レイニー・バスストップ
1.サイクリング・ストップ
「ちっ、降ってきたか?」
思わず漏れ出した悪態を灰色の空に撒き散らしながら、自転車のペダルに力を込める。片田舎のあぜ道はそんな俺を嘲笑うかのようにデコボコと波打つ。このまま走り続ければ、徐々に崩れやすくなっていく足場にはまり、転んでしまうかもしれない。そして、こんな小石だらけの場所で転倒すれば、かすり傷ではすまないだろう。
家までの全力疾走により濡れ方を最小限に抑える作戦を断念した俺は、仕方なく自転車を降りどこか雨宿りが出来る場所を探す。傘なんて携帯しちゃいない。出かける前に天気予報を確認しもしないのは俺の癖というか、自身が隠し持っている能力に起因するのだが、今はそれを気にしてもしょうがない。と思うことにする。
強くなりはじめた雨足に小さく舌打ちを鳴らした俺の視界には、ようやく雨宿りが出来そうな場所が見えてくるのだった。
背の高い立て看板と小さな小屋。そこはこの田舎に一本だけ通っている幹線バスの停留所だった。小さな停留所とはいえ、一時間に一本二本のバスが通るだけの場所なので、屋根付きの休憩所となっているのだ。自転車は仕方なく小屋の外に立てかけ、急いで入り口に駆け込む。備え付けのベンチに腰を下ろした俺は、そこでようやくこの小屋に先客がいることに気が付くのだった。
その少女は今の俺と同じように肩を濡らし、うつむいた姿勢でベンチの隅の方に座っている。濡れた前髪からは雫がしたたり、彼女の膝へ水滴を落として――――泣いているのかと思った。小屋の中を照らす光源は少なく表情は読み取れないまま、それ以上の詮索も不躾だろうと思いなおす。
だけど、俺はその少女の顔に見覚えがあることに気がついた。
「月宮……だったか? 隣のクラスの」
声を出してしまったのを一瞬だけ後悔しつつ、相手の様子を窺う。名前を呼ばれた事ではじめて俺が居る事に気が付いたのだろう、月宮ははじかれたように顔を上げた。瞳が濡れている事には気付かない事にする。
「あ……うん。天寺くん?」
「――お、おう」
かすれた声はまだ多量の水分を含んでいて、一瞬返事をためらってしまいそうになる。もちろんそれも指摘する事はできない。彼女は笑っていたのだから。
「い、いやぁまいったよな。いきなり降ってきたもんな。天気予報なんて見てないからビックリしたぜ」
「晴れだよ」
「……へっ?」
取り繕うように早口でしゃべった後だったので、彼女のそっけない言葉が何を示しているのか一瞬理解できなかった。それに気付いたのか、月宮は一呼吸おいた後にもう一度口を開く。
「天気予報、今日は晴れだったよ。降水確率ゼロ」
「あ、ああなるほど。なんだよ、当てにならないな最近の天気予報も」
そう言って、笑い飛ばそうとした。明るい話題にしようとしたのだ。だけど、その目論見は失敗に終わる。
「ごめんなさい」
「はぁ? なんで月宮が謝るんだよ」
「だって……」
視線を合わせた彼女の目から雫が溢れるのを、止めることが出来なかったのだから。
「私、雨女だから」
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2.ハートビート・ストップ
落ちてくる空。天の恵み。美しく表現する言葉はたくさん有るけれど、見上げれば見慣れた景色。まるで、私の心を映したみたいに。
溜め息。
そういえば、最初に意識したのはいつだっただろう。クラスメイトの誰かが言ったのだったかもしれない。
私が、『雨女』だと――――。
初めの頃はもちろん友人たちも一緒になって笑い飛ばしていた。けれどもイベントのたび、大事な記念日のたび、雨が重なればおのずと自覚も出来てくる。
そしてとある雨の日に、誰かが言ったその言葉がある種の毒のように、そして呪いのように私の心に刻まれるのに、それほどの時間はかからなかった。
『わざとやってるんじゃないだろうな?』
そんなわけ無い。誰が好き好んで雨なんか降らせるというのだろう。それに、私の意志で自由に雨を呼べるというのなら、もっと別の有意義な使い方を思いつくに違いない。
そんな事にも頭が回らない、そして気も回らない失礼な台詞だった。それでも、周囲の人間にはそれが幾分か信憑性のある言葉に聞こえたらしく、私はその日、クラスメイト全員から責められる形になったのだ。
次の日空は晴れていて、恐る恐る教室を覗いた私に、クラスメイトは明るく声をかけてくる。まるで前日の出来事なんか無かったかのように。
以来私は他人を友人を、そしてより近しい人たちですら、完全に信用する事が困難になっていったのだ。
放課後は涙色の空。仕方ないとあきらめて、バッグから折りたたみの傘を取り出す。もちろん常備しているのだ。少し面倒臭いギミックを組み立てていると、後ろから駆けて来る人の気配がした。
「うわっ、雨降ってるとか。マジかよ」
空を見上げたままの姿勢で隣に並んだのは、クラスメイトの男子だ。
「佐野くん、傘持ってないの?」
「うおっ!? と、なんだ月宮か。そうなんだよ、部活休みになったから早く帰れると思ったんだけどな」
確か彼は陸上部だったか。私の存在に気付いていなかったのか、飛び上がるくらいに驚いた後、佐野くんは首をガクンと振り下ろす。少々オーバーなくらいのリアクションは他人を拒絶しようとしていた私の心を緩ませるには効果的だった。気が付くと私は、クスッと小さく笑みを漏らしていたのだから。
「傘、貸してあげようか?」
「え、でも月宮はどうするんだよ。あ、その……一緒に?」
「ううん。私、置き傘もあるから」
持っていた傘を差し出すとあたふたと上下に手を動かし、私の説明を聞いて今度は首を傾げる。元気というか大げさというか、なんだかとても楽しそう。
「そっかお前、雨女だとか言ってたもんな」
何気無い台詞。自分が誘導したに等しいそれが、私の心に再び影を落とす。暗くなりかけた思考を首を振って払い落としながら、組み立て終わった折り畳み傘を佐野君に渡し、自分は置き傘を取りに行こうと踵を返した。
「傘、ありがとう! じゃあまた明日な!」
大きな声に視線だけを後ろに戻すと、佐野くんはすでに校門の近くにまで走り去っていた。足が速いんだなと思うより、そんなに走ったら傘の意味が無いだろうという思いが先に来てしまう。
なんだか嵐が通り過ぎた後のような感覚を、ほんの少しの時間だけ私は心に抱きしめた。
それから、彼とはよく会話をするようになった。冗談を言い合うような関係になるまでそれほど時間はかからなかったと思う。彼の部活を見学して一緒に帰ることもあった。あの時渡した傘が返ってきてないことに気付いてはいたけれど、それを指摘する気は起こらなかった。彼と居ると、自分が雨女である事を忘れていられる時間が増える。その代わりに彼を想う時間が増えていく。正直、うかれていたとも思う。
そしてそれは、佐野くんに近くの小さな遊園地に誘われたことで、最高潮に達してしまうのだ。
おしゃれをして軽くお化粧して、遅れないよう早めに家を出て。たどり着いた遊園地はそう――――雨の中なのです。
小雨くらいの降り方なら、傘でしのげたかも知れません。けれども目の前に広がるのは、ザアザアよりもバチバチに近い音が目に見えるほどの豪雨。民家から気軽に遊びに来られる距離にあるはずの小さな遊園地に、今は動く影すらない。
家を出るときは『少し空気が重いな』程度だったのに、行程の中ほどから降り出した雨は、目的地への到着を待たずして、淡い期待を打ち砕く弾丸となって私の頭上に落ちてきた。
『待った?』『ううん、今来たとこ』なんていう甘ったるいやり取りも想定していたのに、待ち合わせの場所で顔を見合わせた私たちは、示し合わせたように同時に溜め息を吐き出したのです。
「これは、無理だよな」
「うん、ごめんね」
「月宮のせいじゃないだろう」
雨で予定が潰れた時のいつものやり取りでさえ、今日は重たく感じる。雨は遊園地の広場や乗り物のシートだけでなく、これから燃え上がろうとする若い心の種火までもを濡らし、潰れていく休日の予定と同じように価値の無いものへと変えてしまおうとでも言うのだろうか。
そして重苦しい雰囲気は、ついに彼に呪いを吐き出させるにまで至った。
「わざと……じゃ、ないよな?」
彼が口にしたのは、解決策でもこれからの予定でもなく、私の傷痕に塩を塗るような一言だったのだ。
気が付くと私は佐野くんを殴り倒していた。グーで。水たまりと豪雨にさらされて、全身びしょぬれになりながら、彼は驚いたように私に目を見開く。でも、その行動に驚いたのは彼だけではなかった。突然の自分の衝動を信じられないまま佐野くんに背を向ける。急いで謝れば取り繕う事は出来たのかもしれない。だけど、頂点からどん底へ落とされた気分を味わった私の心は、それを許容できないほど色を失っていた。この空と同じように。
「……あの傘、返してね」
決別の言葉を残し、私はそこから逃げ出したのだ。
家の近くまで戻ってくると、雨はまた小降りになっていた。どうやら遊園地に近いほど、雨は激しさを増すらしい。それは何か本当に呪いのようなものを連想させて、私は濡れて震える身体を抱きしめた。
そのまま帰る気力もなくて、バスの停留所となっている小屋に隠れるように身を置いた私は、雨の音だけが支配する空間でうつむき、ひざに雫が落ちるのをうつろな目で眺めるのだった。
佐野君と過ごした時間が夢のように感じられる。今日のことだけが夢であったらよかったのに。今更になって痛み始めた拳が、そんな浅はかな考えを拒絶する。
嫌われてしまった、だろうな。そう思うと、なんだか逆におかしくなってくるのだった。
「月宮……だったか? 隣のクラスの」
そこへ突然降ってきた声に、私ははじかれたように顔を上げる。
雨宿りに来たらしいその少年は、たしか隣のクラスの天寺くんだ。泣き顔を見られた事には、気付かないフリをした。
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3.クライマティック・ストップ
吐き捨てるように断片的に語られる月宮の独白を、沈黙のまま俺は聞いていた。こんな時どうすればいいのかなんてわからない。彼女を元気付ける言葉も思いつかず、ありきたりの慰めなんて、必要とされていないと感じたのだ。
だけど俺にはたった一つだけ、現状の空気を変えさせる秘策が無いわけではなかった。それは小さな寺社を営んでいる我が家に代々伝わる秘術。とは言ってもまだまだ修行中の未熟な俺には、ほんの些細な奇跡が起こせるに過ぎない。
本来の大掛かりの儀式を行うなら口外したり他人に見せたりする事は禁忌ではあるが、簡略された方式で僅かな力を使う程度なら、許されるのではないかと思われた。それで、彼女の涙が止まるのなら。
「あ、あのさ。もしもの話なんだけど」
「?」
もったいぶった言い回しにしたのは、秘匿義務がどうとか言う話ではなく、ただ単に口に出すのを恥ずかしいと思ったからで。
「もしも俺が、この雨を止ませる事が出来るって言ったらどうする?」
「……え?」
言葉を聞いただけで信じる事は困難だろうし、信じてもらう事が目的ではない。だから俺は、驚いて瞬きを繰り返している月宮に、ニヤリと笑って見せたのだ。
「そんなの無理だよ。人の力で天候を変える事なんて出来るはずないもの」
聞き慣れた台詞でも、彼女が使うと重さを感じる。それは彼女を長い間苦しめてきた呪いを払拭できる可能性であり、彼女が望んでいた力であるのかも知れなかった。
だからって、門外不出の秘術を見せていい理由にはとどかない。これは俺の意思。俺が見たいと思ったからだ。偽りでも自棄でもない彼女の本当の笑顔を。
「じゃあ、本当に雨を止める事が出来たら、俺と付き合ってくれるっていう事でひとつヨロシク!」
「え、ええっ!?」
突然の告白に驚いた彼女はどうやら涙を引っ込めてしまったらしく、俺の目論見のひとつは達成されたと思って良いだろう。
悪戯な笑みを返しておきながら、俺は自分の中に流れる力に集中する。目を閉じイメージするのは球体。何も無い空の器。そして、そこに溜まっていく水を思い浮かべる。
それは雨。今、この地域一帯に降り注ぐ雫を器の中に閉じ込める。両手を胸の前に持っていき、その球体を支えるように包み込む。そうだな、時間は十分程度でかまわないだろう。設定した時間に足りうる量の水が器にたまったのを確認して、俺は勢い良く両の手を打ち鳴らした。
――それは雨を打ち払うように。
――そして神に祈るように。
パチンと打ち鳴らした柏手は、停留所の小屋の壁を突き抜けて泣き続ける空に響き渡る。そうして開いた俺の目に飛び込んできたのは、沈みかけの太陽の赤く燃える満開の笑顔だった。
一定時間、雨が降る時間を遅延させる。それこそが俺が唯一使える小さな魔法。無事に成功した秘術に安堵の溜め息をついた後、隣に座っていたはずの月宮の顔をうかがい見る。そこに有った驚きと感動を混ぜたような表情に満足して、俺はもう一度小屋の入り口から溢れる日の光に目を向けた。
「月宮!」
「え……うそ。佐野くん……?」
そこに飛び込んできたのはずぶぬれの息を切らせた男で、たしか月宮と同じクラスの男子だ。つまりそれは、彼女の話に出てきた今日のデートの相手であり、彼女の心のオアシスだったはずの少年であり。
「ごめん。俺、無神経な事言っちゃったんだよな。気にしてるってわかってたはずなのに。それなのに俺……」
「う、ううん。私こそごめんなさい。その、なぐっちゃって。自分でもビックリしちゃって、もう嫌われたんじゃないかと思って。それで……!」
互いの謝罪を聞きあった後で、佐野くんとやらは月宮の腕をつかみ、強引に立ち上がらせるとそのまま引き寄せ、まだ濡れている胸で彼女を抱きしめた。
「嫌いになんかならないよ。だからさ、あの傘、返さなくても良いかな?」
「うん……ずっと持ってて、良いよ」
俺が見ている事などすっかり忘れているらしく、二人は燃えさかる胸の内を打ち明け、手を取り合って陽の光の中を歩き去っていくのだった。二人の未来に向けて。
十分後に戻ってきた雨の中、俺は自転車を押しながら田舎のあぜ道を歩いていた。まあ、雨もたまには悪くないのかもな、と。そんな事を考えながら。
END