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序章  氷雨キリカ


 あの人と一緒なら、地獄の責め苦でさえ笑顔で耐えられる。


 たとえば地獄の底で苦しんでいる者が一人いたとして、その人に救いの手を差し伸べようとする人の数は、恐らく私たちが考えているよりもずっと多いでしょう。では、どうやっても地獄からその人を救うことができないと知ったとき、その一人のために自ら堕落して、同じ地獄で共に苦しんでくれる人は、いったいどれだけの数、存在するのでしょうか?

 

 私の知る限り、一人だけいます――いえ、より正確には、私の知る唯一の人が奇跡的にそうであったと答えるべきなのでしょう。


『複数人で抵抗のできない個人を攻撃するのは下種のやることだ。《弱肉強食》なんて言葉があるけれど、それをイジメの正当化として使う奴の社会性は間違いなく動物以下だよ』


 忘れもしない十年前――当時小学一年生の五月下旬、下駄箱の中にズタズタに引き裂かれた自分の靴の残骸を見つけて独り泣いていたとき、私の前に現れた、『逆峰(さかみね)(かなめ)』という少年が言った言葉でした。


 まだ幼かった私は、その言葉の意味がよく分からなかったのですが(私が理解できない言葉を言った彼もまた私と同年代だったのですが)、そんな彼が、傷ついた私を慰め、こんな嫌がらせをした同級生たちに憤ってくれたということは、なんとなくですが、理解できました。


 私は当時、クラス中の人たちからいじめを受けていました。当時は色んなところでいじめが流行っていたので、その対象にされていた私は、恐らく学校で一番スタイリッシュな生徒であったと言えなくもありません――――それはともかく。


 何がいじめの原因だったのかは今でもよく分かりませんし、ひょっとしたら原因なんてなくて、ただ単に、弱者を痛めつけることで自分たちの力をアピールしたいという、子供ながらの残酷な欲求であったのかもしれません。下駄箱の靴を隠され、教科書に落書きをされ、悪口を言われる――今であれば容易に鼻で笑って無視できるようなチャチないじめばかりなのですが、小学校に入学したばかりで友達もいなかった私にとって、それは、私の貧しいボキャブラリでは表現できないほどに悲しい事件でしかなく、とても覆すことのできない現実でした。


 そんなとき、私の前に、クラスメイトの逆峰要が現れたのです。利発そうな顔立ちと、小学生でありながらにしてどこか達観したような雰囲気を纏っていて、彼と一緒にいると、まるで、先生の傍にいるような安心感を覚えました。

彼は、下駄箱の前で蹲っていた私に手を伸ばし、慰め、そして――こんな私と、友達になってくれたのです。クラス中から迫害されていた私の味方につくということ。それはつまり、私以外のクラスメイト全員と敵対するということと、ほぼ同義でした。そんなことは、おそらく要も理解できていたでしょう。

それでも私の友達になってくれると言ってくれたのです――いえ、私の友達に『なりたい』と、確かにそう言ってくれたのです。


 嬉しかった。涙が出るほどに嬉しくて、夜明けのように、私の人生に光が刺したかのように、そう思えました。


 おおげさ? いえ、これでもまだ比喩が甘いくらいです。


 しかし、そんな私の気持ちとは裏腹に、現実は残酷でした。それまでは、クラスでは目立たない存在だった要が、私の味方に付いたと知れ渡ると、他のクラスメイト達は一斉に要を責め立て、私と同じ目にあわせました。


 要は、クラス中からの悪意の視線に晒され続けながらも、私の味方でいることをやめようとはしませんでした。どころか、いじめを止めるように働きかけたり、担任の先生やスクールカウンセラーの方にも相談したり――私をこの地獄から救い出すため、尽力してくれたのです。


 それだけで私は幸せでした。


 まるで、おとぎ話に出てくる王子様か、漫画に登場するヒーローみたいで。

しかし。


 要は、王子様やヒーローにはなれませんでした。


 どんなにクラスメイトと仲良くなろうとしても、彼らはそれを嘲笑って冷やかすだけでしたし、先生やスクールカウンセラーに相談しても、『なんとかする』と言ったきり、状況が改善されるようなことはありませんでした。


 それが、現実と創作の違いで――


 越えることのできない境界線であり、


 ヒーローと逆峰要を隔てる壁でした。


 それでも、彼は諦めませんでした。


 せめて自分だけは、日に日に摩耗し擦り減っていく私の味方でいようと、彼は常に私と一緒にいてくれました。私の傍にいてくれました。


 そんな状態が、四年以上も続いて。


 そして……そして、小学校六年生のある日、とうとう私は、壊れてしまいました。


 あれは、今になっても鮮明に思い出せます。


 映像を再生するかのごとく、思い出せます。


 当時、私と要が、通学路の途中にある神社の裏で飼っていた仔犬が、私の下駄箱の中に――


 身体中を何かで切り刻まれて、


 身体中に何かが突き刺さって、


 身体中が何か赤い物で濡れて、


 ズタズタになって、ボロボロになって、見るのも耐えられない悲惨な有様になって、私の下駄箱の中に、私の外履きの上に、静かに横たわって。


 それを見た私の心は、不安定に重なっていた積木のひとつが抜かれ、全体が崩れてしまうかのように――ガラガラと、音を立てて崩れていきました。音を立てて崩れ落ち、そして――


 修復は……復元は、絶望的でした。



『ゴメン。僕が、なんにもできなかったせいで……』


 謝らないでください。要が何もできなかったのではなく、私が何もしようとしなかっただけなのです。自分の立場に甘えてあなたに頼っているだけで、私は何ひとつ変えようとしなかったのですから。


 そんな謝罪の言葉も言えなくて、私がかろうじて絞り出せたのは、言葉にすらならない、嗚咽だけでした。


『…………キリカ』


 私の意思を汲み取ったのか、彼は数秒間の沈黙の後、静かに頷くと、真っ直ぐに私を見据え、いつものように言ったのです……『僕がなんとかする』、と。

 


 それから約半年後、当時私のいじめにかかわっていたクラスメイト二十人と、それを黙認していた担任教師が入院するという事件が起こりました。


 打撲。


 火傷。


 骨折。


 擦過傷。


 内臓破裂。


 転落事故。


 ガス漏れ事故。


 理科実験中の爆発事故。


 入院の理由は様々です。いじめの主犯格だった生徒には、食べると強烈なアレルギー反応を起こす食品が細かく刻まれて給食に混入されていたらしく、その子は救急車で運ばれていきました。さらにその一ヵ月後、今度は担任の先生が鬱病を患って退職されたそうです。


 どの事件も、警察から見てもあまりに手が込んでいて、とても小学生が起こしたものだとは思えなかったらしく、また容疑者の数も二桁にまで上りました。その捜査もしばらくするとなぜか打ち切られ、とうとう犯人が捕まることはありませんでした。


 ――おそらく、全て要がやったことでしょう。ヒーローになれなかった要は、その代わりに、中学生にして完全犯罪染みたたことをやってのけたのです。


 しかし、それでも。


 要は常に私の傍にいて、励まし続けてくれました。


 無理をしているなんて、目に見えていて。


 強がりなんて、火を見るよりも明らかで。


 それでも不器用に笑っていました。壊れてしまった私を、元通りにするために。


 時間にして、実に二年間。


 彼は私が回復するまで、支えになってくれました。


 喋ることすら上手くできなかった私を、立ち直らせてくれたのです。


 そしてその時に、私は決めました。


 私を壊した者に報復し、私から離れないと決めた彼のように、決意しました。


 この先どんなことがあっても、この人を守り抜き、付き従うことを。


 私、氷雨(ひさめ)キリカの行動原理は、全て逆峰要に利益をもたらすことを基準とすることを。


 たとえ目の前で、か弱く幼い子供が今にも暴漢に殺されそうになっていたのだとしても、もし同じ瞬間に地球の裏側で要が転んだら、迷わず後者を優先して手を差し伸べに行くことを。


 それくらいの覚悟を決めました。


 しかし。


 私の心がある程度回復し、日常生活に支障が出なくなると、要は、私のもとから離れて行ってしまいました。――と言っても、高校が別々になってしまっただけなのでしょうけれど。それ以外の理由など、考えられないのですけれど。


 要はケータイも持っていなかったので、とうとう彼と連絡を取る手段はなくなってしまいました。彼と疎遠になるほど悲しいことはありません。それからの一年は、私にとって、最も寂しく切ない、空白の時間でした。


それに耐えきれなくなった私は、一年もの時をかけて、この牢獄――窓に鉄柵がついた精神病院の脱出経路や警備員の巡回パターンなどを調べ上げ、脱出するための作戦を練り上げました。


 要の所属する学園とその住所を調べ上げるのには大分手間取りましたが(個人情報とかいう訳の分からないモノを理由にして、簡単には教えてくれなかったのです)、私のナイフが火ならぬ血を吹きましたが、まあ、苦労の末になんとか突き止めました。


 さて、それでは向かいましょうか、要の下へ。距離はたしか――およそ三百キロ。


 よかった、お隣さんみたいなものじゃないですか。


 今から行きます。



 だから――あと少しだけ、待っていてくださいね、要。



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