彼女と牢屋
もっと背景がライトなキャラの国から始めれば良かったなとちょっと後悔中。
意志の強さ、というものは彼女にとって煩わしい弊害に他ならない。強い意思とは、折れない強度と引き換えに修復する能力を持ち合わせていないからだ。
流されれば楽なものを、自己を強く持ってしまうがばかりに壊れてしまう愚かな強さである。
無理矢理に折ってしまえば壊れてしまうのに、多少薙いだだけでは弾かれてしまう。本当に厄介だ。
民衆から騒がれぬよう、裏道を通り城に戻ってきた彼女がまずとった行動はため息だった。
理由は先程対面した漁師の息子。
立場上同年代の人間にあまり触れたことがない彼女だが、恐らく彼は本人が言っていたように少数派の人間だろう。
学院の中ではなく、人として。
生誕をしてから16年間姿を見せなかった姫が魔術学院の入学式で演説を行うという噂は国中に広まり、一目見ようと遠方からも人が訪れていたことは知っていたし、どれだけの人の目を集めていたのか彼女はしっかりと自覚していた。
だからこそ、入学式の生徒の欠席者は、リュート・ファイベルを除いて他にいない。
だからこそ、彼女はリュートを知るためにあの窓から見える海が一番はじめにこの国にたどり着く港へ、自ら足を向けたのだ。
まともに城を出たことがない人間でもたどり着ける場所で生活をしておいて、己の存在に価値を感じていないのかと、別にそんなことで彼女は憤っていたわけではなかった。
ただ入学式に出ていないということは彼女にとってとても重大な意味を持ち、計画外に弾かれた者は一体どのような人間なのかを把握したかっただけなのである。
まさか、ただの寝坊助の夢追い人とは思わなかったが。
彼女―レミュリアント・ジェノルド・ファムリングは、自室に戻らず、きっちり仕事をこなしている衛兵の、姫を見てさらに正した姿勢を横切り、薄暗く続く階段へ足を運んだ。
壁に立てられた蝋燭が唯一の灯りで、それすら点々としているため注意をしなければ欠けた床に足を引っかけて転んでしまう。
薄暗く静寂と冷気が支配する空間には、たった一つの牢屋があった。
この地下牢は重罪人として他者との会話を遮断させるために作られた特別独房である。しかしながら今はその意味を為していない。
「…ディル、起きてる?」
入学式の演説とも、リュートと会ったときとも違う少し子どもっぽさを覗かせた声で、彼女は恐る恐る暗闇に問いかけた。
すると重い鎖の擦れる音が聞こえ、暗闇から灯りのある牢の鉄格子から、煤けた肉の落ちた手が彼女の頬を撫でた。
「レミィ…レミィ…」
「うん、レミィだよ」
うわ言のように名前を呟く向こう側の男の声に、頬を撫でることを咎めることなく彼女は笑った。
「レミィ…聞いてくれ。今日はね、足枷が0.02mm削れたんだ」
「うん、良かったね」
「もうすぐ君を抱き締められるよ…」
「そうだね、ありがとう」
足枷など外れてもこの格子が彼のために外されることはないし、足枷を削り落とすなどあと数十年かかっても無理な話だろう。それでも鉄格子の向こう側の男は足枷を外しレミィと生きることを夢見ているし、レミィはそれをなにも言わず肯定する。
一国の姫は、煤けた手に頬や頭、唇を撫でられようと、それらすべてを受け入れた。
「ディル、今日はね、お姫様と漁師が出会うお話してあげるね」
「お姫様と漁師って、ずいぶん不釣り合いだね」
「いいの。だって漁師と結ばれるお話じゃないもの」
レミィは毎日、何気ないこともこうして彼に話していた。現実ではなく、物語のものとして。自分が彼以外の誰かと会ったと話をすれば、錯乱して頭を気絶するまで鉄格子に打ち付けてしまうからだ。男の世界には自分とレミィのみ。だからレミィはそれを演じるのである。どんなに歪で現実的な物語でも、彼は嘘だとは微塵も思わない。
「ある日、お姫様は学校の入学式で演説をしました。彼女はみんなにおめでとうを言いたくて待ちきれません。そして壇上でみんなにおめでとうを言いました。これからこの国のためにがんばっていこうねと言うと、みんなが拍手をくれました。でも拍手のなかにひとつだけ空席があるのです。お姫様はそれがどうしても気になって、空席は誰が座るところだったのかを調べました」
「あっそれが漁師だ!」
「もう、そういうのは先に言っちゃダメよ」
先に言われてしまい少し頬を膨らますと、男は声を上ずらせて笑った。表情筋をまともに使っていないため、彼は笑い方を忘れてしまっているのだ。
なにも言わずレミィは話を続ける。
「空席の正体は漁師でした。お姫様は気になって気になって、漁師が住んでいる港へ足を運びました。なんで休んだのかと漁師に聞くと、なんと漁師は寝坊をしたと言うのです。お姫様はびっくりしました。そして漁師はこうも言ったのです。僕は旅人になるために学校へ行くのです。お国のためにがんばるのはイヤですと。お姫様は悲しくなりました。お姫様が思う学校は、みんなが国のためにがんばる学校だからです。お姫様はいつか漁師が心を入れ換えてくれると信じて、港を出ていきました」
「それで終わり?」
「うん、続きがあるかどうかは分からないの」
一通り聞き終えると、男は首を捻った。その拍子にじゃらりと首に繋がれた鎖が揺れる。
「なんで旅人になるために学校に行くのかな?」
「国際自由権って覚えてる? 旅人になるために必要な権利。それを取るために必要な力を付けたいんだって」
「そっか…旅はいいよ。知らないことを沢山知れるから。世界が広がってわくわくするんだ」
「やっぱりディルもそう思うの?」
「うん。でも僕にはレミィがいるから。レミィと一生いるって決めたから、僕はいらない」
期待を込めて聞いた答えも、レミィが望むものとは違う言葉で切り捨てられた。本当に心からそれを望んでいる彼の歪な笑顔は、この上なく純粋だった。それが本心だと分かるからこそ、彼女は少しだけ泣きそうな顔をした。
「ディル、もうおやすみしようか」
「なんで? 僕まだ眠くないよ」
「ううん。寝るの。おやすみしよう?」
レミィが少しだけ強く押すと、男は素直に頷いたじゃらじゃらという音が暗闇の奥に消えていく。
レミィも踵を返して、薄暗い闇から地上へと足を運んだ。
ディルを通して、レミィはリュートの意志の強さを再確認した。羽をもがれる前のディルと夢を語るリュートは、レミィの視界で重なって見えたのだ。
意志の強い者ほど、折れたときは無防備だ。
レミィは階段を上がりながら唇を噛み締めていた。ずっと待っていた機会に、100%の理想に辿り着けなかった悔しさからである。
もっと事前に入学式に対する強制力を高めておくべきだったか、自分の采配をひとつひとつ丁寧に思い出し粗を探す。
彼女のすべては国のためにある。立場も、思考も、魔法も、すべて国の所有物であり、この国の繁栄のために四季戦争で夏を勝ち取らねばならぬというのなら、国民が一丸となってそれに投資をすべしと、彼女は当然のように考えていた。だからこそ煩わしい。夢を語るリュートのような存在が。
煩わしいからこそ、ああいう人間を徐々に融かしていくための演説だったというのに。