父親の苦悩
義弘は家に帰りたくなかった。
というより、綾音に会いたくなかった。
女になってしまったとはいえ、女っぽくなっていく綾音を見たくないのだ。
だから綾音という名前になっても頑なに綾斗と呼んでいる。
それが女子中なんて行ってしまったら増々女になっていく。
だがビシッと言う勇気もない。
なにより一番の被害者が綾音自身だからだ。
億劫な気分で玄関を開けると綾斗の「おかえり」という声とともに
信じられない光景が飛び込んできて絶句してしまった。
綾音がワンピースを着ているのだ。
しかも髪型も女の子っぽくなっていて、カチューシャまで付けている。
「お父さん?」
綾音が首をかしげている。
なんとか気を取り直して返事をした。
「あ、ああ…ただいま」
靴を脱いでいると綾音がニコニコしながら「どう?わたしの恰好」と聞いてきた。
わたし…わたし!?
今まで「僕」だったのに「わたし」と言った…
もうショックで何も考えられなかったので「いいんじゃないか」とそっけなく答えて
そのままリビングに向かった。
この日、義弘はほとんど口を開かず、疲れたからと言って食事が終わってから
すぐ部屋にこもった。
夜の11時を過ぎた頃、和子が隣の布団に入ったが義弘は何も声をかけなかった。
無言のままの二人。
このまま寝ようかと思ったが寝付けない。
あの女の子の姿の綾音が頭から離れないのだ。
そこへようやく和子が話しかけてくる。
「ねぇ…そんなに女の子になった綾音を受け入れられない?」
義弘がどんどん女の子になっていく綾音がショックなことを
和子はちゃんと理解していた。
義弘も本心を話すことにした。
「当然だろ、綾斗は俺の自慢の息子だったんだ。そりゃ元々男らしいとは言えなかったけど、病気で女になってしまったとはいえ、綾斗にはずっと男という意識を持っていてもらいたいんだ!それなのに女子中?あの恰好?わたし?男の頃の面影が何もないじゃないか!」
ずっとため込んでいたことを爆発させる。
それに対し和子は極めて冷静に答えた。
「それでいいと本当に思ってるの?あの子がこれから先、ずっと「僕」とか「俺」って言って男っぽい恰好して女の子なのに男のように振る舞えって言うの?」
「そうだよ、あいつは男なんだから!」
「それはあなたの願望でしょ、現実に綾音はもう女の子なのよ」
願望という言葉が胸に突き刺さる。
そう、現実を受け入れられていないのは自分自身なのだ。
男親というのは息子が自慢だ。
娘は娘で大事だが、義弘の場合は特に息子は自分の分身のような存在なので
過剰に期待していたのだ。
だからこういうことになってしまったとはいえ、綾斗として生きてほしかった。
それがせめてもの願いだった。
「俺はそれでも…今までの綾斗らしくいてほしいんだ」
すると、和子が意外なことを言ってきた。
「今、とてもあの子らしいじゃない」
「どこがだよ?あんな女らしくなってちっとも綾斗じゃないじゃないか」
ここで沈黙になってしまった。
和子が何か言うのをためらっている。
義弘は和子が言いたいことが何となくわかっていた。
だが、その言葉は一番義弘が認めたくない言葉だ。
しかしここまできたら引き返せない。
和子がやっと重い口を開いた。
「綾斗はね…ずっと女の子になりたかったのよ」
和子はあえて綾斗と呼んだ。
それは今のことではなく、昔のことを話しているからだ。
そして義弘は「やっぱり…」と思ってしまった。
これこそが一番聞きたくない言葉だった。
だが認めたくない義弘は和子に反論する。
「それ、本人が言っていたのか?」
和子が首を横に振る。
「言わなくてもわかるのよ。わたしはあなたよりもずっとあの子を見てきたから…あの子は小さい頃から男の子が興味を持つものにあまり興味を示さなかった。テレビにしてもオモチャにしても漫画にしても女の子が好きなものばかり。最初は愛梨の影響かなって思ったりもしたけど違うのよね。物事に対する考え方や見方も女の子なのよ。例えば女の子にしか気づかないような細かいことに必ず気づくの。いつもとちょっと髪型が違うとか、使っているものが変わったとか」
なんとか否定したい義弘は一生懸命反論の言葉を探す。
「でもそれだけじゃ…なら男が好きとでもいうのか?」
「それはわからない。多分恋というのをしたことがないから。でもあのままだったらきっと男の子を好きになったと思う…」
「そんなバカな…」
「それとね、わたしずっと気づいていたことがあったの。買い物とか一緒に行くでしょ、
愛梨がボーイッシュな服を選ぶと綾斗が必ず女の子っぽいかわいい服のほうがいいって言うのよ。でもそれって本当は綾斗自身が着たかったのよ。だから今日、ワンピースを手に取ったとき、目がキラキラしていた…やっぱり着たかったんだってわかったわ。そのあとの恰好や髪型、ずっと嬉しそうにニコニコしてた。あの子は自覚していないだけで心はずっと女の子だったのよ」
もはや反論の余地はなかった。
そしてそれは義弘も疑心暗鬼ながら薄々勘づいていたことだった。
現実を受け入れ始めた義弘はどうしていいかわからなくなった。
「俺は…これからどうすればいい?」
「簡単なことよ。綾音って呼んであげればいいの。」
「それだけでいいのか?」
「ええ、うちには元々綾音と愛梨という2人の娘がいた。それだけのことよ」
「娘が2人…綾斗は元から息子じゃなかったってことか?」
「そうよ、それに結果論かもしれないけど綾音はラッキーだったの」
「ラッキー?」
「だってそうでしょ、心だけ女の子で身体が男だったのに身体まで女の子になったんだから。世の中そういう病気で苦しんでいる人もたくさんいるのよ。でも綾音は苦しまずに済んだ、本来の性になれたんだから」
和子が言うことが事実なら確かにラッキーだろう。
性同一性障害というのは手術をしても完璧な性になれるわけではない。
だが綾音は完璧な性になれた。
この先のことを考えたらよかったと思うしかなかった。
そうなると親としてもう腹を括るしかない。
親にとっては小友の幸せが一番だ。
「明日から…綾音って呼ぶよ。すぐには無理かもしれないけど…綾音という娘を愛梨と同じくらい俺の自慢の娘として誇れるようにする」
それを聞いて和子はニコッとした。
「大丈夫よ、綾音も愛梨も大事なわたしたちの子供なんだから」
ずっと胸の中に閊えていたものが晴れた気分だった。
もう現実だけを見る、義弘はそう強く誓った。
それにしても母親ってすごいな…やっぱり俺以上に子供のことをしっかり見ている。
俺もしっかりしないとな!
「当然だ、おやすみ!」
久々に朝までぐっすり眠れた日だった。
翌朝、起きてリビングに行くと義弘が新聞を読んでいた。
「お父さん、おはよう」
義弘はキッと睨んできた。
どうも最近そっけないというか避けているように感じる。
お父さん…やっぱりわたしが女の子になるの嫌なのかな…
不安が押し寄せてきたところで、義弘が突然ニコッとした。
「おはよう、綾音」
綾音という名前になって、義弘が初めて「綾音」と呼んでくれた。
それが嬉しくて思わず抱き着いてしまった。
「お、おい…」
義弘は焦ってるようにも照れてるようにも見える。
「今日もお仕事頑張ってね」
「あ、ああ…」
この光景をキッチンから見ていた和子がクスクスと笑っていた。




