」いいながら、憲史は乱暴にコントローラーを投げ渡した。

「一緒にできるの? これ」

 結衣もソファにすわって、かちゃかちゃとコントローラーをいじりながら聞く。

「やったことないのか?」

 結衣に聞くと、頷く。悠斗は少し不思議に思った。

 憲史は、慣れた手つきでタイトル画面をスキップして、操作キャラクターを選んだ。

「ねーちゃんはこれにして」

「はいはい」

 三人ともキャラクターを選択すると、ゲームが始まった。

 レースゲームである。

 ただし、乗り物ではなく、擬人化された動物のキャラクターが、走って競争するのだ。

「マニュアルねーの?」

 悠斗がつぶやく。

「知らなーい」画面から目をそらさぬまま憲史がこたえた。

「いらんでしょ、そんなの」結衣は、準備運動のようにかちかちとボタンを押しながら言った。

 カウントダウンがはじまる。

 3、2、1…。

 ゼロ。

 出遅れた。

 まごまごしている間に、憲史の使っているモグラのキャラクター、ついで結衣の操るウサギのキャラクターがかけぬけていく。

 あせって、ちらりと結衣のほうを見る。

 憲史とさして変わらないスムーズな手つきで、コントローラーを操っている。

「……うそつき」

「なあにが?」

 小さな声でつぶやいたつもりが、即座に聞き返される。

 目は、画面のほうをむいているが、ちゃんと聞こえていたらしい。

「絶対、初めてじゃないだろ」

 ようやくスピードをあげるボタンを見つけた。必死に追いつこうとするが、うまくいかない。

「なんでさ?」

 スタート地点からはるか離れたところで、憲史のキャラクターとはげしくぶつかりあいながら、さらに聞き返してきた。

「操作方法わかってんじゃん」

 そういうと、結衣はきょとんとした顔をして、ちらりとこちらの手元に目をやった。

 それから、すぐ画面に目をもどして、いそがしく指を動かすのはとめずに、

「手元を見て、まねするだけでしょ。簡単じゃない」

 なんだそりゃ、と納得がいかないまま、いつのまにか悠斗は負けていた。



 結衣が、3回続けて勝ったところで、いったん抜けた。

 悠斗と憲史は、プレイが白熱するにつれてテレビに近づき、ソファから降りて、カーペットのうえにじかに座っている。

 結衣は、ソファの上に足をあげて座り、後ろから二人のプレイを見ていた。

「ねえ、」

 ふいに、結衣が口を開いた。

「ん?」

「蓮はさ、うち来ないよね」

「なんだよ、いきなり」

 コースを選ぶ操作の手をとめて、悠斗はききかえした。

「べっつに……。前はさ、来てたじゃん。みんなでさ」

 いわれて、初めて悠斗はそのことに思い至った。

 結衣、葵、晶子、悠斗、そして蓮。

 去年までは、大体そのメンバーで、あちこちに遊びに行っていた。

 全員でこの家に集まったことも、何度もある。

「まあ、あのさ……」

 悠斗は、目線を画面からはずしてさまよわせた。

 なんと言ったものか、迷いながら、

「クラスも分かれたし……色々あんじゃない」

「そうだねえ。私が6組、葵は1組。あんたたちは5組か。なんだかねー」

 結衣はふうっと昏いためいきをついた。

 悠斗はコントローラーをおいた。憲史はなぜか黙っていた。

「……蓮は考えすぎなんだよ。」

「そうねえ、」

 結衣は明るくいいかけて、ふと声のトーンを落とした。

「……あたしも考えすぎるほうかな、たぶん」

「なにを?」

「なんにも。……ねえ、あんたはいいよね。」

「え?」

 聞き返すしかなかった。

 結衣がどんな顔をしているのか気になったが、振り向くことはできなかった。

「……晶子がいて、さ。」

 くらい声だった。

 少しして、結衣はソファをおりて、空になったコップをもってキッチンへいった。

 悠斗は無言のまま、コントローラーを拾ってボタンをおした。



 5時をすぎて、悠斗は帰ることにした。

 二人に見送られながら、ドアをしめる。

 門をくぐってから、なんとなく二階を見上げる。電気がついている。


 結衣の母親も家にいたはずだ。だが、最後まで姿は見なかった。

 いつも、そうだ。


 かちゃん。

 ドアがあく小さな音、走り寄ってくる足音、

 憲史だった。

「ゆーくん、」

 デパートのロゴが入ったちいさな紙袋を、ぐいっと押しつけてくる。

「なに、」中を覗きこむと、ラップに包まれた菓子のようなものが入っていた。

「クッキー。さっき食べたじゃん。」

「ああ、……くれるの?」

「これ、ねーちゃんがパパに作ったやつの残りなんだよ。置いとくとママが捨てちゃうから」

 言われて、とりあえず受け取る。

 なんとなく不安な気分になったが、そういうこともあるのだろう、と自分を納得させる。

「……ねえ、」

 よりいっそう声をひそめて、憲史は続けた。

「ゆーくん、また来てよ」

「ああ、」

「ねーちゃんさ、……誰かこないと、遊べないからさあ」

 なんだよ、それ。

 そう、聞き返そうとしたときには、もう、憲史は玄関のところまで戻っていた。

「あ、」

 と、憲史が振り向いた。屈託のない笑顔で、

「今度くるとき、レンジャーカード持ってきて! 対戦しようよ」

「いいよ。もうあんまやってねーけど」

 悠斗はほっとして笑みを返した。

 いつのまにか、2階の明かりは消えていた。



 結衣は、うつむきながらコップを洗いおえた。

 階段を降りてくる足音がする。

 ぴくんと、心臓が跳ねる。肩がずしんと重くなる。

 ため息をつきそうになって、こらえる。

 ドアが開く音。

「……結衣、」

 しずかな、重い声が、背中にべったりと粘りついてくる。

 結衣はふりむいて、笑顔をつくった。

「なあに、ママ」

「おともだち、来てたのね。」

 今、はじめて知ったことのように、若い母親はそう言った。

 結衣は、唇をこわばらせながら、それでも笑顔を保っていた。

「これ、仕舞ったらすぐ部屋で勉強するから。大丈夫よ、ママ」

「……そういうことを言ってるんじゃないのよ。結衣」

 声のトーンは変えずに、母親は結衣の目をじっと見つめた。

 紅い唇には、うすい笑みが浮かんでいた。

 結衣はびくんと震えて、スポンジをとりおとした。

 額のおくに鈍い痛みを感じる。

 何かがおかしい。

「少し、話があるの。ママの部屋まで来てくれる?」

 はい、と答えなければならない。

 喉の奥がひりついて、言葉が出なかった。

 だのに、母親は気にする様子もなく、くるりと振り向いて廊下へ出ていった。

 ぶきみに、上機嫌そうな足取りで。



 その、少しだけ、前の時間。

 晶子も、同じように親に呼ばれて、リビングの椅子にすわっていた。



「……あなたはとても頭がいいものね。パパそっくり。」

 ドアをくぐったところで立ちつくす結衣に、母親は平坦な褒め言葉を投げつけた。

 書き物机のうえから、きれいな写真の入ったチラシのようなものを取る。

「だから、……きっと、合格すると思うの。」

 ……合格って?

 喉のところまであがってきたが、こらえた。

 今は、聞き返してはいけない。そう思った。

「とてもいい学校よ。学力も高いし、先生たちもとても熱心みたいでね……。それに、なんていうか、品格ってあるじゃない? あなたにとても合っていると思うの」

 ぼんやりとした目つきで、ドアのほうを見ながら、母親はそう続けた。

 まだ、聞き返してはいけない。そうは思ったが、

「……なんのこと、ママ」

 口から、それだけは漏れた。

「あら、」

 意外なことに、母親は怒らなかった。無視されることもなく、

「もちろん、あなたの話よ。中学受験はさせてあげるって、言ってたでしょう?」

 まるで、結衣が望んだことのように、そう言った。

「ここなら、頑張れば、パパの通った高校にも、行けるんじゃないかしら。結衣、あなたなら。」

 パパの高校。

 ふっと気がついて、チラシをじっと見る。聞いたこともない校名が記されている。

 所在地━━

「とう、きょう……、」

「そうよ、もちろん。おかしな子ね」

 母親は、笑った。

 ほんとうにおかしそうに、息を漏らして。

「ああ、……心配しなくていいのよ。おばあちゃんたちには、私から言っておくから、ね」

「パパの実家から通うってこと? それって……」

 必死で頭をめぐらせる。

 一縷の、わずかな希望にかけて、おもねるように結衣は言った。

「もしかして、……パパ、転勤になったの? 東京の支部にもどるの?」

「いいえ。どうしてそんなことを言うの?」

 わざとのように芝居がかった様子で、母親は目を見開いた。

「じゃ、わたし……」

「もちろん、あなたひとりで行くのよ。……パパはお仕事があるし、憲史ちゃんを転校させるなんて可哀想でしょう」

 かっと、熱いものが脳に流れこんできた。

 黒い塊のようなものが、ずっしりと、胃を重くする。

 だめだ、と思った。認めてはいけない。絶対に。わかりきっている。

 それでも、唇から出てきたのは、たった一言だった。

「そうね、ママ。」

 母親はにっこりと笑った。ほんとうに嬉しそうに。

「いい子ね、結衣。」

「ありがとう、ママ」

 結衣は、じっとりと濡れた笑みが自分の顔にはりつくのを感じていた。

 かろうじて自由になっていた手足に、灰色の鎖が巻きついていくのが見えた。

 そうして、

 喉から悲鳴をしぼりだすように、結衣はかぼそい声で、

「でもママ、……パパは、どう言ってるの?」

 そう、言った。


 もちろん、逆鱗に触れることはわかりきっていた。



 翌日、月曜日の朝。

 悠斗は、いつものように晶子の家の前で待っていた。

 おそい。

 もう、10分は待っている。

 インターホンを押そうか迷っていると、ドアがあいた。

「……ごめん、寝坊したの」

 いつもより少し低い声でそういって、晶子は長い指で欠伸をおさえた。

「大丈夫かよ」

「ん、…」

「目の下、」

 大きな隈ができている。唸りながら瞼をこすった。もちろん、消えるわけもない。

 髪もどことなく乱れている。本当に寝坊したようだ。

「はやく行こうぜ、」

 促されて、晶子は、うめき声をあげながら門をでた。

 立ちどまる。

 遠くを見るように、ぼうっと、まっすぐに目線をむけて。

「おい、」

 悠斗はいらいらして晶子の肩をつついた。

「……ごめん。」

 晶子は、ぱちぱちと目をしばたかせて、謝った。

「もう…。行くぞ」

 悠斗は歩きだした。

 5歩ほど進んだところで、振り返る。

 晶子は、まだ立ち止まっていた。


 ゆっくりと、こちらを見て、かすかに唇を震わせている。


 悠斗は、なにか言わなければいけないような気がしたが、言葉が見つからなかった。



 早足で5分ほど歩く。

 いつもより少し学校に近いところで、追いついた。

「蓮!」

 うしろ姿に声をかける。すぐに横にならぶ。

「晶子が寝坊して……」

 言いかけて、悠斗は口をつぐんだ。

 眼鏡のおくの目に、なんだか押し殺したようなものを感じる。

「なんだよ、……昨日のこと、怒ってんの?」

「……そうじゃねーよ」

 蓮は足をとめないまま、目をふせてちょっと頬を歪ませた。

 悠斗は当惑した。今日は、よくわからないことだらけだ。

「おはよう。」と、やはり不機嫌そうに、赤い髪留めをつけた、背の低い少女が声をかけてくる。

「おはよう、七海(ななみ)。」晶子がこたえるが、こちらも、テンションは低い。

 そういえば、ふたりは従姉妹どうしだったなと、悠斗はふと思いだした。

「なんか……、」

 よくわからないままに、一緒に歩いているものたちの顔をみる。

 蓮、七海、豊正、芽衣━━それから、葵。

 葵は、いまにも噛み付きそうな顔をして、こちらを睨んでいた。


 なんなんだよ━━、本当に。


 蓮が、まっすぐ前を見たまま、口をひらく。

「そうやってすぐヤツアタリすんじゃん。そーいうとこなんじゃねーの」

「何がだよ!」

 葵が叫ぶ。

「葵、」芽衣がなにか言おうとするが、葵は無視した。

「なにが、八つ当りよ。何も言ってねーじゃんか。」

「言ってんのと一緒だろ。」

「なんだってんだよ!」

 今にもつかみかからんばかりに蓮に近づいて、葵は吠える。

「やめろよ。」

 豊正が、節くれだった手をふたりの間にさしだして、止めた。

「アタマのいい奴にはわかんねーよ!」

 葵がこんどは豊正にくってかかる。

 悠斗は眉をひそめた。豊正が、頭がいいだって? どういう意味だろう。


 頭がいいといえば━━そういえば、そろそろ、通りかかるころだ。


 喫茶店の角のむこうから、はねるような声がきこえてくる。

 憲史の声である。

 それから、やさしくそれに答える、結衣の声。


「おはよう、」

 と、結衣がたちどまって言った。

 いつもと変わらぬ、かすかに憂いのある笑顔をみて、悠斗はなんだか安心した。


 葵が、なぜか足をとめた。

「ばーっか!」

 叫んで、学校へむけて走りだす。

 芽衣が、ちょっと困り顔で結衣のほうをみて、すぐ葵のあとを追う。

 結衣はきょとんとして目をしばたかせていた。心当たりは、ないらしい。

「……なんだ、あれ」

 悠斗は、そうつぶやいた。

 誰も、答えなかった。



 なんとなく、教室全体がよどんだような嫌な空気につつまれていた。

 悠斗は、落ち着かない気持ちをおさえながら、自分の席で、クラスメイトたちの話を聞いていた。

「蓮がさあ、口をすべらせたっていうか」

 まだ少し顔をしかめながらも、いつもの早口で、七海がそう言う。

「すべらせてねーよ」

「ていうか、言わなくてもいいのに言っちゃったっていうか」

「ちげーよ」

 蓮は短いくせ毛をくしゃくしゃにかきまわして、吐き捨てるように言った。

「4組のヤツに聞いたんだよ。ほんとだって」

「ほんとかもしんないけどさー、それ葵に言うのはさー」

 悠斗はがまんしきれなくなって、口をはさんだ。

「何を聞いたんだよ?」

「だから……」

 いいよどむ蓮より先に、七海が答える。

「今年のクラス分けは、成績順なんだってさ。」

「はあ?」

 おもわず、悠斗は聞き返した。蓮が答える。

「だから、6組から1組まで、成績のいいヤツから順にクラス分けされてるんだって。4年生からは、そういうクラス分けになるんだと」

 とすれば、結衣のいる6組が最上位で、悠斗たちの5組がその次。

 葵や芽衣の1組は、最下位のクラスということになる。

「……そんなの、先生、言ってたか?」

「あたしたちに言うわけないじゃん。内緒でしょ」七海はあっさりと首を振った。「……でも、言われてみればーって感じ、するよね。ほんとの成績とか知らないけどさ、たぶん結衣が断然トップじゃん?」

「だよな。あいつ、きっと私立の中学行くんだぜ」

 いまいち、二人の盛り上がりについていけず、悠斗は顔をそむけた。

 朝、葵といた他のメンバーを探してみる。豊正は、教室の後ろのほうで快と何やら話している。晶子はすぐ隣の席にいるが、葵との最初のやりとりは当然、見ていないはずだ。

 ふと、気がついて、口にだす。

「……晶子は?」

「え?」

「晶子、成績いいだろ。算数とか国語は、結衣より……」

「体育がダメじゃん」七海があっさりと指摘した。

「図工と音楽も」蓮がにやにやしながら続ける。

「……理科と社会も、結衣よりは悪いよ」そう、言ったのは、とうの本人だった。

 聞いていたのか、と悠斗はちょっと驚いた。隣の席にいて、聞こえないわけもないのだが、ずっと上の空で考え事をしているように見えたのだ。

「暗記とか、苦手なんだよねえ」

 うすい笑みを口元に浮かべて、晶子はそういった。

 苦手じゃなくてやらないだけだろ、と悠斗は口のなかでつぶやいた。晶子が勉強しているところを見たことがない。宿題だって、なんのかんの言ってサボっていたりする。それでも、テストの点数は悠斗や蓮よりよほど良い。

 頭のデキが違うのか、と、少し暗い気分になる。


 からりとドアがあいた。担任の、若い男性教師が入って来る。


 教室がざわつく中、蓮と七海は、あわてて自分の席へ戻っていく。

 悠斗はなんとなく気が楽になって、大きく息をついた。ふと気になって、横の晶子に、

「そういえば、……今朝、なんか……」

 訊こうとして、なんと言っていいものか迷う。

 べつに、寝坊した理由を聞きたいわけではない。

 ただ、なんとなく様子がおかしかった。それだけなのだ。

「ああ、」

 晶子は、悠斗の考えを察したかのように、切れ長の目を細めて頷いた。

「ちょっと……考えてたんだ。ゆうべから、ずっと……」

「考えてた…って?」

 聞き返しながら、悠斗は心臓の鼓動が速まるのを感じていた。頬が熱くなる。

「悠斗、」

 まっすぐこちらをみて、口元にかすかな笑みをうかべながら、大人びた声で、

「誰にも忘れられないような、大きなこと……って、なんだと思う?」

 晶子は、そういった。


「きりーつ!」

 日直の声がした。悠斗はあわてて立ち上がった。晶子はもうそしらぬ顔で前をむいていた。



 四時間目の体育は、1組と合同だった。

 葵や芽衣たちの姿をみて、悠斗はなんとなく気まずい思いで目をそらした。

 気のせいか、1組の他のものたちも、こちらと目をあわせないようにしているようにみえた。

「背の順にならべーっ」

 教師の指示で、クラス別、男女別に、列をつくる。

 悠斗は先頭である。葵と距離がとれて、少しほっとした。

「今からーっ、騎馬戦の組分けをするーっ!」

 来月のあたまに行われる、運動会の練習である。

 騎手ひとりに対し、馬役が3人。

 馬役は、騎手の体重を支えなければならないので、体格のよい者が向いている。

 背の順にならんだそれぞれの列で、前から5名までが、騎手ということになった。

 そこに、後ろのものが、教師の指示で適当に割り振られていく。

 悠斗のところに来たのは、豊正と快、それに(しょう)という太った少年だった。

 となりを見ると葵がいた。1組女子の最初の騎馬に、馬役として入ったようだ。

 葵は、ぎりりと眉に皺をつくってこちらを睨んできた。

 あわてて目をそらす。蓮のせいで、と悠斗は口のなかでつぶやいた。


 それぞれ、騎馬をくむ。


 先頭のひとりの左肩に、右後ろの者が左手を。

 右肩に、左後ろの者が右手を置いて、二人の腕を交差させる。

 それから、それぞれの空いた手を、先頭の者の手とつなぐ。

 騎手は、つないだ手に足をかけて、交差した腕をまたぐ。

 馬が立ち上がるときには、騎手は、前の者の両肩に手をおいて、体重をささえる。


 足がすべった。


 翔と豊正の手の上にのせた右足が、安定しない。

 もう一度、乗せなおして力をこめる。


 よろける。こんどは、左足だ。


「ごめん…、」小さな声で、翔が謝罪する。

「いや、おれが」悠斗は首を振って、翔の肩にかけた手の位置をかえた。

「もう一回、いこう。」快が二人をはげます。

 体勢をたてなおして、もう一度たちあがろうとしたところで、隣の声が聞こえてきた。

「せんせーいっ! 無理でえす」

 葵と組んでいた、騎手役の女子であった。

「どうした?」

 1組担任の、中年の男性教師が駆け寄ってきた。

「葵ちゃんが大きすぎて、立てませえん」

 悠斗たちはなんとなく気をとられて動きをとめた。葵はなんとなく気まずそうに腕をくんで立っている。たしかに、他の馬役と比べると、肩の位置がとびぬけて高い。

「なんとかならんか?」

 困り顔の教師に促されて、葵たちはもう一度チャレンジした。

 葵が先頭の馬役となり、手のひらを上にして後ろに手をつきだす。

 他の二人は、葵の肩に手をおき、もう片方の手を葵の手と組み合わせる。

 なんとか馬の形にはなった。

 しかし、そこに騎手が乗り、立とうとすると、うまくいかない。

 葵の肩の位置が高すぎて、騎手が、葵の体にうまく体重をかけられない。なんとかバランスを保とうとしているうちに、馬役どうしつないだ手が離れてしまう。手の位置も高すぎるのだ。

「こりゃー、無理だなあ」

 教師は列を見渡して、ちょっと考えこむそぶりをした。

 1組の女子のなかでは、葵が一番背が高い。うまく体格をあわせるのは、かなり難しい。

「……よし。棚橋(たなはし)、おまえ騎手になれ」

「ええ!?」

 叫んだのは、葵ではなく他の3人だった。葵も意外そうな顔をしている。

 葵は太ってはいないが、身長なりに重さはある。騎手になるのは難しいはずだ。

「大丈夫。馬も組み替える。栗田(くりた)! 菱岡(ひしおか)! 飯田(いいだ)! こっちと代わってくれ」

 1組の女子のなかで、比較的体格のいい3人が呼ばれた。

 教師の指示で、3人が馬をつくった。

 葵は、こわごわとその上にのり、足をかける。

 立ち上がった。

 少しよろけたが、安定している。

「どうだ、走れそうか?」

 頷く。

 教師は安心した様子で、他の組のフォローをしに去っていった。


「……さあ、立とう」

 快が、翔たちを促した。

 もう一度、力をこめて立ち上がろうとする。

「……すげーな。ありゃ勝てねー」

 豊正が、思わずといった調子で呟くのが聞こえた。



 結局、悠斗たちの騎馬は、まともに走ることができなかった。

 立ち上がろうとすると、翔が耐え切れずに崩れてしまう。

 何度か試して、最後になんとか立つことはできたが、走りだすと悠斗が落ちてしまった。


 授業が終わり、悠斗はため息をついて歩きだした。

 翔は小さくなって目を伏せているが、彼のせいばかりではない。最後に落馬したのは、自分がバランスをとれなかったせいだ。

「ゆーとーっ!」

 葵の声だ。

「なっさけねーな。オトコのくせに」

 にやにやしながら、肩を叩いてくる。

 落馬したことを言っているのだ。悠斗はちょっといらいらして首をふった。

「本番、あたしたちが簡単に勝っちゃうなー。走れねーんじゃ勝負にならないもんな」

「やめろよ」

 足を止めずに、肩の手を振り払うが、葵は悠斗のかぶっていた赤白帽をとりあげて、髪の毛をくしゃくしゃにかきまわしてきた。

「いーじゃん。勉強できてもさあ、こういうことができねーとな……」

 上機嫌そうだ。

 いつもなら、このまま受け流しておくところだが……。


 うつむいて、目に涙をためている翔の姿が、視界に入ってしまった。


「やめろって言ってんだろ!」

 悠斗は大声をあげて、葵の手をつかんでいた。

 ざわめきが止まった。

 空気が凍ったような気がした。一瞬、後悔したが、もう引き返せないと思った。

 葵は、逆に悠斗の手首をつかんで、自分の肩のところまで持ちあげた。

「なんだよ……」

 ぎりりと歯をむいて、見下ろしてくる。

「じゃー、おまえ、勝てんのかよ」

「そういうこと言ってんじゃ━━」

「逃げんなよ!」

 すぐそばに、葵の顔があった。

 胸ぐらをつかまれる。

「おい、━━」

 あわてたような、誰かの声。

「よせよ、葵」

 豊正が、こちらに駆け寄ってくる。


 胸のおくに、重いものが湧き上がるのを感じた。


「……やってやるよ」

 唇から、勝手に言葉が漏れていた。

 葵は、ばかにしたように鼻を鳴らした。悠斗はかっとなって続けた。

「勝つよ。見てろ。俺たちが絶対勝つ」

「へえ?」

 いつのまにか、両方のクラスのメンバーが、まわりに人垣をつくっていた。

「そうだよ、」

 わって入ったのは蓮だった。悠斗をおしのけるようにして、葵をにらみつける。

「1組なんかに負けるもんか。おれたちのほうが強い」

「勝手なこと言うなよ」

 こんどは、1組の翼がわってはいる。

「5組なんか、運動できねーやつばっかのくせに……」

「ちょっと!」今度は、七海が叫ぶ。「調子にのんな! 馬鹿ばっかのくせに」

 売り言葉に買い言葉であったが、その一言が、1組に火をつけたようだった。

 遠まきに見ていたものも加わって、大声で怒鳴り合いがはじまる。


 悠斗は困惑して周囲をみた。ここまでの騒ぎを起こしたかったわけではない。

 5組担任の水野(みずの)が、昇降口のあたりを歩いている。1組の担任はもう教室へ戻ってしまったようだ。

 止めてもらうべきか、それとも、━━


 ……かぁん!


 とつぜん、大きな金属音がした。

 騒いでいたものたちは口をつぐんで、音のしたほうを見た。

 渡り廊下のそばで、晶子が、金属製の熊手をもって立っていた。

 これで、渡り廊下の屋根を叩いたものらしい。

 水野が、こちらをむいた。


 晶子は、熊手を放りだして、無造作にこちらへと歩みよってきた。


 みんな、毒気をぬかれたように黙りこんでいる。

 誰からともなく動いて、道をあける。

 晶子は、葵のまえに進みでて、にっこりと笑った。

「楽しみだね」

「……何が、」と、刺々しい声で聞き返す。

「本番が、さ」

 晶子の態度をはかりかねて黙っている葵の手を、晶子はかるく握った。

「葵、……あたしたちは、優勝するよ」

 葵の顔が、かっと赤くなった。

 前のめりになって口を開こうとした、その瞬間、

 晶子は、葵の手に、ぱあんと大きな音をたてて自分の掌を叩きつけた。

「勝ったほうが正しい。それでいいでしょう?」

 そういいながら、晶子はまだ微笑んでいた。

 しかし、悠斗の目には、いつもの笑顔とはまるで違って見えた。

「……じょーとーだよ」

 葵は戸惑ったように首を振って、それでもまだ怒りをこめた目でこちらを見下ろしてきていた。

「おい!」

 ようやく、水野がこちらに駆け寄ってきていた。

「お前ら━━、」

「先生、」晶子が、すずやかな声でいった。

「騎馬の組み分け、変えてもいいでしょう? 私たちで」

「そりゃ……」

 水野はどうしていいか分からない様子で、頭をかいた。

「いいけど、後にしろよ。……みんな、早く教室に戻れ」

「はぁい。……いこう、みんな」

 晶子がそういうと、皆はぞろぞろと歩きだした。

 葵も、怒りをこめた目でこちらを睨みつつ、黙って動きだす。


 悠斗は、翔のところにかけ寄って、かるく背中を叩いた。

「気にすんなよ」

「……ごめん」と、小さな声で、翔がこたえる。もう、泣いてはいないようだ。

「負けねーよ。俺たち。……女なんかに負けるもんか。」

 そう、言ってから、晶子や七海に聞かれていなかったかと、あわてて周りをみまわす。


 聞かれたところで、べつに、どうということもないのだが。



 4年生は6クラスある。運動会の騎馬戦はトーナメント式だから、2つのクラスがシード権を得ることになる。対戦の組み合わせは、当日くじを引くまでわからない。

 どのクラスもだいたい40人くらいだから、騎馬は10組。足りないところは、3人で騎馬をつくる。

 10組のうち1騎が、大将である。大将がやられたら、負けとなる。

 相手を倒す方法は、騎馬を崩すか、かぶっている帽子を奪うか。

 3分経っても、どちらの大将も生き残っていれば、その時点の残り騎馬の数で勝敗をつける。


 1回戦と2回戦は午前中、決勝戦は午後。

 毎年、運動会の花形競技の一つである。



 うすぐらい部屋に、夕日がさしこんでいる。

 和室である。

 乱雑におかれた棚から、箱や資料のようなものがいくつもはみ出している。窓の下には、途中で放り出したような機械類がそのまま置かれ、子供らしい文房具や、使いふるしのおもちゃと、ごちゃまぜになっている。

 晶子の耳に、ふすまをひらく音がきこえた。かきもの机から顔をあげる。

「あ、来たの」

 ぼんやりしたような目を、まっすぐむけて、そう言った。

「来いっていったじゃん」

 悠斗だった。右手に、文字がびっしり書かれたわら半紙をつまみあげている。

 椅子のところまでつかつかと歩み寄って、「ん、」と紙をおしつける。

「あーい」

 晶子は長い爪を器用にたてて、受け取った紙をつまんだ。

 冷房の風で吹き飛びそうになるのをおさえて、机のうえにひろげる。


 それは、クラスの名簿だった。

 4人ごとに線が引かれ、それぞれの一人目にマルがついている。


 ゆっくりと目を通してから、

「……、これ、男女別?」

「え?」

 悠斗は眉をしかめた。なにを言っているんだろう。

「男女別に組み分けしたの?」

「そりゃ…、そうだろ。」

「なんで?」

「え…、」

 少し頭をかいて、首をひねる。

「……なんででも」

「ふーん」

 いいながら、晶子は机のうえに目線をもどした。

 さきほどまで何度も書きなおしていた紙を、もう一度にらみつける。

 悠斗は、眉をひそめて晶子の手元をのぞきこんだ。

「なんだ、できてんじゃん」

「まあ、ね」

 ふたつの紙をみくらべて、ちょっと動きをとめる。

「……やっぱり、まずいよ、これ」

 悠斗は、晶子がつくった、男女混合の組み分け名簿をさして、

「ぜったい、なんか問題でるとおもう」

「そうかなあ?」

 うーんと低いうなりをあげて、かりかりとシャープペンシルをいじる。

 晶子の名簿には、びっしりと細かい書き込みがされている。身長とか体重とか、『歩幅ひろい!』とか、体格に関することがほとんどだが、いくつか関係さそうな落書きもある。

 いちばん下の欄外には、ぐるぐると三重丸をつけられた名前があって、そこへ向けて何本もの矢印が描かれていた。


 棚橋葵


 そういう、名前であった。


「とにかくさ、男と女は分けて、」

 悠斗がいいかけた直後、晶子が声をあげた。「できた!」いつのまにか、名簿の書き込みが、倍ほどに増えていた。二重線で打ち消したり、矢印で間に入れたり、狭いところにいくつも名前を書き足したりしている。

「できたって、……」

「男女別。いま、つくりなおしたの。見てたでしょう」

 悠斗は口をつぐんだ。しばらく紙をにらみつけるが、とても理解できない。

「かきなおすよ。」

 晶子はなんということもなく、わきから新しい紙をとってシャープペンシルをはしらせた。

 すぐに、新しい名簿ができる。あいかわらず、字は汚い。

「みてくれる?」

 ああ、といくぶん気後れしながら受け取ったとき、また、からりとふすまがあいた。

 洋菓子と、麦茶の入ったコップがふたつ載った盆をもった、背の高い女がたっていた。

 晶子の母親である。

「どうぞ。これね、貰い物なんだけど。晶子が食べないから余っちゃってねー、」

 机のうえに盆をおきながら、あかるい声でそう言う。

「甘いのきらいなんだもん。……えびせん、なかった?」

 晶子が、めずらしく上目遣いで、あまえた声をだす。

「きのう、お父さんが食べてたじゃんか。あ、でもさきいかならまだあったかも。探してみよっか」

「うん、」

 にやあっと、大きく歯をみせて晶子は笑った。

 あまり、教室ではみせることのない顔だった。

 ぱたんと襖が閉まってから、悠斗はマドレーヌの小袋をとって部屋のまんなかに座りこんだ。晶子も、椅子からおりてむかいあわせに腰をおろす。

「……これ、ずいぶん偏ってないか?」

「うん。」

 けちをつけたつもりが頷かれてしまい、悠斗は戸惑った。

「快のチームと、豊正のチーム。動けるヤツがみんなここに集まってるだろ?」

 その『動けるヤツ』の中には、悠斗は含まれていない。当然のことだが。

「そうだよ。……男女混合だったら、もう一隊いけたんだけど。」

「これじゃ、ほかが弱すぎるじゃん。それに大将騎だってさ━━」

 大将は、晶子。

 それは、きょうクラスのみんなで決めたことだ。

「もっと、走れるやつを集めたらいいじゃん。いいやつを七海や凛のとこにまわして、余り物だろ」

「そりゃ失礼だよ」

 晶子はわざとらしく苦笑した。

「きまったメンバーしかいないんだから、仕方ない。いくら強いウマ役を集めたって、わたしじゃ葵と戦えないでしょ。他で勝たなきゃ」

「ふーん……、」

 なんとなく納得したような顔をして、悠斗はもう一度名簿をみた。

 騎手のうちに自分の名もある。背が低く、馬には向かないというだけのことだろうが━━

「……なあ、頼みがあるんだけど」

「ん?」

 低い声でいわれて、晶子は片眉をあげた。

「翔、おれのチームに入れてよ」

「いいけど……、」

 晶子は何かいいたげにこちらをじっと見た。悠斗は眉をしかめて見返した。

「……どうしても?」

「どうしても。」

「じゃ、……あとで書き換えとく。ところでさ、こっちも頼みがあるんだけど。」

「え?」

「練習場所を、とってほしいんだ」

「場所って……、校庭?」

「ううん。」晶子はかるく首をふった。「運動公園。町営の。悠斗のお父さんってたしか役場の人でしょ。予約の仕方きいてもらってさ━━」

「いいけど、」悠斗はちょっと混乱してききかえした。「先生にいえば、校庭使わせてもらえるんじゃないの。夕方とか休みの日とかでもさ━━」

「だって校庭じゃ、他のクラスにまるわかりじゃん」

 悠斗は絶句した。

 そこまで、考えるのか。

「いやあ━━、」晶子は、なんだか照れたように、「一応、ね。本気で気にするわけじゃないけど。」

 そう、いった。


 ……どっかずれてんだよ、おまえ。


 悠斗が、その言葉を口の中で噛み潰したとき、もう一度襖があいた。

「さきいかは?」

 顔をだした母親がなにか言うよりも先に、晶子がたずねる。

「なかったっ!」にいっと笑って首をふってから、「悠斗くん、夕飯食べてくよね? おばさん、もう連絡しちゃった」晶子によくにた、長い指をひらひらと動かして、かるい口調で言う。

「ええまあ……じゃあ。」

 悠斗は曖昧にうなずいた。

 まだ、両親とも職場だろう。いますぐに帰っても、家には誰もいない。


 カレーライスの匂いが漂ってきた。



 悠斗が帰ったあと、晶子はもう一度母親に訊かれた。

 もちろん、気が変わろうはずもなかった。



 さて━━

 つぎの日曜日。


 運動公園に、クラスのほとんどの者がやってきていた。

 ざわざわと騒ぐ女の子たちの中心で、七海がなにごとか喋っている。

 男子たちは、晶子が持っている紙をのぞきこみながら、お互いつつきあっているようだ。


「集まってーっ!」

 九時。

 七海がさけぶ。

 管理事務所の前の広場に、ぞろぞろとみんなが集まってくる。

「組み分けを発表しまーす。まず、隊長10人! いまから呼ぶからねーっ」

「ちょっと待てよーっ!」

 事務所のなかにいた悠斗は、あわてて叫んだ。受け取ったばかりのお釣りと使用許可証をポケットに突っ込んで、おもてへ飛び出す。

 七海は、まん丸い目でちらりと悠斗をみて、くくっと笑い声を漏らした。

「━━じゃ、いきまーす。1番隊長、快! 2番隊長、豊正! 3ばん、蓮! 4ばん、あたし! 5ばん、(りん)! 6番、さくら! 7番、陽菜(はるな)! 8番、拓海(たくみ)! 9番、悠斗! 10番、晶子が大将でーす!」

 呼ばれたものたちが、すこし照れくさそうに前に出てくる。

 みな、動きやすそうな服装をしている。いつもスカートの晶子も、今日はジーンズだ。

「はーい、しずかにっ。それじゃ、メンバーを読み上げるから、隊長のまえに集まってねーっ」

 ばたばたと忙しく手をふりながら、七海がさけぶ。

 呼ばれた順に、それぞれ馬役が騎手のまえに集まる。

 悠斗のところに来たのは、大輝(だいき)(そら)、翔。

 おせじにも、いいメンバーとは言えない。

「集まったらーっ! 騎馬を━━」

「七海。」

 晶子が、すっと手をあげた。

 そのまま、前に出て、七海のとなりに立つ。

「みんな、」

 しずかな声で、

「ありがとう。」

 なぜか、うれしそうに目を細めて、

「今日は、みんな来てくれたけど、運動会まで、そんなに時間はとれません。たぶん、あと2回か3回。それで、おしまいです。それで━━」

 すっと、息をついて、くるりと全員の顔をみまわして、


「わたしたちは、優勝します。」


 晶子は、そう、言ったのだ。



 騎馬が立ちあがったあと、晶子は、くるりと周囲をあるいて、いちいち検分してまわった。

 それから、何人かに声をかけて、位置をかえた。豊正の騎馬と、快の騎馬は、馬役をふたり交換した。

 最後に、よろよろと危なっかしい足取りで大将騎が立ち上がると、晶子は満足げにわらった。



 翔がもうふらついている。

 悠斗は、軽く肩を叩いて気遣った。うしろの大輝と空も、余裕はないようだ。

 隣には、晶子の騎馬。

 ほかの騎馬は、もうずっと前にいる。


 快の騎馬と、豊正の騎馬。

 蓮の騎馬と、七海の騎馬。

 凛の騎馬と、さくらの騎馬。

 陽菜の騎馬と、拓海の騎馬。

 悠斗の騎馬と、晶子の騎馬。


 それぞれ、ペアをくんで、走っている。


『けして離れないように。練習中も、本番もね』

 晶子は、そういった。どういう意味があるのかは、説明しなかった。


「あ、」

 右後ろからつぶやく声。ふりむく間もなく、足元が滑った。

 翔と大輝の手が離れたのだ。

 がっ、と肩に衝撃がはしる。

 地面にあたったのだ、と気づく前に、耳に痛みが走った。

「ごめん!」

 悲鳴のような声が聞こえてくる。

 めのまえに、黒ぶちの眼鏡が落ちていた。大輝のものだ。

「すべったんだ━━」

 目を伏せるようにして、ちらちらとこっちを見下ろしてくる。

「いいよ、」

 たちあがる。耳たぶを少し擦ったくらいで、もうどこも痛くない。

「大丈夫?」

 空が、ふんわりした女のような目を細めて、顔をのぞきこんできた。

「どっこも。……組み直そうぜ」

「いやあ、いったん休憩しようか」

 頭上から声がふってきた。

 晶子だ。

「みんな、もう疲れちゃったみたいだし。」

 ひどく青白い顔で、晶子はそういった。

 騎手のくせに、いちばん息を荒くして、汗だくになっていた。



 30分の休憩をはさんで、次の練習をすることになった。

 個人戦。実戦を意識して、騎馬どうしで戦うのだ。

 ただし、1対1ではなく、



 快の組。

 それから、晶子の組と、悠斗の組。

 最初に、その組み合わせで、2対1の戦いをやることになった。

 おてほんだよ、と晶子はいった。悠斗はすこし不満だったが。


 3者が騎馬をくみおえて、対峙した。あいだは10メートルほどとって、七海が審判として立った。


 晶子が、自信にみちあふれた目でこちらをみて、笑った。


「よぉい……はじめっ!」

 七海が手をあげた。快の騎馬が、勢いよく突っ込んできた。

 10歩の距離を、ちょうど10歩で。そういう足取りだった。

 対して、こちらは動かない。いや、動けなかった。

「それでいいんだよ、」

 みすかしたように、晶子がこちらをみる。

 直後、騎馬がぶつかった。

 正面衝突。

 翔の額と、快の騎馬役である良一の胸が、大きく揺れながらぶつかった。

 悠斗は、不安定にうごく足場にふらつきながら、まっすぐ前をみすえた。

 快のととのった顔が、すぐ近くにあった。

 手がのびてきた。

 長い腕が、馬役ふたりぶんの距離をあっさりとこえて、悠斗の帽子へのびる。

 つかむ。

 右手首を、左手で。左手首を、右手で。

 つかんで、とりあえず止める。力の差は歴然としていて、ずっとは止められそうもない。

 足場もちがいすぎる。悠斗の足がのっている掌は、ひどく不安定だ。

 このまま押し負ける。でなければ、騎馬が崩れる━━


 そう思ったとき、ふいに、快の手から力が抜けた。


 一瞬、幼子のような目をまるくして、首をかしげる。それから、すぐに悔しげに頬を歪める。

 快の頭から、帽子が消えていた。

「勝負ありーっ!」

 七海の声。

 快の騎馬によりそうようにして、晶子の騎馬が立っていた。

 右手の人差し指にかるく快の帽子をひっかけて、晶子はやわらかく笑った。



 考えてみれば━━いや、考えるまでもなく、当たり前のことだった。

「2対1で戦うと、数が多いほうが勝ちます」

 低学年の授業のような口調で、晶子は説明した。

「だから、相方の騎馬とはぜったい離れないように。相方がやられたら、すぐ他の味方をみつけてくっつきましょう。敵はなるべく1騎ずつ、はさみうちに。……さっき見せたように、1騎が囮になるのもいいですね。それから━━」

 こういうときの晶子は、ほんとうに楽しそうだ。

 なんだか、芝居がかったような歩き方で、みんなの前をうろうろと動きながら、続ける。

「……それから、進む方向や狙いは、騎手がちゃんと指示して下さい。全体が見えてますから。試合では、私が指示を出す場面もあります。大将から騎手に、騎手が馬に号令をかける。馬役の中でも先頭の人が舵をきって、後ろの二人はそれにあわせます」

 みんな、真剣にきいているが、悠斗はすこし冷めていた。 

 体育教師にでもなるつもりか? 運動音痴で、ちょっと走ると貧血を起こすくせに。

 

 とはいえ━━


 さっきは、快に勝った。

 葵の顔が、頭のなかにちらつく。胸が燃えあがるように熱かった。


 おれが。

 おれが、あいつに、勝てるとしたら。



 きっと。



 しきり直して、もう一度。

 順ぐりに、1対2の対戦をくりかえした。何度目かの順番がまわってきて、ふたたび快との対戦。

 あっさりと負けた。

 両手首を握っておさえる、同じ形に持ち込んだのに。

 押してくると思った瞬間に、強く引っ張られ、馬が崩れた。

 横から帽子をさらおうとしていた晶子の手も、あっさりとかわされ、逆に帽子をとられた。

  

 晶子は、なぜだか嬉しそうにしていた。

 負けたくせに。



「……ごめん、踏ん張りきれなかった」

 翔が頭をさげてきた。

「いや、……お前はわるくないよ。」

 悠斗は頭をかきながらそういった。

 翔はよくやっている。本当に。負けたのは自分のせいだ。

「悠斗!」

 快が近寄ってきた。

「リベンジ。どーだ?」

 ゆかいそうに笑って、

「あのさ、……ちょっと、いい?」

「何が?」

「今のさ。お前ら、おれたちよりちっちゃいじゃん? 力だって」

「……そうだけど、」

 ちらりとチームメイトを見てつぶやいた悠斗に、快はあわてて手を振った。

「だから━━、正面から組み合ったら不利だってこと。こっちからすると、怖いのはさ、」

 快は右足をちょいとあげた。脚が長いので細く見えるが、腿にはかなりの筋肉がついている。

「身長差があるから、下半身にがっつり組み付かれるとヤだなって思うよ。そんで、馬役も協力して、思いきりバックして引っ張るわけ。そしたら、たぶん崩せるんじゃないか」

「あー……、」

 やけに具体的なアドバイスだった。

 つかつかと仏頂面で、豊正がこちらに近づいてきて、いった。

「……さっき、二人ですこし話してたんだよ。俺たちも、葵と戦うときには、それ、やるよ。あいつ、俺たちより大きいもんな」

「うん、……」

 悠斗はうなずいた。

 そうだ。


 勝ちたいのは、自分だけではないのだ。



 ひととおりの練習が終わったが、まだまだ明るい時間だ。

 みんな、帰ろうとせず、話しこんでいる。なんだか盛り上がっているようだ。

 運動公園の利用時間は、まだある。

「……なあ、」

 大時計から目をおろして、悠斗は晶子にいった。

「もう少し、━━」

「━━いやあ、やめとこう」

 悠斗の声をさえぎるようにして、晶子は首をふった。

「やりすぎないほうがいい。それに、……私、もう限界」

 晶子は口元に笑みをうかべていたが、脚はかすかに震えていた。

 悠斗は思わずふっと息をついた。なんだか安心した。

 ここ数日で、晶子が少し遠くへ行ってしまったように感じていたから。

「……なんだよ、それ。もう」

「いいじゃん。それに、悠斗の班、揃ってないでしょう」

「え?」

 言われて、悠斗はあわてて後ろをふりかえった。全員いたはずだ。

 ベンチの後ろに、空。その少し後ろに、翔がすわりこんでいる。

 大輝がいない。

「あ、」

 空が、いつもののんびりした声で、

「大輝、さきに帰ったよ。塾だってさあ」

 そう、言った。

「……あ、そう」

 なんだか気が抜けてしまった。悠斗は二人から目線をはずして宙をあおいだ。

 翔の申し訳なさそうな目が、少しだけ煩わしくもあった。



 その日の夜。

 悠斗は、隣町のレンタルビデオ店にいた。

 もう、夜中にちかい時間である。

 兄の気まぐれに便乗したのだが、正直、すこし後悔していた。昼間の疲れで、もう眠い。

 それでも、店に入ったときには嬉しくて、気に入りの特撮シリーズの棚にかけこんだ。

「あ、」

 気まずそうな声。

 思ってもいなかった顔があった。


 大輝だ。


「おまえ…、」

 夜にこんなトコ来たりすんの、とただ訊くつもりだったが、

「ごめん!」

 大輝は、眼鏡がおちそうな勢いで頭をさげてきた。

 悠斗はちょっと考えて、ようやく思い至った。

「……先に帰ったことなら、別に気にしてねーよ。塾じゃ仕方ないもんな。━━でも、」

 いちおう、付け加える。

「━━今度から、おれにも言って行ってよ。同じチームなんだからさ」

「うん、……ごめん」

 大輝は、もう一度、……今度はおおげさにでなく、軽く頭をさげた。

「……ほんとは、もうちょっとだけ早く帰るつもりだったんだ。けど、楽しくて……つい忘れててさ。電車の時間ギリになっちゃったから、慌てて飛び出したんだ」

「ふーん……」

 悠斗はちょっと眉をしかめた。大輝はきょとんとして、

「なに?」

「いやあ、ちょっと意外っていうか、楽しかったってのが……」

 悠斗は、なんとなく気を遣って言葉を選んだ。大輝は、ああ、とかるく頷いた。

「まあ、疲れたけどさ……」

「だよな。……ねえ、なに借りんの。おれはさ━━」

 少し後ろめたくなって、悠斗は話題をかえた。すぐ横の棚から、いつものシリーズの新作をとって、

「━━これ。『レンジャーズ』の新しいやつ。テレビで見たトコだけど」

「ああ…、面白いよね」

 大輝はちょっとうわずった声になった。

「……ぼくはさ、これが好きなんだ。『ザ・メドン』シリーズ」

 大輝がさしたのは、ひとつ隣の棚、特撮映画もののコーナーだった。

「へえ……、これ、大人向けじゃないの。てか、昔のやつだろ。俺らが生まれる前の」

「そうだけど、新作も出てるんだよ」

 いいながら、大輝が棚からとった作品は、たしかに新しいもののようだった。

「リメイクっての? 昔のと同じタイトルだけど、今の技術で、新しい脚本でさ。こないだ劇場でやったばかりなんだけど」

「ふーん……」

 そういえば、CMで見たような気もする。

「……くわしいのな。なんか」

「うん、……僕さ、将来、こういうの━━」

 いいかけて、大輝はふと動きをとめた。

 

 聞こえてきたからだ。


 棚ひとつむこう、いや、もうひとつ先か。

 よく知っている声が。


『いったほうが━━』


 店内放送と客たちのざわめきに紛れて、かすかにしか聞こえない。

 それでも、


『━━いいんじゃないの。はっきり……、』

 『こんな……くるのはよくないって?』

  『違うよ。もうこんな……はやめなさいって。だって……』


 大輝は、胸におもたいものを感じながら悠斗のほうを見た。

 悠斗は眉をしかめている。聞こえているのかどうか、わからない。


『あの子、本当になにもできないんだから。勉強くらい、死ぬ気で頑張ってもらわなきゃ。』


 ぞくり。

 悪寒が、胸から口元まで一気にかけのぼってきた。

 悠斗のほうを見る。顔をしかめて目を伏せている。

「……ごめん、」

 大輝は、しぼりだすようにいった。

 持っていたパッケージを棚に戻して、

「うちの親……、無神経なんだ」

 そう、口をついて出てから、後悔して目をふせた。

 ごめん、ともう一度いってから、背を向けて、歩きだす。


 悠斗は、なにもいえずに、しばらく立ち尽くしていた。



 次の練習の日は、すぐにやってきた。

「ふたつ、作戦を教えます。」

 晶子は、みんなの前にでて、そういった。


 中央突破と、包囲。


「まずは、そのふたつを身につけましょう。」

 そうして、練習がはじまった。



 一時間ほどやって、少し休憩していたとき、さくらが明るい声をあげた。

「あーっ!」

 駐車場からつづく遊歩道のほうへ手を振る。

 大勢の子どもたちが、こちらに歩いてきている。

 その先頭に立っているのは、まつげの長い、赤いフレームの眼鏡をかけた少女であった。今日は、スポーツ用品メーカーのロゴが入った白い帽子をかぶって、黒地に赤いストライプの入ったトレーニングウェアをきている。

「結衣?」

 蓮が、いぶかしげにつぶやいた。


 結衣は、白い手をおおきくあげて、にっこりと笑った。



「あんたたちが、ここで練習してるって聞いたからさァ」

 結衣は、悪びれるでもなく、

「となりのスペース。予約したの。やっぱし、うちも少しは練習しとかないと」

 6組は、結衣が大将であるらしい。晶子たちと同じく、クラスのほぼ全員がここに来ている。

 蓮をはじめ、5組のものたちは、戸惑った様子でかれらをみていた。晶子と悠斗、さくらの三人だけが、結衣をかこむようにして話している。

「結衣、やらねえのー?」

 こちらも、なんとなく遠巻きにしながら、6組の亮介が声をあげた。結衣は、かるく手をふって、「ちょっと待っててぇー!」とさけんだ。

「……で、さァ」

 結衣は、晶子の顔をかるく覗きこむようにして、手をあわせた。

「どうせだから、ちょっと一緒にやりたいっていうか……お互い参考になるんじゃないかなって」

 悠斗はちらりと6組のものたちの顔色をうかがった。だれも驚いている様子はない。あらかじめ相談のうえということか。

「いいよ」

 晶子は、こともなげにこたえた。

 いや、少し、ほんの少し、上機嫌そうに、唇を歪めていたかもしれない。

「じゃあ、本番とおなじ3分。1回勝負ね。勝っても負けても、恨みっこなしってことで」

「え」

 結衣は軽くうめいて、クラスメイトたちに視線を投げる。だれも答えない。

 少しだけ目を伏せて、かるくため息。

「……おっけー、やろっか」

 してやられた、という顔で。



「だいじょうぶ、」

 晶子は、みんなを集めて、大人びた、やさしい声でいった。

「これは、わたしたちのための試合。わたしたちが、優勝するために━━」

 唇のはしをつりあげて、なんだかとても嬉しそうに、

「6組には、踏み台になってもらいます」

 そう、言った。



 本番と同じくらいの距離を目分量でとって、開始線をひいた。

 その線にそって、互いの騎馬がならぶ。

 みな私服だが、帽子だけは、体育の授業でつかう赤白帽をかぶっている。


 赤い帽子の6組は、右から、

 亮介(りょうすけ)

 大翔(だいしょう)、 

 陸、

 悠希(ゆうき)

 海斗(かいと)

 結衣、

 莉子(りこ)、 

 美咲(みさき)

 花音(かのん)

 杏の順に、ならんでいる。


 対して、5組は白帽子。

 快、

 蓮、

 七海、

 悠斗、

 晶子、

 陽菜、

 拓海、

 凛、

 さくら、

 豊正。

 間隔は、ひとつおきに近く、その次は少し広く。

 バディとなる騎馬どうしの距離を、密にしている。

 ただし、快と豊正のペアだけは、別れて、両翼にいる。

 かれらには、特別な役割があるからだ。



「突撃隊、とでもよぼうか」

 晶子は、豊正と快のチームのものたちに、そういった。

「どちらの作戦でも、きみたちがいちばん重要だ」

 だから、たのんだよ、と。



 6組の騎馬たちは、どことなく落ち着かなげな様子で、ざわめいている。

 結衣は、自分の騎馬のうえから左右を見渡して、大きな声でいった。

「快と豊正に気をつけて! あとはたいしたことない。普通にぶつかろう」

 いいながら、なんとなく察してはいた。 

 たぶん、そういう戦いではない。


 晶子。気をつけるならば、あいつだ。

 そう、考えたところで、どうなるものでもないが。



 全員が参加しているから、審判はいない。

 かわりに、両軍の選手たちが、大声でカウントをする。

「さーんっ! にーっ! いちーっ!」

 だんだん、声が強くなる。

 脚に力がたまる。

「はじめーっ!」

 開始の合図と同時に、6組の騎馬は、いっせいに走りだした。

 5組の騎馬は、すぐには動かない。

 たっぷり、5秒。

 そのあいだ、じいっと前をみすえていた晶子が、右手をあげた。

「さくせーん、いちぃーっ!」

 合図にさっと応えて、5組の騎馬が動きだす。

 快と豊正は、交差するように中央へ。

 あとのものたちも、開いた本をとじるように、大将の前にでて、ひとかたまりで突き進んだ。



「1騎に対して複数でかかれば、勝てる。この前やったでしょう」

 いわれて、悠斗は前回の練習を思い浮かべる。

「だから、全員で中央にあつまって、敵の数より味方の数のほうが多いエリアをつくる。これが、中央突破作戦。……わたしが『作戦1』と号令したら、この形に動いて」

 なるほど、とは思う。

 けれども、悠斗はまだ不安だった。


 2対1でも、結局、快には負けたではないか。



 先頭に、快と豊正。

 蓮と七海、凛とさくらが並んでその後方に。

 陽菜、拓海、悠斗、晶子はさらに奥。自然に、3重の隊列ができる。

 対して、6組は、隊列というほどのものはない。歩調もあわず、ばらばらに前進している。

 結衣の騎がすこし突出して、そのあとに、悠希、海斗、莉子、美咲。あとの騎馬はかなり後ろだ。


 五秒後、快と豊正が、結衣と接触した。



「中央突破作戦では、スピードがいちばん重要だよ」

 晶子は、こういうことになると、とたんに饒舌になる。

「敵と味方は同じ数だけいるんだから、味方が一箇所にかたまっているということは、敵に包囲されるという事。……そうならないためには、どうするか?」

 むろん、こたえるものは誰もいない。晶子は、みずから続ける。

「疾さ。それだけ。」



 一秒でも早く、敵軍の中央にぶつかれ。

 あいての両翼が、こちらを包み込む前に。

 一秒でも早く、敵の大将をとらえよ。

 他の騎馬が、大将を守ろうとする前に。


 相手の態勢がととのう前に、一丸となって相手の大将をしとめる。

 そうすることで、相手チームの大半を決戦に参加させず、数の優位を保ったまま決着する。

 それが、中央突破作戦の肝であった。



 ふたりの手が、同時に、左右から結衣の頭へのびた。

 とれる。

 そう、確信した。しかし、そうではなかった。

 指先が、結衣の帽子のわずか上を、空をきってぬけていく。

 結衣が、身をしずめて避けたのだ。

 前傾姿勢となったふたりの肘に、下から手をあてて、軽くつきあげる。

 のびきった腕が、ぽん、とはじかれて力が抜ける。

「はしれぇっ!」

 高い声で号令。はっと気づいたように結衣の下にいる三人がスピードをあげる。

 2秒ほどで、結衣はふたりの視界からきえた。間をすりぬけて、陣の奥へと。

 快は、あわてて体を左にひねって後ろをむいた。すぐに方向転換して追わなくては。

 すると、目の前に、結衣の顔があった。

(やられた!)

 一瞬のできごとである。

 結衣の騎は、かわらず全速力で、晶子のいる前方へと駆けている最中だ。

 快は、結衣を目で追おうとするあまり、ふりむいた瞬間、大きく体をかたむけた。

 頭を、帽子をつきだすような格好に。

 わずかに早く、半身をこちらにむけて、結衣はその一瞬をまちうけていた。

「ごめんね、」

 そう囁くのがきこえた。あわてて手をのばす。とどかない。体勢が不安定すぎる。

 直後、頭から帽子の感触がきえた。結衣の騎はもう走りさっていた。

 快は、なかば呆然として、急停止した騎馬のうえで数秒のあいだたちつくした。



 凛は、きつい目をさらに細めて、かるく舌打ちした。

 快がやられた。豊正は方向転換に手間取って、あとからきた4騎に囲まれている。

 それでも、右に蓮と七海、左に自分とさくら。こちらも4騎で、大将である結衣を囲むかたちはできている。まだ、作戦どおりだ。

 自分と七海で前をふさぎ、さくらと蓮が後ろから帽子をとる。それで終わるはずだ。

 結衣が突っ込んでくる。

 はやい。

 凛と七海のあいだは、まだ少しあいている。強引につっこまれたら、通してしまうかもしれない。

 とっさに、右腕を大きくつきだした。ちょうど、結衣の顔の高さに。

 結衣は速度をゆるめない。

 あたる。そう思った瞬間、

 腕のつけねを掴まれて、ぐるりと体重が反転した。

 足の下になにもない。


 宙にういている。そう、気がつく。



 凛が落馬した。

 いや、結衣に落とされた。

 凛のさしだした腕にぶつかりそうになっても、結衣の騎馬は速度をゆるめなかった。

 ぶつかりそうになる寸前、結衣は両手で凛の肩と脇の下をつかんだ。

 そのまま、騎馬の勢いと自分の体重をのせて、ひき倒したのである。

 凛は、右側にバランスを崩して足をふみはずし、騎馬からころげおちた。



 凛が、大きな音をたてて地面に叩きつけられた。

 同時に、三人の馬役も、よろめいて倒れるように膝をつく。

 すぐ後方にいた拓海の騎馬も、あおりをくって揺れた。拓海はかん高い声でうめいて、たてなおそうと身をふるわせている。いずれにせよ、すぐには動けそうにない。

 右側にいる陽菜の騎馬は、脚がすくんでいるのか、まったく間合いをつめようとしない。


 もう、結衣と晶子のあいだにいるのは、おれたちだけだ。


 悠斗は、目の前にいる結衣の顔を、ぎりりと強くにらみつけた。

 結衣は、大きく目をかがやかせて、うれしそうにこちらを見つめている。

 晶子は、後ろでどんな顔をしているのだろう?


 右手をのばしてくる。

 手首をつかんで止める。

 こんどは左手。

 つかむ。


 するりと抜けた。


(汗ですべった?)

 いや、そうではない。

 つかまれる瞬間に、結衣は手首をひねって隙間をつくっていたのだ。

 そう、気がついたときには、結衣の顔がすぐ近くに迫ってきていた。

 左手が、鞭のようにしなってとびかかってくる。

 頭をしずめて、かわそうとする━━


 と、


 ふいに、結衣の顔が視界からきえた。

 蓮、七海、さくら。

 三人の手が、いっせいに結衣の肩と背中をおさえつけていた。

 地面にむけて垂れた結衣の首から、はらりと帽子が落ちる。


 勝った。ともかくも。

 そう思って、ふっと息をついたとき、悠斗はふと違和感をいだいて眉をしかめた。

 自分の帽子がない。


 そこで、やっと気づく。


 さきほどまで空いていた結衣の左手に、赤白帽がひとつ握られていた。



 終わってみれば、すべてが作戦通りと言えないこともなかった。

 考えなしに飛びだしてきた大将を、こちらの全戦力で包囲して、迅速に叩きつぶした。

 そういう言い方もできる。


 じっさい、試合後のミーティングで、晶子はそう説明した。

 本当のところ、どう思っていたかは、わからない。



 反省会をおえて、しばらく休憩となった。

 15分後━━



「それじゃあ、本当なの、」

 結衣と晶子は、事務所のうらで、フェンスに軽くもたれながら話している。

 ペットボトルに入ったスポーツ飲料と、緑茶をそれぞれ飲みながら。

「うん。」

「じゃあ、さ━━、」



 時間になっても晶子が戻ってこないので、悠斗は事務所のまわりをぐるりと歩いてまわった。

 自動販売機の前を通って、あずまやの横をぬける。裏口に近づいたとき、声が聞こえてきた。



「賭けよう。本番で、うちのクラスが優勝したら、あなたは行かない。いいでしょ?」



「晶子、」

 声をかけると、二人はすぐに口をつぐんで、こちらを振り向いた。

「すぐ行くよ。」

 いつもの落ち着いた声で、そういって、歩きだす。

 からんと、ごみ箱にペットボトルを投げ込む音。

 こちらに近寄ってきた晶子に、悠斗は小さな声できいた。

「賭けって、何だよ。」

 晶子はかるく首を振った。そのままわきを抜けて、運動場へと歩いていく。

(なんだよ、……もう)

 悠斗はなんとなく苛立って、その場にとどまった。結衣のほうを見る。


 結衣は、ふたえの目をかるく伏せて、じっと考えこむように壁をみつめていた。



 約三時間後━━


 大輝は、いつものように電車の中にいた。

 二人がけの座席の通路側。膝の上には、算数の受験参考書。何度も目を走らせるが、内容が頭に入ってこない。

 眉をしかめて、視線をはずす。

 同じ車両の端に、6組の日浦結衣がいるのが目に入る。彼女はいつも立っている。席が空いていようと、いまいと。いつも、同じ駅から同じ車両に乗るが、話したことはない。


 なんだかお腹が痛い。ここ最近、よくあることだが。


 参考書をとじる。

 どうせ、あとひと駅だ。

 疲れているが、眠くはない。

 このところ、あまり眠くならない。そのかわり、頭痛が少しする。


 アナウンスが聞こえてきた。


 ちらりと、結衣がこちらを見たような気がする。

 胸が少し痛んだ。



 結衣と同じ駅で降りて、人ごみにまぎれて改札を出た。

 北口まで歩いて、遊歩道をぬけると大きな公園がある。そこを抜ければ、すぐだ。

 公園のなかほどまできて、大輝は足を止めた。


 まだ少し時間はある。


 噴水のはしに腰かけて、参考書をひらく。

 塾についてからやればいいのだが、なんとなくまだ行ってはいけない気がした。

 ため息をつく。


 簡単な計算問題がいくつか、それから図形が2つと、その解説。

 なんていうことないページだ。一度は解いているから、とりあえず目を通すだけ。


 ずきんと、頭の右側が痛む。


 なんだか、目が滑る。

 眼鏡をかけなおす。計算式を、声にだして読んでみる。もちろん、読めないわけがない。

 頭がぼんやりしている。


 二回、ページをめくりなおして、一度目をとじる。

 大時計を見上げる。

(あれ……?)

 いつのまにか、20分も経っている。

(疲れてんのかな…)

 ぼんやりと、そう思う。


 それから、もう一度目線をさげて、参考書をにらんだとき━━


 鋭い痛みが、体の中央をつらぬいた。


「つっ……!」


 うめいて、腰をまげる。

 いやな匂いのする汗が、だらだらと額をつたう。

 吐きけがする━━


(大丈夫……)そう、自分にいいきかせる。


 初めてじゃない。だから、大丈夫だ。

 お腹が痛いのも、頭がぼんやりするのも……。


 足がすくんでしまうのも。


 腹をおさえて、しばらく地面をみる。

 脂汗がぼたぼたと垂れる。

 涙は出てこない。


 先月だったか、病院にかかったときのことを、思い出す。

『気のせい』という言葉は、医者は使わなかったが、家族はそのように解釈した。

 だから、これは気のせいなのだ、きっと。

 もちろん、そんなわけはない。


「はい、どうぞ。」

 女の声。大輝ははっとわれにかえって、顔をあげた。

 ミネラルウォーター。

 さしだされたペットボトルのむこうに、赤ぶちの眼鏡をかけた色白の少女の顔。

 日浦結衣だ。

 なんだかちょっと目を伏せて、無表情に怒っているようにみえる。

「ああ、」と呻いて、大輝はペットボトルに触れた。

「常温だよ。冷たくないから」

「……ありがとう」

「電話、かそうか。かわりにかける?」

 やつぎばやに言われて、大輝はすこし戸惑った。

 年上の━━いや、大人と話しているみたいだ。

 晶子に、すこし似ている。

「……いいよ、大丈夫だから」

 そう、とかるく頷いて、結衣は大輝のよこに座った。

 大輝はもらったペットボトルを開けて、水をひとくち飲んだ。すこし、落ち着いたようだ。

「かえったら?」

 そう言われて、大輝は、ちらりと時計に目をやった。もう授業は始まっている。

「いや……、」

 結衣も、おなじ授業に出ていた筈だ。

「ごめん。」

「べつに。」

 なんと言っていいのか、わからなかった。

「おなか、痛いの?」

「少し。いつものことだから。」

「いつも?」

「いや……」

 迷ったが、素直にこたえることにする。

「ここに来ると、時々。……いつもは、もっと、マシなんだ」

「病気?」

「……さあ。ストレスって言われたような気がする。よくわからないけど」

 実際、よくわからない。

 医者が言ったことより、そのあと母にぶつけられた言葉のほうをはっきり覚えている。

 あまり思い出したくはないが。

「そっか、」

 結衣が、立ちあがった。

 ミネラルウォーターの礼をいおうとする。舌がもつれた。

「ねえ。……やめちゃったら?」

 え、と間抜けな声で聞き返す。結衣は、真剣な目でこちらを見すえて、重ねて言った。

「やめなよ。塾なんか。」


 大輝は呆然として、五秒ほど黙りこんだ。

 ふつふつと怒りに似た感情がわきあがってくる。


「いきたくないんでしょう?」

 どうしてかとても悲しそうに、結衣はそう続けた。

 大輝はぎっと顔をあげて、結衣をにらみつけた。「君は━━」いいかけて、自制する。日浦結衣は6組。自分は一度も彼女より良い成績をとったことがない。だから何だ?

 かわりに、吐きすてるように、こう言った。

「やめない。……やめるもんか。」

 そう、と結衣はしずかにいって、目を伏せた。

 あたりはもうすっかり暗くなっている。

 月の光と、街灯のぼんやりとした灯りが、ふたりの頬をそっと照らしていた。


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