ぼくのかみさま
「いたる、ケータイ鳴ったよ」
「んー……」
「コーヒー淹れたんだよ。飲んで飲んで」
「…朝からホント元気だな、お前」
「お前じゃなくてキキョウだってば!」
「ハイハイ」
「呼んでよー」
「おはよ、桔梗」
「えへへ」
インスタントコーヒーの匂いに包まれた朝を迎えるのはもう何度目だろう。
コーヒーを啜るおれの前で、ニコニコと笑顔を浮かべているこの見目麗しい少年・桔梗とおれには血縁関係など何もない。
桔梗がおれの部屋に転がり込んできて、何となく一緒に暮らすようになったのが、今から一ヶ月前のことだった。
一人暮らしにもすっかり慣れた大学二年の夏。おれ、癸至は大学に行き、親友のミドリと笑い合い、バイトに励む毎日を過ごしていた。
「あー疲れた…」
今日も充実した一日だった。欲しい本も手に入った。本屋か図書館に住みたいとさえ思うほどの本馬鹿のおれに、本屋のバイトはまさに天国だった。
買った本を思い出してにやけてしまう顔を抑えながら、薄暗いアパートの階段を登る。すると自分の部屋の前に何かあるのが目に入った。
ある、というかいる。人間だ。身体を縮こまらせていて、ぼさぼさの黒髪と薄汚れたシャツしか見えない。本当にそれは自分の部屋の玄関扉のまん前に鎮座していて、これでは部屋の中に入れない。
恐る恐る近付くと、ゆっくりと顔が上げられ、大きな瞳がおれを写した。
「あの、どちらさま?」
「…あ」
「?」
「逢いたかった…!」
ぱあ、と笑顔が向けられ、次の瞬間には抱きつかれた。
おれはこのよくわからない状況に、頭を混乱させるしかなかった。
誰なのかわからないまま部屋に上げるのは少し気が引ける。しかしこのまま部屋の前にいてはご近所様に迷惑がかかってしまう。
「………中、入ってください」
「うんっ」
「ちょっと待って、何でそんな汚れてんの?」
「?」
玄関に入って電気をつけてから泥だらけなことに気付いてぎょっとした。
服もボロボロで、TシャツとGパンが限界だと訴えているようにも見えた。凝視をしてしまい、おれの動きが止まったことに首を傾げられた。
(どうしよう…風呂?風呂なのか?いや、それもちょっと…しかしこのまま入られたら本が汚れる…)
「どうしたの?入るの?」
「とりあえず風呂入って」
「ふろ?」
「そう、こっち。着替えとタオル貸すから」
無理矢理バスルームに押し込んで、タオルと着替えを探す。
おれの服では少し大きいかもしれない。自分よりも幾分か小さな身体だった。声で、何となく男の子のような気がする。幼い、少し高めの声変わりをしたかしないかくらいの子供の声。
「ねえ」
ガチャ、とバスルームのドアが開いたからもう上がったのかと思ったが、顔には泥が付いたままだし、どこも濡れていなかった。
「ここ何する場所なの?ふろってなに?」
「そこからかよ…」
重い腰を上げてバスルームに向かう。首を傾げる少年にとりあえずお湯の出し方から教えることになった。
「ここ捻ったらお湯が出てくるから、これで頭洗って、体洗うのはこっち」
「わかった」
「うわっ!ちょ、」
服を着たままシャワーを出して頭から被るから、慌ててコックを逆に捻った。まさに濡れ鼠とはこのことだ。風呂の入り方がわからないなんてどんだけ野生的なんだ。
しかしこのままでは埒が明かない。少し身体の大きな子供だと思えばいい。
「バンザーイして」
「こう?」
「そう、いい子」
汚れたシャツを脱がせる。きょとんとした顔と薄い胸板に少しホッとした。これで女の子で声を上げられでもしたら、おれは確実に変質者としてつかまってしまう。下手すると誘拐犯扱いだ。
「目、閉じて」
「ん」
安物のシャンプーの匂い。わしわしと頭を洗ってやると、気持ちよさそうに笑っている。何だか犬みたいだ。
「はい、終わり」
「ぷはっ」
「これで身体洗って汚れを落として。濡れたまま出てこないように」
「はあい」
「終わったら呼んで」
頭を洗い終わった濡れた手をタオルで拭いて、バスルームの扉を閉めて溜息を吐いた。
十五・六歳の少年。
全く見覚えのない姿のはずなのに、何となく懐かしい感覚がする。
おれは一人っ子で兄弟はいない。確か親戚にあのくらいの年代の子はいたが女の子だったはずだ。
本当に知らないのだろうか。必死に記憶を探る。けれど何も思い出せない。
わからないなら、これから聞けばいいだけの話だ。
「泥落ちたよ」
「あ、ああ」
「どうしたの?」
「何でもない。ほら、これで身体拭いて」
にこにこと笑顔でおれを見る少年の身体にタオルを押し付けた。けれど身体は拭くものの、濡れた髪を拭こうとしないから、もう一枚用意していたタオルでガシガシと少し乱暴に拭いてやった。嫌がるかと思ったがそんな様子もなく、されるがまま。
「いいにおい」
「…安物のシャンプーだけど」
「ふふ」
タオルの中で、柔らかく笑う気配がする。それに気付かないふりをして着替えを渡した。
「ほら、これ着てからこっち来て」
「うんっ」
この時おれは知らなかった。
おれたちのこの出会いが、すっかり忘れてしまっていたおれの過去を思い出させるなんて。
「………」
「なに?」
「とりあえず名前は?」
「キキョウだよ」
「キキョウ?」
「ぼくの名前」
「キキョウって花の桔梗?」
「うん」
変わった名前に少し驚く。
けれど名前を聞いてもおれの記憶にその名前はない。そもそもそんな変わった名前なら忘れるはずがないのだから。
「あのね、かみさま」
「神様…っておれのこと?」
「そう。ぼくのかみさま」
「…なに、お前電波なの?不思議ちゃんなの?おれは神様なんかじゃないし、そんな名前でもないんだけど」
「でもかみさまだよ」
おれが神様なんて大それたものなわけがない。どこにでもいる普通の大学生だ。
「家、どこ?」
「んー…」
「ふざけてんのか。おれそんな暇そうに見えんの?」
「ちがうもん…」
「……何なんだよお前。もうその服やるから帰れよ」
冷たく突き放そうとすれば、少し俯いて悲しそうな顔をされる。雨の中で捨てられて濡れた子犬みたいに見えて絆されてしまいそうだ。
気が付けば夜も更けて、深夜十二時を回っていた。こんな時間に未成年を放り出すわけにも行かず、また溜息が漏れた。
「…もういいよ。今日は泊まっていいから」
「ホント?」
「明日には出て行けよ。あー…レポート忘れてた…」
レポートを思い出したところで、客用の布団がないことに気付いた。
まだ秋口だ、毛布一枚あれば何とか凌げるだろうと思い、少年にベッドを譲ることにした。押入れから毛布を取り出していると、くいとシャツの端を引かれた。
「かみさまはどこに寝るの?」
「どこって、ここのラグの上」
「何で一緒に寝ないの?」
「シングルに二人は無理だろ」
「ぼく一緒でもいいよ」
「上から目線な感じだな。いいよ、まだそんな寒くねえし」
初対面の人間と一緒に寝るだけの神経はおれにはない。少し不服そうな少年を無理矢理ベッドに押し込んで、レポートもそこそこにラグに横になった。
ケータイのアラームの音が聞こえる。
隣で寝息が聞こえたことに驚いて慌てて起き上がると、眼に飛び込んできたのは見慣れない少年の姿。
(忘れてた…)
つか、わざわざベッド譲ったのに何でこいつも一緒に床で寝てるのかがわからない。
考え事をしているとスヌーズ機能で再び携帯が鳴り出した。時間を告げる携帯を切って、床で寝たことからの身体の軋みに耐えながら立ち上がった。身支度を整え、部屋の合鍵とメモを残して部屋を後にした。
ミドリに相談してみよう。こんな馬鹿げた話を聞いてくれるのはあいつしかいない。
メールで昼に学食に誘ったらあっさりOKの返事が来て少しホッとした。
学食でラーメンを手にしたおれの隣で、ミドリはA定食を手に、しあわせそうな笑顔を浮かべていた。
「A定食うまそー」
「…のんきでいいな。、お前」
「せっかくご飯なのに暗い顔してたら美味しくないじゃん」
「それはまあそうだけど」
ミドリはひょろひょろと背が高くて、いつも笑顔を浮かべて人のよさそうな顔をしている。実際人がいいし、人望も厚い。人見知りにおれには素晴らしい特技だと感心してしまう。
「で、何があったの?」
「知らない子供に家に押しかけられた」
「追い返したの?」
「夜遅かったから一応泊めたけど、起きたら帰れってメモ残しといた」
「ふうん」
A定食を貪り食いながら、ミドリはわかりやすく考え込んだ。それから、いかに名案だといわんばかりの笑顔を見せて、こう云い放った。
「おれ今日至んとこ行っていい?その子見たいな」
「…云うと思った。もう帰ってると思うけど」
「いいのいいの」
ミドリに相談すればこうなることは見えていたし、こういうやつだとわかっていておれやミドリの親友をやってるんだ。親友と云う肩書きは伊達じゃない。
「かわいい子?」
「…男だったぞ」
「男の子でも可愛い子いるじゃん」
「そういや顔ちゃんと見てないなあ」
「へー、楽しみ」
「お前、少年の意味わかる?」
「そんくらいわかるよ」
そしてミドリはどこぞのおバカタレント並におつむが弱い。よく大学に入れたな。
まあミドリなら口外もしないだろうし大丈夫だろうと溜息を吐いて、もう部屋にはいないであろう少年の顔を思い出そうとした。
部屋に着いて、おれはミドリを部屋に連れてきたことを少し後悔をした。
「おっじゃまっしまーす!」
「声でかいっつの」
「至の部屋久しぶ…」
「ぶっ」
狭い玄関でミドリが立ち止まってしまい、勢い余ってその背中にぶつかった。何事かと聞こうと肩を叩いた。
「ミドリ?」
「かわいー!」
「ちょ、まだいんのかよ!つかミドリ!ブーツ脱げ!」
ブーツを脱がず部屋に入ろうとするミドリを捕まえた。ミドリの意識は完全に部屋の中にいる少年に向いていて、だらしない笑顔を垂れ流している。
「帰れってメモ…」
「かわいいねえ。いくつ?名前は?」
「キキョウ」
「キキョウって云うんだー。おにーさんはミドリって云うの。ミドリって呼んで」
「ミドリ?」
「きゃー!」
(一瞬で馴染みやがった…)
おれが部屋を出るときに置いたメモと合鍵はそのままに、少年はラグの上でぼんやりと窓の外を眺めていたところをミドリに抱き付かれたらしい。
ミドリに抱き締められた少年の顔を見れば、小さな顔にくりくりとした大きな目、整った鼻とピンクの唇が目に入った。少し我儘そうな顔立ちではあるが、確かに可愛い部類に入るなと今更ながらに思った。
少年は子供好きのミドリに頭を撫でられてるときにきゅるりと腹を鳴らせた。
(しまった…朝出て行くと思ったから何も食わせてない…)
「お腹空いたの?」
「んーん」
「でもお腹鳴ってるよ」
「だいじょぶ」
「……」
ミドリが指摘しても少年はふるふると首を横に振って否定する。
溜息を吐いて、冷蔵庫の中にあった菓子パンと牛乳を少年に渡した。
「………?」
「ほらキキョウ、食べなよ」
「かみさまの分は?」
「神様?」
「おれのことずっと神様って呼んでんの」
自分の腹が鳴ってるのにおれを気にする少年に心が揺らぐ。
しっかりしろ、おれ。ほだされんな。
「キキョウ、神様はもうご飯食べてお腹いっぱいだから大丈夫だよ」
「そうなの?」
「うん。だからお食べ。ちゃんといただきますしてね」
「いただきます」
「うん、いい子」
ミドリの大きな手のひらが、少年の黒髪に触れる。もそもそとパンを頬張る姿をミドリがかわいいかわいいと眺めている。
自分の部屋なのに居心地の悪さを感じながら二人を見ると、少年の視線がこちらに向けられた。
「おいしい」
にっこりと笑顔を向けられてどきりとした。
ミドリはその笑顔がまたツボだったらしく、少年に抱きついて頬ずりをしていた。
「あ、そうだ。キキョウ」
「?」
「これは至。神様じゃなくて、至って呼んであげて。その方が喜ぶよ」
「いた、る?」
「そう、至って云うのがこの神様の名前なんだよ。神様にも名前があるんだ」
「…いたる」
小さな口が俺の名前を紡ぐ。口元にパンくずが付いてる。
「…もーいいよ。好きなだけいろよ」
「ほんとっ?」
「よかったねえ、キキョウ。おれも遊びに来るからね」
「うんっ」
おれは神様なんかじゃない。
ごくごく普通の、どこにでもいるちょっとおたくな大学生。
それなのにこの桔梗と云う少年は、何の疑いも躊躇いもなくおれのことを神様と呼んだ。
神なんて、何処にもいないかも知れないのに。
「まあ、よろしく、桔梗」
「よろしくおねがいします」
ぺこりと頭を下げた桔梗のつむじが見えて、くすりと笑ってしまった。
そしておれたちの妙な共同生活が始まった。
朝の苦手なおれの一日は、目覚まし時計と携帯のアラームで先に起きる桔梗に起こされるところから始まる。
一緒に朝食を取り、桔梗に見送られて部屋を出る。
「今日帰るの遅くなるから先寝てていいから」
「うん。ぼくベッドの奥ね」
「行って来ます」
「いってらっしゃい」
大学に行き、バイトに行くと家にいる時間は思っていたよりもずっと少なく、桔梗を受け入れてしまいさえすれば後は何とでもなる。
桔梗は俺の部屋にいる間の殆どを窓際で過ごす。南向きの窓から入る日差しを浴びながら外を見ているらしい。
「今日は雲いっぱいだっただね」
「そうだな。傘持って出なかったから雨降らなくってよかったよ」
「ふふ」
キキョウは今日は雨が降っていたとか、美味しそうな雲が流れていたとか、本当に何気ない日常を楽しそうに報告してくれる。
「ほら、寝るぞ」
「ぼくこっち?どっち?奥行くの?」
「奥行け。落ちる心配ないし」
「はあい」
始めこそは戸惑ったが、今は同じベッドで眠ることにも全く抵抗はなくなっていた。
小さな身体を猫のように丸めて、おれに寄り添うように眠る姿を可愛いと思う。一人っ子のおれは、弟がいたらこんな感じだろうかと思うこともしばしばあった。
二人のときは、本を読むおれの傍で桔梗が眠っていたり、ミドリを交えて三人でファミレスにご飯夜食べに行ったりもした。
そんな毎日を過ごし、独りで過ごしていた部屋に誰かがいるということに小さなしあわせを感じながら、一抹の不安も抱いていた。
「いたる、おなかすいたー」
「ハイハイ」
「なに作るの?手伝う?」
「危ないからそっちで座ってろ。大丈夫だから」
この少年がどこの誰なのか、おれは知らない。
桔梗と云う名のほかに、何も知らない自分が酷く不安に感じた。
桔梗と暮らし始めて一ヶ月。おれは事実を知ることになる。
「癸さん、お宅動物とか飼ってません?」
「飼ってません、けど」
「あらそう?ならいいんだけど…」
大家さんにとっ捕まって聞かれたのは、身に覚えのないペットの話。
特に猫や犬を拾った覚えもなく、否定をすると大家さんは大きな溜息を吐いた。
「最近ちょっと苦情が入って来てね。違うならいいのよ、ごめんなさいね」
「いえ…」
違うとわかった大家さんの背中に、まさかと不安がよぎる。
その『動物』が桔梗のことなのかと感じた。
確かに人間も動物だが、飼うとは違う。一緒に暮らすのが主従関係なんて、そんな馬鹿な話あるわけがない。
「動、物…?」
おれやミドリの目には、桔梗は人間の男の子だ。たまに三人で外に出かけたりもした。
まさかと自分の頭を疑う。
桔梗が犬か猫で、自分たち以外には動物に見えているなんて、そんな漫画や小説のフィクションなんて、現実に起きるわけがない。
「桔梗!」
勢いよく玄関のドアを開けると、そこにはいつものように外を眺めている桔梗の姿があって安堵した。そして、いつものように笑顔でおれを見上げた。
「おかえり、いたる」
「…ただいま」
「どうしたの?」
おれの様子がおかしいことに気付いた桔梗が首を傾げる。
もしかしたら本当に、おれの目に見えているものだけが現実じゃないのかも知れない。
「いたる?」
「…お前は、桔梗だよな」
「うん、そうだよ」
「人間、だよな…?」
「……いたるは、何だと思うの?」
「…人間だと、思いたい」
よくわからないままに手探りで二人で過ごした日々を、今更なかったことには出来ない。
楽しかったことも嫌なこともあったけれど、この穏やかな毎日は、終わりを告げてしまうのだろうか。
「いたるがいっぱい色んな本を読んで、たくさん勉強してるの、知ってた」
「まあ…この部屋見ればわかるだろ…」
本に溢れたこの部屋を見ればわかることを、桔梗が嬉しそうに云う。そして、桔梗の手が一冊の本を手に取った。
「ぼくね、いたるの一番好きな本、知ってるよ」
それは、おれがまだ小学生だった頃に自分のこづかいで買った本。何度も何度も読み返して、ボロボロになってしまっても捨てられない、おれの宝物の一つだった。
「ずっとずっといたると話してみたかった。色んな本の中で、ずっと願ってた」
「本…?」
「ぼくはずっと、いたると一緒にいたんだよ」
本の中でずっとおれと共に在ったもの。もうずっと手放すことのなかった存在。
ああ、思い出した。
祖父の家に咲いていた、白い桔梗の花。
母に強請って、押し花にしてしおりを作ってもらってからは、本を読むときには必ず傍らにあった。
「お前が、あの白い桔梗だって云うのか…?」
「そうだよ」
「なん、で…」
「云ったじゃん。ずっといたると話したかったんだよ。だって、いたるはぼくのかみさまなんだもん」
神と云う不確かで曖昧な存在。
けれど桔梗には、おれだけが神と云う確かな存在だったんだ。
「いたる、おなかすいた」
「は?ちょ、今いい話してたんじゃ」
「ごはんは?」
「え、いや、何もないから今日買い物に行こうと」
「じゃあ行って来て。ぼくおるすばんしてるから」
「いや、でも」
「はーやーくー!おなかすいたー!」
「…行ってくるから、鍵閉めてそこで待ってろよ!帰ったら聞きたいことがあるから!」
「うんっ」
駄々をこねる桔梗に見送られながら、渋々部屋を後にする。コンビニに行くか悩んだが、カレーでも作ろうと思い直し、近所のスーパーへ足を勧めた。
部屋に帰れば、もう桔梗の姿はないのだろうと感じながら。
それでも急がずにはいられず、さっさと買い物を済ませ沈む夕日を背に、走って桔梗の待つ部屋へと向かった。
「ただいま!桔梗!」
ドアを開けて桔梗の名前を呼んでも、無人の部屋に淋しく消えた自分の声に、物悲しくなった。
本に塗れたワンルーム。
二人で眠ったシングルベッド。
食器だけが二人分。
テーブルの上に置かれたボロボロになった本と白い桔梗の花のしおりに、ただ切なくなった。
「……桔梗…」
こんなこと、物語の中のフィクションでしか起こらないと思っていた。それがまさか自分の身に起こるなんて、夢にも思わなかった。
桔梗のしおりを握り締めて、おれは少しだけ泣いた。
桔梗が消えた翌日、のんきに部屋を訪れたミドリに桔梗はと迫られ、事実をありのままに話した。すると、実にミドリらしい答えが返ってきた。
「じゃあキキョウは妖精だったんだね!おれも見れたってことは、純粋ってことだよねー」
「ミドリはそういうやつだよな」
「キキョウは至の宝物だね」
「…そうだな」
ミドリのその一言が嬉しくて、しおりを見て二人で桔梗を想った。
部屋の窓際の陽だまりで、桔梗は何を見ていたのだろうか。
気になって、窓際に腰を下ろしてガラス越しに空を見上げた。
桔梗が見ていた空を見上げて、今にも桔梗が後ろから声を掛けてくるんじゃないかと思いながら後ろを振り向いても誰もいないけれど、桔梗は今日もおれを見守ってくれている。
いつかまた、ひょっこりと現れてあの笑顔を見れるんじゃないかと思いながら、扉を開く。
『いってらっしゃい』
微かに聞こえた声はおれの耳に届かず、振り向いても誰もいない。
「行ってきます」
誰もいない部屋の中、いつも桔梗がいた場所に向かって告げて、重い玄関の扉を開いた。
おれは独りじゃない。
いつだっておれのそばには、あの無邪気な笑顔があったんだ。
またいつか桔梗の笑顔を見れたらと願うと、季節はもう冬を迎えようとしている。
来年の秋が来るころに、桔梗を見に行こうと思いながら。