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約束

作者: 小松郭公太
掲載日:2012/09/29

  一 中田病院にて



 修一は、黒いマントの中に頭まですっぽりと身を埋めていた。麻袋のようにごわごわしたマントの感触が頬にあたってくる。黒いマントの裏地には父の匂いが染みこんでいた。マントの隙間から雪が入らないように、時折、母の軟らかい手が襟元にやって来る。しんしんと降る雪の気配と共に、ぽつりぽつりと交わす父と母の声が聞こえてくる。

 修一は熱にうなされていた。熱は昨夜から続いていたが、朝になっても一向に下がる気配がない。扁桃腺からくる熱である。母は修一の寝間着を脱がせ、炬燵の中で温めていた長袖の下着とズボン下を履かせ、その上に青い絣の着物と揃いの羽織を着せた。靴下は一番厚手のものを履かせた。父は、作業小屋から取り出してきた箱橇(はこぞり)を玄関の軒下に横付けして、その中に座布団を二枚敷くと、着物を着て玄関まで出てきた修一を毛布でぐるりと包み、ひょいと抱き上げ箱橇の中に座らせた。父は静かに降る雪を見た。そして、玄関の脇に掛けてあった黒いマントを無造作に修一の上に掛けてやるのだった。箱橇の向かう先は、中田病院である。

修一はマントの中で箱橇が滑る音を聴いていた。箱橇は家を出ると裏山の下を道なりに進んで行った。そして、裏山から湧き出ている清水の前に差し掛かった。

「母さん、今どこ」

「清水だよ」

「ふうん」

修一は、箱橇がもうすぐ幼稚園の横の小さな坂を下るのだということが分かった。坂に差し掛かったとき、父は箱橇の滑走を一度止めて、テールに両足で乗り、再び箱橇を滑らせた。箱橇が坂を滑り降りていく感覚が修一の体に伝わってくる。坂を下り終えた所に修一が通う小学校があった。箱橇が進む音とは別に、オルガンに合わせて歌う声が聞こえてくる。修一にはその歌が六年生のものであることがすぐに分かった。そして、そのまま進んでいくと、やがて箱橇は修一が通う一年生の教室のすぐ横を通るのだということも分かっていた。修一は「誰か友達に見られたらどうしよう。みんなが勉強しているときに、箱橇に乗せられて、何処かに行く所を見られ、後で何か言われたらいやだなあ」と思い、深々と被ったマントの中で体を小さくして息を潜めて、教室の横を過ぎるのを待った。一年生の教室を過ぎると大きな銀杏の木がある。紅葉の季節には地面が黄色い絨毯で覆われる場所である。その木の下を直角に左に曲がって少し行くと学校の正門が見えてくる。箱橇は、暫くの間、校舎を囲むように作られた小径を進んできたのである。修一は、箱橇が学校から遠ざかっていることが分かると、気分が楽になってきたのか、少しうとうとした。

ふと気が付くと、さっきまで聞こえていたはずの箱橇の滑る音が止んでいた。箱橇は止まったままで少しも動かない。

「母さん」

「あっ、修一、起きたの」

「うん。どうしたの」

「父さんが、ちょっと近所で用事を済ませてくるって言って出掛けたんだけど、なかなか戻ってこないの」

「ふうん」

「母さん、ちょっとそこまで探しに行ってくるから、修一は、少しここで待ってて」

「えーっ」

修一は思わずマントの中から頭を出して母を見上げた。母は修一の顔をのぞき込み、

「大丈夫、すぐそこだから。すぐに戻ってくるんだから」

と言って、修一の額に手を当てて熱を確かめてから、その頭にマントをかけてやった。修一は箱橇の中で、雪道を遠ざかっていく母の足音を聴いた。

「一、二、三、四、五・・・」

と、修一は小さな声で数えた。「ちょっとそこまで」だったら、百を数えるうちに帰ってくるだろうと思ったのだ。

「・・・九十六、九十七、九十八、九十九、百・・・」

箱橇の中がまた静かになった。辺りは、しーんとしている。修一はもう我慢できなくなって、マントを襟元まで押し下げて、小さな顔を外に出した。修一は目の前に広がる灰色の空を見上げた。修一の頬に一つ、二つと雪が舞い降りてくる。六角形の結晶が幾つも結び合ってできた真綿のような雪だ。修一は叫んだ。

「母さーん。母さーん」

雪が次から次と落ちてきて修一の頬を濡らす。修一は思わず立ち上がり、箱橇の外に飛び出した。父に抱えられて橇に乗ったので、長靴は持っていない。靴下のまま雪の上に立っていた。それは、おそらくほんの一瞬の事だったのだろう。修一は、その一瞬のうちに自分が置かれている状況を理解した。箱橇は中田病院の玄関前に停められていた。黒い板塀を回した中田病院の門を通ると、そこには、よく手入れされた前庭があり、その右手に「中田病院」と記された看板がある。修一は、もう一度「母さーん」と叫ぶつもりでいたのだが、玄関の中の人々に聞こえては恥ずかしいと思い、小さく「母さん」と呟くと、箱橇の中に戻っていった。修一は泣いた。父と母に置いて行かれた悲しみに打ち拉がれた。マントを被り、小さな声で泣いた。どれくらいたったのだろう。母の暖かい手がマントの外から入ってきて、修一の頬に下ろされた。

「修一、ごめんね。父さん、そこの職業安定所にいたわ。すぐ終わるはずだったんだけど、もう少しかかるんだって。さあ、診てもらいましょうね」

と、箱橇を玄関の軒下に滑らせた。まだ朝だというのに、辺りは夕方のように薄暗く、玄関の丸い門灯に灯りが入ってもいいくらいだった。

 玄関のガラス戸がガラガラと音をたてて開いた。その音を聞いて看護婦さんが出てきた。スラッとスタイルの良い看護婦さんである。母は修一を背負って玄関のたたきより一段高くなっている板敷きの廊下に立った。看護婦さんは母の斜め後ろにに立ち、私たちを待合室に誘った。待合室への扉は静かに開き、修一はいくつか並んだ長椅子の一つにそっと降ろされた。母と看護婦さんは馴染みらしく、世間話でもするかのように修一の病状を伝えた。

「修ちゃん。ほっぺが真っ赤ね。熱計ろうね」と、体温計を軽く振って水銀を下げてから、私の襟元から入れようとした。体温計は冷たかったが、看護婦さんの手は温かった。首の辺りが少しくすぐったい。母の手とは違う感触を覚えた。

「まあ、四十度もあるわ。修ちゃん、痛いところなあい」

修一は、首を横に振り、隣に座っていた母の膝の上に顔を埋めた。

「この子ったら、熱を上げると、いつも四十度を越えるのよ」

母は困ったようにフフフと笑った。看護婦さんは、母の繰り言を体温計と一緒に診察室に持って行った。修一はごろりと寝返りを打ったかと思うと、今度は母の膝の上に両足を投げ出して仰向けになった。身の置き所がなかったのだ。待合室の薪ストーブは勢いよく燃え、その上に置かれた薬缶から白い湯気が立ち上っていた。看護婦さんが診察室へのガラス戸を開けた。

「修ちゃん、どうぞ」

診察室は眩しいくらい明るかった。診察室の真ん中に白いベットが置かれていた。そのベットを横目に修一は先生の方に進んでいった。先生は白いカバーの掛かった大きな椅子に座って何か書き物をしていた。白衣の背中が大きい。修一が先生の横にある丸い椅子に座ると、先生の椅子が回転した。

「どれどれ」

丸い大きな顔が修一の方に向けられた。綺麗に整えられた口髭が迫ってくる。少し薄くなった頭髪にはきちんと櫛が入れられており、ほんの少し整髪料の臭いがした。肉厚の柔らかい手が、修一の胸と背中を触診する。修一は、トントン、トントンとよく鳴る音を不思議に思った。

「はい、あーんして」

「あーん」

先生は銀色のへらで舌を押し下げた。修一は一瞬嗚咽をあげた。

「おやおや、喉が真っ赤だね。熱も高いね。お母さん、ペニシリン打ちましょう」

修一は、看護婦さんに導かれて白いベットにうつ伏せになった。両手を顎の下で組み、次の処置を待っている。

「お尻にすると痛くないからね」

と、看護婦さんが修一のズボン下とパンツを下げた。そして、

「ちょっと我慢してね」

と言われたとき、修一は思わず歯を食いしばった。全てが終わり、修一はゆっくりとした気持ちになっていた。薬ができて母が会計を済ませるまでの間に、その安堵感は、うっとりするほどの幸福感に変わっていった。修一は短い眠りに着いていたのだった。

 修一は待合室を出て、板敷きの廊下に出た。廊下は、長年使い込まれ、自然に磨き上げられていた。まるでスケートリンクのようである。修一は厚手の靴下で滑ってみた。そのとき、ちょうど玄関のガラス戸がガラガラと開いた。見ると玄関の外に白いタクシーが止まっていた。ガラス戸を開けたのは、タクシーの運転手だった。運転手が傘を差し出しながら後部座席のドアを開けた。修一は、その慇懃な振る舞いに目を見張った。そして、そこから降りてくる人物の登場を待った。降りてきたのは、赤い着物を着た女の子だった。朱赤の生地に手鞠と小花が散りばめられている。女の子は着物を着てはいるが快活だった。玄関のたたきで小さな草履を脱ぐと、腕を大きく伸ばしてその草履の先を揃えた。そのとき、女の子の着物の裾が大きく開いたが、少しも気にする様子はなかった。女の子は、白い足袋で板敷きの廊下に立つと、青い着物を着た修一のところへ歩み寄って来て声を掛けた。何の混じり気もない素直な頬が小さな唇を動かす。

「○○○○○○○○○○○○○○」

「えっ、何。何て言ったの」

女の子は、ちゃんと聴いてと、口を大きく動かすのだが、修一がいくら耳を澄ましても、女の子の声は聞こえてこない。ふっくらとした頬が修一の目の前にある。小さな鼻がちょっぴり上を向いている。

「○○○○○○○○○○○○○○」

「えっ。分かんないよ。何。何て言ったの」

修一は、女の子を真っ直ぐに見た。しかし、そうしている内に、女の子は業を煮やしたのか、修一の横をすり抜けて待合室に入っていってしまった。修一は、女の子の後を追った。女の子が何を言ったのか知りたかった。ところが、足が滑って、少しも前に進まないのだ。「早く行かなければ」と焦れば焦るほど、足は前に進まないのだ。

「修一。さあ、帰ろうね」

耳元で母の声がした。目を覚ますと、そこは待合室の中だった。修一は待合室を見回した。ガラス戸越しに診察室の光が漏れてくる。

「あれ、誰か来なかった」

「誰も来やしないよ。夢でも見たんじゃないの」

確かに母の言うとおり夢を見ていたらしい。でも、夢の中で赤い着物を着た女の子と出会ったなんて、恥ずかしくて母には言えなかった。中田病院を出るとき、もう一度、廊下を見てみたが女の子の姿はなかった。「やっぱり夢だったんだ」。修一は、明るくなった雪道を箱橇に乗って引き返した。箱橇を押しながら、母が呟いた。

「雪、止んでいたんだね。」

修一は、それを聞いて、箱橇から身を乗り出して通りの門から病院に続く地面を見た。箱橇が滑った跡は積もった雪に消されていたが、車の通った跡ははっきりと残っていた。「あの子、やっぱり来ていたんだ」。修一は少し嬉しかった。そして、またあの女の子と会いたいと思った。帰り道は緩い上り坂である。修一は、一人箱橇を押す母の苦労も知らずに、夢の中ですれ違っただけの女の子に思いを寄せるのだった。


 あれは、夢だったのかもしれない。地面に車の跡があったからといって、それが必ずしもタクシーのタイヤの跡であるとは言えない。比較的出入りの多い病院の玄関先に、他の車が止まることは極めて普通なことなのだ。だから、あれは夢だったのだ、と考えた方がいい。しかし、修一にとっては、それはどちらでもいいことだった。修一は、夢の中で出会った女の子と、もう一度本当に出会うことができたのだから。

数年後のことである。修一は三年生になっていたが、相変わらず体が弱く、月に一度は扁桃腺を腫らして高熱を出していた。あまりの高熱に体力を消耗し、病院へ行くこともできずに、先生に往診してもらうこともしばしばあった。四十度の熱に意識も朦朧となり食事も摂れなかったというのに、一夜開ければ、ケロリとした顔で食卓に着いているということも珍しいことではなかった。とはいえ、四十度の高熱と戦った代償は大きく、体力を回復するために通院することを余儀なくされたのである。

体力の消耗は修一の体重を少なからず減少させ、少し空気の抜けた風船のようにふわりふわりと漂うような感覚を生じさせた。中田病院までの道のりは思いのほか遠く、修一は母と共にゆっくりと歩みを進めていた。雪国の春先は妙に汗ばむ。梅と桜と木蓮が狂ったように一緒に咲いている。学校を取り囲むようにつけられた小径を進み、青葉がきらめく銀杏の下を通る。母の日傘が校舎からの視線を遮る。学校の正門を背にしてから、角を二つ曲がると中田病院の黒い板塀の通りとなる。かつての武家屋敷が並ぶこの通りには枝垂れ桜がよく似合う。小さな風を受け、蕾たちが悪戯に揺れるのだが、今の修一には、そこに手を伸ばすだけの元気はない。

 中田病院は、黒い板塀こそ以前のままだが、建物は改築され、鉄骨とコンクリートの新しい佇まいとなっていた。門からかつての玄関に続くアプローチは病院の一角となって屋根が掛けられていた。車が二台ほど停められるスペースがあり、その奥に前庭と母屋が続いている。二間ほどある玄関を入るとすぐに一段高くなっており、そこで靴を脱いで備え付けのスリッパに履きかえる。タイル張りの廊下が真っ直ぐに続いており、廊下の右側に受付と診察室が並び、左側が待合室になっていた。廊下の奥には階段が見える。二階には入院できる病室があるらしい。

 修一は、玄関に入るとへなへなと上がり口に腰を下ろした。ほんの五百メートルほどの道のりなのだが、弱った体には相当堪えたらしい。

「歩くのは、まだ無理だったかしら」

と母がぴったりと寄り添う。修一は息を整え、母の力を借りて立ち上がった。そのとき、待合室の戸が静かに開いた。中から出てきたのは一人の少女だった。赤い着物を着ている。もう診察を終えたのだろう。会計を済ませた母親と一緒に帰り支度をしている。母とその少女の母親は、互いの労をねぎらうかのように会釈し合った。修一は他に関心を向けるほどの余裕はなかったのだが、赤い着物が気になった。少女は小さな顔の賢そうな瞳を母親の方に向けて何かを訊ねているようだった。小さな鼻がちょっぴり上を向いている。そして、二言三言、言葉を交わすと、白い足袋を薄桃色の草履に滑らせた。足下に注がれた長い睫毛の瞬きが着物の朱赤とともに少女の心象となって修一の胸に焼き付いた。修一は体を休めるために待合室に入った。体の芯を失ったかのように畳の上に横になる。瞼を開いていることもままならない。待合室には他に誰もおらず、静寂がすぐに訪れた。修一の傍らで母が週刊誌をめくる。と、母屋の方から弦をつま弾く音が聞こえてきた。琴の音である。母屋の障子に春の柔らかい光が揺れている。良質の音が暖かい空気にとけ込み、待合室のガラス窓越しに伝わってくる。瞼の裏に赤い着物が見える。琴の音が微かな風となって枝垂れ桜を揺らすと、桜の花びらはひらひらと舞い落ち、朱赤の生地に散りばめられていった。

「修ちゃん、熱計ってね」

看護婦の下柳さんの声だ。毎月のように熱を上げて中田病院に通っていたので、母は下柳さんと一層親しくなっていた。母がいつも「下柳さん」と呼ぶものだから、修一もすっかりその呼び方に馴染んでいたのだ。

「ああ、扁桃腺の腫れは退きましたね。もう大丈夫ですよ。ただ、高熱が続いたものだから、大分体力が落ちているようです。栄養のあるものを食べさせて、ゆっくり休ませてください」

先生は口髭を動かしながら説明を終えると、青い太字の万年筆でカルテに何かを書き込み、下柳さんに手渡した。やはり、先生の手は肉厚で柔らかそうだった。母は、弱り切った私を見かねて、受付でタクシーを頼んだ。タクシーを頼むなんて、滅多にないことだった。ひんやりとした黒いシートに身を横たえた修一は、身の程も知らず、ただ単純にタクシーに乗れた喜びに浸っているのだった。


      

 修一は中学一年になった。体が大きくなってきて体力が付くにしたがって、扁桃腺からくる高熱を発することがなくなり、中田病院のお世話になることもめっきり減っていた。だが、中田病院のある通りが通学路になっていたので、修一は毎日その道を通っていた。かつての武家屋敷が並ぶ通りは、しっとりと落ち着いた雰囲気を醸し出している。六月の雨はアジサイの花を濡らし、アスファルトの所々に水たまりを作った。修一は、白いワイシャツに衣替えしていた。黒い学生ズボンのウエストは思いのほか細い。中学生になって急に伸び始めた背丈のてっぺんに学生帽が載せられている。修一は、中学校に入って初めての中間テストを終えて、家路に着いたところだった。どこからかニセアカシアの匂いがしてきた。「なんていい香なんだろう」と思ったその時、目の前が真っ暗になり、修一はその場にうずくまるようにして倒れた。

「修ちゃん、大丈夫」

懐かしい声が聞こえてきた。それは、下柳さんの声だった。修一は中田病院の近くで倒れたらしい。大した試験勉強をした訳でもなかったが、少し疲れが貯まっていたのかもしれない。

「貧血を起こしたみたいね。さっき、お家に電話しておいたから、もう少し休んでから帰るといいわね」

「すみません。ありがとうございます」

修一は診察室のとなりの点滴室に寝かされていた。一度目を覚ましたものの、黙っているといくらでも眠ることができた。小一時間も眠っただろうか。修一はどこからか聞こえてくるラジオの音で目を覚ました。小さな音だが、DJの軽快なおしゃべりと、乗りの良い音楽が流れている。修一はゆっくりと体を起こしベットを降り、音のする方に進んでいった。点滴室のドアを開けると、そこには階段があった。二階の病室に続く階段である。

「続いて、東京都のジュピターさんのリクエスト、『虹と雪のバラード』をお送りします」修一の足が一歩一歩階段を上る。トワエモアの歌が少しずつ近づいてくる。ラジオの音は階段を上ってすぐの病室から聞こえているようだ。そのとき、明るい笑い声と共に病室のドアが開いた。

「あら、修ちゃん。大丈夫」

下柳さんだった。

「あっ、大丈夫です」

病室のベットがちらりと見えた。ベットの上から誰かがこちらを見ているのが分かった。

「ちょうどいい。修ちゃん、ちょっとこっち来て」

下柳さんは嬉しそうに修一をドアの内側に招いた。見ると、ベットの上にはちょうど修一と同じ年くらいの少女が座っていた。白いパイプベットに白い布団、白いカーテン。窓辺に飾られたアジサイの花の紫が目に入った。

「紹介するね。小林修一君。こちらは、佐藤直美ちゃん」

修一は少し恥ずかしかった。だが、少女は少しも動ぜず、

「私、知ってます。修一君のこと」

と発した。修一は思わず少女の方を見た。パジャマにガウンを羽織っていて、いかにも入院患者の装いではあるが、髪はきっちりと三つ編みにしていて清潔感が漂ってくる。

「私、毎朝、ここから中学校に行く人たちを見てるんです。修一君のことも知ってます」

「あらあら、修ちゃん、しっかり観察されていたのね」

と、下柳さん。

「本当は私も通学しているはずだったんだけど・・・」

と直美は声を落として俯いた。修一は、はっとした。まだ小学生のときのこと。ちょうど桜の季節だった。中田病院の玄関ですれ違った赤い着物の少女。長い睫毛の瞬き。少し上を向いた小さな鼻。あの時、母屋から聞こえてきた琴の音と共に遠い日の心象が蘇ってきた。

「あの、僕、会ったことあります」

直美はきょとんとしていた。

「どこで」

「この病院で」

「ここで」

直美は、いよいよびっくりした様子だった。下柳さんが、

「そうでしょ。二人とも赤ちゃんの時からここに通っていたからね。二人一緒に待合い室にいたことだってあるかも知れないわよ。それにしても、修ちゃん、よく覚えていたわね」

「ええ、まあ」

修一は嬉しかった。あの時の赤い着物の少女と、今こうして知り合うことができるなんて。しかも、とても自然な形で話をすることができる。いつもの修一だったら、同じ年頃の女の子とこんなふうに話をするなんて、なかなかできることではないのだから。

それ以来、修一は、学校帰りに毎日のように直美の病室を訪ねた。そこで、修一は、直美に父親がいないことを初めて知った。父親は彼女が一歳になる前に病死していて、その後は小学校教師の母親一人で直美を育ててきたのだ。母親の仕事の都合で一人家に居ることも多かったが、直美は明るく快活な子供に育っていた。ただ、子供の頃から体が弱く、風邪をこじらせて肺炎になったり、腎臓を患ったりして、度々中田病院を訪れていた。そして、直美は、もうすぐ小学校を卒業するというときになって、「急性骨髄性白血病」を発病したのだった。

「お母さんが言ってたわ。修君のこと知ってるって。小さい頃よくこの病院に来ていたって。」

「ふうん。で、直ちゃんは覚えてないの」

と、修一が訊くと直美は「うーん」と少し首を捻って考える仕草をした。

「僕は覚えてるよ、直ちゃんのこと。直ちゃん、小さい頃、赤い着物を着てこの病院に来てたでしょ」

「えっ、どうして知ってるの」

直美は目を丸くした。

「だって、二回も見てるんだもの、覚えるよ」

「二回も」

「そうだよ・・・」

修一は、今まで記憶の奥底にしまい込んでいた幼い日の一場面を思い出していた。

「あのう・・・。直ちゃん、この病院に来る時、白いタクシーで来なかった」

修一は、小学一年のときに出会った赤い着物の女の子のことを確かめてみた。

「タクシーで来たことはあるけど・・・」

直美の大きな目が宙を見つめた。と、その時、病室のドアが開いて、直美の母が入ってきた。

「おじゃましています」

修一は、母親に持たせられたサクランボを差し出した。

「修ちゃん、いつもありがとう」

直美の母は、修一が病室を訪れるようになってから、直美の表情が明るくなったと感じていた。

「ねえ、お母さん。小さい頃、この病院に来るとき、白いタクシーに乗ったことある」

「あるわよ。いつも使っている清沢タクシーは白よ。それがどうかしたの」

修一は、小学一年の時、この病院で出会った女の子の話をした。白いタクシーが玄関に横付けにされ、運転手がドアを開けると、そこから赤い着物を着た女の子が降りてきた。女の子は廊下で遊んでいた修一に話しかけてくるのだが、いくら耳を澄ましても声が聞こえてこない。女の子は一生懸命に話しているのに、修一に伝えることができなくて、業を煮やして待合室に入ってしまう。修一は女の子が何を言ったのか知りたくて女の子の後を追おうとする。しかし、修一の足は滑って少しも前に進まない。焦れば焦るほど足は前に進まない。その時、耳元で母の声がして目を覚ました。

「なあんだ。夢だったの」

二人は、一気に現実に引き戻された。

「でも、僕は、今でもあの出来事が夢なのか現実なのかよく分からないでいるんだ」

と、修一は、不確かな出来事に対する自分の思いを素直に語ってみた。

「確かに、雪の日に、白いタクシーに乗って、赤い着物を着た直美をこの病院に連れてきたことは何度かあったわ。でも、その時に修ちゃんと会っているかしらねえ」

直美の母は、片方の手を頬に添えて考え込んでいる。直美は、母の横顔を見ながら、漠然とした思いに駆られていた。しかし、修一の話を聞いているうちに、二人には、それが強ち夢ではないように思えてくるのだった。

 梅雨が明け猛暑となったが、中田病院は風通しがよく比較的過ごしやすかった。直美は仙台にある大学病院で本格的な治療をするために、明日から暫くの間、ここを離れることになっていた。

「修ちゃんと会えなくなっちゃうわね」

さっきから、さっぱり会話が弾まない二人を見かねて、直美の母が口火を切った。

「仙台まで電車で二時間でしょ。僕、ときどき遊びに行くよ」

と、修一が言うと、直美もやっと口を開いた。

「じゃあ、私、仙台駅まで迎えに行くね。大学病院前から路面電車に乗って行こうかな。そうそう、仙台に着いたら、一番町に遊びに行こう。お昼は、シェーキーズのピザを食べて、それから映画を観て・・・」

と、一人で粋がるように話した。それを見かねて、修一が、

「ちょっとちょっと、病院を脱走する訳。これはえらいことになりそうだね」

と口を挟んでみたが、直美は、 

「大丈夫、大丈夫。私、看護婦さんと友達になって、ちゃんと裏工作しておくから」

と、手に負えない。

「うわあ、すごい。着いて行けないよ」

と、修一は、わざと辟易した振りをして見せた。その後も直美は、体に障りはしないかと心配してしまうほど快活に話した。

 直美は、修一の帰り際に手紙を渡している。

「修君、これまで私のことを励ましてくれて有り難うございました。私は、修君と話しているときが一番楽しかったです。だから、私が仙台へ行ってもこれまでと同じように友達でいてもらえたら嬉しいなあと思います。でも、治療が始まると副作用で髪の毛が抜けたりするんですよ。そんな私でも友達でいてもらえますか。修君と一緒にもっと話したかった。修君と一緒に学校に行きたかった。勉強したかった。修君。修君が小学校一年の冬に中田病院で会った赤い着物の女の子。その女の子はやっぱり私だったのではないかと思います。修君と一緒にいたいという気持ちがタイムスリップして、小学一年の私に戻って会いに行ったんだと思います。あの時、確かに中田病院の廊下に青い着物を着た修君が立っていました。そして、あの時私は、修君に向かってこう言ったのです。『大人になったら、また会おうね』って。私は、あの時、修君と会うことを約束していたのです。でも、私たちはまだ十分に大人にならないうちに会ってしまいました。神様が私の命を知っていて、会うのを早めてくれたのかも知れません。今私は、約束通りに、大人になったときにまた修君と会いたいと思っています。だから、修君、私のことを忘れないで待っていて下さい。大好きな修君へ。直美より」

手紙の中には、桜の押し花が入っていた。余計な力を加えると今にも壊れてしまいそうな花びらが重なっている。花吹雪が舞い、黒い板塀に桜色のグラデーションが広がる。琴の音が消えていくように、美しいものは遠ざかって行った。修一は、大人になった直美に会いに行くための方法を考え始めていた。



 二 通学列車



 「修一・・・。もう六時過ぎたわよー。今日はお休みなのー」

母の声でやっと目を覚ます。六時に目覚まし時計を掛けておいたはずなのに、ちっとも気づかなかった。パジャマから学生服に着替え、階下に降りていくと、テーブルには母がよそったばかりのご飯とみそ汁が湯気を上げて待っている。そして、目玉焼きと塩鮭の焼き物、旬の野菜のお浸しが並んでいる。母の苦労も知らずに、修一はそれらを無造作に胃袋に流し込むと、ハンカチでくるまれた四角い弁当箱を学生鞄に詰め込んで家を出た。新学期が始まって一ヶ月が過ぎた。清々しい空気を切って自転車が進む。紺色の制服と黒い学生服が四方から駅に集まってくる。

 清沢駅七時三分発の列車は八両編成である。修一が乗る車両は前から三両目と決まっていた。高校に入学して間もない頃は、どの車両に乗ればいいか分からずに右往左往していた。列車通学初日、先頭車両に乗ってみたら、リーゼントに剃りを入れた人たちに睨まれた。仕方なく、次の日、最後尾の車両に行ってみるともっとひどかった。長髪、パーマ、茶髪・・・と何でもありのスタイルの人たちが入口付近に集まり、少しも臆することなく、正々堂々と煙草を吸っているではないか。これには修一も参ってしまった。見て見ぬふりをして隣の車両に移った。修一が最終的に落ち着いた前から三両目の車両では、教科書を広げたり、文庫本に目を落とす生徒が多かった。修一は、教科書を開くほど勉強が好きな訳ではなかったが、本は好きだったので、自然に文庫本を手するようになっていた。その車両の雰囲気は落ち着いていて居心地が良かった。修一は、初めのうちは本を読むよりも車窓を流れる景色を見ていることの方が多かった。毎日外を見ていると新しい発見があったりして飽きることはなかった。しかし、ゆっくりと外を見ていられるのも二駅目までの僅かな時間だけだった。列車が益田駅のホームに滑り込むと、そこには圧倒的な数の通勤通学者たちが列車の到着を待っていて、どっと雪崩れ込んできた人たちで空席はすぐに埋まり、後は順次中へ中へと押し込まれてくるのだ。そして、あっという間に満員列車と化した車両は、利用者に一息もつかせることなく動き出し、スピードを上げていくのだった。清沢駅から五駅。横森市の横森駅周辺には公立と私立併せて六校の高校があった。修一の通う横森南高校は男子校で、駅から歩いて十分ほどの所にあった。修一のクラスは比較的出来のいいクラスで、教科担任が時折発する詰まらないジョークにも程良い反応を見せる集団だった。四十人の個性は多様で、様々なスポーツに打ち込んだり、音楽や美術・書道などの芸術や、中には茶道や華道にはまっている者もいた。女子への見え透いた下心など無しに、自分の興味の赴くままに諸活動を選択できるのは、男子校ならではである。そんな中で修一が選んだのが吹奏楽部だった。そして、楽器は、男女共学校の吹奏楽部ではなかなか担当することの出来ないクラリネットに決まった。中学校のときはテナーサックスを吹いていたのだが、主旋律を演奏する機会が少なかったことと、クラッシックには向かない楽器であったことから、自らクラリネットを希望したのだった。

 修一の感性は、人と同じであることを静かに嫌った。フォークソング全盛の時代、修一がギターを手に取ったのは、中学一年のときだった。同じ学年でギターを持っている者など他に一人もいなかった。岡林信康や高石友也などに傾倒していたが、中学三年の学園祭で歌ったのは、サイモンとガーフアンクルの「コンドルは飛んでいく」だった。内面的にはアウトローなのだが、人前に立つとついお利口さんを気取ってしまう、そんなタイプだったのだ。クラリネツトを希望したのも、似たような感覚からだった。カウントベイシーやベニーグットマン等のジャズオーケストラは好きだったが、修一はその中にある大衆性を少し嫌った。では、本当にクラッシックが好きなのかというと、それほどでもなく、ただ単にクラッシックの持つ高尚さに憧れていたに過ぎなかった。

二年生になった修一はもうすっかり列車通学に慣れていた。あまりにも慣れすぎて、発車時刻ぎりぎりに駅に到着することもしばしばだった。修一はその日も全速力でホームへの階段を駆け下り、一番近くの車両に飛び乗った。つり革に掴まり一息入れ、いつもの三号車に移ろうとしたとき、一般の通勤客の間に一人座っている少女がふと目に止まった。紺色の上着、白いブラウスに臙脂のリボン。横森城北高校の制服である。一人で乗っていることが気になった。学生鞄を膝の上に置いてその上に本を広げている。その本に注がれた睫毛が一つ瞬きしたとき、修一は、はっとして一瞬凝視したが、すぐに目を通路に落とした。そして、もう一度、今度は盗み見るようにゆっくりと少女の方に向けてみた。少女の長い睫毛がまた一つ瞬きをした。そして、少女が本から目を離し車窓に目をやったとき、その小さな鼻がちょっぴり上を向いているのが分かった。修一は揺れる車内をゆっくりと歩き、いつもの三号車へと向かった。少女の前を通るとき、視界に入る制服を意識した。彼女はやはり本に目を落としていた。

 三号車の前方が修一のいつもの席である。賢治と洋介が座って文庫本か何かを読んでいるのが見えた。

「おはよう。今日もぎりぎりセーフだったよ」

と、修一は二人の前に立った。

「また夜更かししたんだろう」

と賢一がボソリと言い、それに続けて、

「イレブンPM観たな」

と、洋介がにやけた。修一は、

「観てないよ」

とクールに応えて、二人の間に割り込むように座ると、徐に学生鞄から読みかけの文庫本を取り出した。「赤頭巾ちゃん気を付けて」。修一は密かに庄司薫の作品を読んでいた。賢治は同じクラスで写真部に所属している。洋介はバスケット部で、クラスは違うが中学が一緒だった。最初の内は他にも数名が一緒に乗っていたのだが、それぞれが自分にとって居心地のよい車両を見つけて移動していき、修一たち三人が最終的にこの車両に居着いたのである。と言っても、修一にとってこの二人が最良の友人という訳でもなかった。それはおそらく賢治も洋介も同じで、クラスや部活に行けば、また違った付き合いがあったのだ。だから、修一は、帰りの列車には大抵部活の連中と乗ることになっていた。しかも、吹奏楽部の場合は、先輩たちも一緒だった。バスクラリネットの根本さん。彼の髪の毛は天然パーマで、髪が伸びると、黙っていてもカーリーヘアのようになっていた。フルートの富樫さんは背が小さかったが運動が得意で、たまに行われるレクリエーションのソフトボールでは、いつもピッチャーをやっていた。そして修一と同じ楽器の和成さん。耳コピが得意で、山口百恵も桜田淳子も全て吹奏楽曲にアレンジして、部員に楽譜を供給していた。大したものである。だが、修一には先輩たちに止めてもらいたいことが一つあった。それは、列車の時刻まで時間があるときに、連れだって駅前にある「ひらけん」という喫茶店に寄ることだった。「ひらけん」というのはマスターの氏名「平山健」を略したものだと聞いたことがある。「ひらけん」は安いお金で時間をつぶすことができるのが最大の魅力なのだが、もう一つ、マスターが若い男の子を相手に面白い話をいろいろ聞かせてくれるという裏メニューがあって、男子高校生を中心に人気の店となっていた。実はマスターはオカマだった。話し方は少し変だったが、誰にでもやさしく親切で、そこのところは悪い気がしなかった。ただ、修一が嫌だったのが先輩たちがマスターに写真を見せてくれるようにせがむところだった。写真とは要するに女性のヌード写真である。修一は見たくない訳ではなかったが、集団で数枚の写真に群がる構図に抵抗があったのだ。

「小林。行くぞ」

と、根本さんに声を掛けられる度に断れずに、

いやいや後をついて行く。そして、列車の時刻が近づくと、三人ともにんまりとして店を後にする。陽気な根本さんならともかく、普段は聖人君子のようにしている和成さんまでが顔を上気させて、

「小林。これが青春なんだなあ」

なんて肩を叩いてくる。そして、列車から降りる別れ際にも、

「小林。また行こうな」

と、政治家のように手を上げるのだ。なんて幸せな人たちなんだろう。自分の気持ちを偽ることなく行動を起こし、素直な感情を表現することができる。修一は今の自分にない部分を先輩たちの無邪気で無頓着な笑顔の中に見た。益田駅で先輩たちが降りると、修一は一人になった。益田駅から乗り込んだ女子校生のグループが修一の前に立った。彼女たちは、ホームから持ち込んできた脈絡のない話の続きに夢中になっている。修一は、鞄から文庫本を取り出した。「赤頭巾ちゃん気を付けて」。しかし、少しも文字を追うことができない。「ひらけん」で見たヌード写真が脳裏に浮かんでくるのだ。修一は、寒暖計の赤液が上がっていくように一人で赤面していくのだった。


清沢駅の二番線に列車が入ってきた。その日、修一はホームへの階段を下りてすぐの所に立っていた。そこが、七時三分発仙台行き普通列車五号車の乗車口となるのだ。修一には、この車両に乗って確かめたいことがあった。この間、偶然見かけた女子校生のことである。修一はあれ以来ずっと気になっていたのだ。まだ小学生のときのこと。ちょうど桜の季節だった。中田病院の玄関ですれ違った赤い着物の少女。長い睫毛の瞬き。少し上を向いた小さな鼻。あの時、母屋から聞こえてきた琴の調べと共に遠い日の心象が蘇ってくる。しかし、少女が、今ここに居るはずはなかった。少女はもうすぐ小学校を卒業するというときになって、「急性骨髄性白血病」を発病し、仙台の大学病院で息を引き取ったのだ。少女の名前は直美と言った。女子校生は、その直美に似ていた。修一は五号車に入ると、すぐに車両の中程に座っている彼女を見つけることができた。そして、車両の一番隅、彼女と反対側の席について、注意深く、しかし決して覚られないように観察を始めた。彼女は今日も一人である。やはり、この間と同じように本を読んでいる。列車が動き出した。修一は文庫本を取り出し、彼女の方を気にしながら文字を追った。彼女は時折本から目を離して車窓の景色に目をやる。ショートヘアーの前髪がさらりと流れた。修一のことなどまったく気にする様子はない。列車が益田駅に着き、黒い学生服と紺色の制服が乗り込んできた。それぞれがそれぞれの意志を持ち、目的地を目指す。そんな厳しさが感じられる。そうだ。茶髪もパーマもリーゼントも含めて、それぞれに与えられた時間を自分のために有効に使っているのだ、高校生たちは。

 紺色の制服が彼女の前に立った。同じ城北高校の女生徒である。彼女は笑みを浮かべてその女生徒を自分の隣に迎えた。「友達がいたんだ」。修一は少し安心した。二つ並んだ臙脂のリボンが嬉しそうに会話をしている。その横顔を、修一は乗客の隙間からちらりちらりと見ていた。やがて列車は横森駅に着いた。足早にホームを進む二つの制服を追うように修一は歩いた。すると、不意に後ろから肩を叩く者がいた。

「修、どうした。休みかと思ったよ」

賢治と洋介だった。

「ああ、ちょっと・・・」

「何がちょっとだ。変だぞ、お前」

と、二人とも怪訝そうな顔をしていたが、それ以上は聞こうとはしなかった。修一は、結局いつもの三人組となって学校までの道を歩いた。途中何度か見失ってしまったショートヘアーを探してみたが、見つけることはできなかった。

次の日も、修一は五号車に乗った。賢治と洋介のことが少し気になったが、三号車には後で行けばいいと思った。彼女は、昨日と同じ席に一人で座って本を読んでいた。修一は彼女の俯いた横顔を観察しながら通路を三号車に向かった。彼女の前を通るとき、彼女が顔を上げたのが分かった。修一は自分の行動を覚られまいと平静を装った。修一は、ほぼ毎日同じ行動を繰り返した。そして、横森駅のホームに降りると、やはりほぼ毎日、益田駅から乗った女生徒と一緒に歩く彼女の姿を探しながら賢治と洋介と肩を並べて歩いた。そうしているうちに、修一はどうしても彼女の名前が知りたくなった。同じ中学から城北に通っている友達に訊いてみる手もあったが、それほど親しい訳ではない。城北生に顔が効く同級生に頼む手もあるが、そのような輩に頼んだら後でどんな風評が飛び交うかも知れない。結局、修一は自分の力で彼女の名前を探るしかないと考えた。五号車から三号車に移るときに彼女等の会話に耳を峙てるしかない。修一は彼女等以外の城北生の発言にも注意を払った。その結果、二人のどちらかが「ユキコ」でどちらかが「サトコ」という名であることが分かった。

ある日のことである。その日は吹奏楽部の練習がいつもより早く終わったので、一本早い列車に乗ることになった。また、いつものメンバーで横森駅に向かった。修一は、先輩たちがまた「ひらけん」に寄るのではないかと気が気でなかった。しかし、その日は先輩たちも早く帰りたかったらしく、全くその話題がでることはなかった。横森駅のホームでは、高校生を中心とした乗客が列車の到着を待っていた。そして、その中に彼女がいたのである。いつもの女生徒も一緒である。修一は和成と一緒にホームを進んで行った。すると突然、和成が声を掛けた。

「よおっ、今かい」

修一は、和成の予想外の行動にびっくりしたが、声を掛けた相手は、どうも彼女ではなく、いつもの女生徒の方らしい。女生徒は、すれ違いざまに和成と一緒に居る修一に軽く会釈をした。

「あれ、和成さん、知り合いですか」

修一は徐に訊いてみた。

「ん。あれか、妹だよ。俺の妹」

「へえ、和成さんに妹がいたとは、初耳でした」

と、修一は少し戯けるように反応して見せた。

「ああ、城北の一年だよ。由紀子っていうんだ」

と言って和成は少しはにかんだ。修一は仲の良い兄妹なのだな、と思った。と同時にこれまで気に掛けてきた城北生は「サトコ」という名であることが明確になった。

 次の日、修一は五号車に乗るかどうか迷った。昨日、横森駅のホームでほんの一瞬ではあったが、和成の妹の由紀子と面識を持つことができた。それだけで修一はずっと気にしてきたサトコとの距離が縮まったような気がしていたのだが、一方で、五号車に乗ったとき、彼女らにどう対応すればいいのか分からなかったのだ。特に由紀子に対しては挨拶の一つもするのが自然だろうと修一なりに考えていた。結局、修一はそんな迷いを振り切って五号車に乗り込んだ。サトコは、いつもの座席に座って本を読んでいた。時折目を車窓に移す以外、その目は終始本に注がれていて、修一が乗り込んできたことなど眼中にない様子だ。修一はいつもの座席に座って列車の進行に身を任せた。やがて列車は益田駅に到着し、多くの高校生たちを飲み込んだ。すると、サトコの表情が変わった。由紀子が乗り込んできたからだ。本を読むのを止めて、暫く二人の談笑が続いた。何を話しているのか、楽しそうに話す二人の姿を伺っている修一の頬も緩む。その時、不意に由紀子の視線が修一の方に向けられた。修一は驚いた。由紀子は修一に軽く会釈をした。修一は思わず同じように会釈を返した。かなり動揺していた。思わず視線を宙にやることしか出来なかった。修一は徐に文庫本を取り出したが文字など目に入りはしない。次の駅に列車が止まったとき、乗客の隙間から彼女等を見た。二人とも本に目を落としている。いつもだったら、とっくに三号車に移動しているはずの修一だったが、その日は結局、横森駅に着くまで五号車を離れることが出来なかった。

そして、サトコと知り合う機会が期せずして訪れた。部活を終えて、いつものように和成と共に列車に乗ると、その車両に偶然、由紀子とサトコが乗っていたのである。列車は混み合っていて座席はほとんど埋まっており、空いているのは由紀子とサトコが座っている四人がけのボックス席だけである。いくら仲良しの兄妹とはいえ、同席するのは跋が悪いだろうと思っていたが、和成は違った。いつもの仲間がいなかったせいもあったのかもしれないが、和成はお構いなしに由紀子とサトコが座っている席に腰を下ろした。窓側の席に由紀子とサトコが座っている。和成が由紀子の隣に座ったので、修一は自然とサトコの隣に座ることになった。

「お兄ちゃん、食べる」

と、由紀子が飴玉を差し出した。透き通るようなレモン色がきらきらと輝いて見えた。ところが、せっかく由紀子が差し出した飴玉が和成の掌に渡されようとするときにその掌からこぼれてしまったのである。その飴玉に修一とサトコが反応した。二人して飴玉をキャッチしようとしたのだが、無情にもそれは、床に落ちて反対側のボックスに転がって行ってしまった。

「お兄ちゃん・・・」

「悪い悪い」

仲の良い兄妹は顔を見合わせて笑った。そして、由紀子は改めて和成に飴玉を渡すと、修一へ、そしてサトコに飴玉を渡した。四人は、飴玉で片方の頬を膨らませ、口いっぱいに広がる甘酸っぱさを感じていた。そこで、由紀子が口火を切った。

「小林さん、清沢ですよね」

「そうだよ」

「里子ちゃんも清沢なんですよ」

修一はどぎまぎした。いきなり話題を自分の方に振られて戸惑った。

「へえ、じゃあ、清沢南中かな」

同じ清沢で、清沢駅より前の駅から乗っているのだから、それくらいの察しはついた。里子は、

「はい」

と小さな返事をした。しかし、修一は、それ以上の話をすることができなかった。

自分は清沢北中であること、清沢駅から乗車していて、里子のことは見かけていたとか、里子の居住地はどこか、とか、いくらでも話すことはあったはずなのに・・・。悪戯に時は過ぎ、レモンの飴玉が口の中でとろけて小さくなっていくばかりだった。

 それからも、修一は毎日五号車に乗車した。修一が乗車すると里子は離れた席に座った修一に毎朝会釈をした。修一はそれだけで満足だった。そして、列車が益田駅に到着し、由紀子が乗り込んでくると、修一は席を立ち、五号車に移動していく。途中で里子と由紀子の所で足を止めて、二言三言話すのだが、その相手は殆どが由紀子だった。

「昨日の部活、遅くまでやったのね」

とか、

「家のお兄ちゃん、寝坊して次の列車に乗るみたい」

とか、話題はもっぱら和成のことだ。一方の里子との会話はほとんどない。本当は誰よりも話したい相手は里子なのに、何を話したらいいのか分からない。本が好きみたいだから、今読んでいる本は何なのか訊いてみてもよかったのだが。その頃、修一は、片時も里子のことを思わぬ時はなかった。授業中、ふと気が付くと里子のことを考えていた。一人でいるときはなおさらだった。横森駅に向かう道すがら街路樹の向こう側を歩く人の波に里子の姿を探した。駅のホームでも、列車の中でも。家に帰ってからは、小椋桂のレコードを聴きながら一人物思いに耽った。


 季節は初夏となっていた。クリーム色の駅舎は木造で、大きな屋根が緩やかに左右に広がり、その周辺に、夏服を着た高校生の姿がぽつりぽつりと見えた。その日は日曜日だった。修一は部活を終えて一人横森駅に向かっていた。駅舎の入口の横に電話ボックスが二台あって、その脇にアジサイの花が咲き、六月の雨が紫色の花をしっとりと濡らしている。修一は、そんな花の存在に気付くこともなく、駅舎に入って行った。いつもの仲間たちがいない開放感があった。そこには、何も飾るものがない素の自分がいた。力を抜いて足を投げ出すようにして歩いてみると、どこか心地よい。ホームには既に横森駅発の列車が入っていた。発車までには、まだ十五分ほどある。修一は、扉を大きく開いた風通しの良いデッキに立った。その時、目の前に急に白い光が広がり、修一はその場に倒れた。

「どうしましたか。大丈夫ですか」

修一は、太い声の駅員に抱き起こされ、我に帰った。立ち上がろうとするが力が出ない。朦朧とする中、そこに、駅員の肩越しから心配そうに修一をのぞき込む里子の姿があった。軽い貧血だった。修一はこれまでにも何度か貧血で倒れたことがあった。小学生のとき、朝礼で、倒れる寸前に担任の先生に抱きかかえられて保健室に連れて行かれたり、中学生のときは、クラス対抗ソフトボール大会でキャッチャーの守備に就いているときに貧血を起こし、やむなく選手交代という失態を演じたこともあった。

ボックス席に着いた修一の向かいに里子が座った。

「大丈夫ですか」

と心配してくれる里子に対して、修一が、

「大丈夫。ちょっと貧血を起こしただけだから・・・」

と答えると、里子は、

「顔色、悪いですよ」

と真面目な顔で修一の顔を覗き込んできた。

「大丈夫だよ」

修一は、少し語気を強めたが、内心、里子の眼差しが嬉しかった。

「家のお婆ちゃんも貧血で薬飲んでるんですよ」

と、里子はどこまでも真面目である。真面目と言うよりも、少し「天然」と言った方がいいのかもしれない。顔は直美に似ているが、中身は全然違っている。修一は改めて思った。直美は死んだんだ。今自分の目の前にいる人は全くの別人なんだ。と思うと、これまでの緊張が嘘のように緩んで、里子と気軽に話せるような気がしてきた。

「今日はありがとう」

修一が礼を言うと、里子は、

「ええ」

と小さく頷いた。少なくても修一には、里子が好意的に頷いたように思えた。

「また明日」

「また明日」

西の山に傾きかけた陽光が車内に差し込み、里子の横顔を美しく照らしていた。修一は、明朝の列車で、また会えると思うだけで、幸せな気持ちになれた。

 二人の交際は順調に進んだ。交際と言っても、朝の通学列車の中で「おはよう」と挨拶する程度のものだった。たまに互いが読んでいる本を覗いて、「何の本」とか「面白い」などと訊ねたり、互いに本を貸し合ったりする。そんな付き合いが続いた。帰りの列車が同じときでも、それぞれの同乗者がいるので、二人切りになるなどということは滅多になかった。でも、二人はそれで十分だった。それ以上のことは望まなかった。

 ところが、二人が交際するようになって一月ほど立った頃、里子が不思議なことを言うようになった。

「昨日夢を見たの。とっても綺麗な夢だった。枝垂れ桜が咲いていたの。黒い板塀に囲まれた格式の高そうなお屋敷だった。琴の音が聞こえてきたわ。綺麗な和服を着たお嬢様が弾いているんでしょうね。私、うっとりとしてしまって・・・。そして、桜の花びらが舞い散るの。それがとても綺麗で・・・。でもね、最後が少し悲しいの。琴の糸が切れてしまうの。私、そこで目が覚めてしまったんだけど・・・」

「また夢を見たの。外は雪が降っていたわ。私は、病院の待合室にいたの。看護婦さんに呼ばれて診察室に入っていくと、そこは何もかも真っ白なの。ベットもカーテンも、先生の椅子も・・・。先生の丸い大きな顔に整えられた口髭が可笑しくて、私、笑いを堪えるのが大変だったのよ」

里子は、列車の中で、一生懸命にそのことを修一に伝えようとした。修一は、

「ふーん」

と、さりげなく答えたが、内心は尋常ではなかった。それは間違いなく中田病院の風景だった。中田病院になど一度も言ったことがない里子がどうしてそんな夢を見るのか不思議だった。更に、不思議なことがあった。いつものように朝の列車に乗り込むと、里子は、いつもの場所に座り、いつものように鞄を膝の上に置いてその上に本を広げていた。しかし、たった一つだけいつもと違うものがあった。それは、朱赤の布でできた手提げ袋だった。私がそれに目をやると、里子は

「あっ、これ。お母さんが作ってくれたの。私が小さい頃着ていた着物をリサイクルしたんだって。この手鞠の刺繍、気に入ってるんだ」

と、何の屈託もなく話して聞かせるのだが、修一は、その手提げ袋の色や、布に施された刺繍の絵柄から、ほどなく、そこに中学一年の時に亡くなった直美の存在を感じた。「直美だ。直美がいるんだ。直美が僕に何かメッセージを発しているんだ・・・」。その夜、修一は、里子のことが心配になった。

「もしもし、小林と申しますが、里子さん、いらっしゃいますか。・・・あっ、里子さん、大丈夫。変わったことはない・・・。あっ、そう、ならいいんだけど・・・。ううん、何でもない。じゃあ、また明日・・・」

でも、よく考えてみると、直美がいるとしても、里子に何か危害を加える訳がない。直美はそんな子ではない。修一はそう思った。

ところが、次の朝、いつもの五号車に里子の姿はなかった。「どうしたんだろう」。修一は、先頭車両から、最後の車両まで里子を捜して歩いた。三号車には、賢治と洋介が乗っていて、

「おっ、どうした、修一」

と、血相を変えて通路を歩く修一に声を掛けきたが、修一には聞こえない。途中で列車は益田駅に着き、白い制服たちが、どっと雪崩れ込んできた。修一は、五号車に戻り、席に着いたばかりの由紀子の前に立った。

「由紀ちゃん。今日は里子さん休みなのかなあ」

「里子・・・」

由紀子は、きょとんとした顔で修一を見上げた。

「小林さん、知らないんですか。里子ちゃんが転校したこと」

「転校だって」

思いも寄らない言葉に、修一は驚いた。

「里子ちゃん、お父さんの仕事の関係で、昨日限りで転校したんですよ」

「で、行き先はどこ」

「仙台って言っていましたよ」

「仙台」

修一は、直美が仙台の大学病院で亡くなったことを思い出した。直美が短い一生を終えた地、仙台に里子は転校して行ったのだ。修一にとって、それは突然のことだった。二人が、少しずつ打ち解けて、お互いに気兼ねなく話せるようになってきたところだというのに、急に里子が不思議な夢を見るようになったり、朱赤の手提げ袋を持つようになったり、そして、挙げ句の果てに仙台に転校してしまうとは・・・。修一からすると、それは直美からのメッセージ以外の何ものでもなかった。

「小林さん。どうしたんですか」

由紀子は、じっと考え込む修一を怪訝そうに見た。

 後から聞いた話だが、里子の転校は、それほど急なことではなく、以前から予定されていたことだったらしい。県職員の父親に転勤は付きもので、その度に里子は転校を繰り返してきたのだ。だから、そこに直美の力が働いたなどということはある訳がない。それならば、あの夢は、あの手提げ袋は何だったのだろう。「偶然」と捉えるしかないのだろうか。そして、なにより一番不思議なのは、前日まで列車や電話で話していた里子が、転校することを修一に一言も告げずに行ってしまったことである。何故なんだ。その解答は里子に訊いてみない限り知り得ることはできない。修一は苦しんだ。「里子は、本当は、僕のことが嫌いだったんだ」「もうすぐ転校することが分かっていたから、当たり障りなく付き合っていたんだ」「でも、だからといって、自分に一言も告げずに行ってしまうなんて考えられない」。などと取り留めもなく考えを巡らした。そして、最後には、「やはり、そこには直美の力が介在していたのでないか」という所に行き着いてしまうのだった。修一にとって、そう考えるのが一番合理的だったのだ。

 春からの数ヶ月、修一は長い夢を見ていたのだ。初めて話しをしたあの時、一緒に舐めたレモンの飴玉。透き通るような綺麗なレモン色だった。口いっぱいに広がったあの甘酸っぱささえ、夢の中の出来事にすぎなかったのだ。長い夢から覚めた修一は、暑い夏を乗り切れるのかどうか心配になるほどやつれ果てていた。かろうじて授業だけは受けていたが、体調不良を理由に部活には顔を出さなくなっていた。そして、一人列車に乗り早々に家に戻る日が続いていた。

 そんなある日、修一は、ふらりと「ひらけん」のマスターの所へ顔を出した。

「あら、修ちゃんじゃない。珍しいわね」

修一は真っ直ぐにカウンターに座った。

「マスター、アイスコーヒーください」

「えっ、修ちゃんコーヒー大丈夫なの」

「大丈夫です」

修一は、アイスコーヒーをブラックで飲んでみた。あれ以来、修一は甘い物を拒んでいた。夢のように過ぎ去った日々から、少しでも遠ざかりたい。そんな気持ちからだった。コーヒーをストローで啜りながら、修一は、何も告げずに転校して行った里子のことをマスターに話してみた。

「ううん、それは微妙な問題だわね」

マスターは煙草に火を付けてから続けた。

「その子ね。修ちゃんに話さなければって、ずっと思っていたと思うよ。でもね、修ちゃんとの楽しい日々の中で、どうしても言い出すことができなかったんじゃないかな。アタシにはそう思えるんだけど・・・」

修一は、釈然としなかった。

「そういうものでしょうか」

「女は、そういうものなのよ。君のことが好きだからこそ言い出せなかったのよ」

マスターの言葉は、煙草の煙と一緒になってカウンターの上を漂った。「女は、そういうものなのよ」。都合の良い言葉だ。修一は、その言葉を受け入れることなく、納まり切らない思いを胸に「ひらけん」を出た。

真夏の通学列車は窓を全開にして青空の下を進む。鉄橋を渡る音。踏切を過ぎる音。民家の軒先を通る音。列車の中の白い制服は、一様に眩しそうに目を細めている。風が修一の額に当たり、少し伸びた前髪を乱暴に後ろにかき上げた。修一は一人五号車のボックス席に座り、流れていく景色の先を見つめていた。



 三 大学病院にて  



 一月十五日は旧暦の小正月。外来の廊下は所々に黄色い灯りを落として、ひっそりと静まり返っている。小林修一は、一人当直室のソファに座って遅い夕食を摂っていた。昼間の内に売店で買っておいたお握りとカップヌードルは如何にも栄養のバランスが悪そうだが、いつ来るが分からない急患のことを考えると、つい、こんな選択になってしまう。だが、スチームのラジエーターの上に上げて置いた暖かいお握りはカップヌードルのスープと一緒に空腹を十分に満たしてくれた。修一は、テーブルの上のミカンに手を伸ばした。閉め忘れたブラインドの隙間を雪がチラチラと舞い落ちていく。その先には改築したばかりの十階建ての病棟がそびえ立っているのが見える。縦横に規則正しくに並んだ部屋の灯りの向こうに、新しい医療によって管理されている病棟患者の生活が見えてくるようだ。

小林修一が勤務する北都大学病院は、日本の医療をリードすると共に、研究機関・教育機関としての使命を担う東北地方有数の病院と言われている。修一は三年前に、医学部の付属医療短大を卒業し、この病院の放射線科へ配属された。放射線技師の仕事は経験がものを言う。患者の一寸した体の角度一つにしても、感覚的に覚えるしかない。修一は、三年目にしてやっとそういった要領が分かってきたように感じていた。当直の仕事も、今は不安に思うことはない。ついさっき救急車で運ばれてきた患者の写真もちゃんと撮ることが出来た。交通事故で興奮している患者への接遇も間違いはなかった。そして、今こうして当直室でつかの間の休憩をしている時こそ、僅かばかりの充実感に浸ることが出来るのだった。

 その日の勤務は比較的平穏だった。夕刻になってから、バスケットをしていて足首を捻挫した大学生、肺炎の疑いのある小学生、トイレで転んで頭を打ったという老人等が、立て続けにレントゲン室を訪れたが、その後はぱったりと来室者がなくなり、ほっと一息ついているところだった。救急車のけたたましいサイレンが鳴り響いた。交通事故だった。上腕部に裂傷あり。出血が白いティシャツを染めていた。患者は随分興奮していたが、意識はしっかりしていた。レントゲンの結果、骨折等の所見は認められなかった。その後、あれやこれやと事後処理にあたり、気が付いてみたら時計が午後九時半を過ぎていたという具合である。

 修一は、ソファに座って熱いココアを一口啜り、テレビのスイッチを入れてみた。漫才師達が画面いっぱいに映し出されているが、早口で何を言っているのかさっぱり分からない。かといって、チャンネルを他に換える気力もなく、それはやがて、適度なBGMとなって、修一を眠りに誘い込んでいくのだった。

 目を覚ましたのは、午前四時頃だった。テレビ画面は砂嵐になっており、テーブルの上には、ココアの残ったマグカップと散乱したミカンの皮があった。修一は、白衣をはおり、外来にある売店に足を向けた。大学病院の外来は、一本のメインストリートのような広い廊下を基幹に、各科へ通ずる廊下が枝を分けるように分散している。そのメインストリートには、花屋、果物屋、パン屋、クリーニング屋などが連なっていて、日中は一つの商店街のような賑わいを見せていた。

売店のシャッターは下りている。修一は、シャッターの横の自動販売機で缶コーヒーを買い、そばにあったベンチに腰をかけて煙草に火を付けた。薄暗い廊下を早番の看護婦が早足で駆け抜ける。やがて、引き継ぎを終えた夜勤明けの看護婦たちがここを通るだろう。と、また一人、職員入口の方から、こちらに向かって歩いて来る姿があった。小さな黒いシルエットが少しずつ大きくなってくる。白いスニーカーが修一の視界に入った。コンバースのバスケットシューズ。薄暗い病院の廊下に佇む白衣を、わざと無視して通り過ぎようとしている。

「あれ、美希ちゃんじゃないの」

オーバーオールのジーンズに赤いスタジアムジャンバーを着て、頭には白のニット帽を深々と被っている。精一杯変装したつもりだったろうが、色白で長い睫毛の横顔は、すぐに入院患者の美希であると分かった。美希は、歩みを止め、修一の方を向くと、

「あれー、わかっちゃったのー。小林さん、なんでこんな所に居るの、まったくもう」

と、小さく舌を出した。

「おいおい、まったくもうじゃないよ、どうしたのこんな時間に・・・」

すると、美希は、少し表情を変えて修一の座っているベンチの隅にちょこんと座り、

「小林さん、お願い、このことは内緒にして。誰にも言わないで。お願い」

と両方の手を合わせて懇願した。修一は、面倒な場面に出くわしてしまったと思った。美希が病院の規則を破って外出していたことは明白だったのだ。


 山下美希が救急車で運ばれてきたのは、暮れ押し迫る夜十時過ぎのことだった。ストレッチャーに乗った顔は蒼白し、身を捩るような痛みに七転八倒していた。美希は、学校から帰宅後、食卓に着いたが食欲がなかった。四、五日前から便通がなく、腹部が張り、むかむかと気分が悪かった。その内に治るだろうと通学を続けていたが、次第に、嘔吐と腹痛が襲うようになった。そして、ついに尋常でない苦しみようを見た母親が救急車を要請したのだった。当直医は診察後すぐに患者のレントゲンを撮ることと、外科医へ連絡を看護婦に指示した。

修一の出番が来た。連絡を受けてレントゲン室に向かうと、間もなくストレッチャーに載せられた患者が到着した。二人の看護婦と力を合わせて患者を平面撮影台に移動する。

「すぐ終わるから、動かないでね」

と、声を掛けた。痛みに顔を歪めながら、修一の方を見て必死に頷いたのがわかった。修一の撮った腹部単純X線写真にはガスの異常があり、腸の閉塞した部分が明らかになった。担当医は写真を診てすぐに「腸捻転」と診断し、緊急手術が行われる事になった。美希の不規則でアンバランスな食生活がもたらした結果だった。無理もない。夜更かしがたたって早起きできず、朝食も摂らずに家を出て行く生活が続いていたのだから。

 美希は、仙台城西中学校の一年生である。バレーボール部に所属していたが、一つ上の先輩たちとの関係が上手くいかず、ずっと練習に行っていなかった。勉強が終わると、部活に入っていない麻里と一緒に商店街をぶらぶらしながら帰路に着く毎日を送っていた。

セーラー服の臙脂の帯と白いソックスが、地元の中学生であることを印象づける。しかし、その小さな商店街で暇を潰したとしても、時間の経過はたかが知れていた。本屋の店先で少女雑誌を立ち読みしたり、文房具屋でキャラクター用品を手にしたりするのが関の山だった。麻里は、クラスの中でも居るか居ないか分からないほどのおとなしい性格で、おしゃべりな美希の話を黙って聞いているような子だった。美希がクラスの男の子の話をすると、嬉しそうにその話を聞いているのだが、麻里に好きな男の子が居るのかどうかは分からない。美希にしてみれば少し物足りない感じもするが、逆に変に気を遣わなくてもいい相手だった。美希は商店街の小路を抜けた所で麻里と別れ、自分の家に向かった。

 北山三丁目の急な坂道の途中に美希の住むアパートがあった。三DKのアパートは母子二人が生活するには十分な広さだった。母由美子は、八幡町の雑居ビルの一階で小さな喫茶店を営んでいた。仕事柄、帰宅は夜半となったが、早起きをして、美希に朝ご飯を食べさせることだけは欠かさなかった。学校からの配布物にもしっかり目を通し、提出すべき物が滞らないように心掛けていた。だから、短い朝の時間帯であっても、美希と言葉を交わす話題には事欠かなかった。美希は、それだけで、母が自分のことを大切にしてくれていることを実感することができた。そして、PTAとかの行事に母が来ることができなかったとしても、それを不満に思うことなどただの一度もなかった。由美子にとっても、美希は何よりも大切な存在だったのだ。朝の光が、ベランダのプランターに実ったミニトマトを優しく包み込んでいた。

それなのに、どうしたのだろう。いつからか知らないうちに美希の心中に暗雲がかかるようになったのだ。その雲はどこからともなく現れて美希の心を通り過ぎていく。雲は不定期にやって来る。また来たな、と身構えて次の雲を待ってみるが、待っていると雲はなかなか現れない。そして、なんだもう来ないのか、と安心しているときに限って雲はやって来て、水に垂らした墨のように心の中に広がっていくのだ。由美子に好きな男性ができたのだ。美希が三歳のときに死に別れた夫の写真が小さな仏壇に置かれている。元々専業主婦だった由美子は、市役所職員だった夫の遺族年金や生命保険で、しばらくは美希を育てながら細々と暮らしていくことができた。しかし、美希が成人するまでの家計を考えると、いつかは、自分が職に就いて収入を得なければならないということは明白だった。由美子は自活するために、美希が保育園に入ったのを契機に調理学校に通うようになった。得意の料理を生かして調理師の免許を取って、やがては軽食が出せる小さな喫茶店でも開こうと考えたのだ。そして、美希が小学校に入る頃、由美子の計画が実現した。店の名前は「喫茶MIKI」。いつも美希のことを考えて仕事をしたいという意志の表れだった。バス通りに面した白壁に赤いドアの店は、近所の大学に通う学生の目を引いた。デミグラスソースにチーズを効かせたオムライスの人気が口コミで広がり、客足は次第に増えていった。順風満帆だった。全てが順調に進んでいった。しかし、数年後、美希が小学三年生になる年、近くの丘陵に郊外型の大型スーパーがオープンすると、その客足は次第に減っていった。レストラン街に出店した飲食店の安価で豊富なメニューには太刀打ちできなかったのだ。よくある話である。由美子は洗面所の鏡に向かって栗色のショートヘアを両手でかき上げると、疲れ切った素顔に化粧を施した。そんな由美子をいつも心配そうに遠くから見守っていたのが、店がオープンしたとき以来、ずっとコーヒー豆を卸していた加藤忠良だった。忠良が、カウンターの向こうに力無く座っている由美子を見かねて、「山下さん、俺がコーヒー入れてやるよ」と声を掛けたのが始まりだった。忠良が入れた香ばしくて深みのあるコーヒーに由美子は癒された。それ以来、忠良は週に一度決まった時刻にやってきて、由美子のためにコーヒーを入れてやるようになったのだった。

 そして、月日は過ぎた。「喫茶MIKI」はコーヒーの香りに包まれた店に生まれ変わっていた。由美子が軽食を出し、忠良がコーヒーを入れる。店内にはビルエバンスのピアノの音。「喫茶MIKI」はお客さんにとっても癒しの空間になっていて、ジャズの音を聴きながらゆっくりと食事できる店として、人気を取り戻していった。しかし、美希は、そうした状況を受け入れることができなかったのだ。美希は中学に入学する年齢になっており、最も感受性の強い時期を迎えていたのである。


 美希の手術は無事終了した。開腹手術だったので二日間ほどはその痛みに耐えなければならない。忠良のことがあってから、どこか素直になれない美希だったが、こんな時に頼れるのは母の由美子しかいない。もちろん由美子も、娘の心の変化を気にしていない訳ではなかった。しかし、由美子が美希に付き添っている間、店を切り盛りするのは他ならぬ忠良なのだ。良きパートナーを得た幸せを感ずる一方で、美希に淋しい思いをさせている。由美子はそんな葛藤に嘖まれた。

術後一週間は絶食が続いたが、二週間目から食事が出るようになると、点滴の本数が減り一日一本となった。退院も近いらしい。由美子は、一日一回夕食の時間に合わせて美希の所に行くようにしていた。

 午後六時、夕食のコンテナが運ばれてくる音がする。いつもなら、もうとっくに着いているはずの由美子がまだ来ていない。「どうしたんだろう・・・」。健康な人でも、待ち人来ず、となると心配したり不安になったりするものである。ましてや、まだ年若い入院患者の美希にとって、由美子はたった一人の待ち人なのだから、その不安は少しばかりではないだろう。コンテナの中の夕食は同じ部屋の人たちの分と一緒に看護婦さんが運んできてくれた。結局、美希は一人で夕食を摂り、お盆と食器を自分で返しに行った。夕食後の病室では、入院患者たちが消灯までの一時を思い思いに過ごしている。テレビを見たり、本を読んだり、中には見舞客が来ている人もいる。美希が、コミック漫画を読んでいると、看護婦さんが来て、美希の耳元で言った。

「美希ちゃん、今、お母さんから電話があったわよ。美希ちゃんに伝えてくださいって」

「はい」

美希は小さな返事をした。

「今日は、お店の仕事が忙しくて、病院に行けないって。明日は必ず行くからねって言ってたわよ」

美希は、再び小さな声で「はい」と応えた。しかし、看護婦さんが病室を出て行くと、美希はベットのカーテンを閉めて一人唇を噛み締めた。「お母さん、どうして来てくれないの。お店が忙しいだなんて・・・。お店には加藤さんだっているんでしょ。お任せして来たらいいでしょ・・・。」

 その頃、八幡町界隈は、大崎八幡神社のどんと祭に詣でる人々で賑わっていた。その日、「喫茶MIKI」では、一日中客が途絶えることがなかった。そして、夕方になってから客足は予想以上に増え、店内は常に満席状態となった。「どうしよう。美希の所に行く時間なのに、美希、私のことを待っているだろうなあ。でも困ったなあ。忠良さん一人にお願いして行く訳にはいかないし・・・」由美子は、いろいろと考えた末に、今日は忙しくて行けないということを病院に電話して、美希に伝えてもらったのだった。

 由美子は、実は悔やんでいた。これほど客が来ようとは予想していなかったのだ。美希に一言「今日はどんと祭だから来れない」と言っておけばよかった。その日、祭りが終わったのが午後十時。店を閉めたのは、かれこれ午後十二時を回っていた。

北都大学病院五階病棟の消灯時間は、午後九時三十分である。その時間になると入院患者達はベットのカーテンを締めて、枕元のスタンドの灯りに切り替える。美希が病院を脱出するのは意外に簡単だった。お気に入りのオーバーオール等の着替えを入れた紙袋を持って、病院服のままエレベーターに乗り、一階の外来用のトイレで着替えを済ませ、夜間救急用入り口から外に出た。エレベーターの三階から看護婦が一人乗ったが怪しまれることはなかった。


「美希ちゃん、一体どうしたの、その格好」

病院服を着ているべき患者が、オーバーオールにスタジャン姿とあっては、修一としても黙っている訳には行かなかった。しかも、中学生が朝帰りである。そんな修一に対して美希は、「小林さん、お願い、誰にも言わないで」と懇願するばかりである。修一は、美希をそのまま病室に帰す訳にもいかず、とりあえず当直室のソファに座らせた。美希は、黙ったままだったが、しばらくすると、

「だってねえ、小林さん。家のお母さんたらね・・・」

と、涙を堪えながら話し始めるのだった。

 美希は、病院を抜け出すと、夜の街を彷徨うようにして一番町まで歩いたらしい。三十分の道程はそう遠くはない。途中、西公園前に新しく出来たばかりのコンビニに寄ってみた。どんな品物が並んでいるのか興味があったのだ。そして美希は、定禅寺通りを東に向かった。葉を落としたケヤキ並木が寒々と続き、歩道には木枯らしが舞っていた。一番町通りはまだ宵の口のようである。スクランブル交差点を渡る人の群れが見えてきた。地元の人間は一番町通りを番町通りと呼び、番町界隈をぶらつくことを「番ブラ」と呼んでいた。美希は、とりあえず定禅寺側から青葉通りに向かって番ブラすることにした。もう既に大人の時間帯になっていたので、美希のような中学生の姿はない。たまに塾帰りかと思われる自転車の男の子とすれ違ったりはしたが。マクドナルドとかミスタードーナッツとかの硝子張りの店内で、若いカップルが顔を付き合わせて話し込んでいる。それほど長く歩いたという実感はなかったが、なんと言っても病み上がりの身である。一番町と青葉通りの両方に面したデパートには小さいときからよく来ていたので、そこで一休みできれば一番いいのだが、残念ながらシャッターは大部前に降りてしまったようである。青葉通りのスクランブル交差点を渡り少し行くと、映画の看板があった。「エデンの東」「風と共に去りぬ」と書かれている。そこは名画座という映画館で、三百円で三本立てが観られる若者に人気の場所だった。中に入ってみて美希は驚いた。超満員なのである。客席は全て埋まり、その周りを立ち見客が囲んでいる。大勢の視線がスクリーンに注がれていることが、雰囲気として肌に伝わってくる。美希は大人達のほんの少しの隙間に身を挟んだ。そして、暫くして「エデンの東」の上映が終わると、客席の人々が立ち上がり外へ動きだし、代わりに立ち見客たちがそこへ移動して行くのだった。美希は、その流れに乗ってやっと客席に座ることが出来た。もう既に十二時を回っていた。中学一年生がオールナイトで映画を観るなんて、許されるものではない。美希は暗がりの中でニット帽を深々と被り映画を観た。母に対する怒りがまだ燻っていたが、そんな感情を抑えつけるように睡魔が襲ってくる。スカーレット・オハラの激しいセリフでときどき目を覚ましたが、気が付くと、エンデングのタラのテーマが流れていた。

 修一は、美希に熱いココアを差し出し、飲み終わったら病室に戻るように話した。 美希は、「はい」と小さく頷き、ぽろりと涙した。


 ピーッ、ピーッ、ピーッ、ピーッ。

夜勤を終えて家路に着いた修一のポケベルがなった。「えっ、急患」。修一は、近くの電話ボックスに入って、病院に電話をした。

「小林さん、すぐ戻ってくれませんか。五〇二号室の山下美希ちゃんが急変したんです」

「えっ、どうして私が行かなくちゃいけないんですか。さっき引き継ぎしたばかりですよ」

「今、それを説明している時間はないの。とにかくすぐに来てね」

電話がガチャンと切られ、不通音に変わった。「何故自分が行かなければならないんだ。美希の朝帰りを見つけて、病棟に連絡したのが自分だったからだろうか」。修一は、納得がいかないまま、来た道を引き返した。病院に戻ると、ナースセンターで病棟の看護婦が修一に説明した。美希は、修一が居た当直室を出てから、予定通り一階外来のトイレで病院服に着替えて、エレベーターで五階病棟に戻ったらしい。ナースセンターでは、修一からの連絡を受け、美希を安全に迎え入れる準備を整えていたという。ところが、美希がエレベーターから降りて、廊下を歩き出したとたん、全身に痙攣を起こすようにしてその場に倒れたというのだ。ただならぬ物音に気付いた看護婦たちがストレッチャーで処置室に運び医師に連絡した。医師が到着した頃には痙攣は収まっており、この後詳しい検査が予定されているということだった。そこまではよいのだが、次の看護婦の言葉に修一は戸惑った。

「小林さんの名前って修一だわよね」

「そうですが、それがどうかしましたか」

「美希ちゃんがね、『修君、修君』って、魘されたように何度も言うのよ。それで、訊いてみたの、『修君て、もしかして、放射線技師の小林修一さんのこと』って。そしたら、安心したように大きく頷いたのよ。小林さん、とにかく美希ちゃんと会ってみて」

修一には事の展開が今ひとつ飲み込めなかったのだが、美希に会うことは難しいことではなかったので、看護婦に導かれて美希の居る個室に入ってみた。クリーム色のカーテンが閉ざされ、その向こうにベットに横たわる美希の気配がした。美希は小さな寝息をたてて眠っていたが、修一たちの気配を感じて目を覚ましたようだった。

「ごめんね。起こしてしまったみたいね」

美希は、看護婦の気遣いに、首を横に振り、その隣に立っている修一の方を見た。美希のその穏やかな眼差しは、数時間前の当直室で見たそれとは別人のものだった。

「修君って、この人」

と看護婦が多少の不信感を残しながら訊いてみると、美希は、「はい」とはっきりと頷いてみせた。それを見て、修一が初めて口を開いた。

「美希ちゃん、それってどういうこと。僕のことを修君なんて呼ぶのは、清沢に居たころの友達くらいなんだけど・・・」

と、美希は満面の笑みを浮かべて言った。

「そう、私は修君の友達よ」

修一は、美希の言っていることが理解できなかった。それよりも何よりも先ず、美希に修君なんて、子供のときの呼び名で呼ばれること自体、受け止めることができないでいた。しかし、美希は嬉しそうに話しを続ける。

「修君、清沢にある中田病院って知ってるでしょ」

美希が中田病院という名称を口にしたことは驚きだった。仙台で生まれ育った美希が清沢にある小さな病院を知ってあろうはずがない。

「あそこで修君、私に聞かせてくれたじゃない、赤い着物を着た女の子の話」

「女の子の話」

美希は体を仰向けに戻し、天井の一点を見つめて続けた。

「そうよ。修君が小学一年のとき、青い着物をきて病院の廊下で遊んでいると、白いタクシーが玄関に横付けされて、運転手がドアを開けると、そこから赤い着物を着た女の子が降りてきたんだよね。そして、その女の子が修君に話しかけてくるんだけど、修君にはその声が聞こえなかったんだ。女の子は一生懸命話しているのに修君に聞いてもらえないものだから、業を煮やして待合室に入ってしまう。修君は女の子が何を言ったのか知りたくて女の子の後を追おうとするんだけど、足が滑って少しも前に進まない。焦れば焦るほど足は前に進まないって話・・・」

話し終えると、美希は、満面の笑みで修一を見た。修一は、「どうして美希がそんなことまで知っているんだ」と怪訝そうな顔をした。しかし、美希の笑みの中にある穏やかで落ち着いた眼差しが修一に向けられたとき、修一はその瞳の中に吸い込まれるようになりながら、過去のことを思い出していくのだった。

 時間が止まっている。闇の中に居る感じ。何も見えない。何も聞こえない。何も感じない。体に触れるものは何もない。自分の体が有るのか無いのかさえ感じることができない。ただ意識という目に見えないものだけが自分の存在を支えているように思う。暫くすると、その意識の先に針の穴ほどの小さな光が見えてきた。凍っていた意識が少しずつ溶けてくる。白いパイプベットに白い布団、白いカーテン。窓辺には薄紅色のカーネーションが飾られている。

ナ・オ・ミ。

「直美。直ちゃんなんだね」

直美は大きく頷いた。

「どうしたの、直ちゃん。こんな所で会えるなんて思ってもみなかったよ。元気だった」

「何言ってるの修君。私がこの病院に入院していたこと忘れたの。あれからずっと入院生活が続いているのよ。元気な訳ないじゃない。」

「ああ、そうだっけ。ごめんごめん。でもさ、直ちゃんは、あの時のままなんだね。僕はもうすぐ二十四歳になるところだというのに」

「修君ったらもう。そんなこと当たり前でしょ。私も同じように大人になることができるのなら苦労しないわ。だから、こうやって、大人になった修君に会いに来てるんじゃないの」

「大人になった僕に・・・」

修一は、小さく驚いて見せた。

「いやだあ、修君。私が書いた手紙、忘れたの・・・」

もちろん、忘れてはいなかった。しかし、あれから十年以上も経っている今、あのときの感情をそのまま維持できている訳ではなかった。だから、直美の問いに端的に「イエス」と答えることはできなかったのだ。しかし、直美はそんな修一の複雑な心境を知ってか知らずか、それ以上返答を求めようとはしなかった。

「でもよかった、修君に会えて。私が思っていた通りの大人になっていたわ。やさしくて、穏やかで、そして、立派に放射線技師の仕事をしていて、すごいなあ、と思ったわ」

修一は、「それほどでもないよ」と頭を掻いた。

「修君に会わせていただいたこと、神様に感謝しなくちゃね。実はね、修君が高校生の頃、私、修君に会いに行ったのよ。知ってる。」

直美は、寝返りを打って修一の方に体を向けた。修一は目を丸くして直美を見た。

「だけど、会うことはできなかった。彼女、声も小さくて大人しい感じだけど、芯が強いのね。」

「それって、もしかして・・・」

修一は、思わず、高校時代に少し付き合っていた女子高生の名前を出そうとしたが、直美は、それを押し止めるようにして、

「素敵な人だった。私も友だちになりたかった。一緒に列車で通学したかった。だけど、私が入り込む隙間はなかったみたい。」

と、少し戯けるように肩を窄めた。修一は、何も言うことが出来なかったが、「やっぱりあの時、直美が来ていたんだ」と思った。

 あの時、修一は直美によく似た女子高生と通学列車で出会い、恋をした。名前を里子といった。列車の中で話をしたり本を貸しあったりするだけの交際だったが、修一は満足していた。それなのに、里子は、修一に何も告げることなく、急に転校してしまったのだ。しかもその行き先は、直美が入院して亡くなった大学病院がある仙台だった。不思議だったのは、転校して行く前に、里子が中田病院の夢を見たことだ。中田病院の黒い板塀やそこに咲く枝垂れ桜、母屋から聞こえてくる琴の調べなどについて、直美は事細かく修一に報告した。口髭をたくわえた丸い顔をした中田医師の風貌さえ、里子はまるで会ったことがあるかのように詳しく話して聞かせるのだった。そして、修一が一番驚いたのは、里子が母に作ってもらったという朱赤の手提げ袋だった。里子が小さい頃着た着物をリサイクルしたものだという。手鞠の刺繍がアクセントになっていた。そのどれもこれもが、直美と修一とを結ぶ思い出の場所、思い出の品だった。

「あのとき、本当は私、修君に会うつもりで彼女の中に入っていったんだけど、彼女は私を受け入れてはくれなかったの。だけど、私、どうしても自分がいることを修君に知らせたくて、いろいろなメッセージを送ってみたの。そしたら、修君は少しだけ私のことを思い出してくれたわ。私、嬉しかった」

修一は、自分の予感が当たっていたことに驚いた。そして、人間が持つ魂の存在に強い感銘を覚えた。しかし、一方で、何故あの時、里子が何も告げずに転校して行ったのか、という疑念が再び蘇って来るのだった。

「直ちゃん、一つだけ聞いていい」

直美は、修一の瞳を見つめて大きく頷いた。

「直ちゃんの言うことは良く分かったよ。あの時、あの場所に君がいたことは、ちゃんと分かっていたよ。だけど、どうして、里子さんは、ぼくに何も言わないで転校して行ったんだろう」

修一は、自分の中で封印していた思いを率直に述べてみた。すると、直美は、

「修君、ごめんなさい。修君のこと苦しめてしまって・・・。だけど、あれは、彼女の障がいのせいなの。」

「障がい」

修一は、思わず直美の言葉を復唱した。

「修君は気付かなかったかもしれないけれど、彼女、生まれながらに人との関わりが上手くできないという障がいを持っていたの。だから、相手の表情や態度から人の気持ちを察知してその場に応じた対応をすることができないことがあるの。でも、彼女はそうしたハンディキャップを持ちながらも、人から誤解を受けないように人一倍努力していた。だから、修君と友達になれたときは本当に嬉しくて喜んでいたのよ」

修一は驚いた。そして、里子の口数が少なく、真面目で、少し天然な性格を思い出していた。

「だから、転校が決まっても、そのことを修君に、いつ、どこで、どんなタイミングで、どんなふうにして伝えればいいのか分からなかったの。そうしている内に転校の日はどんどん近づいてくる。彼女、どんなに辛かったか・・・」

見ると、直美は瞳に涙を一杯に溜めていた。そういえば、転校する前の日に里子のことが心配になって電話をしてみたけれど、里子は修一の話を聞いて、ただ「はい」「はい」と応えるだけだったことを思い出す。あの時も里子は、転校のことをどう修一に伝えればいいのか分からずに苦しんでいたのだろう。修一は今更ながらに悔やんだ。どうしてあの時、里子の心情を察してやることができなかったのだろう。自分だけが悲劇のヒーローのような顔をして思い悩んでいた。

「直ちゃん、僕のところへ会いに来てくれて、ありがとう」

修一は、芯から直美のことが有り難いと思った。

「どうしたの、急にあらたまって」

「だって・・・」

修一は、泣きたくなるのを必死で堪えた。悩み苦しむ自分のことを、いつも遠くから見守ってくれていた直美のことを思うと、感謝せずにいられなかった。

「修君、私少し疲れたみたい。眠っていい」

「ああ、いっぱい話したもんね。ゆっくり休んで・・・」

仰向けになった鼻がちょこんと高い。閉じた瞼はあのときのままだ。修一は、直美の寝顔を見ながら、清沢で出会った頃のことを一つずつ思い出していった。幼い頃のアルバムを捲るように・・・。

 そのとき、急に窓の隙間から吹雪きが舞い込んできた。その白い粉雪は、やがて花吹雪に変わり、直美のベットの周りを舞い回った。部屋の灯りがフェードアウトされ、暗闇となった病室に桜色のグラデーションが映し出された。

目を覚ますと、そこは美希が眠る病室だった。美希の話を聞いているうちに眠り込んでしまったらしい。美希は小さな寝息を立てて眠っている。

「美希ちゃん、お昼ご飯ですよ」

と元気のよい看護婦が昼食を運んできた。修一は代わりに昼食を受け取り、ベッド脇のサイドボードにそっと置いた。その弾みで美希が目を覚ましたようだ。

「あれ。小林さん、どうしたの」

修一は、まだ半分寝ぼけている美希に向かって、

「美希ちゃん、どうもありがとう。君のお陰で頭の中がすっきりしたよ」

と声を掛けた。そして、美希の頭をくしゃくしゃに撫でてから立ち上がり、「じゃあね」と手を挙げて病室を出た。廊下の向こうから急ぎ足でこちらに向かってくる男女の姿があった。擦れ違いざま、コーヒーの深い香りがしたような気がした。修一は振り返り、二人が美希の病室に入るのを見届けて、再び帰路に着いた。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 最初の部分では箱橇という乗り物がでてきて、しかもその描写が長いので、個人的な思い出がたくさんあるのだなと思いながら、これは自伝的な作品なのだと思ってました。もちろん、自伝的な要素はあるのだ…
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