対話という武器
「ミナ、炎の壁で熱波を防げ! エリアスは風で先生の足場を作れ!」
レオンの指揮が飛ぶ。
私の周りを、赤、緑、青の光が守護精霊のように舞っていた。教え子たちの魔法が、暴走する魔力の嵐から私を守ってくれている。
風の道を進む私の頬を、鋭利な刃物のような魔力の残滓がかすめていく。
「……すごい」
近くで見るセオドアの魔力は、圧倒的な質量を持っていた。重力すら歪み、時計塔の瓦礫が物理法則を無視して浮遊している。
その中心に、彼はいた。
両手で頭を抱え、胎児のように丸まりながら浮いている。
「来るな……! 見るな! 僕は完璧なんだ……欠陥品なんかじゃない!」
彼の絶叫が、物理的な衝撃波となって襲いかかる。
「くっ!」
防護魔法がきしむ音がした。レオンたちが歯を食いしばって耐えているのが分かる。
これ以上近づくのは危険だ。普通なら、ここで諦めるだろう。
でも、ここが私の戦場だ。
私はポケットから小さなキャンドルを取り出した。
風が強すぎて火は点かない。けれど、私はそれを胸の前で両手で包み込み、自身の微弱な魔力を注ぎ込んだ。
「お願い……届いて」
それは『安息の灯』。
火ではなく、心の温もりを灯す魔法。
私は目を閉じ、意識を深く沈めた。
物理的な距離ではなく、心の距離を縮める。私の固有魔法が、セオドアの堅牢な心の壁に小さな隙間を見つけた。
そこへ、意識ごと飛び込む。
*
――気がつくと、私は静寂の中に立っていた。
嵐の轟音は消え失せている。
そこは、無限に続く真っ白な螺旋階段の上だった。
階段は空に向かって伸びているが、終わりが見えない。そして、一歩踏み外せば奈落の底だ。
これが、彼の心象風景。
「……ハァ、ハァ……まだだ、まだ足りない……」
階段のずっと上の方に、セオドアの背中が見えた。
彼は重そうな荷物を背負い、裸足で、血を流しながら階段を登り続けていた。
荷物には『父の期待』『学園の威信』『生徒会長の責任』といった札が貼られている。
「セオドア君」
私が声をかけると、彼はビクッと肩を震わせ、振り返らずに叫んだ。
「話しかけるな! 止まったら落ちてしまう! 登り続けないと、僕は価値がないんだ!」
「どうして?」
「決まってるだろ! 僕は選ばれた人間だ。一番上にいなきゃいけないんだ。一度でも失敗したら、すべて終わりなんだ!」
強迫観念。
誰かに植え付けられた、呪いのような使命感。
グロリア教頭の教育、そして名門貴族である彼の家庭環境が、彼をここまで追い詰めたのだ。
「誰もそんなこと望んでいないわ」
私は階段を一段ずつ登りながら言った。
「みんな、あなたが笑っているところを見たいだけよ」
「嘘だ! 笑っている暇なんてない! 弱みを見せたら、教頭先生は僕を捨てる。父さんは僕を勘当する。……怖いんだよ!」
セオドアが振り返った。その顔は、涙と鼻水でぐしゃぐしゃだった。
優等生の仮面の下にあったのは、怯えきった子供の顔だった。
「捨てられたくない……一人になりたくない……だから完璧でいなきゃいけないんだ……!」
「そう。怖かったのね」
私はさらに近づいた。彼が放つ拒絶のオーラが、私の肌を焼くように痛い。それでも、歩みを止めない。
「でもね、セオドア君。完璧な人間なんていない。教頭先生だって、私だって、欠けだらけの人間よ」
「違う! お前たち凡人とは違うんだ!」
彼は魔力を込めた腕を振り上げた。拒絶の衝撃波が私を吹き飛ばそうとする。
「帰れ! 僕の世界に入ってくるな!」
私は踏ん張った。カーディガンが裂け、腕から血が滲む。
現実世界でも、私の体は傷ついているだろう。レオンたちが必死に守ってくれているはずだ。だから、私は引けない。
「帰らない。だって、あなたは泣いているじゃない」
私は血の滲む手を伸ばした。
「痛いんでしょう? 荷物が重いんでしょう? 下ろしていいのよ。もう十分頑張ったわ」
「……無責任なことを言うな! 下ろしたら、僕はただのゴミになる!」
「ならないわ。荷物を下ろしても、あなたはセオドアよ。私の大切な生徒よ」
あと一歩。
彼の目の前まで来た。
セオドアは震えながら、私を睨みつけている。その瞳の奥で、理性の光と狂気がせめぎ合っている。
「……僕を、認めてくれるのか? 1位じゃなくても? 勇者になれなくても?」
「ええ。あなたがただそこにいてくれるだけで、私は嬉しい」
私は、彼が背負っている巨大な荷物に手をかけた。
ずしりと重い。こんなものを、たった一人で背負い続けてきたのか。
「一緒に持たせて。半分こしましょ」
私が荷物を持ち上げようとした瞬間、セオドアの目から大粒の涙が溢れ出した。
「……う、うあぁぁぁ……!」
彼が膝をつく。
それと同時に、心象世界の真っ白な階段が崩れ去り、景色が変わった。
温かい夕焼けの教室。放課後のチャイム。
それが、彼が本当に求めていた場所だったのだ。
*
現実世界。
時計塔を覆っていた黒い霧が、急速に晴れていく。
紫色の稲妻が消え、静寂が戻ってくる。
「……おい、止まったぞ」
レオンが呟く。
空中に浮かんでいたセオドアの体が、ゆっくりと降下してくる。
それを抱きとめるように、私も地面に降り立った。
セオドアは意識を失っていたが、その寝顔は穏やかだった。
私はその場にへたり込んだ。全身が痛い。魔力を使い果たして、指一本動かせない。
「先生!」
レオンたちが駆け寄ってくる。ミナが泣きながら私に抱きついた。
「よかった……! 死んじゃうかと思った!」
「……ごめんね、心配かけて。でも、間に合ったわ」
私は腕の中のセオドアを見つめた。
心のカルテに映る彼の心は、まだ傷だらけだが、あの禍々しい亀裂は消えていた。
代わりに、柔らかな『萌黄色』の光が灯っている。再生の兆しだ。
「……ふん。退屈な結末ね」
頭上から声がした。
グロリア教頭が、興味を失ったように私たちを見下ろしていた。
「今回は見逃してあげましょう。ですが、覚えておきなさい。壊れかけた玩具を修理しても、新品には戻らないということを」
教頭はそれだけ言い残し、夜の闇へと消えていった。
「……あいつ、どこまで!」
レオンが剣に手をかけるのを、私は目で制した。
今は、戦う時ではない。
「帰りましょう、みんな。……温かいお茶が飲みたいわ」
私が言うと、生徒たちは顔を見合わせ、それから優しく笑った。
レオンがセオドアを背負う。ニルスが私の肩を支えてくれる。
私たちはボロボロになりながら、月明かりの下、北校舎へと歩き出した。
それは、学園の歴史に残るような大事件だったかもしれない。
けれど私たちにとっては、ただの「少しハードな課外活動」だった。
だって、ここには英雄なんていない。
ただ、互いの傷を舐め合い、支え合って生きる、不器用な人間たちがいるだけなのだから。




