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勇者学園の戦わない保健室 〜傷だらけの英雄たちに、とびきりのハーブティーを〜  作者: 伝福 翠人


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4/12

燃え尽きた天才

レオンとニルスの来訪は、私の特別カウンセリング室に小さな変化をもたらした。


二人が放課後に入り浸るようになったことで、「あそこに行けば何かいいことがあるらしい」という噂が、生徒たちの間にささやかながら広がり始めたのだ。


「先生、レオン先輩、まだ来ないんですか?」


「彼は今日は補習よ。ニルス君も、図書館で調べ物だって」


私は窓辺の花に水をやりながら答えた。部屋には穏やかな時間が流れている。


しかし、その静寂は、重く引きずるような足音によって破られた。


ドアが乱暴に開かれたわけではない。ただ、ノックもなく、力なくドアが押し開けられた。


そこに立っていたのは、幽霊のように青白い顔をした男子生徒だった。


「……ここが、何でも治してくれるっていう、魔法の部屋ですか?」


彼の声は乾いていた。制服のネクタイは緩み、目の下には隈が深く刻まれている。


私は彼を知っていた。いや、この学園で彼を知らない者はいないだろう。


エリアス・ワイズマン。


2年前、入学試験で歴代最高得点を叩き出し、「100年に一人の天才」ともてはやされた神童だ。


「何でもは治せないわ。でも、話を聞くことはできる。どうぞ、エリアス君」


私が席を勧めると、彼はふらふらと歩き出し、ソファに倒れ込むように座った。


近くで見ると、その消耗ぶりは深刻だった。指先が小刻みに震えている。


「……魔法が、使えないんです」


彼は震える両手を見つめながら、絞り出すように言った。


「火を出そうとすると、吐き気がする。呪文を唱えようとすると、頭が割れそうになる。……僕は天才のはずなのに。期待されているのに。どうして……」


私は黙って『心のカルテ』を開いた。


そこに映し出されたのは、色ではなかった。


灰のような、砂のような、乾いた粒子。かつては鮮やかに燃えていただろう情熱や魔力が、完全に燃え尽き、炭化してしまっている。


典型的な『燃え尽き症候群バーンアウト』だ。


「いつから?」


「……半年くらい前からです。もっとすごい魔法を、もっと早く覚えなきゃって……徹夜で練習して、論文を書いて……でも、ある日突然、何もできなくなった」


エリアスは頭を抱えた。


「先生や親は言うんです。『スランプだ』『気合が足りない』って。だから、無理にでも詠唱しようとした。でも、言葉が出てこないんだ……! 僕から魔法を取ったら、何も残らないのに!」


彼の悲鳴が部屋に響く。


彼は自分自身を「魔法を使う機械」としてしか認識できなくなっている。燃料が尽きているのに、無理やりエンジンを回そうとして、焼き付いてしまったのだ。


「エリアス君。あなたはサボっているんじゃないわ」


私は静かに言った。


「ガス欠なのよ。完全に」


「ガス欠……? でも、休んでいる暇なんて……」


「いいえ、強制停止よ。あなたの心と体が、『もう無理だ』って悲鳴を上げて、ブレーカーを落としたの。それは自己防衛本能だわ」


私は立ち上がり、棚からキャンドルを取り出した。今回は香りを楽しむためのものではない。太くて短い、白い無香料のキャンドルだ。


火を灯さずに、それをテーブルに置いた。


「処方箋を出します」


私はメモ用紙にさらさらとペンを走らせ、彼に渡した。


エリアスは怪訝そうにそれを受け取り、読み上げた。


「……『一週間、魔法の使用を一切禁止する。教科書も開かないこと』……? なんですかこれ!? そんなことをしたら、僕は落第してしまう!」


「もう魔法が使えないんでしょう? だったら、使わなくても同じことよ」


私の言葉に、エリアスは言葉を詰まらせた。


「その代わり、この一週間でやるべき宿題があるわ」


「し、宿題……?」


「ええ。空の色を観察すること。ご飯の味をちゃんと味わうこと。そして、泥のように眠ること。……以上よ」


エリアスは呆然としていた。


「……それだけ、ですか?」


「それだけ。今のあなたに必要なのは、魔力を高めることじゃない。人間としての感覚を取り戻すことよ。魔法使いである前に、あなたは生きている人間なんだから」


私は温かいミルクティーを彼の前に置いた。蜂蜜とジンジャーの香り。


エリアスは戸惑いながらも、カップを口に運んだ。


「……甘い」


「そう感じるなら、まだ大丈夫。味覚は生きているわ」


エリアスはカップを持ったまま、ぽろぽろと涙をこぼし始めた。


ずっと走り続けてきた。止まることが怖かった。でも、誰かに「止まれ」と言って欲しかったのだ。


「……怖いです。このまま、二度と魔法が使えなくなったら……」


「大丈夫。燃え尽きた灰の下には、まだ種が残っているわ。今はただ、雨が降るのを待つ時期なの」


私はそっと彼の手を握った。冷たく乾いた手に、私の体温を伝えるように。


「焦らないで。天才じゃなくなっても、エリアスはエリアスよ。私が保証するわ」


その日、エリアスは特別カウンセリング室のソファで、数ヶ月ぶりに深い眠りに落ちた。


レオンやニルスがやってきた時、私は唇に指を当てて「静かに」と合図した。


二人は眠るかつての神童を見て、驚いた顔をしたが、すぐに状況を察して、静かに本を読み始めた。


   *


それから一週間。エリアスは忠実に「宿題」をこなした。


魔法書を部屋の隅に追いやり、一日中、中庭のベンチで雲を眺めたり、食堂で焼きたてのパンの匂いを嗅いだりした。


教師たちは眉をひそめたが、私は「治療の一環です」と診断書を盾に彼ら黙らせた。


そして七日目の放課後。


エリアスが、小さな鉢植えを持ってカウンセリング室にやってきた。


「……先生、これ」


鉢植えには、小さな青い花が咲いていた。彼が魔法で咲かせたものではない。自然の花だ。


「中庭で見つけたんです。……綺麗だなって思って」


「ええ、とても綺麗ね」


「不思議ですね。魔法なら、一瞬で大輪の薔薇だって咲かせられるのに。……この小さな花が咲くのに、こんなに時間がかかるなんて知らなかった。でも、その時間が愛おしいとも思いました」


エリアスの表情からは、あの鬼気迫る焦燥感が消えていた。まだ少し疲れた顔をしているが、その瞳には穏やかな光が宿っていた。


「今朝、ふと思ったんです。……風を起こして、この花を揺らしてみたいなって」


彼は指先をそっと動かした。


ほんの小さな、そよ風のような魔力が生まれ、青い花弁を優しく揺らした。


巨大な火球でも、複雑な結界でもない。ただの、小さな風。


けれどそれは、彼が久しぶりに「義務」ではなく「意思」で生み出した魔法だった。


「……使えました。少しだけ」


「おかえりなさい、エリアス君」


私は微笑んだ。


心のカルテの中、灰色の砂漠の真ん中に、小さな緑色の芽が顔を出していた。


一度燃え尽きた大地は、より豊かな森を育てる養分になる。彼はもう、以前のような脆い天才ではない。自分のペースで歩ける、一人の賢者への道を歩み始めたのだ。


『患者番号3:エリアス・ワイズマン。症状:燃え尽き症候群。処置:完全な休息と、感覚の再獲得。経過:魔法への純粋な興味を回復。リハビリテーション期へ移行』


部屋には、レオンとニルス、そしてエリアスの三人が囲むテーブルから、穏やかな笑い声が聞こえ始めていた。

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